耳がじんじん痛くなりそうな法師蝉の鳴き声と、足元の清流の冷たさが、何にもまして夏のおわりを告げてくれる。 振り向くと、向こう岸にもわずかな石の川原があって、すぐ鬱蒼とした森が立ち上がっている。頭上におおいかぶさる重い緑の陰。 自分がここにいないかのような希薄な感覚がずっと続いていた。 都会育ちで田舎のない私には、自然そのもののこの景色はあまりに圧倒的すぎるのかもしれない。 昨夜泊まった民宿の床に入ったときも、聴覚が浮き上がるほどの静けさに身じろぎすらできなかった。 たまたま県道を通りかかったトラックのエンジン音が驚くほど近くに聞こえて、それでようやくほっとして身体を動かすことができた。そろそろと、隣の布団に手を差し入れると、すぐに強く握り返される。彼も眠れなかったんだと、わかった。 「おなか痛くなってきた」 長時間、川の水にふくらはぎまで浸かってばしゃばしゃやっていたせいで体が冷え切ってしまった私は、麦わら帽子に軽く手をやりながら、あわてて暖かく乾いた岸に戻った。 彼のほうを見ると、相変わらず一心不乱に川向こうの森を見つめていた。 風景と同化したかのように動かない。 私のことなど、完全に忘れている。 そんなにあこがれていると、自分が溶け出してしまうよ。 自然の精霊たちから仲間だと思われて見初められて、連れて行かれちゃうよ。 本当に私は、そんな不安を感じていた。 彼が育った家は、この近くにある。代々この地方の村を治めていた一族の傍系らしく、古く大きな造りだった。彼の祖母は母屋で寝たきりで、訪ねた私たちをじろりと憎しみのこもったまなざしで見返しただけだった。 彼は長いこと、草ぼうぼうの庭の灯籠のわきに立ち、同じ石になったように身を強ばらせていた。 その視線の先、自分が子どもの頃暮らした離れの間がある。私は、その中で幸薄いまま亡くなった彼の母親の霊に向かって手を合わせた。 そして、彼の背中をそっと押した。 「入りましょう。彩音」 彼の手がにわかに動き始める。 まるで透明な糸を紡ぐ織手のように、光の果実を集める農夫のように、彼の浅黒く細い手は、白いスケッチブックの上を踊る。 私は川原でまた、小一時間待った。 ようやく大きな吐息が聞こえ、それが彼が人間の世界に戻ってきた合図だった。 「彩音」 小石を踏みしめて近づく私に、彼は少し寝ぼけたような微笑で答えた。 「おなかすいた。琴音さん」 「お弁当、食べようか」 そばに腰かけた私に、彼はキスする。 ああ、おかえりなさい、彩音。 あなたはどんな宇宙に行って、何を見て、私のところに戻ってきたの? 彼のスケッチブックを開くと、緑の風景が何枚も写しこまれていた。 どの絵も簡単な線の交差なのに、木の葉の一枚一枚がそよぎ、水面に撒き散らされた光の屑が輝いていた。 見ていると次第に涙がにじむ。 私は彼の瞳に映る美しい世界にはふさわしくない。 十歳も年上で、いつか彼が離れて行ってしまうことが不安でたまらなくて、彼が見つめるものすべてに苦しいほど嫉妬している私なんて。 「あ、それは」 何の気なしに最後のページをめくった私に、彼はあわてたようだった。 「キャンバスに描くまで、秘密にしておこうと思ったのに」 照れ隠しに、にやにや笑っている。 そこには、麦わら帽子をかぶった翼を持つ天使が、手から光のしずくを垂らして水と戯れていた。 2003年7月発表の「夏の断片」に収録していた掌編です。一部修正して再掲載します。 TOP | HOME Copyright (c) 2002-2009 BUTAPENN. |