→ → ビスケット・サイド → → TOP
今回の予告は……
ほんの些細な事がきっかけで、新しい恋人が出来た。
今日はそうなってから、初めてのデート。
以前付き合っていた人とは違う、自由奔放な恋人の振る舞いに振り回されっぱなしの主人公。
心のどこかで前の恋人と比較しているが、けれども新しい恋人の良さを噛み締めていた。
そんなデートの最中、恋人のとんでもない秘密を知ってしまい、うろたえる主人公。
果たして、この恋はうまくいくのだろうか……!?
Side DOUGHNUT
第1話 「シュガー・ドーナツ」 |
ドーナツみたいに、私の心は穴が開いている。
涙ぐみたくなるような、80年代の美しい映画音楽のメロディが流れている。心の糸さえ掻き鳴らすストリングの音色。
音楽には歳月(とき)を遡る効果があるらしい。香澄はひとりグラスを傾けながら、20年間の結婚生活をぼんやりと思った。
よき妻として、よき母として、いつも完璧を目指してきた。家事、地域活動、PTA、趣味、ボランティア。暇を作ることが罪悪だと思って生きてきた。
回りからは幸福な女性と映ったことだろう。ドーナツを横から見ると、中身の詰まった完璧な円形に見えるものだ。彼女の人生は、まるでドーナツの回りにどんどんと、分厚く砂糖をまぶしていくようなものだった。
でも本当は、その中心には、ぽっかりと穴が開いていた。
唯一満たされない場所。女としての自分。
「お待たせ」
隣の席に戻ってきた三雲が、さりげなくカウンターの上に置いたのは、このホテルのカードキーだった。
「1111」。
4つの数字が、あつらえたように毅然と並んでいる。
たぶん、その数字は香澄に教えてくれているのだ。もうここへ入ったら、後戻りはできないのだよと。
かすかにうなずくと、残ったカクテルを飲み干して、彼女は三雲とともに席を立った。
三雲は、都市近郊の駅前にあるカルチャーセンターの支配人だ。30代前半の、独身男性。よく通るバリトンの声と、きびきびとした動作で、いつも講師やスタッフを強引に引っ張っては、斬新な企画を成功させた。
半年前からそこでトールペイント講座の講師として働き始めた香澄は、たちまち彼の饒舌さと有能さに魅了された。
無口な夫と20年暮らしてきた彼女にとって、彼の自信に満ちた態度は麻薬のように作用した。
ある日クラスの打ち合わせのためにと、レストランに誘われた。渡されたメニューをひとしきり睨んだかと思うと、小気味のよい決断の良さで、さっさと香澄の分まで注文してしまう。ぐずぐずといつまでもウェイターを待たせ、迷っている夫とは大違いだ。
「牧村先生のトールペイントは、よそよりずっと本格的だって好評なんです。さすが有名なアメリカ人教師のもとで直弟子として学んだだけのことはあるって」
「そんな……。暇をもてあました主婦が、手なぐさみに習い覚えただけですわ」
「こういう評判は、センター全体の格を高めます。来学期からは週2回と言わず3回、できれば会社帰りのOLのために、7時からの講座を持っていただけたら僕はうれしいのですが」
翌朝センターに入った香澄は、入り口の案内ボードを見て仰天した。
三雲はあの言葉どおり、香澄のクラスを週3回に増やしてしまったのだ。あてがってくれたのは、受付に一番近い総ガラス張りの、センターの「花形スポット」と呼ばれる教室だった。
いつも気がつけば、まっすぐに自分を見つめてくる三雲。身体に直に触れられているようなその視線に、香澄は酔った。
