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CLOSE TO YOU

〜a precious moment〜

 春は引越しの季節。


 でも私の引越しはサイテイサイアク。
 まず引越し業者がいきなり、和風の階段箪笥を運び込むとき金具をひっかけて、玄関の壁に小さな穴を開けてくれた。
 しょっぱなから新居の驚くほどの安普請が明らかになる。
 しかも、私のお気に入りのアンティークのダイニングテーブルはどうやっても入らず、泣く泣く引き取ってもらう羽目になった。
 多少広めのワンルームとは言え、横浜の2LDKから越してきたのだから、当たり前と言えば当たり前なのだが。
 取り柄はただ、都心に近いことだけだ。
 おまけに夜になると、どこからか人の話し声が聞こえてきた。それもどうやら男女の睦言らしい。なんという壁の薄さ。
 なにしろ不動産屋に案内されて2件目、即日入居可という条件だけで契約した賃貸だから、文句は言えない。でもどうしてもあの日じゅうに決めてしまいたかった。そうしないと決心が鈍るから。
 私は逃げてきた。あの人から。
 泣きたい気持ちでダンボールを抱え上げると、どこかでくっついた桜の花びらが一枚、ひらひらと舞い落ちた。


 近所のスーパーで買った巻き寿司で夕食をすますと、ご近所に引越しの挨拶に回った。
 左隣は「岩崎」という新婚さん。おふたりとも小学校の先生だとか。
 右隣には「久世」という表札がかかっていた。何回かインターホンを押し、留守かと諦めかけたとき、ドアが開いた。
 私は仰天した。
 上半身素っ裸の男がノブを押さえていた。下にはジーンズをはいているが腰のボタンは外れたまま。
 まだ若い。16か17くらいだろう。彫りの深い顔立ちは外国の血が混じっていることをうかがわせる。
「あ、あの。今日隣に越してきた白神と申します。ご挨拶に……」
「へえ」
 彼はその秀麗な顔に、決して友好的とは言えない冷たい笑みを浮かべた。「まだこんなことする奴がいるんだ」
「え?」
「引越しの挨拶。おまけにタオルの手土産なんて、今どき隠居じじいだって持ってこねーよ。おばさん」
「お、おばさんっ?」
 彼の肩越しに、奥の部屋から彼を呼ぶ甘ったるい少女の声が聞こえた。
「じゃあな」
 鼻先でピシャンとドアが閉まった。あっけにとられた私の手に手土産のタオルを残したまま。
 おばさん。確かにあの男の子より確実に10歳は年上に違いはないが、さすがにショックだ。
 部屋に戻った途端、くすくすという笑い声とともにふたたびあの睦言が始まった。
 隣の新婚さんじゃない、あの男の子の部屋からだったんだ。
 耳を塞いでも聞こえる顔の赤らむような音を紛らわすため、テレビのボリュームを思い切り上げた。


