第六話  空に翔けるもの(1)                   back |  top | home




「なあ、兄ちゃん。タバコを一本、持ってたら分けてくれんかね」
「禁煙しろ」
 しょぼくれた様子で空に浮かんでいる男の霊に向かって、にべもなく答える。
「煙を吸う肺もないくせに」


 午前二時。
 矢上統馬はいつものように、町を歩いていた。夜叉の好む暗闇。夜叉追いが一番忙しいのは、まさしくこの時間だ。
 気を練り、耳をすまし、これはと思う場所の地面に錫杖を一本立て、略式の法曼荼羅を描いて、真言を唱える。
 夜叉にめぐり合うことはめったになく、先ほどのように、無害な浮遊霊や地縛霊を呼び寄せてしまうことのほうが多いのだが。そうして町をひとまわりめぐると、もう白々と夜は明けている。
「授業中、寝てばっかり」
 といつもなら呆れたように言う詩乃も、今は文化祭の準備に忙しく、顔を合わせることもあまりない。
 夜、出歩くのには、もうひとつの理由もあった。統馬自身、夜の方が気持ちが休まるのだ。
 おぞましく、慕わしい闇。人間の身体は仮のものでしかなく、その中にまごうかたなく、夜叉の本性を証する血を流しているゆえに、闇は統馬の霊力を、いっそう強くする。


 婆多祁哩(ばたきり)を調伏してから、数週間が経った。
 暴徒たちの放火に会った地区もあらかた焼け跡の撤去が終わり、町は平静を取り戻しているようだ。
 だが下級夜叉どもは、まだ立ち去ってはいない。なおこの狩り場に残る強い妖力にしがみつき、人々の魂を喰らうことを諦めぬと見える。確かに、詩乃が言ったように、ひとりの強い夜叉を倒したあとにこそ、人々の狂気と絶望は満ちるものなのかもしれない。
 二学期がはじまった市立T高校でも、生徒たちの不安と動揺は大きかった。
 教師たちは連日職員会議に追われ、肝心の生徒たちに語りかけることをおろそかにしている。
 あげく、焼失した校舎を再建するために工事の業者が入ることを理由に、9月の終わりに予定されていた文化祭を中止にすることが一時は決まりかけた。
 真っ先に反対の声を上げたのは、弓月詩乃だった。
 みんなの気持ちが暗くすさんでいる今こそ、文化祭が必要なのだと、委員長・クラブ部長連絡会議で、居並ぶ校長や教頭や事務長、学年主任やクラブ顧問に切々と訴え、とうとう規模を縮小してではあるが、文化祭が行われることになったのだ。
「詩乃どのは、強くなったのう。最初の、イジメに会っていることを隠して意固地な目をしていた頃とは、見違えるようじゃ」
 確かに詩乃は、今でもクラスで話しかけて来る者もなく孤立しているが、自分のすべきことを見つけ溌剌と動き回っている彼女には、以前の、自分を追い詰めているような杓子定規さは見られない。
 詩乃とことばさえ交わすことがない毎日を、寂しく思っているのは統馬のほうかもしれなかった。
 時は流れ、人は成長していく。だが、時の中に浮遊して生きている彼にとって、その喜びを誰かと共有することは、決してないのだ。
 教室にぽつんと残された詩乃の鞄にマスコットのふりをしながらぶらさがっている草薙は、黄金色の目を細めて、揶揄するようにときどき統馬の方を見ている。
「おまえも、いつまでも過去にばかり囚われておると、追い抜かれるぞ。わずか17歳の小娘にのう」


 満ちた月を雲が隠し、仮の闇が訪れる。
 そのとき、空をひとつの影が横切った。その姿を視界の端にするまでもなく、統馬の全身はその気配を捕らえた。
 人間の魂の匂いをかすかに撒き散らしながら飛ぶ、おぼろの影。
 見つけた。魂を喰らってきたばかりの隠行夜叉だ。
 彼は天叢雲を握り直し、そのあとを追って夜を跳んだ。


