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  今回の予告は……

   失ったもの。得たもの。失ってもう一度得たもの。
   珈琲にそそぐミルクのように、すべてが混ざり合っていく。
   苦くても一気に飲み干して、そして歩き出そう。
   砕けたビスケットを靴の下に踏みしめて。



Side BISCUIT   最終話 「ビス・コクトゥス(藍子の夢)」

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 それから何日も何日も時は流れた。
 僕は、穂汰流と怠惰な日々をおくっていた。
 獣みたいな生活になっていた。あまり大学に行かず、お茶の勉強もしなくなり、穂汰流のアパートに籠もって何度も何度も飽きることなく彼女を抱き続けていた。1週間か、10日か、僕達は何かを食べる事も、用をたす事すら忘れ、時間を忘れて一つになり続けた。それがどんなに異常なことか、僕には判断できなかった。
「青磁、青磁っ」
 僕を求めて喘ぐ彼女の声は、少し前の、可憐な声とは違っていた。何か、ハスキーで潰れたような声だった。抱きしめる感触も、抱いている実際も、そう言えば何か変だった。見た目はほっそりした白い肌の穂汰流だが、抱きしめると、やけに膨張して、ぶよぶよとしている。上になられると圧迫感があり、何より重く苦しい。人よりも肥えた豚を抱いているような印象だった。
 でもまさか、そんなはずはない。
 僕は穂汰流が大好きで、必要以上に好きで……これからもずっとこうしていられればいいなと思っていて……。
「青磁、青磁、もっと激しく!」
 言われるがままに僕はピストン運動を続け、何百回目になるかわからない射精をした。
「はぁー、はぁー、はぁー」
「どう? 高みに達した、青磁?」
「うん。かなり」
「青磁、もう放さない。ずっと私のそばに居て」
「あぁ。ずっとずっと、そばに……」
 その、続きが出てこない。疑問の念が、激しく僕を取り巻いている。
「でも、穂汰流。おかしいと思うことがあるんだ」
「なぁに?」
「僕と君は、もう何日もこうしてる。ご飯も食べていないし、トイレとかお風呂とか、そういう日常的なことを一切していない。そんなのって変だと思わないか」
「変じゃないわ。愛し合ってるんだもの。当然じゃない」
「そうだろうか……。あ。そう言えば、皆はどうしてるんだろう。こんなにここに籠もってるのに、誰からも電話が来ないなんて」
「ふふ。電話ならずっと鳴ってるのよ」
「え?」
「でもね、青磁。あなたが私に没頭しすぎて全然聞こえていないだけなの」
「そんな」
 僕は布団からふらふらと立ち上がり、ケータイを覗き込んだ。着信履歴が100件近く残っている。
「おやっさんから、紫村から……こんなにたくさん」
 いくらのめり込んでいたからって、気付かないはずがない。
「おかしい。出かけてくる」
 何か嫌な予感がして、僕は慌てて服に着替え始めた。穂汰流はそんな僕の足に絡みつき、
「ねぇ、どこにも行かないでよ。やっとこうして、二人きりになれたんじゃない。どこにも行く必要はないわ」
 それは確かにそうかも知れない。考えてみれば、ご飯を食べなくても愛があればそれだけで没頭して生きていられる。何も必要ない。お茶の勉強をする必要もない。おやっさんに会いに行く必要もない。
「とりあえず、おやっさんにメールだけ出しとくよ」
「うん。『行けない』って言って」
「そうする」
 おやっさんから届いていたメールに返信を書こうとする。あれ、おやっさんはメールなんて出来たかな。まぁいいや。おやっさんからの珍しいメールを開けてみる。
「新しいお茶が入荷した。すぐに『田処処』に来い」
 新しいお茶?
 そのキーワードがやけにひっかかる。