 次の日は桜散らしの雨だった。
 私は荷解きと片付けに一日を費やした。
 会社には3月末日付けで辞表を提出した。招待状を発送してしまった後となっては、もう居づらいだけ。
 職も失い、預金の大部分を結婚準備に費やしてしまった私は、安いワンルームの賃貸に移るしかなかったのだ。
 傘を差し、買い物に出る。
 葛飾区のこのあたりはまだ下町の風情が残っていて、昔ながらの商店街もある。小さな花屋さんを見つけ、マーガレットを衝動買いした。
 部屋に戻り、青い花瓶を引っぱり出してこんもりと生けたら、少し気分が晴れた。
 引っ越したばかりなのに嫌いになりかけているこの部屋を、なんとか好きになりたかった。そうしなければ、自分の選択を後悔していると認めることになる。
 久しぶりにきちんと料理した。焼き魚、かぼちゃの煮物にサラダ。
 夕食後、観葉植物の水遣りをすっかり忘れていたことを思い出し、雨の止んだ暗いベランダにベンジャミンの木を出して、バケツに水を張った。
 白い煙が、生暖かい風にのって漂ってくる。
 ふと見ると、仕切り板ごしに見える隣の部屋のベランダに、あの男の子がいた。手すりにかがみこんで両腕に顎をのせ、たばこをくゆらせている。
 彼も私に気づいて、ぼさぼさの髪の毛をうざったげに掻きあげ、冷たい目で私を見た。
「あなた一体、何歳なの? たばこ吸っていい年齢?」
 きのう「おばさん」と呼ばれた恨みも手伝って、私は皮肉たっぷりに呼びかけた。
「高校生、くらいなんでしょ」
「てめえには、関係ねーよ」
「私の伯父さんは、たばこの吸いすぎで肺がんで死んだんだからね。やっぱり十代からヘビースモーカーだったって。とーっても苦しんで死んだそうだよ。
あなたもいずれ、そうなるんだからね」
「……ヘンな女」
 私は言うだけ言って溜飲を下げると、よっこらしょと背の高い木をバケツに鉢ごと浸した。
 彼は私のすることをじっと覗き込んでいた。
「なあ、あんたの名前なんて読むの? 琴と音って書いて」
「え?」
「下の郵便受けに今日書いてた、あんたの名前」
「ああ。【ことね】よ。【しらかみ ことね】」
「名前なんか書いて、女の一人暮らしってばれたら危ないんでねーの? 常識だぜ」
「だいじょうぶだよ。私の名前、なんか年寄りくさくて、おばあさんって思われるらしいし」
「そういや、そうだ」
「あなたの名前も教えてよ。 【くぜ】、なんていうの?」
「……【さいおん】」
「さいおん?」
「彩に音って書いて【さいおん】。《くぜ さいおん》」
「ふうん。いい名前、外国の名前みたいだね。ハーフなの?」
 彼はその質問を無視して背を向け、そのかわりひとこと、「おと」と呟いた。
「俺たちの名前、ふたりとも「音」がつく」
「あ……、ほんとだ」
 しかし、そのときはもう彼はベランダから姿を消していた。


 次に彩音に会ったのは、それから一週間ほどして。
 新宿まで出て、ミュールを買おうか1時間迷って結局買わず、駅前のスーパーで夕食の材料を買って帰ってきた。
 マンションのエレベーターの前に、彼が日本人離れしたすらりとした後ろ姿を見せて立っていた。
「相変わらずたばこ吸ってるんだ」
 私が隣に立つと、彼はちらりと迷惑気な一瞥をよこした。
 無言。
 お互いの手のビニール袋に、どちらともなく視線が落ちる。
「また魚かよ」
 彼は顔をしかめた。
「毎日夕方になると、魚ばっかり焼きやがって。こっちはひでえ匂いで迷惑してんだ」
「いいじゃないの、魚一匹焼く煙くらい。言わせてもらえば、あなたこそ毎日女の子を連れ込んで、こっちに迷惑かけてるのよ」
「わっ、聞き耳立ててるんだ。エロ女」
「冗談じゃないわよ! ここの壁は薄いんだから。聞くつもりなくても聞こえるの」
 エレベーターに乗っても、わざと大袈裟に顔をそむけ合う。
「そっちこそ、コンビニのおにぎりが夕食なんて悲しすぎるわね。だからそんな痩せっぽちなのよ」
「……別にどーでもいいだろ」
「もしかして、本当に毎日そんな食事なの?」
「ほっとけよ。俺がいいって言ってんだから、いいんだよ」
「学校の家庭科で、栄養のこと習わなかった? 魚も肉も野菜も、バランスよく摂れって」
「……肉も魚も食べない」
「え?」
 私たちは6階でエレベーターを降り、隣り合ったそれぞれの部屋の前に立った。
「ベジタリアンなの? ヒンズー教徒の戒律?」
「そんなんじゃねえ。ただ……俺が生きるために、ほかの命を殺したくない」
「……」
「俺には、そこまでして生きる資格ないから」
 ずきんと胸が痛んだ。鍵を開けて真っ暗な部屋に入っていく彼に、思わず追いすがるように叫んだ。
「食べるのは、ほかの命といっしょに生きることなのよ」
 なぜだか気持ちがツンと目じりからあふれてくる。
「命あるものを食べるとき、私たちは海を泳ぎまわっていた、大地を走っていたその命をともに生きることができる。 それは殺すことじゃないと思う。あなたが精一杯生きるために、命を分けてもらってるんだと思う」
 彩音の人を寄せ付けない、美術館の大理石像のような横顔に、かすかな感情がかぶさった。
「……ね、……これから毎晩、御飯作ってあげようか」
「え?」
「一人分作るのも二人分作るのも同じだから。タッパーに入れて玄関のノブにぶら下げとくよ。食べたくなければほっといてくれれば それでいい」
「……なんで?」
 彼は長い前髪に半分隠れた真っ黒な瞳で私の顔を不思議そうに見た。なんで俺にそんなことまで?
 理由を言えずにうつむく私。
 ただ黙って、困ったようにそんな私を見つめていた彼。
 こう言えばお互い納得しただろうか。ただの気まぐれ。迷子の子猫に気まぐれで餌をやるようなものだよって。
 でも本心は、自分ひとりのために料理をしたくなかっただけなのだ。誰かに食べてほしかった。誰かにおいしいと言ってほしかった。あの人の代わりに。
 こんなに優しい春に、ひとりで生きたくなかった。


