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  今回の予告は……

   人の心は複雑怪奇。回帰するのは、悲しい記憶。
   過去を振り返っていると、主人公を取り巻く人々が訪ねてくる。
   彼らが心に抱いているのは、信頼か裏切りか、友情か打算か。
   そして、突然走り出す主人公。その理由は?
   ちょっぴり明るい未来がやってきたと思ったら、
   ラスト一文で奈落に落とされる主人公の運命はいかに。
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 何度身体を重ねても、そのたびに君が見えなくなる。
 それでもそれしか方法を思いつけなくて、ただ只管に君を抱きしめる。
 今そこに居るはずの君が、どうしてこんなにも儚く切なく、遠く感じるのであろう。
「もしも私が死んだら」
 穂汰流がそっと、僕の耳を甘噛みする。
「そんなこと」
 抱きしめた君の背中の感じが好きだ。ただそれだけだ。
 会話は意味をなさない。身体の関係は素敵だけど満たされない。自分が此処にいる気分がしないから、お互いを抱きしめる事で自らの存在を確認する。ただ、それだけの行為。
 それが今の、僕たちの恋愛。
 このままじゃきっと、ダメになる。



            


Side BISCUIT   第2話 「サイレント・クラッカー」




 下町の木造は家壁を越えて繁茂する枝葉の緑が綺麗。夏の午前中の匂いは独特で、どこか遠くの土の匂いが涼風に乗って香り、高揚する。T字路のクロス・ポイントに『田処処たしょしょ』はある。バサササと、木々の間から鳥が飛び立つ。『田処処』は老舗の甘味亭で、僕はそこの常連だ。鳥は優雅に上空を旋回するとどこぞに消えていった。あれは何の鳥だろう。
「鷺だよ、あれは」
「あ。おやっさん」
 店主自ら軒先に水を撒いていた。
「サギですか」
「うん。そうだね。先月くらいから水原さんチの柿の木に巣食ったらしくて。鳴き声が明石家さんまの笑い声に似てるんだ」
「それは聞いてみたいなぁ」
 この人は本当に物知りで、オール・ラウンド様々な事柄を本当によく識っている。ここの常連になったのも、その人柄と、博識ぶりに惹かれたからに他ならなかった。
「この間言っていた新しいお茶が入ったよ。さっそく煎れてみようか」
「はい!」
 僕は将来、茶師になりたいと思っている。人伝にここのおやっさんが茶葉に詳しいという事を聞きつけて、それ以来、茶葉の事で通うようになり、今ではすっかり師弟関係っぽくなってしまっている。頼れる大人、という括りで言うなら、おやっさんは僕にとって、唯一無二のそういう存在だった。
 少し、草刈正雄に似ている。
「僕が茶師になったら」
 それは、記憶。思い出のカラクリ箪笥の引き出しを開けるキーは、匂いだったり、行動だったり、言葉だったり、ふとした事が鍵となる。それが本当にふとした時だから、涙が零れ落ちそうになる。
「僕が茶師になったら」
「どうして茶師なりたいの? てか、茶師って何?」
 それは確かに初夏だった。午前中の匂いが仄かに香るどこかの公園。
「ずっと前から考えていたんだ。ほら、クリスマスの時、藍子は冷え性だって言ってただろ?」
「女の子はみんな冷え性よ」
「そうなのか? でも、僕にとっての女の子は藍子だけだよ。だから、それを緩和させられたらって思うんだ」
 彼女はにっこり、
「茶師にはそれができるんだ?」
「症状に合った茶葉でお茶を煎れてね、体質改善をさせたりするんだよ」
「詳しいね」
「これは福建省の武夷山の茶葉、大紅袍だ。といっても、本物のそれではない。これの本物となると、皇帝に献上するような、とても一般人が飲めるようなものではない。無論、今もその当時の木から茶葉を取れるが、出回らない。今日飲むこの茶は、原木により近い木から摘まれている。味が君にわかるかな」
「詳しいですね」
 回想は暫し。おやっさんは仕入れた茶葉の薀蓄を垂れながら、お茶を淹れてくれた。
「上等ですよね」
「まぁ、普通の茶葉よりは高いが、片目が飛び出て鬼太郎になるほどではないよ」
「ははは」