「穂汰流、おやっさんがお茶を飲ませてくれるみたいなんだ。やっぱりちょっと悪いから、僕、行ってくるよ。戻ってきたらまた、たくさん愛し合おう」
 そっと穂汰流の頬に唇を寄せた。ツンとした刺激臭にも似た汗のにおいが一瞬鼻腔を襲った。
「あは。穂汰流、少しはお風呂にも入らないとね。身体を洗って待ってて。こんなんじゃ、病気になっちゃうよ、僕達」
 笑えない匂いだったが、努めて笑って、僕は服を着替えた。
「そうかしら。じゃあお風呂に行って来る」
 彼女はそっと消えた。
「僕は『田処処』だから。お茶を飲んだらすぐに戻るよ」
「はぁーい」
 急いで外出着になると、外へ出て、自転車で一路、田処処へと向かった。
「おやっさん」
「おぉ! 来たか。心配していたんだぞ」
 大袈裟におやっさんは僕を迎え入れた。
「すいません。ご無沙汰しちゃって」
「本当だ。もう戻って来ないかと思っていた。信号の届かない深い層に引きずり込まれていたんだぞ」
「何言ってるんですか? 僕はただ、穂汰流と一緒にいただけですよ」
「かなり悪化しておるな。HA‐NA、例のものを」
「やぁ、華ちゃん久しぶり」
「オ久シブリデス。赤尾先生」
「先生? やだなぁ華ちゃん、どうしちゃったの?」
 何故か機械的な動きで、華ちゃんはお茶を運んできた。まるでお茶を運ぶカラクリ人形のようだ。
「とにかく、赤尾君。これを飲むんだ」
「そんなに良いお茶なんですか?」
「あぁ、そうだよ。これでまともになれる」
「?」
 まぁ、そんなに良いお茶ならば、そう思って、僕はそのお茶を口にした。その成分は僕の脳内に到達し、やがて、僕は総てを思い出した。
「は! た、田所先生」
「気がついたか。赤尾君」
 僕は水晶板に囲まれたベッドの上で跳ねるように目覚めた。
「すいません。まんまと藍子の夢にとらわれていました」
「お茶の入荷をキーワードに設定していたお陰で君の脳にインプットしておいたプログラムが発動したのだ。それで戻ってこれた」
 田所教授が僕を見下ろしている。その後にあるTVモニターには、『HA‐NA』と表示されている。『HA‐NA』は僕達が開発したマザーコンピューターのAIの名称だ。
「じゃあさっき飲まされたのはメガ・カフェインですか?」
 観ると、右腕に注射が刺さっている。
「そうだ。濃縮したカフェインだ。覚醒を手助けしてくれる。しかし、あそこまで深く囚われていたのだ。戻ってこれる確証はなかった」
「そうですね。危なかった」
 これまでの事を思い出して、僕は青くなった。
「本当に、巧妙な罠でした」
 僕の横にはもう一つ機械に囲まれたベッドがある。そこには太った女性が眠っていた。藍子だった。
「目が覚めたんだね、赤尾先生」
 扉を開けて、白衣を着た男女が入ってきた。ずんぐりむっくりのコンピューターオペレーター志村と、サポート研究員の小柄で貧乳の佐竹である。それぞれ、夢の中では紫村、茶畑という姿で登場し、僕を手助けしてくれていた。
「ダメだ。今回はまんまとやられてしまったよ」
 ここは、精神障害などを持つ患者の夢の中に入り込んで、無意識下で患者の精神状態を操作し改善することができるかを研究している施設なのだ。
 すでに数人の患者を改善させてきたが、この藍子という女性は難敵だった。
 通常、患者の夢は誘導により患者自身の過去の世界が舞台となるので対策が立てやすいのだが、藍子の場合は漫画や小説、映画などに思い入れが強いらしく彼女の独特の世界観を夢の中に構築されてしまう。これまでも、SF物、学園物、様々あった。新撰組の沖田総司にされた事もあった。ようやくその事に慣れてきたのだが。
「今回は一工夫あったんです。あれで飲み込まれてしまった」