「誰だ、おまえは? なぜ、あたしの姿が見える」
 夜叉は、統馬の張った結界の隅に追い詰められて、振り返った。
「この国のエクソシストか……、そうなんだね」
 細く小さな、女の形をした夜叉。艶やかな黒髪を夜風に乱し、目を紅く燃え立たせて妖しく微笑む。
「見逃しておくれよ。あたしは異国から来た魔。たまたま、この国を通り過ぎる途中に腹が減っただけなんだ」
 すっと近づくと、媚を売る上目遣いで統馬を見上げ、そして抱きついてきた。
 霊体しか持たぬ夜叉にも、人間と同様の性の営みはある。互いの霊を交わらせ、そこから、ねっとりと甘い快楽を得るのだ。
「もう、気がすんだか」
 平然と突き放す統馬に、はっと女夜叉は後じさった。
「誘惑の術が効かない……」
「おかげで、おまえの正体がわかった。久下に聞いたことがある。『夢魔』――【サキュバス】とも呼ばれる、西欧の夜叉だな。人間の男の夢に入り込んで交わり、精を吸い、魂を喰らう」
「……やめて、待って。お願い。すぐにこの町から出て行くから」
「だめだ」
 統馬はためらうことなく、手印を結び、真言を口に唱えた。
「ぎゃあっ」
 小柄な夢魔は身体を海老のように折り曲げ、苦しみもだえ始めた。
「う……。何なの、そのまじないのことばは……?」
「悪いが、俺はおまえにふさわしいビブリア(聖書)の文言を知らん。日本の流儀で調伏させてもらうぞ」
「霊が……溶ける。赦して、あたしはまだ死にたくない……」
「おまえを野放しにすれば、代わりに人間が死ぬ。夜叉と人間は相容れぬ存在だ」
「お願い……」
 夜叉はせつなげに訴えかける瞳から、きらきらと涙をこぼした。
 その涙を見たとたん、統馬の心の底にわずかな憐れみの気持ちが湧いた。偽りの涙だとはわかっているのに。濡れて震える睫毛が、身近にいるひとりの女を連想させたからかもしれない。
「見逃してくれたら、あたしよりもっと強いヤツの居どころを教える。今だって、何十人もの人間の魂を一度に喰らっているところさ。あたしと同じで、異国からこの国に来たヤツだよ」
「異国の夜叉は、仲間を売るのか」
 統馬は、軽蔑するように口の端をゆがめた。
「仲間なんかじゃない。あたしたちは、さんざんヤツに苛められてきたんだから」
「いいだろう。さっさと、そこに案内しろ」
 甘いな。俺も。
 手の中で、天叢雲が鞘に戻るカチリという音が響いた。


「……つまり、国際化の波ってやつよ。あたしたちの世界もね。ヨーロッパの魔物でアジアに渡ってくるヤツはけっこう多いのさ。人間の魂のイキが一番いいのは、今アジアだからねえ」
 黒い薄絹のような翼を広げ、サキュバスは宙を舞いながら、統馬にまとわりついてくる。
「たいていは、中国や東南アジアを目指してる。でも、あたしたちみたいに精を吸う魔物は日本にも群がるのさ。日本人の性への欲望は底なしだからね。昔から日本人て、こうだったのかい?」
「この国はほんの通りすがりに寄っただけ。さっきはそう言わなかったか?」
 うざったげに蚊を追いやる仕草をしながら、統馬は冷めた目で見上げた。
「細かいことは言わないの。居心地がいいと誉めてあげてるんだから。この国の人間って、宗教や社会のしがらみから解き放たれて、世界一本能や欲望に忠実な国民だよ。それってすばらしいことさ。魔物に優しい国は、人間にも優しいのよ」
「ちょっとは、黙れないのか。日本の夜叉はもう少し無口だぞ」
「あはは、あんたと同じだね。人間と魔物は性質も似てくる。西欧の人間も魔物も、自己主張が強いのさ」
 夢魔が先導した先は、ネオンサインのまたたく、T市随一の繁華街だった。
「ここだよ」
 地下への階段をふわりと舞い降り、突き当たりのドアをすっと通り抜ける。鍵が閉まっていたが、統馬はノブを粉々に砕いて扉を開いた。
 ゆらゆらと光と煙が立ち昇る室内に、幻惑的なゴアトランスのリズム。強い麻薬の香りにさえ隠し切れない、生き物たちの饐えた匂い。
 無数の男女が、深海の魚たちのように床で交わっていた。何人もの男たちに押さえつけられレイプされる女の悲鳴に、時折混じる鞭の鋭い音。
 吐き気を催すのをこらえながら、統馬は最奥のステージの魔物をまっすぐ睨みつけた。
 漆黒の長い髪をした男の夜叉。顔をそむけるほど醜い容貌にもかかわらず、戦場(いくさば)を見降ろす王のような威厳をたたえて座っている。
「新しい獲物を連れて来たのか、サキュバス」
 魔族は、傲慢な笑いを口元に浮かべた。「……違うようだな。下級魔の分際で、俺に逆らおうとでも言うのか」
「ふん、あんたにこれ以上、せっせと集めた精を横取りされて、たまるもんか、インキュバス!」
 女夢魔は紅い目をたぎらせ、小さな身体を統馬の影に隠すようにして、わめいた。
 統馬は舌打ちして、
「内輪もめに巻き込まれたか……。いずれにせよ、貴様のような上位の存在が目の前にいる以上、放っておくつもりはないがな」
 腰に差していた霊剣をゆっくりと抜き放つ。
「ほう、私を滅ぼすと? 私はただ、この者どもに呼ばれたから来ただけなのに」
「呼ばれた?」
 夜魔の王は誇らしげに立ち上がった。
「そう。人間には、私たちが必要なのだ。自分ひとりでは生きられぬがゆえに、いつも誰かの奴隷となることを求めている。力を持つ者に隷属し、欲望に隷属し、恋愛と称して互いに隷属する。私は人間たちに力を分け与え、欲望を満たすすべを教え、支配する。
何がいけないのかね? 人間が私たちを欲し、私たちを生み出したのだよ」
「おしゃべりは、それだけか?」
 統馬は床の人間たちを踏みつけるのもかまわず、近づく。夢魔の王【インキュバス】は、高らかに笑った。
「知っていたか。ここは一流大学のサークル会場だよ。未来の日本を背負って立つ若者たちが、おまえと私のどちらが正しいか、選んでくれよう」
 その哄笑が合図だったのか、床に伏していた半裸の人間たちが次々に立ち上がって、部屋の中央にいる統馬を取り囲んだ。口から泡を吹き、目には狂乱の光を宿し、ガクガクと傀儡(くぐつ)のように手足を動かしながら。
「愚かな……」
 統馬のつぶやきをかき消す怒号。獲物を覆いつくそうとする肉色の津波となって、彼らはいっせいに飛びかかってきた。


