→ → ドーナツ第5話
【注意】
本章に出てくる精神科病院についての描写はフィクションであり、実際の病院の現状を描写するものではありません。現実には、通院治療が主流となりつつあることを申し添えておきます。
「遼二さまはベルギー滞在中に発病され、帰国してからの2年間、日本で入退院を繰り返してこられました。3ヶ月前に精神科病棟を抜け出してからはずっと、わたくしどもから逃げ回って、あのような路上生活をなさっておられます」
「ママ」
はっと手元を見る。行平鍋の中では、味噌汁がぐらぐらと煮立ち泡だっている。あわてて火を止めた。
由香が頭にタオルを巻いた風呂上りのパジャマ姿で、キッチンに入ってきた。
「また、心ここにあらず状態。このごろ、疲れてるんじゃないの」
「そんなことないんだけど」
かすれ声で答えながら、自分でも知らぬうちに、手はいつのまにかエプロンの紐を解き始める。
「由香、悪い。出かけてくるから。パパが帰ってきたら、夕食暖めてあげてね」
「え、こんな時間なのに、どこ行くの?」
「ちょっとジョギング」
香澄はハーフコートを羽織ると、凍えるような空気の戸外へ飛び出した。
いてもたってもいられない。それが、この5日間の香澄の状態だった。由香や勇作にも明らかに不審がられている。
気がつけば、いつもリョウのことを考えている。それこそ、寝ているときの夢の合間にまで。
会いたい。そして話がしたい。
それは同情の気持ちかもしれなかった。好奇心、それとも自己満足。理由なんかどうでもいい。
とにかく、会いたい。
香澄は時間さえあれば、いつのまにかリョウの姿をさがしていた。
そのくせ心のどこかでは、もう二度と会えないだろうと思っている。追っ手が来た以上、追われている者はその町を離れてしまうはずだから。
ただ、こうやって彼を探すことで、納得したいのだ。これは、始まる前に終わった気持ちだと。心を引き裂かれる甘美な苦痛に終止符を打って、思い出のファイルに鍵をかけられるように。
コンクリートで両岸を固められたドブ川の高架橋を、ライトを点けた電車が下り方面へと通り抜けた。タールのような水面に、流れる車窓の灯りが映る。
夫が乗っているかもしれない電車だ。もう家に帰らなければ。もしかすると、帰り道で勇作にばったり会うかもしれない。
新婚間もなく、小さな賃貸マンションに住んでいた頃は、わざと夕方買い物に出たものだ。あの頃、駅前通りで帰宅途中の夫と出会う回数は、不思議なほど多かった。
「こんなふうに会えるのは、なんでだと思う?」
照れる勇作に、しつこく何度もたずねた。彼の口から、「愛し合ってるからだよ」という答えを聞きたかった。
電車の震動が止み、あたりに静寂が戻ってくると、空気の分子までもが沈殿して澄みわたるような気がする。香澄があきらめて家に帰ろうとしたとき、高架のたもとの暗がりに、ふと何かが動いた。
「リョウ?」
しばらくためらったあと、砂利を踏みしめ、そっと近づいた。男がもう一度動いたとき、香澄はそれがリョウだと確信した。
ぐったりと目をつぶっていた彼は、近づいた人影に薄目を開けた。
「ああ……あんたか」
「まさか、本当に会えるなんて……」
香澄は地面にぺたりと座り込んだ。
「だいじょうぶ? 怪我はしてない?」
リョウは、答えのかわりに弱々しく微笑む。
「ドーナツ、ある?」
「あるわよ」
コートのポケットから、包みを取り出した。「今日のは、チョコレート・ドーナツ。チョコの生地にビターチョコをコーティングしてあって、甘くてほろ苦いの」
「うん」
「穴は開いてないからね」
「うん」
香澄は、包みを彼の手の上で広げながら、ぼとりと涙をこぼした。
「会えてよかった……」
どうして、こんなに涙が出るのだろう。まだ数回しか会ったことのない人なのに。
高架橋の柱にもたれ、ふたりは寄り添うようにして座った。
