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CLOSE TO YOU
3rd chapter

              (5)

私はあなたの母親には決してなれません。
もしあなたが私に母の愛を求めていたのだとしたら、それには応えることができません。
私はあなたを男として愛している、ひとりの女です。



 大音量の音楽が流れる部屋で、俺はソファに横たわりながら天井を見つめていた。
 最初の夜は、ネットカフェだった。それから腹が減って、食い物を買いに行き、またどこか別のネットカフェに行って、夜を明かした。それからはカラオケボックスでずっと時間をつぶしている。
 飛び出してどれくらい経ったのかもわからなくなったころ、マンションに戻ることにした。
 戻る気になったのは、単純な理由。財布の金が尽きたからだ。
 鍵を開けて、空っぽの部屋に入る。夜明けまでに間があり、琴音さんはたぶん、まだ寝ている。
 いつもの習慣で彼女の部屋へと通じる壁の穴の前に立ったとき、異変に気づいた。
 仕切りのカーテンが取り払われ、穴がベニヤ板でふさがれている。
 そして、板の表面には一枚の封筒が貼り付けられていた。
『彩音へ』
 書いてあることは、ほぼ予想がついた。手紙でしか言えないことは、そう多くない。

『彩音

ときどき、私はあなたにとって何だろうと思っていました。答えを出すのを恐れていました。
二十八歳の私が、十八歳のあなたに愛されることなど、常識ではありえないのですもの。
私はあなたの飯炊き女じゃないって、叫んだことありましたね。性の処理をするだけの便器女なのかと悩んだこともありました。
でも、私は飯炊き女でも便器女でもよかった。あなたが私を必要とする限り、そばにいようと決めていました。あなたの世話を焼き、自分だけのものにできる喜びに酔っていたのかもしれません。母親のようにふるまう私を、あなたも求めてくれた。
けれど、私の歪んだ愛情があなたを苦しめ、絵を描けなくさせていたことを、初めて悟りました。
だからもう、終わりにしましょう。
私はあなたの母親には決してなれません。あなたが母の愛を求めていたのだとしたら、それには応えることができません。
私はあなたを男として愛している、ひとりの女です。
これからも、ごはんは作ります。あなたが帰ってきたのがわかったら、また以前みたいにドアノブのところにぶらさげておきます。必要なくなる日まで。
今度こそ自分にふさわしい相手を見つけてください。
壁の穴は、とりあえず応急処置で塞いでおきますね。管理人さんにお願いして、修繕工事をしてもらえることになりました。日時がわかったら、また知らせます。
琴音』

 俺は床にうずくまって手紙を握りしめながら、浅く呼吸していた。
 これでようやく謎が解けた。なぜ、あんな心にもない言葉を彼女に投げつけてしまったのか。
 あれは、父親が母親を罵っていた言葉だったのだ。
『おまえのせいで、俺は絵を描けなくなった』
 幼い俺は何度、奴のそのことばを耳にしただろう。絵を描けない苛立ちにもだえる父は、身近な者を傷つけることで苦しみを紛らわすしか、方法がなかったのだ。
 サイテーな卑怯者だ。だが結局、俺も父親と同じ過ちを犯した。琴音さんに母親の役割を押しつけて。自分の怒りをぶつけて。それでも愛してくれと。
 そしてついに、回帰不能点を超えてしまった。ふたりをつないでいた壁の穴は、彼女の側から閉じられた。二度と開くことはない。
 ああ、もう過ぎちまったことだ。どうでもいい。
 俺は床に体を横たえた。暖房のない冬のフローリングは、まるで氷だ。こうしていれば、いつか凍え死ねるだろう。
 頭の中身が泥になってる。もう何も考えたくない。