女は結婚して家庭に入ってしまえば、夫以外の男性の視線の中に自分を置くことも、会話を交わすこともほとんどなくなる。ひとりの女として見られ、女として扱われることは、なんと甘く刺激的なことだろう。
最初のキスも強引で彼らしかった。夜の誰もいない廊下での、香澄のすべてを味わいつくすようなキス。
「牧村先生。好きです」
「先生だなんて。香澄と呼んで……」
そして今晩のデートは、彼女の側から誘った。
ホテルでのディナーも、最上階のカクテル・バーで並んで見る宝石のような夜景も、すべては夢見ていたとおりだった。
彼といれば、私はひとりの女に戻れる。夫以外の男性を知らぬまま、歳を取って干からびていくのはイヤ。
それは半年前、自分の中に空洞を感じたときからひそかに待ち望んでいた瞬間だった。
「香澄」
シティホテルの落ち着いた内装のツインルーム。ドアを閉めたとたん、三雲は彼女の肩に両手を回し、強く抱き寄せた。
歯が当たるほど荒々しい、貪るようなキス。若さゆえの余裕のなさを感じさせる。
もうどれくらいの間、夫からこんな激しい抱擁を受けていないだろう。夫に名前を呼ばれていないだろう。
初めて夫と肌を合わせたときのことを思い出す。香澄は20歳の学生で、彼は27歳だった。小鳥がついばむようなキスを幾度となく重ねて、ゆっくりと時間をかけて愛撫し、香澄の身体をほどいてくれた。最初から最後までしっかりと閉じた瞼の裏は万華鏡のよう。不器用なほど優しい営みだった。
不思議だ。初めて他の男性との情事に耽ろうとしているそのときに、夫との最初のことを思い出してしまうなんて。
ジャケットを脱がせると、三雲はベッドに香澄を横たえた。野性的な香りが鼻腔を満たし、ジムで鍛えているという肉体の重みが心地よくのしかかる。
香澄の上半身を覆っているのは、今日のために選んで着けてきた、透けるようなキャミソール。その薄さを通して、ジャガード織りのベッドカバーのざらっとした硬さが背中に当たる。
スーツとネクタイを無造作に脱ぎ捨て、白いシャツ姿になった男の熱にうかされたような目が香澄を突き刺した。
香澄の脳髄はぼうっと痺れ、細胞がすべての快感を逃すまいと震動を始める。あらわになった首筋や、鎖骨から胸にかけての膨らみに、性急なキスがふりそそいだ。
夫以外は今まで誰も触れたことのない場所に指が触れる。
乳房が下着に擦れて、痛い。子宮がその存在を感じるほど、熱い。
私は今から、夫を裏切ろうとしている。
背徳の罪におののき、心をえぐられる一方で、その罪悪感によって、ますます興奮を呼び覚まされて潤っていく肉体。悪魔の振り子のもたらす振幅に戸惑いながら、香澄はどんどん思考力をなくし、ただの感覚だけの生き物になっていった。
私の肉体の中心の空洞は、もうすぐ満たされる。
漏れる吐息の数に満足したのか、三雲は残っていた彼女の着衣を一気に剥ぎ取ろうとした。
香澄はとろりとした目を上げて、ふと気づいた。
ベッドサイドのオレンジ色のランプの光が容赦なく、もつれるふたりの裸体に投げかけられている。彼の若々しい肩の筋肉を映し出した光は、そのまま香澄の、お世辞にも綺麗とはいえない腹部のラインをも照らしている。
容赦なく、真実を暴き出す灯り。
……消してほしい。思わず、羞恥に手足を縮めた。
私は、彼の目にどう見えているの? みずみずしさを失った40歳の体を、それでも美しいと思ってくれる?
牧村香澄というひとりの女として、愛してくれる?
そのとき、「ああっ」と彼女は小さく叫んで、跳ね起きた。「だめっ」
「え? 何?」
三雲が呆気にとられて、問いかける。
しまったあぁ。すっかり忘れていた。
私ってば。背中に、ピッ○エ○キバンを貼ったままだった!