リョウはドーナツをひと口かじると、ほとんど噛まずに口の中で溶けるのを待っているようだった。
「あれから、誰か来た?」
と尋ねる。
「ええ。崎原さんていう弁護士さんが」
香澄は、凍えた手のひらをぎゅっと組み合わせる。
「いろいろ、話してくれた。あなたのこと」
「そう」
「どうして、病院を抜け出したりしたの?」
「あそこは、ドーナツの穴をもっと大きくするところだ。子どもみたいに毎日一列に並ばされて、口を大きく開けなさいでドクを飲まされて。絶対に帰りたくない」
「おうちに戻るわけには行かないの……?」
「みんなでゴミを見る目で見るのに? 奴らが、俺を閉じ込める。死ぬまで入っていればいいのにっていう声を、大きな拡声器でくりかえして俺に聞かせる」
リョウは、見えない何かを振り払うように、首を振った。
「家にいると息がつまりそうだ。誰にも命令されない自由な生活をすれば、ほしいと思えるものが見つかるかもしれない。でも、見つからない。
人間の中にまぎれこんでいると、いつもヤツの声が聞こえてくる。ぞっとするほどイヤな声。1オクターブ低いミの音で、しつこく何度も同じことを命令される。あれをしろ、これをするなって。せっかく逃げ出して、誰にも命令されないはずなのに。そいつが日本から追いかけてきて、朝から晩まで監視しながら、俺のバッテリーを抜き取っていく」
香澄は話を聞きながら、黙ってただ泣いていた。彼のことばが理解できない。彼には、過去も現在も、幻想と現実も、区別がついていない。こんなにそばにいる香澄でさえ、リョウの目には現実の存在ではないのかもしれない。深い絶望が身体に染みとおってくる。
こんなに近くにいるのに、遠い人。
完全にうちのめされて、彼と別れた。「また来るね」と言い残して。でも返事はなかった。
とぼとぼと家まで歩いて戻った。リビングに入ると、夫の勇作が見ていたテレビのスイッチを切るところだった。
「どうしたんだ、こんなに遅くまで」
「ごめんなさい。急に散歩がしたくなったの」
「夕食も食べないでか?」
「仕事で考えをまとめたいことがあって……ごめんなさい」
「わかったよ。僕と由香はもう食べたから。早く食べて、風呂入ってしまえよ」
「うん」
勇作はそれだけ言うと、2階に上がって行った。
香澄は天井を仰いで、吐息をついた。平気で嘘をつける自分が呪わしい。夫の投げかけてくる気遣いのことばも、いたわりの視線もただ苦しいだけ。
20年間ともに暮らしたはずの人なのに。夫までが自分から、こんなに遠い存在になってしまったのだろうか。
香澄は日が暮れると、リョウに会いに行くようになった。リョウは昼間は温かい日差しを求めて街や公園を渡り歩き、夜になるとあのドブ川の高架橋の下に戻ってくるらしい。
ドーナツや、作ったばかりの夕飯を容器に詰めて持っていく。
何をするわけでもない。上をひっきりなしに行き交う電車の騒音を聞きながら、ひとことも口を利かずに並んで座っているときがほとんど。それでも、彼と会えるときが香澄にとって、1日のうちで何にも代えがたい時間だった。何を犠牲にしても守りたいと思う時間だった。
電話がかかってきたのは、そんなある日、早めに夕食の支度を終えたばかりのときだった。
『もしもし、香澄?』
「涼子?」
『ちょっと話したいの。今、時間ある?』
固い響きの親友の声に、直感する。
「もしかして、由香が私のこと何か話した?」
『……それもある。でも、このことを知ったのは別のルートよ』
「別の?」
『翔太郎くんの弟の光太郎くんね。彼の高校時代の友だちのひとりが私立探偵をしているって知ってるわね』
「ああ。うん」
確か紫村と言った。香澄自身も、夫の浮気をまだ疑っていたとき不倫調査を依頼したことがある。その後、『田処処』で友だちといるところを見かけた。
