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  今回の予告は……

   忘れられるはずがないのに、思い出を捨ててしまいたい。
   会うのがこわくてたまらないくせに、いつもあなたを見ていたい。
   明日は出口が見えるのだろうか、この終わりのない迷路に。
   それとも、心がバラバラに引き裂かれるのが先だろうか。



Side BISCUIT   第6話 「ハードビスケット、ソフトビスケット」

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 僕は目を瞑った。
 葵の甘い吐息が、鼻腔を刺激する。
 この移ろい行く日々の彼方、埋没しそうになる心の迷宮は、あたかも桃源郷に煌く水晶の山脈のようで、僕は、現実逃避の暗闇の中、その水晶の中に、穂汰流の面影を見る。
「いけないよ」
 そっと、葵の肩を制した。
「どうして?」
 目を開けると、葵の顔はもう3センチの所まで接近していた。
「僕は、彼女を、穂汰流を探さないといけないんだ」
「そう」
 葵はす、と離れた。麝香が遠のく。
「君は」
「言わないで。私、失恋したの」
 葵はクスクスと笑って、
「私、あなたの事が好きだったわ。小さい頃から。ずっとずっと想ってた」
「ごめん」
「謝らないで。良いの。勝手だもの。私はあなたを好きなのは勝手な事。でも、それで人に迷惑かけようとは思ってないの。そこが私と遥の違うところ」
 その美形を崩すことなく、葵はまっすぐに僕を見た。
「二人の居場所、知ってるのか」
「知ってる。でも、その前に少しだけ聞いて」
 玄関口の二人、間接照明の中、微妙な雰囲気。
「遥はね、私のことが好きなの」
「え……?」
「生まれた時から。それはね、家族として好きなんじゃないんだ。私の事を、女として好きなの。だからなんだ。わかる? あいつはね、生まれた時から好きな人に想いを告げられない運命で生まれてきたの」
 そうだったのか。
「それで遥は出張ホストなんて」
 擬似的な恋愛感情を味わう事で、遥は自分を慰めていたのかも知れない。
「私のせいでもあるんだ」
「そんな事、そんなの、葵には関係ない」
「ううん。でもね、私があなたを好きになったから、それが遥を傷つけたんだ。勝手ね」
 遥に向くはずのない愛情を、幼馴染の僕が受けている。
 奪われた者の気持ち。
「まさか、あいつ」
 絶望的なほど、嫌な予感がした。
「どこにいるんだ。二人は」
「着いてきて。ここの屋上にいるわ」
 葵はパジャマのまま、玄関を飛び出した。マンションの狭い通路を抜け、
「屋上には階段でしか行けないの」
 駆け上がる。
 なんだこの胸騒ぎは……。この感覚は前にも覚えた事がある。

