暗黒 |
オレハ、ダレダ? 医師が彼の腕に注射針を刺した。 「やめろぉ――ッ」 男性の看護師がふたりがかりで彼を押さえつける。 交わされることばは何もなく、ただ男たちの荒い呼吸が部屋に反響する。 ストレッチャーは「手術室」と書かれた部屋に運ばれた。 酸素マスク。さらに麻酔薬の注射。 意識が遠のく。ぐったりとした彼のこめかみに電極が当てられる。 オレハ、魔王ぜふぁー……。 頭の中の絶叫は、暗黒にはじける白い電気の火花に溶けてゆく。 瀬峰正人。26歳。妄想型の統合失調症。 麻薬所持や株の不正取引、恐喝などの罪で、都内の精神病院に措置入院中。 自分のことを異世界から来た魔王だと信じている。 入院後数ヶ月、極度の錯乱状態。 ECT(電気ショック療法)5回処置。その後も保護室入室が断続的に続いている。 「瀬峰さん、あんたは魔王なんかじゃないんだよ。病気なんだ」 ちがう。俺は魔王だ。自分で自分のことを信じなければ、誰が信じる? 「また当分ここに入ってろ! 世話を焼かせやがって!」 「何にもできない魔王さんよ、悔しかったら魔法でも使ってみろよ」 完全に魔力を失った体は、まるで草原をかろやかに駆けていた動物が地べたを這いずり回っているよう。 それでも俺は、かつては比類なき闇の主、最強の魔王と呼ばれた存在だった。 ……本当に、そうなのか? 頭が痛い。何も考えられない。 暗闇を好んで何百年も生きてきたはずなのに、この暗黒はまるで永遠だ。 「俺は蛆虫になってもよい! 佐和を生き返らせてくれ!」 精霊の女王に誓ったことば。 そうか。だから俺は蛆虫になったのか。 こうやって保護室の畳の上で這いずり回ることしかできない。 涙と小便とよだれを垂れ流して、それでも生きていくしかない存在になったのだな。 薬のせいで、何かを考えようとしても指の間からこぼれおちてしまう。 ただ時間が、ぼんやりと過ぎていく。 「お願いです、一目だけでも彼に会わせてください」 若い女の声が扉の外から響いてくる。 誰だったろう? 思い出すのもおっくうだ。誰が好きこのんで、蛆虫に会いに来るというのだ。 だがその声を聞くたびに、心の奥底で何かがかすかな音を奏でている。何か意味あることばを形作ろうとしている。 「開けてあげなさい」 ある日、聞いたことのない男の声がした。 「でも、危険だから誰も面会させないようにと……」 「院長には私から言っておく」 鉄の扉が開き、白衣をひるがえして入ってきた男は、畳に伏している彼のそばに片膝をついた。 「瀬峰正人くん、はじめまして」 だるく熱っぽい体を少しずつ、少しずつ動かす。 「霧島と言います。今日からわたしがきみの新しい担当医になる」 だが彼の目は、医師の向こうの、扉の影にたたずむ女に釘付けられていた。 「さ……」 ずっと耳の中で鳴っていた音楽。ずっと瞼の裏から消えなかった夢。 「ゼファーさん」 女は泣きながら、確かにそう言った。 誰も呼んでくれなかった、自分でさえ忘れかけていた、その名前を。 「さ……わ」 眼球がとうとう溶けて流れ出したのかと思うほど、彼の目から涙があふれでていた。 「佐和」 「ゼファーさん!」 それは暗黒の中から彼を救い出す、魔法の呪文だった。 二周年キャラ投票第4位の魔王ゼファーが、幸せになるお話です。 なお、このお話はフィクションです。実際の精神病院の現状を描写するものではありません。 |