『彼から……ううん、正確に言うと、彼の助手の女の子から聞いたの。あなたの家に出入りしている、日羽物産の息子のこと』
香澄は、絶句した。
「どうして?」
『その探偵くんなのよ。日羽物産の専属弁護士に依頼されて、彼の行方を追ってたのは。そして、あなたと繋がりがあることを知って、とても驚いた。でも、ビジネスはビジネス。私情をはさむ余地はない。だから、彼は調査結果を正直に弁護士に報告した』
「……うん」
『紫村くんは悩んだの。このことをあなたに言うべきかどうか。でも、探偵としての依頼人への守秘義務を破るわけにはいかない。一計を案じて、彼はデスクの上にわざと調査書類を放りっぱなしにした。それを見た助手のチャーミーが彼の真意を悟って、私に連絡してくれたの』
涼子は、受話器の向こうで大きなため息をついた。
『香澄。忠告しておく。あんた、今もその息子をかくまってるのかどうか知らないけど、もうすぐ彼は強制的に家に連れ戻されるわ』
「えっ?」
『日羽物産の弁護士は、紫村くんよりもっと大きな調査組織に依頼先を変えたの。その筋の息のかかった組織にね。たぶん、二日もしないうちに見つけ出される。邪魔しようとしても、無駄よ。下手すると、あなたが略取罪で告訴されることもありうる』
「そんな……」
『香澄、いったいどうしちゃったの……』
涼子は、ことばをつまらせた。
『わたし、あんたにホスト遊びなんか教えて、不倫願望を焚きつけちゃったかもしれないけど、まさか本気になるとは思わなかったよ。本気で勇作くんを裏切るなんて……家族のためにあんなに必死で働いてる勇作くんを』
「涼子……」
自分の中でマグマが爆発したように、感情がせり上がってくる。
「どうしてだか、自分でもわからないの。どうして、これほどあの人に囚われているのか」
受話器を握りしめながら、香澄は床に崩れ落ちた。
『あんたは、ただ母性本能を恋にすりかえているだけ。妄想よ。そんなやっかいな人、本気で好きになるはずないじゃない』
「そうかもしれない……でも止まらないの。こんなことしたくないのに、止まらないのよ」
『バカッ。何言ってんだ。香澄、あんたがそんなバカ女だったなんて、22年も付き合ってて知らなかったよ。目を覚ましなさい!』
「無理。リョウくんが、好きで好きでたまらない……」
『私が、力ずくで引き止めてやる。こうなったら、旦那に頼んで緑川組を動かしてでも、その男をあんたから引き離すわ。勇作くんや由香を不幸になんてさせるもんですか!』
「涼子、待って……」
電話が切れたあと香澄はしばらく茫然としていたが、やおら立ち上がって、財布にありったけの現金を詰め込んで家を出ようとした。
玄関まで出て、はっと立ちすくむ。
「どうしたんだ?」
ドアの前には、コート姿の勇作が立っていた。
「あなた……」
「今日は、久々に早く終わったんだ。あー、夕飯に間に合うの何年ぶりだろ」
と彼は、「よっこらしょ」と革靴を脱ぎ捨てる。
「お、この匂いはおでんだよな。腹へったあ。由香は帰ってるんだろう。すぐに食べようか」
「でも私、あの、実は今から……」
香澄は口ごもった。もう心はとっくに外に飛び出していて、引き戻すことはできそうにない。
「出かけるのは、あとでもいいだろう。とにかく先に食べよう」
夫は鷹揚に微笑みながら、香澄を見つめた。
「食べたあと、ふたりで話があるんだ」
食器の後片付けもそこそこに、勇作は由香を二階に上がらせ、香澄を強いて居間のソファに座らせた。
夫と向き合って座るのは、ほんとうに久しぶりだ。
「由香がね。いろいろ問い詰めたら、泣きながら話してくれたよ」
彼が膝のあいだで組んだ指を、香澄はじっと見つめる。若いときは白くてすんなりした指だったのに、今は年相応のふしくれだった硬い手になっていた。
「きみが長いあいだ、僕と心が通じ合わないことを悩んでどんな思いでいたのか、充分ではないけど一端を知ることはできた。本当にすまなかったと思う。それと同時に僕のことも知ってほしいと思った」
