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CLOSE TO YOU
3rd chapter

              (4)

 知らない笑い方。まるで別人のようだ。
 俺の入り込めない世界で、部外者には理解できない言葉をあやつっている。
 琴音さんが今日彼と過ごした時間は、俺と過ごした時間よりずっと長い。



「青木。俺、しばらく学校行かないから」
「なに?」
「適当によろしく。あ、それから就職もやめたから、全部断っといて」
「馬鹿もん。おまえのために、どんなに俺が頭を下げて……」
「じゃあな」
 ぶちっと電源を切って、そのへんにケータイを放り出すと、俺は画架に置かれたキャンバスに向き合った。
 五号のスクウェアだ。小さめだが、これで十分。
 床には、ゆうべ書き散らかした鉛筆のスケッチが散らばっている。壁際に置かれたトレイには、琴音さんが用意しておいてくれたサンドイッチとバナナ、それに紅茶のポット。
 そしてもちろん部屋の真中、デスクライトの作り出す光輪の中心には、まだ瑞々しさを失わないバスケットの花々。
 俺は大きく深呼吸をした。
 もうデッサンはしない。刷毛で薄く地塗りをしたキャンバスに直接、絵の具を乗せていく。
 最初は暗青色で思い切り陰影の部分を塗る。白を際立たせるためだ。
 それから絵筆をペインティングナイフに持ち替えて、何度も花びらを塗り重ねる。
 白はむずかしい。
 黒い絵しか描かなかった俺にとって、黒とはあらゆるものの集合体だった。青も赤も緑も、この世界のすべての要素が黒の中に集約される。俺は、塗り重ねるごとに深みを増す黒に魅せられていた。
 白は違う。白は純粋で孤高だ。何も寄せつけない。そばに闇を侍らすことで、おのれを主張する。
 俺は何度も何度も、乾かし、削っては塗りなおすことを繰り返した。
 絵の具を引っかいたりぼかしたりして、葉脈の一本、水滴の一粒まで緻密に描きこんだ。
 ときどき琴音さんが、壁の穴から食事を差し入れてくれるのも、上の空で感じていた。描きながら食べ、食べながら眠り、寝袋から這い出しては、また描く。
 絵は次第に形を取り始めた。
 魚眼レンズの作り出す像のように、白いホワイトパロットが実際よりもはるかに大きく存在を主張し、ほかのチューリップが回りを取り巻く。花々からぼんやりと色だけが滲み出し、暗い背景を侵蝕し、闇に向かって勝ち誇る。
 生まれて初めて、生命というものを描けた気がした。
 最後の一刷けを塗り、絵筆を置いたときは、幾夜目かの真夜中だった。
 暗い部屋に浮かび上がるキャンバスを見つめながら、俺は幸福な心地で、気を失うように眠りについた。


 目を覚ましたときは、朝の光が窓から差し入り、部屋をひたひたと這う頃だった。
 俺はだるい体をようやく起こした。そしてキャンバスの前に立った。
 モデルの花たちは、バスケットの中ですっかり花弁を開き切ってしまい、役目を終えたとばかりに首を項垂れている。
 俺はたぶん、その場に一時間くらい突っ立ったままだったと思う。
 琴音さんが、仕切りのカーテンを押し上げた。
 息をのむ音が聞こえてくる。
「彩音。完成したの?」
 軽やかに走り寄ってきた。「すばらしいわ。花がキャンバスで咲き乱れてるよう」
「あ? ああ」
 俺は、ぼんやりと彼女の顔を見た。「なに?」
「絵、完成したのね?」
「ううん――まだ」
 あいまいに答えて、口元を引きつらせた。「まだ、もう少し」
 琴音さんは首をかしげた。
「そう。これで完成だと思ったんだけどな」
「もうちょっとだけ、気に入らないところをいじろうと思う」
「わかった。じゃあ、急いでおにぎり作ってくる」
「いい。そっち行く。そろそろ学校にも顔出さなきゃならないし、たまにはきちんと朝飯食べたいし」
 俺はふらふらとシャワールームへ歩き出した。「味噌汁と納豆、お願い」
「納豆?」
 琴音さんは、怪訝な声を上げた。