「……藍子」

 ふいに口をついた名前は、僕の心を焼いた、恋人の名前だった。彼女は自殺して、僕の前から去った。
 穂汰流が彼女と同じように、僕の掌から零れ落ちていくような気がする。そんなのはゼッタイにいけない。
「穂汰流っ」
 階段を、数段飛ばしながら駆け上がる。
「穂汰流」
 ついには、葵を追い越した。
「この上よ!」
「穂汰流!」
 僕は居場所を捕まえなくちゃ。自分の居場所を捕まえなくちゃ。僕の居場所は君が居てこその日々。移ろい行くその場しのぎなんてもうやめたい。これからは、この先は、穂汰流と二人どこまでもいつまでも生きていくんだ。生きるんだ。だから、だから、
「穂汰流っ!!!」
 屋上へのドアにかかっているはずの錠は切断されて破壊されていた。僕は蹴破るようにして眩しい屋上に躍り出た。
「どこだ。穂汰流、遥!」
 返事は、後からだった。
「ビスケットには、2回焼かれたもの、って意味がある」
 それはもう、独り言ほどの呟き。
「遥」
 踵を返したその先に、フェンスに両手を広げてもたれかかった、遥の姿。
「お前は一度、焼かれてる。前の恋人が死んだ事でな。もう一度焼かれたら、立派なビスケットの完成だ」
 今まで見た事のないような、邪悪な笑みを浮かべている。
「遥、穂汰流はどこだ!!」
 近づいていく。
 もう1度焼くって、そんな、どんな意味だ。まさか。
「もしお前がビスケットになったら、砕いてやる」
「……っ」
 僕は、絶句して立ち止まる。
 フェンスの後、遥の背中には穂汰流が立っている。ビル風が舞い上がり、穂汰流のスカートをちらちらと揺らしている。高層マンションの屋上、彼女に命綱はない。堕ちたら、即死は免れないだろう。
「穂汰流……」
「なあ、穂汰流はさ、俺の言う事なら何でも聞くんだぜ。こいつ、俺の奴隷なんだ」
「お前、何言ってるんだ! ふざけるな」
「本当だぜ。どこまで話してるのかは知れないけどさ、こいつ小さい頃に父親なくしていてさ、その後に来た新しい『お父さん』に、さんざん可愛がられたらしいぜ。お母さんもそのうち死んじゃってな。それからはその『お父さん』の相手したり、『お父さん』の為に身体を売って稼いだり……。ま、よくある話さ。けどな、重要なのはここからで、俺がそんな穂汰流を救ったんだ。その時から穂汰流は俺の奴隷だ。何でも言う事を聞くんだぜ。お前と居ないとき、こいつ、何してると思う? 俺のアレを咥えてるんだぜ。俺は体質的にイカないからさ。ずっと咥えさせてる。それでもイヤとも何とも言わないんだ。俺の奴隷だから」
 穂汰流は、ずっとうつむいている。
「そんな、そんなバカな事」
「信じないって言うのか? そっちの方がバカだぜ」
「嘘だ。そんなの嘘だろ! 穂汰流っ!」
 風に乗って、穂汰流の掠れた声が聞こえてくる。
「ごめんね。青磁。……あんなに優しくしてくれたのに。私、あなたと先に出会っていればよかった」
「穂汰流」
 キッキッキッ……。聞いた事のない笑い方だった。まるで悪魔が乗り移ったような、そんな笑い方だ。遥はさも満足げだった。
「青磁、俺が言えば、穂汰流はそこから飛び降りる」
「馬鹿言え」
「気持ち考えてもみろよ。今の穂汰流は、死にたい気持ちでいっぱいだぜ」
「もうよせ」
「来るんじゃねえ!!!!」
 遥が吼えた。
「もしできるなら、青磁、俺はお前の瞼を切り取ってやりたい。これから起こる地獄、全部目を覆わずに見せてやりたいからな!!」
「遥、こんな事に何の意味がある」
「大事なものが手に入らない人生が、お前にわかるか」
「……遥」
 遥は、泣いていた。
 自分の心の中にある闇の部分に押しつぶされて、悲鳴をあげていた。
「穂汰流、飛べ」
「ダメだ。やめろ、穂汰流!!」
「飛べ!」
「穂汰流、それでも、それでも僕は君が大好きだ!! 何があったかなんてどうでもいい! ここに来るまでに見えたんだ。君への想いが見えた! 君との思い出が見えた。これから先も、僕は君との思い出を作りたい!! だから!」
「飛べぇーーーーっ!!」
「飛ぶなぁ!!!!」
 僕はたまらず駆け出した。穂汰流はそっと、フェンスから手を離す。両手を広げて、翼のもげた暗黒天使は飛び立とうとしている。
「でやぁ!」
 遥に飛び掛り、フェンスから引き離す。悪魔と化した顔面をぶん殴る。思いっきりそうしたから、遥の歯が折れて、屋上の空を飛んだ。

ポケットの中にはビスケットが一つ♪
ポケットを叩いてビスケットがふたつ♪
私の心は砕けてばーらばら♪

「穂汰流っ!」
 フェンスの網目は広いようで狭い、僕の大きな手では入りきらない。しかし、それでも、
「間に合っただろ」
 天使の羽根みたいに舞い上がったジャケットの下からのぞいたベルトに指をひっかけて、彼女を捕まえた。
「青磁……」
「ブラジャー、つけてるか?」
「え?」
「だったら飛び降りれない。君はセクシーな死体になるんだろ?」
 穂汰流は泣いているのか笑っているのか、わからない表情になった。
「生きよう。これからも二人で、ずっと」
「こんな私でいいの」
「もう決めたんだ」
 フェンスの小さな網目から、二人はキスした。
「遥!」
 葵の声だった。
 倒れていたはずの遥の姿はそこになく、反対側のフェンスをよじ上っていた。
「ここにいろ」
 僕は穂汰流にそう言うと、葵と二人、遥に駆け寄った。
「遥!!」
「葵、ごめんな。俺ぁ、生まれてきちゃいけなかったんだ。君の中に欠損した部分があるとしたら、それは僕だ。僕は君の中に戻る事にするよ」
「遥!」
 僕の疾走は、今度は無駄だった。
 ふわり、そのまま、遥は身を投げ出し、消えた。
「そんな、そんな、そんな」
 僕はその場にがっくり倒れこんでしまった。
 僕ら4人は砕けたビスケットみたいだった。

 それから、数週間が過ぎた。
 僕と、穂汰流と、葵はそれから、無気力な日々が続いていたが、徐々にまた日常へと戻りつつあった。
 僕のそばには、穂汰流がいる。『田処処』に行けば、親父さんもいるし、いつもの友人たちとも会うことが出来た。
 僕は2度焼かれて、どうやら少し強くなったみたいだ。
 掌の温もりを辿ると、変わらぬ笑顔の、君が居るから。



  最終話につづく


企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



素材: a day in the life   師匠小屋