(3) 絵を描けない絵描きは、みじめだ。 プライドだけはたっぷり持っているくせに、生活力はゼロ。 パリで、父親が狂っていった理由がわかるような気がする。 次の週が明けてから、俺は就職活動を始めた。 と言っても、俺がやったことは、高校の就職担当教師をさんざん振り回しただけ。面接まで漕ぎつけた会社は一社もなかった。間に立った青木はさぞかし胃を痛めたことだろう。 俺自身いくら考えても、自分がネクタイを締めて出勤する姿なんか想像がつかない。 第一、まともな会社が俺を雇ってくれるとは思えなかった。 補導歴あり、高校はダブリ。 母親ゆずりの浅黒い肌で、どう見たって日本人には見えない俺が、社会の歯車に組み込まれていくことなんて、できるはずがない。 それに俺は、製造や組み立て、車の整備工場などの数少ない求人を、片っ端から蹴っていた。手を使う仕事はしたくなかった。指先が節くれ立ち、繊細な線を描けなくなってしまう。 絵は二度と描かないと決めたくせに、今さら何を言ってるんだろう。 絵を描けない絵描きは、みじめだ。プライドだけはたっぷり持っているくせに、生活力はゼロ。 パリで、父親が狂っていった理由がわかるような気がする。描いても描いても、まともな絵をモノにできなくなった自分を、認めたくなかった。妻の稼ぎに頼りきって暮らす負い目に押しつぶされて、自分さえ憎み始めた。 琴音さんに養ってもらっていては、俺も父親のようになってしまう。そんなことにならないために、俺は絵を捨てる決意をした。 それなのに俺の奥底の本能が疼きつづける。もう一度絵筆を握りたがっている。 訪問者などあるはずがない俺の部屋のチャイムが鳴った。 床に伸びて眠っていた俺は、半分夢の中の心地で、開かない目をこすりながらドアを押した。 「久世彩音さんですね」 立っていたのは、中年の男だ。背広が似合いそうな年なのに、胸元のスカーフと革のジャケットが妙に若造りっぽい。 「誰?」 「スズキ美術株式会社の若林と言います」 と名刺を差し出してきた。この会社は、知ってるかもしれない。ヨーロッパの絵画の買い付けを得意としている大手で、美術業界では有名だった。 「あなたのことを、ずっと探していました」 営業向きの人なつこい笑みを浮かべている。 「あなたがお描きになった久世俊之名義の絵を、うちも何枚か持っています」 「ああ、そういうこと」 俺はたちまち、うんざりした気分になった。「悪いけど、弁償する金ない。ニセものだと見抜けなかった自分を恨んでくれよ」 「そんなつもりはありません」 彼はあわてて否定した。「あなたに新作の依頼にやってきたのです」 「それ、何かの冗談?」 応対が面倒になって、俺は玄関の壁にもたれた。 「みんなもう、久世俊之は九十九里浜の療養所に入ったきり、一枚も絵なんか描いてないって知ってる。それなのに、また俺に一円の値打ちもない絵を描かせたいのか? バカバカしい」 「あなたは、何か誤解しておられる」 意外なことに彼は、バカと言われて怒るどころか、とても穏やかな口調になった。 「あの絵は一円の値打ちもないものではありませんよ。確かに、お父さんの名が入っている以上、贋作としか認定されません。だが、あの絵には、ありきたりではない強い個性を感じる。久世俊之をはるかに超えるところの天分が、あの絵に隠れている」 「……」 「今日わたしは、久世俊之の真似ではない、あなた自身の絵を描いてほしいと依頼しに来たのです」 俺は天井を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。呼吸を忘れていたらしい。それほどに彼の言葉は、魅惑的だった。 「俺の新作なんて、売れっこないよ。あんなことをしでかしたら、画壇から永久追放に決まってるだろ」 「国内ではそうかもしれません」 若林は営業用の笑みを消した。びっくりするくらい熱のこもった目で俺を見る。 「だが、海外では違う。思い切ってパリの画壇に打って出る気はありませんか」 「パリ?」 思わず話に食らいついてしまった。捨てたはずの野心がくすぶりだす。 パリは俺が生まれた街だ。三歳の頃に離れたから記憶も何もないけれど、その名を聞くだけで不思議と、故郷のようななつかしい思いに囚われる。 「現地での売り込みは、すべて私どもの会社が手配します。向こうで先に認められれば、日本の画壇もあなたを無視するわけにはいかなくなる」 彼は畳み掛けるように続けた。 「ごく小さなのでいい。まずは一枚、描いてみてくださいませんか」 ようやく、俺は我に返った。すんでのところでいい気になって、実現不可能な甘い夢を見るところだった。 「悪いけど、その話は打ち切りだ」 のろのろと体を起こし、客に背中を向けた。「絵の道具は全部捨てちまった。二度と絵は描かない。――ていうか、描けないんだ」 「すぐにとは申しません。スケッチでも習作でも何か描けたら、名刺の番号へ電話してください。急いでうかがいます」 「無理だよ」 「今日のところは、これで失礼いたします」 俺のうしろで、カバンを持つキシリという音が聞こえた。 「……待って」 俺は肩越しに振り向き、男を見た。「もしかして、あんたに連絡取ったの、白神琴音って人じゃない?」 「いいえ。違いますが」 その曖昧な笑みは、俺の目には『イエス』と言っているのと同じだった。 