 シャワーを強くひねり、出てくるお湯を、ごくごくと口から飲んだ。
 ひどく、喉が渇いている。きっと飲んでも飲んでも、渇きが満たされることはない。
 朝の真実が、はっきりと教えてくれたのだ。
 あれは、俺の望んでいる絵ではない。茶色に枯れ果てた花でも、あの絵よりは百倍生きている。
 この後どんなに修正を重ねても、絵に生命が吹き込まれることはないだろう。どんなに医者が手を尽くそうと、死体を生き返らせることなどできないように。
 俺は生まれて初めて、完璧な絶望というものを味わった。
 やはり、俺にはもう絵を描く力はないのだ。


 二月の寒い夜、琴音さんから電話があった。
「急な残業で遅くなるの。適当にうちの冷蔵庫のものを食べておいて」
「適当ってどうすんだよ」
「とりあえず、がんばって」
 また連絡すると切ったきり何時間待っても、なしのつぶて。
 彼女の部屋に入り、冷蔵庫の冷凍室や冷蔵室を開けてみても、何をどう適当にすればいいか、わからない。
 そのまま、こたつに潜りこんで寝ていたが、ついに腰を上げてコンビニに出かけることにした。
 暗い夜道を歩くと、ガラス越しにコンビニのまばゆい明かりが見えてくる。
 深夜にもかかわらず、店内にはエロ本を立ち読みしている男や、ダイエットに耐えかねて、あわててデザートを買いに来たらしき女がいた。
 入ったとたん、暖房が全身にまとわりつく。急速解凍されている気分になり、ほうっと息をついた。店のBGMよりも大きく、自分の心臓がせわしなくトクトク打っているのに気づく。
 弁当コーナーを物色するものの、あまり腹は減っていなかった。
 俺が耐え切れなくなったのは、空腹よりも、ひとりきりで部屋にいることだ。
 あれから、ずっと絵を仕上げるふりを続けている。だが、実際は何もしていない。
 絵を描けないことを、琴音さんにも、そして自分にも知られないように、毎日絵の具を乗せたり削ったりしているだけ。
 サイアクの人生だ。俺、情けなすぎる。
 何年間もひとりで閉じこもっていたときでさえ、これほど孤独ではなかった。琴音さんがいないと、もう生きていることの意味さえわからない。
 コンビニでうだうだと時間をつぶしてから、時計を見る。もうとっくに十二時過ぎてる。まだ彼女からは何の連絡もない。これで終電に間に合うのか。
 レジで温めてもらったカツ弁をぶらさげて、マンションに戻ると、エントランスの前にタクシーが停まっていた。
 白いコートを着た琴音さんが現われ、そのすぐ後から背の高い男が降りてきた。
 相手は職場の人間だろう。男が何か言い、彼女がぺこりと頭を下げる。もう一度男が何か言い、彼女はあははと笑う。
 知らない笑い方。まるで別人のようだ。
 俺の入り込めない世界で、部外者には理解できない言葉をあやつっている。琴音さんが今日彼と過ごした時間は、俺と過ごした時間よりずっと長い。