 おやっさんは器用にお茶を淹れると、盆に乗せた。湯気の立つお茶碗。その色は紅に染まりかけた金色風で輝いて、気風すら感じる。
「さ、さっそく飲んでみよう」
「僕、運びます」
「それじゃあ私はお茶あてに何か、出そうかな。何が良い?」
 そんな風にして出される和菓子がおやっさんにモノを教えてもらう代金がわりとなっていた。講習に通うより遥かに安上がりで、かつ為になるのでまったく苦にならないのだが。
「『黄な粉プリンの黒蜜仕上げ』がいいです」
「嬉しいけど、好きだねぇ、君も」
 決まって僕が頼むのは、この店の名物、店長の発明、『黄な粉プリンの黒蜜仕上げ』だった。プリンに和のテイストを加えた一品で、カラメルの代わりに黒蜜を垂らしているところが僕のツボだ。やや甘すぎるきらいもあるけど、お茶があれば、その爽やかな渋みがともにあるので相殺され食べやすくなる。
 お盆に一通り乗せて、厨房から店内に戻る。そこには太った男がもさっと突っ立っていて、
「あー、ようやく来たぁ」
 少女は既に腰掛けて注文をくるくる指先で回していた。IT探偵の紫村、そしてその助手の中学生、チャーミーこと茶畑馨である。
「もうそんな時間かぁ」
 おやっさんがうなった。探偵とその助手は、毎週月・水・金の午前10時、決まっておやつの時間にここに現れるのだという。探偵は暇なのでわかるが、義務教育真っ只中であるはずのチャーミーが同伴しているというのはいかがなものか。
「チャーミーいっつも思うんだけど君、学校」
「いやぁー! 昨日は大変でしたよっ!! あ。店長ここ座りますね。おいそこのバイト君、注文お願いしてもいいかな!?」
 明らかに僕の疑問を掻き消すような大音声で、紫村は着席した。
「誰がバイト君だよ」
「いっつも来てるんだから、いっそのことバイトになればいいのだ。店長、僕はハッピーアイスクリーム・パフェ」
「私は抹茶黄な粉ぜんざい」
「はいはい。じゃ、とりあえず、お茶の話はまた後にしよう」
 おやっさんは厨房に消えていった。仕方ないので、僕も二人の座る4人がけのテーブルに相席する。紫村の隣は窮屈そうなのでチャーミーの隣だ。一瞬、紫村が僕を睨んだような気がする。
「それで? 昨日は何が大変だったんだい?」
 お茶を飲む。う、うまい。何て味わい深いんだ。さすがは伝説の茶葉を模したもの。思わず感動してしまう。
「いや、それがね。むひょひょ。久しぶりに、い、いや。大きな仕事が久しぶりって意味で、暇だって意味じゃないからね」
「わかってる」
 うまい。なんてうまいお茶なんだ(要するに探偵の仕事の忙しさなんてあんまり興味ないのだ)。
「或る奥さんがクライアントでね、彼女の通っていたカルチャースクールの偉いさんを調べて欲しいって事だったんだけど、いやぁ、ひでえやつだったよ」
 舌の肥えていない芸能人なんかが高いものを食べると必ず「甘い!」というのもよくわかる。あれは本当に甘味があるのだ。甘味と言っても、砂糖のそれではない。コクと言い換えてもいい。厚みのある液体が、渾然一体となってハーモニーを奏でている。素晴らしい。きっと、おやっさんの煎れ方も素晴らしいのだ。あ。お茶の話です。僕がお茶に気を取られっぱなしだという事に気のつかない探偵は続ける。
「熟女キラーっていうのかな、僕は若い子にしか興味ないけど」
「それ、お前が言うと洒落にならんぞ」
「なぁんでさ、でもね、本当そんなやつで、調べたら近づくおばさん手当たり次第にやっちゃってるみたい。プレイ内容も、プレイというよりは寧ろ無礼。ああ、嫌だねぇ。イヤダイヤダ。かっこういい男でHのうまいやつなんて存在しないんじゃなかろうか」
「それって僻みだろう」
 つうか、こういう話、中学生の前でやって良いのか日本のモラル。
「何とでも言いなさいな。とかく、現場も抑えたし、写真も撮れたし、証言もあったし、仕事は大成功だ。むひょひょ。これでやっとチャーミーにバイト代払えるね」
「わーい」
 ぱちぱちぱち、口に出しながらチャーミーが手を叩く。
「でもさ、その依頼した人は何が目的だったんだい?」
「うーん。復讐なんだろうね。そのカルチャーセンターに、撮った写真貼り付けるとか言ってたからな。年増女の逆恨みは怖いよ、青磁君。むひょひょひょ」
 紫村は機嫌が良かった。探偵らしい仕事が出来て嬉しいのだろう。おやっさんが注文の品を持って来た。