夫の意外なことばに、ゆっくりと顔を上げた。「あなたのことって?」
「きみにはずっと内緒にしていたけど、僕の勤めてる会社は、2年ほど前から倒産の危機に瀕していた」
「え?」
「不渡りも出しかけたんだ。その都度、リストラと配置転換でなんとか乗り切ってきた。給料も役員は何ヶ月も遅配だった」
「でも、私の手元には、ちゃんと毎月……」
「きちんと出ていると見えるように細工したんだ。休日にゴルフに行くと嘘をついたときも、本当は欠員が出た分の残業や、金策の手当てで走り回っていた」
「……そんな」
全然、知らなかった。
「心配をかけたくなかった。きみはのんびりしているようで、すごく気に病む性質(たち)だからね。こんなことを打ち明けられるようになったのは、やっと今年から会社も少しずつ持ち直してきてるからだよ。一応、当面の危機は去ったと思う。
でも、ひとつだけ困ったことが起きたんだ。僕自身がその騒ぎの中で体調を崩してしまった」
「あなたが?」
「男にも、更年期障害っていうのがあるんだな。医者の診断を受けてはじめてわかったよ。眠れなくて、手が震えて、なにもしていないのに脇にびっしょり汗をかいたり……」
勇作は、照れたように頭に手をやった。
「その、性欲ってヤツもなくなっちまった。そのせいで、きみをこのところ、ずっと満たされない状態にさせていたと思う。こっちのほうも時間はかかったけど、ホルモン投与で治る見込みが出てきたところだ」
「どうして……」
香澄は震える声で問う。
「何も教えてくれなかったの」
「下手に隠したことで、きみに余計な気を回させてたとは知らなかったんだ」
「でも、涼子は知っていたわ」
夫は、はっとしたような表情をした。
「さっきの電話で涼子言ってた。あんなに必死で働いてる勇作くんを裏切るなんてって。今やっとその意味がわかった。なんで涼子が、あなたの会社の危機を知ってたの?」
「涼子さんには、彼女の店に呑みに行ったときに、少し話したことがあっただけだよ」
「自分の妻には隠すことでも、飲み屋の女将になら話せるの?」
「そういう言い方はするな!」
勇作は声を荒げた。
「会社のことも病気のことも、女房に知られるのは男として辛いことなんだよ。涼子さんには、きみのことをよく知る友だちとして、相談に乗ってもらう意味もあって」
「もしかして…… あなたに私のことを教えたのは、涼子?」
「そうだよ。でも……」
「どうせ、ふたりで私のことを笑っていたんでしょ、わがままで馬鹿な奥さんだって」
香澄はきっと夫をにらみながら、立ち上がった。
「私は、じゃあ私はあなたのいったい何なのよ! 辛いことも苦しいことも打ち明けてもらえない。20年いっしょに暮らしているのに、涼子のほうがあなたのことをよく知っているなんて……。ひどいよ。あんまり、惨めすぎるよ」
「香澄!」
「人生の苦しみを分かち合えない夫婦なんて! そんなの……夫婦でいる意味がない!」
香澄は勇作の手を振り切って、走り出した。
いったいなぜ私は怒っているのだろう。勇作のことを怒る資格なんか、私にはない。
夫の会社の危機や身体の変調に気づきもせず、何もわかろうとしていなかった私こそが責められるべきなのに。なぜ私はこんなに傷ついているの? なぜこんなに寂しいの? 身体に大きな穴がぽっかり開いて、すーすー風が通って寒い。
リョウに会いたい。
橋のたもとに辿り着き、倒れこむようにしてリョウの胸にすがりついた。
「香澄……?」
彼はいぶかしげに、彼女の身体を受け止めた。
「リョウ、お願い」
嗚咽の合間に、きれぎれに声を漏らした。
「お願い。私を抱いて」
最終話につづく
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