 マンションのすぐ隣は公園だった。
 夕暮れの濃い藍の中、ハナミズキの白い花の色が空気をかすかに揺らす。
 足早に木々の間をかいくぐり、家に急いでいた私の前を、突然背の高い人影が立ち塞がった。
「琴音」
「……智哉【ともや】……さん」
 スーツ姿の私の婚約者は、ひきつった表情を浮かべて私に一歩迫った。
「もう、見つかっちゃったの……」
「琴音。どういうつもりだ。いきなり手紙だけ送りつけて」
「……」
「式の2週間前になって、なかったことにしてくれだと? そんな一方的な話に、はいそうですかと言えるか!」
「……ごめんなさい」
「何を考えてる! 有紀のことはもう終わったことだと言ったろ。おまえも納得したはずじゃないか」
 ああ、この人はわかっていない。
 ちゃんと話したから解決。別れのことばを言ったから解決。有紀さんの苦しみも私の苦しみも、この人は全然理解していない。
「私のわがままです。ごめんなさい。……でもこんな気持ちのまま結婚して、お互い不幸になるのは目に見えているから」
「結婚してしまえば、気持ちなんてどうにでもなるんだよ。おまえは一時の感情で駄々をこねてるだけだ!」
「やめて、お願い!」
 私の手首をつかんで引っ張ろうとする智哉に、私は抗った。
 このまま彼の胸に体を預けてしまえれば、どんなに幸せだろうか。
 でもできない。
 彼を愛すれば愛するほど、彼の心の奥底の氷で私はずたずたになる。
 身をよじってしゃがみこもうとする私の頭上で、鈍い音がした。
 気がつくと、智哉が地面に倒れこんでいた。
 そして、私と彼の間に立ち塞がったのは、彩音だった。
「なんだ。おまえはいきなり!」
 切れた唇を拭いながら、智哉が怒鳴る。
「うせろ、てめえは。今更みっともねーんだよ!」
 私に押し付けた彩音の背中が、声を共鳴させてぴりぴり震えている。
「昔の男がでしゃばる幕はねえよ。琴音は今は俺と暮らしてるんだから」
「えっ!」
 え? な、なんで?
「で、でたらめ言うな!」
 彩音はくるりと私に向き直ると、いきなり私を抱きすくめ、猛獣のような瞳で私の唇に覆いかぶさった。
 智哉がポカンとした顔で私たちを見上げているのが、目の端に見える。
 私は触れ合った唇を通して彩音の熱い命が流れ込むのを感じ、次第に力を抜き、彼の首筋に両腕を回した。


