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AMAZING CHRISTMAS STORIES
No.2



クリスマスのお話を毎週一話ずつご紹介していきます。


    

ベツレヘムの星     作:アガサ・クリスティ


 マリアは飼い葉おけに寝かせた、生まれたばかりの嬰児みどりごイエスを見おろしながら、誇りと幸せに胸をふくらませていた。
 馬小屋には、馬と牛のほか誰もいなかった。


 とつぜん、羽ばたきの音が聞こえ、振り返ると、戸口に神々しい天使が立っていた。
「おそれることはない、マリア。そなたは神の寵愛を受ける者。わたしはおまえに未来を見せてやるためにきたのだ」
「この子の未来をですか?」
「そのとおりだ。さあ、手をおだし」
 天使はマリアの手を取ると、眠っているみどりごの上に大きな金色の翼を広げて言った。
「母よ。未来をのぞいて、そなたの息子を見るがいい」


 マリアが見ていると、馬小屋の壁がしだいに薄れて消え、とある庭の光景が現われた。
 空には星が光り、ひとりの男がひざまずいて祈っている。
 母親の本能が、あそこにいるのはわが子だと告げた。
 しかし、その顔にマリアは苦悶と絶望と悲しみの色を見た。
 その男はまったくの孤独であった。神に祈っている。この苦悶のさかずきを我より取り上げたまえ、と祈っているのだ。
 だが、神からの答えはなかった。
「なぜ、神さまはあの子に慰めをくださらないのですか?」
「彼に慰めを与えることは、神のみこころではないのだ」と天使は答えた。
 庭の向こうでは、彼の友人であるらしい何人かの男が眠りこけていた。
 マリアは悲しみと憤りをこめて言った。「彼にはあの人たちが必要なのです。それなのに、知らん顔をして!」


 天使はふたたび翼をはばたかせたかと思うと、今度はうねりながら丘を登る道と、十字架を背負ってその道を行く3人の男と、ローマ兵や群衆たちとが、 マリヤの目に映った。
「なにが見えるかな?」
「処刑の場に行く、3人の罪人が見えます」
 そのとき、まん中の男がよろめいて転びそうになった。その顔を見たマリアは鋭く叫んだ。
「いいえ、そんなはずはありません! わたしの息子が死刑囚だなんて!」


 しかし、天使が翼をはばたかせると、すでに3本の十字架が立てられていて、真ん中の十字架で苦悶しているのは、さきほどのわが子とみとめた男であった。
 彼のひび割れた唇からもれてくる言葉を、彼女は聞いた。
「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか?」
 マリアは叫んだ。「いいえ、嘘です。こんなことは信じられません。わたしどもは神を畏れ、正直に暮らしている家族でございます。今見せてくださったことはみんな、嘘に違いありません」


 天使は言った。「わたしをごらん、マリア」
 見ると、まばゆいばかりの光に包まれた姿と、麗しい顔が見えた。
「わたしが見せたことは真実なのだ。なぜなら、わたしは朝の天使であり、朝の光は真実なのだ。これで信じるかね?」
 マリアはもはや、今見たことが確かに真実であることを認めた。
 涙がとめどなく頬を伝った。


「わたしの坊や。おまえを救うにはどうすればいいの? おまえを待っているものから守るには? 悲しみ、苦しみ、いつかおまえの胸に巣食う邪まな心から守るには?
ああ、いっそのこと生まれてこないほうがよかったのに」


 すると、天使が言った。「だからこそ、わたしはこうして来たのだよ、マリア」
「どういうことでございましょう?」
「そなたはすでに未来を見てしまった。この子を生かすも殺すも、そなたの言葉ひとつにかかっているのだ」
「神はこの子を取り上げようとなさるのですか?」
「そうではない。選ぶのはそなたなのだ。この子を生かすか殺すか、いまこの場で選ぶのだ」


 マリアは心を決めることができなかった。すぐに考えのまとまる女ではなかったからである。
 さきほど見た光景。
 庭で見たあの苦悩。あさましい最期。死の間際まで友だちにも、神にも見捨てられた男。
 そして、今眼の前で眠っているこの幼子は、清らかで汚れを知らず、幸せなのだ……。


 彼女はなおも、考え続けた。
 自分が見た未来を幾度となく思い浮かべるうちに、奇妙なことに気づいた。
 たとえば、右側の十字架にかかっている男。その顔は真ん中の十字架のほうに向けられていて、愛と信頼と讃美の表情を浮かべている。
 また、庭で眠っている友だちを見おろしていたときの、息子の顔を見た。
 その顔は、悲しみを、しかし憐れみと理解と大きな愛をたたえていた。
 マリアは思った。「善良な男の顔だ……」
 マリアの顔は困惑の色を深めた。


 天使が言った。
「もう心は決まったかな、マリア? 息子を悪行と受難から救ってやるかな?」
 マリアはゆっくりと答えた。
「わたしのような愚かな女に、神のいと高いみこころを知ることはできません。
神はわたしにこの子を授けてくださいました。この子に命を与えてくださったのが神ならば、なんでわたしがその命を奪うことができましょう。
わたしが見たものは一部の光景だけで、全部ではないのかもしれません。
この子の命はこの子自身のもので、わたしのものではありません。
それをわたしが奪うのは、許されないことでございます」
「もういちど考えなおしてごらん」
 天使は言った。「この子をわたしの手に預けないか? 神のみもとに連れて行ってやるが」
「もしそれが神のお指図ならば。でも、わたしは自分から預けようとは思いません」


 大きなはばたきの音と、目もくらむばかりの光とともに、天使の姿はかき消えた。
 まもなく夫のヨセフが入ってきた。
「それでよかったんだよ」とマリアの話を聞いたヨセフは言った。
「ごらん、坊やが笑っているよ……」


 しかし、天空では、天使が自尊心と憤怒に身を震わせていた。
「おれともあろうものが、間抜けで無知な女にしてやられるとは!」
 そして、黎明の子、堕天使ルシファーは、地獄の深淵めざし、一条の燃える炎となって蒼穹をかすめ去った。
 東方の国で、3人の星占学者が告げて言った。
「今空に大いなる光を見ました。尊い方がお生まれになったにちがいありません」


*    *    *    *    *    *    *

出典:アガサ・クリスティ作「ベツレヘムの星」(早川書房)  


このページの素材は「小さな憩いの部屋」からお借りしました。

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