「おやっさん、お茶うまいよ。やばいよこれ」
「やばいって、言わない。その用法は品がないよ、茶師として」
 芸能人の「甘い」を非難する以前にたしなめられてしまう僕。
「す、すいません」
「いやね、でもいいだろう?」
「いいです」
 おやっさんは二人に配り終わると、隣のテーブルから椅子を持ってきて、座った。やっぱり、紫村の隣の席はキツイと判断したのだろう。
「なんか二人だけ特別なお茶飲んでません?」
「言われると思って二人にも同じお茶を淹れておいたよ。奮発だ」
「わーい」
 チャーミーは再び手を胸の前でパチパチさせて、飲んで、「おいしいーまろやかーん」などと口走っている。
 なんとなく和みかけたとき、
「あーやっぱりここにいた」
 入り口をカラカラと開けて、顔を出したのは緑川光太郎だった。長身だけどひょろっとした印象はない、優男だけどなよっとはしていない、ジャニーズ事務所にでもいそうな胸板の薄い感じの美男子である。やや長くして茶色に染めた髪型がいかにも今風でイケメンぶりに拍車をかけている。
「あれぇ。今日は探偵も一緒かぁあ」
「あ。こないだは、どうも」
 ヤのつく自由業の息子と新米探偵。何事かあるのかも知れない。探偵は起立で礼をした。
「あれは大変だったみたいダネェ。よかったよねぇ。うちの組のもんでぇ」
「ええ。まぁ」
 『職業』とは『立場』であるらしかった。高校時代は紫村も緑川もタメ口だったのに、今やちょっとした上下関係すらも感じてしまう。
「で、俺に用なの?」
「うーん。用って訳じゃなくってさぁ。ちょっと暇だったから、黒河に場所調べてもらって」
 黒河とは緑川の舎弟である。相当の強持てなのだけど緑川が彼を顎で使っているのを見て僕も馴れ馴れしくしていたら、
「俺は三代目の部下で、アンタの部下じゃないんだよ」
 と凄まれた事があってびびったが、その後打ち解けて、今は結構普通に喋れるようになった。
「黒河さん新婚なんだってね。こないだ聞いたよ」
「そぉそぉ。姉さん女房」
「うっそ。それは初めて聞いた。え。でもさ、黒河さんって30代後半」
 40近い女性など女に思えない僕にとって、そのぐらいの年の、大人がする恋愛なんてどこか別次元の神話物語みたいに思えて単純に不可思議を数えてしまう。
「緑川君。君も何か食べるかい」
「あー、そうですねぇ。じゃあ」
 と、そのタイミングでまたの来客。
「お。やっぱここか」
 どうも僕はここにいるイメージがあるらしい。
 入ってきたのは大学で新しく知り合った友人、その名を紺賀牙一郎という。すごい名前で驚いたのだが、家柄はもっとすごい。本人自称、忍者の末裔なのだそうだ。真相は判らないし、確かめようもないのだが本人はそう自己紹介で断言した。けれどもこの平成の浮世、忍者という職業に需要があるとは思えない。日光江戸村とか、そういう場所でなら話は別だけれども。そんな意味で、忍者のレッテルは何時しかちょっと変わり者に書き換えられていた。いいやつなのだが。
「なんだ。みんな勢ぞろいだな」
「何かあったのぉ?」
「いや。俺はちょっと、その」
 どうも目当ては別にあるらしい。しかし顔を赤くして、忍者の末裔は何事も語ろうとしない。ジェルでツンツンに立たせた髪がざわめいて落ち着かない。
「ねえ今君、戸に手をかけて開けた?」
 探偵が唐突に忍者に聞く。
「え? あ、うん。開けたよ」
「そうかな? 僕には今、勝手にドアが開いたように見えたのだけど」
「さ、錯覚じゃないかな?」
 混沌としてきた。おのおのが勝手なことを喋りだす。マスターが声を一段階大きくして、
「注文とろうか」
「じゃああ。僕はぁ、あれです。いつもの。黄な粉のプリンの」
「俺もそれでいいです。あ、あの、今日は、華ちゃんは?」
 忍者が店長に尋ねる。華、とは店長自慢の三人娘の末っ子だ。時々、『田処処』を手伝っている看板娘である。
「なんだ、そういう事か」
「な、何がそういう事なんだ」
 慌てたように紺賀が噛み付く。
「チャーミーの次は華ちゃんか。お前は本当に」
 この男、先月までは探偵にべったりのチャーミーに興味を持ち盛んにアプローチをしていたのだが、脈なしとみて華ちゃんに鞍替えしたらしい。