「御免ね……。あんなお芝居させちゃって……」
 ぐしゃぐしゃに崩れた豆腐の汁がこぼれないように気遣いながら、私たちは、また顔をそむけあってエレベーターに乗った。 「でも、助かった。ありがとう」
「おまえなあ」
 彼はあきれたようにことばを吐き捨てた。
「あの男にやめてって言いながら、ほんとはやめてほしくなかっただろ」
「……え?」
「ほんとは抱いてくれって言いたかったんだろ。でも、言ったらいけないって、そう自分に言い聞かせてたんだろ」
 ……この子は。
「ばっかじゃねえか、おまえ。もっと自分に正直に生きろよ。今のまんまじゃ、おんなじところをぐるぐる回ってるだけじゃねーか!」
 まだ子どもなのに。わたしより10歳も年下なのに。たった1ヶ月、隣り合って暮らしているだけなのに。
 智哉が私との3年間で見えていなかったものが、彼には見えている。
 私は両手で顔を覆った。あとからあとから熱いものがこみあげてきて、私は自分の部屋のドアに着いても手を離すことができなかった。


 次の日から私は、新しい仕事探しに出かけた。
 自分の中で停滞していたものが、また流れ出した。
 やっと数社目で面接に漕ぎつけ、そのまま採用。それまでに比べれば小さな会社だったが、私は鼻歌を歌いながら、ご馳走の準備とスイトピーの花束と、祝杯用のワインまで買って家路についた。
 部屋の鍵を開けると、異様な雰囲気がした。
 なんだか埃っぽい。
 灯のスイッチを押したとたん、私は買ってきたものをどさどさと床に落とした。
 壁のど真ん中に黒々と大きな穴が開いている。人一人が通れるほどの大穴。
「ど、ど、泥棒……」
「あ? 違うって」
 穴の向こうから彩音が姿を現して、得意気に言った。
「回し蹴り3回でOKだったぜ。ほんとに薄いのな。ここの壁」
 な、な、
「何考えてるのよーっっ!」


 だって、あの男に一緒に暮らしてるって言っちまったから。
 それが彩音の言い分であった。こうしとけば、あいつがいつ訪ねてきても同棲してるフリができるだろ。
 まったくどういう思考回路をしてるんだ。壁の修理代は敷金からごっそり引かれるに違いない。
 それからというもの、彼はその穴を通って、ちょくちょく私の部屋に来るようになった。
 いっしょに晩御飯を食べて(彼は少しずつ肉や魚も食べるようになった)。
 それからテレビを見て、おしゃべりして。
 眠くなると、あくびをしながら、また穴から帰ってゆく。
 そしてときどき軽いキスをねだる。
 私は迷子の子猫を部屋の中に招じ入れる楽しさを覚えた。
 そのうちあまり体裁が悪いので、ブルーの大きな草木染の布を2枚買ってきて、穴の目隠しに両側の壁にかけた。
 そのとき初めて彼の部屋に入った。
 何もなかった。ベッド代わりの寝袋が隅にころがっているだけで、家具らしいものは何一つなく、昼間から真っ黒なカーテンが引かれてある。
 私の部屋と同じ広さと思えないほどだだっ広く、そして悲しい部屋。
 ただひとつ、描きかけの大きなキャンバスが画架に乗っていた。深い森を思わせる、奥行きを持った美しい抽象画で、絵心のない私でさえ、思わずぞっと身震いするほどの闇を秘めた絵だった。
 彩音はその絵のことも含めて、自分のことは何も話さない。私も何も聞かない。
 それでいいと思う。
 私たちは今という同じときを共有している。
 それは、もしかするといつか二人がお互いを必要としなくなるまでの間だけかもしれない。
 人生のほんのつかの間の大切なとき。
 でも今はそれでいい。

 そばにいるだけで。


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