 広いダンスフロアには一瞬、静寂が満ちた。
 砕けたミラーボールが甲高い悲鳴を立てて回転を止める。その直前の煌めきに照らされて、銀色の閃光を放つ刀身が、深々と異形の魔物の胸に突き刺さった。
「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・ドバンシャナン、アビュダラ・ニサトバダトン・ソワカ」
 夜叉追いの喉の奥からかろうじて吐き出された真言の結句とともに、うめき声もあげずにインキュバスは細かい灰と化した。
 天叢雲を支えに、容易には止まらぬ膝の震えを制して、統馬はステージの中央に立ち尽くした。
 百人もの人間を瞬時に気絶させることに途方もない霊力を使った。その上、千年という永い年月を生きてきた古の魔物の遺した憎しみの残滓は、統馬の生身の肉体という器の容量を軽く越えてしまっていた。
「すごいよ、あんた……。地獄の悪魔に匹敵する力を持つあいつを、本当に倒しちまうなんて」
 サキュバスの甲高い、畏怖の混じった声が背後から聞こえてくる。
 相打ちにでもなればいいと、物陰に隠れて成り行きを見ていたのだろう。
「でも、うれしい。これであたしは自由なんだ。もうあいつに精を貢がなくても、いいんだ」
 異国の女夢魔は小躍りしながら、小さな腕でぎゅっと彼の背中に抱きついてきた。
「疲れたかい? さっき吸った人間の精を分けてあげるよ。ふたりで、気持ちいいことしよう。あんたもほんとは、あたしのお礼が欲しかったんだろ?」
 統馬はそれに答えず、抜いていた刀を鞘に収める仕草をした。しかし天叢雲は、鞘の中には戻らなかった。その切っ先は、彼に抱きついていたサキュバスの懐に深々ともぐりこんでいた。
「ぐっ」
 彼女は自分が上げた声さえ、信じられないといった様子だった。「なぜ……」
「夜叉と馴れ合うつもりは、ない」
 統馬は身体をひるがえすと、顔色も変えずにもう一度魔物を袈裟懸けに斬り下ろした。
「夜叉と人間は未来永劫、相容れぬものだ」
「ちく……しょう。あんただって、……あんた、だって……、あたしたちと同じ……」
 皆まで言う前に、小柄な夢魔は異次元に吸い込まれていった。
「そうだ。俺も未来永劫、人間とは相容れぬもの」
 その消えていく影に、統馬はつぶやいた。
「そんなことは、自分が一番よく知っている」
 背中を探ると、実体化した小さな黒い爪がひとつ、服の繊維に刺さっているのを見つけた。
 マンドラゴラの猛毒が塗られた女の爪。もしあのまま隙を見せれば、これを背中に突き立てられ、彼といえど無事にはすまなかっただろう。
 大勢の若者が床に伏す、狂った宴の終わった地下の部屋を、統馬は後にした。
 屋外に出ると、あたりはうっすらと明るく、東の空の雲が夜明けの予兆に縁取られていた。
 夜叉と人間は相容れぬもの。
 そう言ったとき、なぜ詩乃の顔が浮かんだのだろう。なぜ、無性に会いたいと感じたのだろう。
「俺は、だんだん弱くなってくるな」
 自嘲をこめて腰に帯びた剣に語りかける。草薙と違い、天叢雲は何もしゃべらず何も答えない。その沈黙が、今は心地よかった。
 身体を引きずるようにしてアパートに戻ると、いつもの古い扉が大きなきしみを立てる。ふと目を上げると、暗い木の階段の途中に詩乃が腰掛けていた。
「あの、眠れなくて……」
 彼女は立ち上がると、おずおずと目を伏せた。
「ナギちゃんが『統馬はどこかで今、戦っている』って言うの。だから、きっと疲れてるだろうと思って……お粥を作ってきた」
 風呂敷に包んだ小さな土鍋の温もりを両手で抱きしめるようにして、「めいわく、だよね」と唇の動きだけで言う。
 彼女の横を無言ですりぬけた統馬は、二階の、鍵もかけていない自分の部屋のノブをまわすと、ようやく口を開いた。
「入らない、のか?」
「……いいの?」
「ああ。めちゃくちゃ、腹が減ってる」
 はしなくも統馬の顔に浮かんだ、ひとすじの柔らかな表情に、詩乃は花びらが開いたような笑顔を返した。
「うん!」
 踊り場の窓から朝の光が差込んできらきらと舞い、駆け寄ってくる彼女の髪を金の綿毛のように染めていた。
 



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