「そ、そういうんじゃ」
 もごもご。
「わかりやすいロリコンだなぁ。チャーミー、探偵よりも忍者の方がいいんじゃない?」
「いやぁよ」
 モテモテの馨は満更でもない様子で笑った。忍者などは顔が真っ赤である。
 こんな風にして、僕たちは時々『田処処』に集まっては駄弁ったり、青春の情報交換をしたりしているのだ。もう見慣れた光景だったが、そのうちここに穂汰流も連れて来ないといけないだろう。彼女の事もちゃんとみんなに紹介しておきたいし。そう思った矢先、心を読んだように緑川が尋ねる。
「そういえばさぁ、穂汰流ちゃんとは最近どぉなの?」
「うーん。相変わらず、かな」
 彼女の自殺癖は相変わらずで、最近は穂汰流の為に走る事が日課となりつつある。
「相変わらず……」
「愛も変わらず……」
「なんだよ」
「いや、いいね。なんかね」
 僕以外の若者がへらへらして自分を見ている。なんだなんだこの感じ。
「なんだお前ら、馬鹿にしてんの?」
「違うよぉ。みんな応援してるんじゃない。だって一時期のOG、酷かったもん。ここまで立ち直ってくれたんだなぁって」
 前の彼女が死んだとき、よっぽど死のうかと自暴自棄になっていた時期を緑川も探偵も良く知っていたのだ。
「穂汰流ちゃんを紹介してくれた黄田川にも感謝しないとねぇ」
「そうだな」
 黄田川遥と、その双子の姉、葵は僕と幼稚園の頃からよく3人で遊ぶような仲だった。弟の遥は年を重ねるごとにどういうわけか子供の頃一緒に公園を駆け回っていた純粋さはなくしてしまったものの、今でも僕の大切な友達で、会うと兄弟と話しているような感覚に陥る男だった。僕が彼女を失った時親身になってくれたのも二人で、新しい大事な人まで紹介してくれた。
「感謝してるよ」
 直接支えになれなくとも、人は人を救える。友達なら尚更だ。勿論、ここにいる皆も最早『友達』よりは『腐れ縁』なのだが、腐って発酵していい味わいを醸し出しているように思う。こういう交友関係は貴重だ。『腐れ縁』が腐って食中りを起こす関係性なんてそれこそこの世には腐るほど在るというのに。
「ありがとな」
 わかっちゃいるけど、はっきり言うのは照れくさいから、小声で言う。緑川は「ん」とだけ言って微笑んだ。
 パンツのポケットが戦慄いている。ケータイのヴァイブレーションが皮膚を震わせて、小さく自己主張。僕はそれを具に感じ取って、着信を確認。MAILだった。穂汰流からではない。件の、黄田川(弟)からだった。珍しい。仕事終わりだろうか。
「穂汰流ちゃん?」
「いや。黄田川(弟)」
 シェルを開いて届いた電子の手紙を黙読。読むなり眼が、絶句した。
『けーしょん!
 大変だ、青磁。
 穂汰流が、危ない。
 すぐ赤口公園まで来られたし
大至急。走れよ、時間がない』
「ごめん。行かなくちゃ」
「おや。行くのかい?」
 ナップサックに手をかけた僕と鉢合わさる、丁度お盆を持って出てきたおやっさん。
「すいません。つけといてください」
「ああ。それはいいけど、どうかしたの?」
「何かあったみたいで」
「そうか。行ってらっしゃい」
「また来ます。みんなも、それじゃ」
 公園まで、そんなに遠くない。走れる距離。夏の、空間に敷き詰められたような、重く、低い、生暖かい空気が、気だるい。
 やがて公園に到着の僕は首を振り振り、バスケの足捌きでうろうろ、周囲を見回しながら、黄田川を、いや本当は、穂汰流を探す。いない。見当たらない。子供たちのはしゃぐ声。夕方までに間があるのに、気の早い蜩たちの合唱。
「早いな、随分」
「走ってきたんだね」
 隠れていたかのように後方から現れたのは、黄田川遥と、葵だった。
「ひさしぶり」
「あ、ああ。遥、葵。ひさしぶり。あのさ、穂汰流は」
「いないよ」
「え? いない?」
 汗が吹き出た。
「いないって、どういう」
「うふふ。かわいそうだよ、遥」
 葵は、完璧な女性だった。確かに遥と同じ顔なのだけれど、否の打ち所がない端正な顔立ちとスタイルと、ペルシャ猫が擬人化して喋りだしたような気品のある声は、女性として、いや、人間としての完成度が高い。彼女は昔からそうだった。同様に美男子の遥とふたり並んでいると芸術家の彫った彫刻のようである。
「そうだな。ごめん青磁。冗談なんだ」
 冗談だって?