肩こりのひどい香澄は、いつものように風呂上りに、磁石入りの丸い絆創膏を背中にいくつも貼って、今朝ついうっかりと家を出てきてしまったのだ。
どうしよう。こんなものが背中についているのを見られたら、百年の恋だって冷めてしまう。
「み、三雲さん」
香澄は必死に訴えた。
「今日は暑かったから、わたし汗をかいているの。先にシャワーを浴びてきていいかしら」
「今さら、なんですか」
彼は苦笑いをうかべて、ふたたび下着を剥ぎにかかった。
「あなただって、すっかり準備が整ってるくせに。もう待てませんよ」
「でも、でも、じゃあせめて、灯りを消して……」
「暗いところで、ごそごそやるのは、僕の趣味じゃありません」
「あっ」
脇の下に腕を差し込まれそうになったので、あわてて身体をよじって抵抗した。
「いったい、どうしたんです」
「お、お願い。ダメ。ごめんなさい」
その言葉を、拒否されたと感じたのだろう。三雲は信じられないほどの大声で怒鳴った。
「今さら、何をカマトトぶって、じらしてんだよ!」
「え……?」
「自分はそんなに安っぽい女じゃないって? そっちから色目を使って誘ってきたくせに」
「べ、別にじらしたつもりじゃ」
彼女は身体を強ばらせ、思わずベッドの上で後退った。ベッドカバーがその動きに合わせて、しゃりしゃりと鳴る。
突然の恐怖に襲われたのだ。それほどに三雲は豹変していた。その全身が、荒々しいシルエットとなって香澄の前に立ちはだかっている。
「ただ、明るいのがイヤで……。それと、避妊具の用意もまだ……」
「避妊?」
唇の片側を持ち上げて、三雲は笑った。
「その歳で、避妊が必要なの?」
「……今、なんて?」
「オレが前付き合った女は30代の人妻だったけど、いつでも中でOKだったぜ」
「だ、だって、もし……妊娠……」
「だから、オレとやった日の夜はいつも、旦那にせがむんだってさ。そうすりゃ妊娠しても怪しまれないし。それに若い女は中絶すると不妊になるって騒ぐけど、その歳なら今さら多少傷がついても、どうってことないでしょ?」
「そんな……」
「だからさ、淫乱な奥さん。しっかり楽しもうよ」
獲物を逃がすまいという獰猛さで、おおいかぶさってくる。
そんな。
信じられない。最初からそんな目で見られていたのか。妊娠させて中絶させても平気な、後腐れのない、お手軽な相手。ひとりの女性として見てくれているわけではなく。
ましてや、愛してくれているわけでもなく。
強引さが魅力だとのぼせていた若い恋人は、言葉を変えれば、何の思いやりもない自己チュー男だったのだ。
そんなことに今頃気づくなんて。
「いや。いやあっ。やめて。離して!」
香澄は男の腕の下でめちゃくちゃに暴れて、ようやくベッドから逃げ出した。その拍子に、スカートの縫い目がいやな音を立てて引き裂かれる。
「この、馬鹿女!」
三雲は悪鬼のように目を吊り上げて、口汚くわめいた。
「そんな特典でもなきゃ、誰があんたみたいな年増とやりたがるんだよ。もっと若いのがいいに決まってるじゃねえか」
香澄は脱がされかけていた服を身にまとい、バッグと上着と靴をひっつかむと、部屋を飛び出した。
追いかけてこないとわかり、ようやく長い廊下の途中で立ち止まる。
ポロリと涙が頬を伝い落ちた。
本当に、馬鹿女だ。私は馬鹿だ。
新しい恋だと信じて、自分を満たしてくれる人だと勘違いして、ひとりで昼メロのドラマの主人公を演じて有頂天になっていたのは私だけ。結局は、淫乱な年増と笑われていただけだった。
裸足でとぼとぼと絨毯の上を歩きながら、香澄はあふれる涙をただ手の甲で抑えることしかできなかった。
第2話につづく
|
企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN
写真素材: Anemos
師匠小屋
|