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  今回の予告は……

    人を好きになること。
    誰かを愛するということ。
    世代ごとにリセットされるヒトの人生は、
    変わりゆく歴史の中で何を学ぼうとしているのか。
    砕けた心を持つ主人公は、
    衝撃的な事実を知る……!



Side BISCUIT   第5話 「パフ・アイデンティティー」

                                             → → ビスケット第4話


 闇夜は終わり、明け方は空気感となって透明に世界を包み込み始めた。
 明けの明星に向かって、僕は自転車を漕いでいる。
 子供の頃、自転車に乗る事が出来なかった。今は、その自転車で愛する人を探し続 けている。10年前、少年の僕は『今』の僕の姿を知らない。10年後の姿なんて、 誰にも判らないんだ。
 僕だって、生きているか判らない。
 けれども、何かを残せるんだ。人は連鎖するんだ。それは食物の連鎖じゃない。愛 情の、連鎖だ。ぐるぐる廻る人の輪廻は、僕の生み出す自転車のタイヤの回転。自転 と公転を繰り返す地上の此処で、僕は独り達観して、ただ矢鱈に君の事を想い返して いる。
 脳のシナプスは、ペダル一漕ぎ事に節操なく縦横無尽に跳ね返り、甦っては消えて いく、様々な穂汰流との思い出。
 死にかけた僕の前に現れた、暗黒天使。彼女との思い出は、寄り添い月を見上げた 屋根裏に、こっそりキスした電柱の影に、馬鹿げた事で口論したマンホールの上に、 抱き合った街灯の下に、手を繋いで散歩した街路に、駆け抜けていく道中そこらに溢 れて行く。
 僕が君と出会ったのは、偶然なんかじゃない。
 そう思う。
 本気でそう思う。
 けれど、心が挫けそうでしょうがない。僕の悪い癖だ。一度目のあの時、僕の心は ビスケットみたいに砕けてしまった。人生観が変わったなんて、後から言ってみると かっこういいけど、その時その瞬間、僕は僕でいる事がこれほど辛いものかと天を 呪った。卑屈な笑顔しか作れない、歪んだ日々を過ごした。死にながら生きた。だか らこそ、それを2度と繰り返したいとは思わない。今度僕が愛する人を失ってしまっ たら、僕は僕でいられなくなってしまう。
 だからこその状況打破を僕の心は望んでいたが、いけどもいけどもあてなどない。 自転車を走らせて、僕には何する術もない。
 バカみたいな事に、いきなり、泣きたくなった。もう、自転車を止めたくなった。