 ――ママ、いやだ。よその男に笑いかけないで。

 男が座席に戻ると、タクシーは再び走り始めた。
 そのテールランプを見送っていた琴音さんは、暗い歩道に突っ立っている俺を目ざとく見つけた。
「彩音」
 すばやく仮面を取り替えた女優のように、琴音さんはいつもの笑顔で駆け寄ってきた。「とうとう連絡できなくって、ごめん。食事は?」
「今、買ってきた」
「ほんとにごめん。決算書の期日が近いから、課全員で今日中に上げちゃおうって、急遽決まったの」
 ホールに入って、エレベータに乗った。
「終わったときは、終電もなくなってたし、同じ方面の人が組んで、タクシーに乗り合わせて」
 六階で降りて、廊下を歩く。
「今の人は、上司。愛妻家で、かわいい子どもがふたりいて、齢はええと確か……」
 まったく流れるように滑らかな弁明だ。馬鹿らしくて、嫉妬する気も失せる。
「ストップ」
 扉を開けると、俺は買ってきたものを玄関の床にばさりと落とした。
「俺、それほど惨めな顔をしてた?」
 窓から公園の街灯がさしこむだけの部屋で、琴音さんが眉をひそめるのがかろうじて見えた。
「いっしょにいた男をいちいち浮気相手だと疑うほど、俺ってガキ?」
「まさか、そんなこと誰も思ってな……」
 俺は彼女の髪に両手の指を差し入れ、乱暴に抱き寄せた。
「それとも、早く言い訳しないと殺されるかもしれないって怯えてる? 俺の父親が母親を殺したみたいに」
 知らず知らずのうちに、残酷な快感が口からこぼれてくる。
「彩音」
 琴音さんは俺をじっと見上げた。恐怖や嫌悪を感じているに違いないのに、その目は濁らず、透き通るほど優しかった。
「どうしたの? 絵がうまく描けないの?」
「そんなこと、どうでもいいんだよ!」
 俺はとうとう虚勢をかなぐり捨て、彼女を突き放して怒鳴った。
「ああ、あの絵はとっくに見切りをつけたよ。最低だ。あんなものに時間を費やす価値なんてない!」
 俺はとめどなく湧き上がる黒い衝動に駆り立てられて、壁の穴をまたいで自分の部屋に入った。
 キャンバスを掴みあげると、そのまま廊下へ飛び出し、エレベータに乗った。
「彩音、何するの?」
 琴音さんも、追いかけてくる。
「捨てるに決まってるだろ。もう見てるのもうんざりなんだ」
「もう少し冷静になって。明日になったら……」
「そんな必要ない!」
 エントランス脇のマンションの共同ゴミ捨て場に、俺はついさっきまで絵筆を乗せていた生乾きのキャンバスを投げつけた。
「絶対に拾うなよ」
 興奮のため酔っ払いみたいにふらつきながら、わめいた。
「もし拾ってきたら、部屋ごと火をつけて燃やしてやる」
 エレベータの中で琴音さんは無言だった。顔をそむけながら、ひっそりと泣いている。
 部屋に戻り、油絵の具の匂いを嗅いだとたん、俺は猛烈な吐き気に襲われた。
 洗面所に飛び込んで、嘔吐した。逆流した胃液のせいで鼻の奥まで痛くなる。そのせいで涙までこぼれてくる。
「彩音」
 蛇口をひねり、洗い流しているあいだ、琴音さんの暖かい手が背中に触れる。
「ねえ、しばらく休もう。彩音」
 ゆっくりと背中をさすりながら、子守唄のようなささやき。
「絵のことは忘れたらいい。いっしょにどこかへ出かけよう。映画を見たり、旅行をしたり。そしたら、いつか描きたいと思えるようになる日が来るよ」
 激しい怒りが体じゅうの血を沸騰させた。
「あんたに何がわかる」
 華奢な手を、力いっぱい振り払った。
「俺から絵を取ったら、何が残るんだよ。言ってみろ!」
「彩音。私は――」
 彼女は、懸命に首を振りながら訴えた。「絵なんか描きたくなければ、いつまでだって描かなくていい。あなたが苦しんでいる姿を見たくないの」
「そうやって俺を甘やかして! ダメになるように仕向けてきたんだろ」
 目の前にぽっかり口を開けた陥穽から逃れるように、俺は身をよじりながら叫んだ。
「……会わなければよかった。あんたのせいで俺は……俺は絵が描けなくなったんだ」


 自分が何を言ったか気づいたときは、もう遅かった。
 俺たちは、凍りついたように互いを見つめた。
 今までいっしょに築き上げた積み木の城がスローモーションで倒れていくのを、俺は頭の隅で眺めていた。




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