雪のちらつく昼下がり、俺の下校時刻を見計ったようなタイミングで琴音さんからメールが飛び込んできた。 『駅前のフラワーショップで注文した花が今日届く予定なの。悪いけど帰りにもらってきてくれない? 代金は支払い済み』 「げーっ」と路上で叫ぶ俺を、すれ違う通行人が避けていく。 高校の制服を着た男が花束を持って街を歩くなんて、そんな恥ずかしいことを俺にしろという気か。絶対、罰ゲームか何かだと思われる。 「覚えてろよ。今夜は、布団の中でたっぷり仕返ししてやる」 と呪いのことばを吐きながら、琴音さんがよく行く駅前の花屋の前に立った。 自動ドアが開いたとたん、柔らかい色彩が奔流となって流れ出てくる。 たくさんの切花がバケツごとに並んでいる。さまざまな色、そして甘い香り。花屋だから当然のはずなのに、俺は中に入るのを怖気づいた。 もうずっと、こんな明るさを見たことがなかった。これほど奔放な色使い、これほど鮮やかなきらめきを。 「いらっしゃいませ」 固い癖っ毛を後ろで無造作に束ねた四十歳くらいの女性が、店の奥から出てきた。 「あ、あの。白神と言いますが」 せめて弟だと思ってくれと願いながら、言った。もちろん俺の貌じゃ、琴音さんの弟になど見えるはずがない。 「ああ、白神さんには、いつもご贔屓にしていただいてます」 店主は、丁寧に頭を下げた。「ご注文の品、出来ていますよ」 そして、からからとガラスケースの扉を開けて、中から特大のバスケットを取り出した。 一面に、花の咲き乱れる草原が広がったような錯覚がした。 息が苦しくなる。あまりにも、綺麗すぎる。 「ご注文が難しかったので、お心に添えたかどうか、わからないんですけど」 「注文て?」 ぼんやりと、訊く。 「生命の美しさを感じさせてくれるアレンジを、というご注文でした」 俺はもう一度、花に視線を落とした。 普通のアレンジメントではない。花を等間隔に差し入れて色と形を整えた、ファッションショーのような美しさではない。 同じ花はひとつとしてなかった。 咲き誇る大輪の花も、雑草と見まごう小さな花も、くっつき合ったり牽制したりしながら、同じだけの主張をする権利を与えられていた。 「これは?」 真っ先に目を引く、背の高い白い花を指差した。「まるで鳥が羽根を広げてるみたいだ」 「そのとおりです。これは『ホワイトパロット(白いオウム)』という名前のお花なんですよ」 彼女は目じりを下げて笑った。「珍しい品種のチューリップです」 「これが? チューリップ?」 「このアレンジは全部、チューリップでさせていただいてます」 そして、次々と説明してくれた。チューリップは、中央アジアの山岳地方が原産であること。その原種は、茎の短い色鮮やかな小花が特徴であること。 放っておいても毎年花をつけるほど生命力に富み、岩だらけの地面に這うように咲き続けること。 このバスケットの中には、十六世紀から数百年にわたってさまざまに改良され、栽培されてきたチューリップの生命力を詰め込んだつもりだと、女性は照れくさそうに、でも誇らしげに言った。 「お気に召しました?」 「は、はい」 「よかった」 彼女は手際よくラップとリボンでバスケットを包むと、最後に一枚のメッセージカードをあしらってから、俺に手渡した。 「はい。これはお客様へのプレゼントですよ」 そのハート型のカードには、見覚えのある優しい文字でこう書かれていた。 『彩音へ。ハッピーバレンタイン 琴音より』 床に置いた花かごをじっと見つめながら、俺は何時間も過ごした。 これがあるだけで、暗い部屋の空気が絶えず動いている。謙遜で、それでいて圧倒的な芳香と色彩が、闇を満たす。 「ただいま」 カーテンをめくって、琴音さんが穴から顔を出した。 俺は立ち上がった。言おうか言うまいかとさんざん悩んだ挙句、ついに切り出した。 「琴音さん。お金を貸してほしい。とりあえず五万円くらい」 「何に使うの?」 「新しいイーゼルとキャンバスを買う。そのほかにもいろいろ」 彼女は意味ありげに微笑むと、頭を引っ込めた。戻ってきたときには、ゴミ袋を両腕で大切そうに持って戻ってきた。 何が入っているかを悟って、俺は身震いした。「捨ててなかったんだ」 「粗大ゴミの日をうっかり忘れて、出せなかったの」 見え透いた嘘をつきながら、彼女は部屋の真中に折り畳んだ画架を広げた。 小さな白いキャンバスを丁寧にその上に乗せた。 「琴音さん」 俺は彼女にしがみついた。 「ありがとう――いろんなことひっくるめて、何もかも」 「どういたしまして」 「この花を描きたい。うまく描けるかどうか、わかんないけど」 「うん」 「やっとわかった。俺、やっぱり絵を描かないと生きていけないよ。売れなくても、誰に認められなくても」 「それがいいと思う」 俺は彼女の首に回した自分の手に気づいた。ふたたび絵筆を握れる歓喜に震えている。 俺はやっぱり描くことから逃げられない。 描きたい。めちゃくちゃに絵が描きたい。今度はきっと、すごいものが描ける。これは俺の最高傑作になる。 琴音さんのうなじに唇を何度も押しつけながら、俺はそう確信していた。 NEXT | TOP | HOME Copyright (c) 2002-2009 BUTAPENN. |