 第1回から第3回まで、色の苗字がついたありえない設定のキャラクタたちが織り成す、青春物みたいな雰囲気で進んでいたのに、突如第4回で路線を変更してきたのだ。その前回までの構成はなかった事であるかのように描かれた事で、僕は完全に自分を見失っていた。元々、彼女のわがままに付き合うことで親身になり藍子の精神状態を癒そうと考えていたのだが、それを逆手に取られ盲目的に藍子(=穂汰流)を愛するように仕向けられてしまった。どんな美女の誘惑も、親友の生死も越えて、ただひたすらに彼女を愛するだけの存在に仕立て上げられてしまったのだ。
「今考えると、あの双子は僕のアニマとアニムスだったのかも知れません」
「しかし、無事に戻ってこられて良かった」
「はい……ですが」
 ふと藍子を見やる。
 彼女の口や顔の周りには、おやつで食べたであろう、ビスケットやドーナッツの食べかすが散乱していた。
「漫画なんかで得た知識なのかも知れませんが、彼女の夢には良い表現も出てくるんですよ。それなのに、どうしてこうなってしまうんでしょうか」
 田所教授は思案して、
「基本的に優しいのだよ。漫画や小説の世界が本当なら、どんなに素晴らしいだろう。しかし、実際の現実ではそうはいかん。私達の生活は、哀しい事の連続だ。それに耐えることが出来ないと、人は病んでしまう。漫画や小説の世界に逃げ込んでしまう。彼女のようにな」
「その世界からこちらに戻す事は、本当に正しい事なのでしょうか」
「赤尾君。君、少し彼女の夢の中に入り込みすぎたのかも知れないな」
「い、いえ! 僕は決して、そういうつもりじゃ」
「何にせよ、少し疲れているのだろう。先ずは、服を着替えてきなさい」
 僕の着ている服は、汗だくで、股間の辺りは自身の精液で汚れていた。吐き気がした。
 よろよろとベッドを起き上がり、シャワーを浴びた。
 目を瞑ると、ふと、ヤクザの息子や、忍者の末裔の顔が浮かんだ。実際の僕に、そんな友人は皆無だ。全部、藍子の創作だった。何だかやりきれなかった。そういう設定だったとは言え、二人とも僕の親友だったわけで喪失感に似た気分だった。
 友人だけではない。
 穂汰流という女性、そして設定の中で想いを寄せていた藍子、彼女達も僕の心に傷をつけていた。
「慣れないな、この気持ちは」
 もしもこの次、藍子の夢に入って、それで効果が得られなかったら僕はこの仕事を続けるか考えてみるつもりだった。
 新しい服に着替えて、研究所に戻る。
「おぉ。どうだね、具合は」
「いつも通りです。で、彼女はどうです?」
 志村が振り返って答えた。
「どうやら新しい夢を観、いえ、設定を考え始めたようです」
「データ出せるかい?」
「はい。すぐに」
 佐竹がデータをプリントアウトし、僕に手渡した。
「今回のはちょっと趣向が違いますね」
「あぁ。藍子がなろうとしているのは、40代のおばさんだな。珍しい。牧村香澄」
「若い男の子の設定もありますね。若者食いのおばさんの話かも知れない」
「よし、じゃあ今度はこのホームレスの少年になるよ」
「大丈夫か」
「大丈夫です。砕けた心も、穴が開いた心も、このシステムで治してみせます」
「そうか。期待しているぞ。だが、今日のところは休め。しばらく彼女の夢は進行してしまうが、君にも休息は必要だ」
「わかりました」
 次に藍子の観る夢が、どんな内容になるかは判らない。僕は夢の登場人物になって彼女を導く事しか出来ない。しかし、漫画や映画や、小説じゃない、本当の現実世界に戻ってもらうためにも、僕は立ち向かなければならないのだ。
 ……こうして物語は『ビスケット・アンド・ドーナッツ ドーナッツ・パート』へと進んで行く。





 ビスケット・アンド・ドーナッツ ビスケット・パート      完




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素材: a day in the life   師匠小屋