 携帯電話が僕を呼んでいる。良いタイミングか、悪い方か。止めて、電話に出る。

 その声の主は、友人の緑川だった。
「なんだ、君か」
『なんだはないだろぉ。つーか、何か会ったのぉ? 声変だぞぉ』
 そのつもりはなかったのだけど、指摘されてはたと気がついた。声が震えてしまっ ている。嗚呼、ダメだ。僕は冷静でないのだ。
「ごめん」
『何だよぉ。今日変だぞぉ。何の謝りさ?』
「自分には、自転車を漕ぐぐらいしか出来なくて」
 何を知ってる? そうだ。何を知ってる? 僕は何も知らない。穂汰流の何もわかっ ていないのだ。今こうして電話している緑川の事だって、僕には実際、何も判ってい ないのだ。僕はどこか、昔の恋人を失った経験から、人と距離を置く付き合いしか出 来なくなってしまっていたのではないか。
『そんな事ないじゃん。お茶とか詳しいし。どーしたんだよぉ。呑みたいのかぁ?』
「俺は、馬鹿だ」
『大半の人間がそうだろぉ?』
 緑川は笑った。それが救いだった。
「でも、僕は馬鹿なんだ。穂汰流の事も、緑川の事も、何も判っちゃいない。人とし てダメなんだ」
『ほんとどうしたんだぁー? グジグジグジグジしちゃってるよぉ』
 堰は切られている。言葉は止め処なく、僕は僕の今、その瞬間思う、自分の人生の 過ちを緑川に語った。
『で結局、僕は何をすればいいの?』
「え?」
『わかったよ。君は今さ、穂汰流ちゃんが黄田川と一緒にいるんじゃないかって事で もうおかしくなってるんだよ。バランスが崩れてるんだよ。原因、そこだろ。だった ら穂汰流ちゃんを探せば良いんだ』
 探して、どうする。
『探して、どういう事か、問い正せばいい。それだけだ』
「そうか、そうだな。……悪い、なんか」
『別に、いいよ。そういう時は、そういうもんだろぉ。後、探偵とかにも声かけてみ るから青磁は思う場所を探しなよ、思い出の場所とか』
「思い出の場所」
『うん。ただ、穂汰流ちゃんとのじゃなく、黄田川たちとのも考えて』
 緑川は僕なんかよりもずぅっとずうっと冷静だった。『伊達にヤクザの息子やって ないさ』という凄み、すらも感じてしまう。
「ありがとう」
 この言葉が出たらもう大丈夫。完全じゃないけど、友人に救われた。少しの余裕が 出た。電話を切る。電波は途切れても、友情は途切れない。きっと緑川はさっそく、 舎弟の黒河や、探偵の紫村、友人の紺賀らに連絡を取って、穂汰流を捜索し始めてい るはずだ。僕もこうしちゃいられない。
 ポケットにケータイをしまおうとして、ふと思いつく。
 穂汰流や、遥に繋がらなくとも、ならば、葵はどうだろう。
 葵とは、実際微妙な関係が続いていた。なんだかんだ言って、彼女はいつも穂汰流 や、前の彼女ほどじゃないがそばにいてくれた訳だし、時々この間のようにデパート に買い物に付き合わされたりする。度を越しそうな部分のある遥を見守って、いつ だって僕たちのマドンナ的な存在だった。無論、それは子供の頃の話なのだが。
 ――でも確か、子供の頃僕は、彼女の事が好きだったんだ。
 彼女なら、何か知っているかも。
 しまうをやめ、コールする。あたかもそのトルルルは僕の必死の願いのようで、果 たして、その思いは通じた。
「もしもし。僕だ。青磁だ」
『知ってる。どうしたの?』
「それが、穂汰流が、穂汰流がいなくなって、それでどうやら、穂汰流は遥と一緒に いるみたいなんだ。だから、何か知らないかと思って」
『嗚呼、アイツ、ついにやったんだ』
「え?」
 確実、葵は何かを知っている。いや、感づいている、いた、のか。
「それはどういう」
『ねえ青磁。これから会わない?』
「これから?」
『そうこれから』
「でも僕は穂汰流を探さなくちゃ」
『探しても、きっと、無駄』
「どうして? 君は何を知っている?」
『何も。ただ、そう思うだけ。それに……』
 それに。
『穂汰流ちゃんの事は私もよく、知っているから』
 会えば何かつかめるかもしれない。
「わかったよ。どこに行けばいい」
『わたしん家』
 甘ったるい声で、葵はそう囁いて、そっと電話を切った。そう言えば、穂汰流を紹 介してくれたのは遥だった。遥の姉である葵が穂汰流の事を知っていたとしても、何 の不思議もない。足は重かったが、何かあるかもしれない、の一念で気を取り直し、 自転車に飛び乗るようにして、またがり、一路、葵の家に。葵は高級マンションに賃 貸で住んでいる。確か、その隣に遥も部屋を借りていたはずだ。
 住宅街を抜ける途中、『田処処』の前を通りがかる。門前では華ちゃんが枝を寄せ 集めて作ったようなホウキで枯葉を集めていた。
「あーー、青磁さん。今日は早いですね」
「ごめん。今日はここじゃないんだ」
 それだけ声色の余韻を残し、僕は通り、過ぎて行く。僕がどんな状態でも、時間は 変わらず巡ってる。下町の風景も相変わらずだ。そこにはまだ、安心がある。僕の帰 るべき、日常がある。大丈夫だ。また、穂汰流と一緒に帰ってくれば良いんだ。
 ただ、それだけだ。
 下町を後に、街路樹の通りを抜けると、趣の異なる近代化の進んだ住宅街が顔を覗 かせ、町は急に冷たい横顔を見せる。その一角に葵の住むマンションはあった。
 入り口のセキュリティで部屋番号を押すと、すぐに葵が戸を開けてくれた。エレ ベーターに吸い上げられ、地上11階、耳抜きをして気圧の変化に対応する。どこか 暗い印象の通路を進み、5号室でインタホン。数秒後、扉は開いた。そこには、薄い シルク地のパジャマを着た、葵が立っていた。
「寒いから、早く入って」
 ぐいと彼女は僕の腕を引っ張って、中に招き入れた。室内はジャコウと思われるお 香の香りが仄かに立ち込められ、まるで異世界のようである。
「ねぇ、このパジャマ、こないだ一緒にデパート行った時に買ったんだよ。憶えて る?」
 言いながら、ひらり。葵は一人ファッション・ショーの如く風の様に回転した。
 それは息を飲む美しさだった。
 大体、無防備である。着痩せする体型なのだろう、こんなに迫力があったのかと思 うばかり第2ボタンまで開けられた胸元からは谷間が覗いている。パジャマなんて、 考えてみればうっすい布切れに過ぎない。ベルトもないから子供がするみたいに下げ てしまえば、簡単に裸に出来てしまう。
 こんな時に、僕はそんなことを一瞬、思ってしまった。それほどまでに葵という女 性は美しいのだ。
「そ、それより」
 なんとなく目のやり場に困り、伏し目がちな僕は話題を変えた。いや、本題に戻し たのか。
「穂汰流のこと、何を知っている」
「何か知ってるようで、知らないようで」
 まるで詩でも朗読しているかのようである。葵はソファにちょん、と座った。
「立ってないで、座って」
 葵のペースだ。彼女はそっと手を差し出し、僕の右手の平を絡めとると、強引に横 へと座らせた。ふわりと、葵自身の匂いが、ジャコウに紛れて香る。
「私が知ってるのは、穂汰流ちゃんよりむしろ、遥」
「遥?」
「遥のああなった理由。それはほんの少しだけ、あなたにも理由があるんだ」
 遥は昔、その職業を差別するわけじゃないけど、出張ホストになるような少年では なかった。子供の頃夜中に家を抜け出して星空を眺めていたから、彼は天文学者にな るものだとばかり思っていた。だのに。
「それは一体」
「あの子ね、あなたが羨ましかったんだよ」
「どうして? だって遥の方が僕より頭も良かったし、運動も出来たじゃないか」
「でもね、わたしがあなたを好きだから。遥より」
「え?」
 その眼差しは、決して嘘をついていない。
 吸い込まれそうな、瞳だ。
 彼女はそっと、顔を近づけてくる。
 嗚呼、僕には判らない事ばかりだ。僕はそっと、目を瞑った。



  第6話につづく


企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



素材: a day in the life   師匠小屋