「そうさ。冗談だよ。悪い冗談。大丈夫だ。多分今頃、穂汰流は家で眠っているよ」
「えーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」
 ガックリ、膝に両手でうなだれる。なんだよそれ。
「いやさ、葵が見たがっているみたいだからさ、穂汰流に一生懸命な青磁を」
「なんだよそれ」
 なんだよそれ、もうその言葉しか出てこない。どんなに心配したか。どんなに心配したものか。ひとたびその場を離れたら、大切な人が消えてしまうのではないかという不安感は、体験した者じゃないと理解できないと言うのか。
「そんなの、見世物じゃないよ、葵」
「私は止めてって言ったのよ。でも、わかるでしょ? 遥はイタズラっ子だから」
「かわってないな、たく」
「でも良かったじゃないか。安心しただろ。まだ穂汰流が生きていて」
「そりゃ、そうだけど」
 だけど、だけども、そういう問題か、これ?
「ちょっと悪質だぞ」
「悪い悪い。名前が悪いんだよ、青磁は」
「またそれか」
 赤尾青磁、名前にふたつ、色がある。赤になるか、青になるか。本質はどちらなのか。試してみたくなる。リトマス試験紙みたいな名前だ。中学のとき、そう言って遥は僕を笑った。
 3人が子供の頃名乗っていた名前を不意に思い出した。
「赤青黄色、俺たち3人は『ザ・トラフィック・シグナルズ』だろ? リトマス試験紙なんかじゃないよ」
「そうだったな。は。悪いな、ほんとごめんな、青磁」
「もういいよ。遥はそういうやつだもん」
 それから3人は僕を真ん中にして仲良くベンチに座った。何だか疲弊感はあるけど、確かに遥の言うとおり、穂汰流に何事もなくて良かった。
 そう思ったのは、泡沫だった。
 再度のヴァイブレーション。
『青磁、すぐ来て。
じゃないと私』
 今度は正真正銘、穂汰流からのメッセージ。
 休む間なんて、所在しない。
「行かなくちゃ」
 葵が心配そうな顔で見守る。
「何かあったの?」
「うん。ちょっとね、穂汰流が」
「そっか、……頑張って」
「色男はこれだからまいるね」
 遥は髪の毛をそっと撫で付けて、
「ちゃんと穂汰流のこと、見ていろよ。じゃないと彼女は、お前の前からいなくなっちまうからな」
 真顔だった。
「わかってるよ。ありがとう。また今度、3人でゆっくり会おう。いや、4人でかな」
 僕は双生児に手を振り、穂汰流のアパートに向けて、走り出した。
 この世界の暗黒面は、時々僕を押し潰しそうになる。実際、押し潰されてしまって、暗くなってしまって、自分を傷つけたり、時には消えてしまいたくなったり、或いは他者を傷つける事で、自分を押し潰そうとする世界からの脱却をはかろうとする人たちはこの世の空の下、数え切れないほど大勢いる。でもその反面、この世には生きようとしても、来週の約束すら果たせずに死んでしまう人だっているんだ。それを考えたとき、僕が傍にいる事で穂汰流の人生を日に向かう草木のように明るい方面に持っていけるのなら、そうして走る事がその手段であるなら、僕は喜んで走り続ける。
 何故なら、今の僕に出来る事は唯一それだけだと、思えるから。
「藍子」
 つぶやいて、無性に涙が出そうになった。
 もうすぐ穂汰流のアパートだ。泣いている場合ではない。今辛いのは僕じゃなく、彼女のほうなのだから。
 希望だけは胸に。そう誓って合鍵を取り出した僕は、未だ知らない。目に見えないクラッカーが破裂して、ゆっくりゆっくりと、その振動は大気を震わせて、それぞれの琴線をかき乱そうとしている事など。



  第3話につづく



企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



素材: a day in the life   師匠小屋