 気がついたら、玄関のチャイムがせわしなく鳴っていた。
 琴音さん? 俺が帰ったのに気づいて、食べ物を運んできたのだろうか。
 揺れている甲板の上みたいにふらふらと歩き、ようやくドアを開けた俺の前に立っていたのは、見知らぬふたり連れだった。
 三十過ぎくらいの母親と幼稚園くらいの女の子。子どものほうは、母親の陰に体を半分隠している。
 母親は一瞬ぽかんとした表情を見せて、言った。
「あの……久世彩音さんは?」
「俺だけど」
 彼女は「まあ」と口に手を当てると、あわててお辞儀した。
「ごめんなさい。まさか、こんなに若い方だと思わなくて」
「何の用?」
 俺の無愛想な口調に、女の子はますます怯えて頭を引っ込めた。
「あの……実は、これがずっと下に」
 彼女がデパートの紙袋から取り出したのは、俺が自分の手で捨てたチューリップの油絵だった。
「あなたのお描きになったものだと聞きました。下のゴミ置き場に立てかけてあったんです。朝夕この子の送り迎えのたびに、通りながら眺めていたのですが」
 母親はおずおずとした目で俺を見た。
「あの……大変ぶしつけなお願いなのですが、お捨てになるくらいなら、私どもに譲っていただけないでしょうか」
「なんで?」
 冷ややかに俺は返した。「それ、ただのゴミだよ。一円の値打ちもない。なんで、そんなものを欲しがるの?」
「私ではないのです」
 彼女は懸命に首を振った。「欲しがっているのは、この子なんです。どうしても離れなくて、なだめても聞かなくって。……その、この子は生まれつき、要求というものがほとんどない子どもで、おもちゃでも食べ物でも……何かを欲しがるというのは、初めてのことなんです」
 そして、感極まったのか涙をにじませて、もう一度深く頭を下げた。
「うれしくて、うれしくて……親として、この子の最初の願いをかなえてやりたいのです。どうか、お願いします」
 しばらくむっつりと黙り込んだあと、俺はようやく答えた。「好きにしていい。どうせ捨てたものなんだから」
「ありがとうございます」
「ひとつ訊きたいんだけど」
 俺は、当然の疑問を口にした。「どうして、この絵が俺のものだってわかった?」
「ある人に教えてもらったんです」
 母親はその質問を待っていたかのように、ほっとした笑みを浮かべた。
「今日は、ちょうどこのマンションのゴミの日だったみたいです。回収車が来て、全部運んでいこうとしたとき、女の人が何か叫びながら玄関から飛び出してきて、この絵をひったくるように取り戻したんです。そして車が行ったあと、宝物を扱うように丁寧にゴミ置き場に戻して」
「……」
「思わず声をかけたら、こうおっしゃいました――『訳があって、この絵は描いた本人の手で捨てられてしまったものなんです。でも、こんな素晴らしい絵を私は捨てたくない。少しでも多くの人に見てもらいたいと、ずっとこうしているんです』と。確かに、これは人の心を惹きつける素晴らしい絵だと思います。私たち以外にも毎日何人もの人が、ゴミ置き場の前で立ち止まって眺めていました。まるで小さな展覧会みたいに」
 そして、あわてて付け加えて言った。「あの、ごめんなさい。素人なのに生意気なことを言うようですが」
 俺は何を考えればよいかわからず、ぼんやりと目を落とした。母親のスカートをしっかり握っていた女の子が身じろぎした。まるで確率0.1%の奇蹟みたいに、ふたりの視線が合った。
 俺は片膝をついて、廊下にしゃがみこんだ。
「なあ、この絵の、どこが好き?」
 知りたくてたまらなかった。今まで描いたものは、完成するとすぐに運び出してしまったから、自分の絵が誰かに見られているなんて考えたことがなかった。
 女の子は首を振ると、頑なに顔を伏せた。
「すみません、家族以外とは決して口を利かなくて」
 と母親は恐縮する。やがてスカートの後ろから、小さな息が漏れた。
「なに?」
 母親が顔を寄せると、彼女はもう一度唇を動かして、誰にも聞こえない声で言った。
「ハルカ。あなた――」
 母親が驚いたように目を開いて、振り向いた。
「ダイスキ、キラキラしてるから――って」


 母娘が帰ったあと、俺は長いあいだ部屋の隅に座り込んでいた。
 壊れた水道みたいに、涙が止まってくれない。
 俺の絵を見て、「ダイスキ」と言ってくれる人がいた。「高く売れるから」でもなく、「名のある画家だから」でもなく、ゴミ置き場に捨てていた絵を「ダイスキ」だから欲しいと。
 俺の絵の値打ちを決めるのは、他の誰でもない俺だけだと思っていた。
 だから描くたびに、自分に対する要求は際限なく上昇する。過去に描いた作品が、父親の絵との比較が、心に思い描く理想が、目の前の絵を駄作だと責め立てる。そうして俺は自分の内側から浴びせられる罵声に耐え切れなくなった。
 だけど、そうではなかった。
 描いていいのだ。何とも比べる必要はない。幻影におびえる必要もない。
 絵を見てくれる人がいる限り、俺は俺のやりかたで描き続ければいい。
 隣のドアの開く音がした。もう夜。琴音さんが会社から帰ってきたのだ。
 壁の向こうから、馴染んだ音が聞こえてくる。バッグをテーブルに置くキシリという音。台所で湯沸かし器を点けるボッという音。水の流れる音が聞こえて、すぐに止まる。琴音さんの深い溜め息まで、薄い壁は克明に伝える。
 もう我慢できなかった。
 俺は顔を洗って、一番いい服に着替えた。髪も梳かした。
 廊下に出て、琴音さんの部屋のチャイムを鳴らした。
 扉を開いた彼女は、俺を見て息を飲んだ。
「入っていいですか?」
「は、はい」
「お邪魔します」
 戸惑う彼女を尻目に、いつもは真っ先にもぐりこんで寝ころぶコタツの前で正座した。我ながら芝居じみてる。でも今の俺にとって、これは精いっぱいの本心だ。
「ありがとう。ゴミ置き場で俺の絵を守ってくれて」
 深々と頭を下げて、こたつ板で額を打った。
「それから、ごめんなさい。俺、琴音さんをすごく傷つけた。何にもわかってなかった。わかろうとしてなかった。イヤな気持を全部ぶつけて、利用するだけ利用して、勝手なときだけ体を求めて、まるでガキが母親に甘えるみたいに……」
 ずっとそのままの姿勢でいたら、鼻の奥に涙がたまって痛い。
「赦してくれるなら、もう一度チャンスをください」
「彩音……」
「俺、絵を描いてみる、ってか、今無性に描きたい。だから、俺」
 思い切って顔を上げると、琴音さんが両手を口にあてて、ぼろぼろ泣いていた。
「しばらく会わない。琴音さんに頼らずに、ひとりでやってみる。そうしないと、また甘えて、元に戻るだけだから」
「うん」
「どんなに会いたくても、会わない。けど、絵が完成したときは、このドアをノックするから」
「うん」
 琴音さんはコクコク何度もうなずいた後、手の甲で涙を拭った。「わかった。待ってる」
「俺、琴音さんが好きでたまらないよ」
「私も。彩音」
 どちらともなく、別れの握手を交わした。死ぬほど振り返りたかったけど、扉を出た。
 これからは、ひとりの戦いだ。
 今までの俺は、本気で生きてこなかった。母親の死と父親の狂気を言い訳に、努力もせずに自分を憐れんできただけだった。
 ひたすら琴音さんの愛情を食い尽くしてきただけだった。
 だけど、もうそんなのはごめんだ。俺は親の呪縛を捨てて、自分の人生を生きる。
 ほかの誰の絵でもない、久世彩音の絵を描く。
 



 
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