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今回の予告は……
どこから話せば良いのか判らないほど今回は複雑系。
主人公に恋の相談!?
不憫な子役登場?!
『田処処』大パニック!!
もしかして殺傷事件!?
誰と誰の関係がどーなってんの!?
平成日本の暗部を鋭く抉る一面垣間見せつつも、リレー小説第3弾、爆走です!!
ひとつヒントを与えるなら、手作りクッキー(ドーナッツ)が今回のキーワード。
Side DOUGHNUT
第3話 「豆乳ドーナツ」 |
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「いきなり来月から閉講だなんて言われても、納得が行きませんっ」
香澄は支配人室の机をバンと叩き、じんと押し寄せてくる痛みに、叩かなきゃよかったと後悔する。
「急なことでねえ、しかたなかったんですよ」
わざとらしく書類をパラパラとめくりながら、三雲が言った。
「ホール真正面のA1教室は、やっぱり綺麗に使っていただく方にお貸ししたいもので。アクリル絵の具をポタポタこぼされたり、新聞紙を広げてニス塗りたての作品を乾かしたりされると、美観をそこねるのですよ」
「絵の具を完全に拭き取らなかったのは、確かに私のミスです。以後気をつけますから」
「それに収容人数20人の教室に、わずか生徒8人の講座が入るのはねえ。今度A1に入るのは、「ダイエット太極拳講座」で、もうすでに20人の定員が申し込みで満杯なんですよ」
「だから、初めから小さな教室を使わせてほしいとお願いしたはずです。ひとりひとりに細かい絵筆のストロークを教えて回るのは、8人が限度なんです。それを承知でA1に入るようにって言ったのは、そっちよ」
「今さら遅いですね。このとおり、もう教室はすべて埋まってるんですよ」
書類から顔を上げ、さぞ憐れむように眉をひそめる。
香澄は、かあっと頭に血を上らせた。
ホテルの部屋まで行っておきながら直前で逃げ出した自分が、疎まれることは覚悟していたけど。まさかこんな卑劣な手段で復讐されるとは。
……サイテー。
こんなヤツにすすんで裸をさらしたあの一瞬を、歴史から抹消したい。
その羞恥と怒りに精神破裂状態になった香澄は、自分でも驚くほどの大胆な行動に出た。
まずは、机にどすんと腰かける。
「「1年で終了」をうたった講座を、センターの都合で一方的に終了するなんて、きっと受講生から文句が出るわよ」
次に、三雲のネクタイの結び目をぐいと力任せに引く。
「カルチャーセンター全体の評判にもかかわるって、わかって言ってるんでしょうね!」
「ら、ら、乱暴すると、け、け、けっ、警察を呼ぶぞ」
「警察ぅ?」
「いえっ、呼びません!」
香澄の手から逃げ出し、椅子の背を盾にした三雲は、猫のような震え声を出す。
ほんとうに情けないったら。
「本当に空き教室はないの? 講座が続けられるんなら、どこでもかまわない」
毒気を抜かれて急におとなしくなった香澄に、気を取り直したのか彼は横柄な笑みを浮かべた。
「どこでも、いいとおっしゃる? ひとつ空き部屋があるのを思い出しましたよ」
香澄にあてがわれたのは、一番奥の非常階段の前。窓もなく、カビ臭く、ほこりのつもった机や椅子が乱雑に押し込められている部屋。要するに、倉庫。
香澄は、その入り口でぼうぜんと立ち尽くした。
「負けるもんか」
瞼を閉じ、じわりとあふれてくる涙を隅に追いやる。
たとえ一時でも、あんな男を本気で好きだと思い込んでいた報いなのだ。
「自業自得」
愚かだった自分を叱咤する呪文のように、香澄は幾度も口の中でつぶやいた。
甘味処だというその店は、下町のT字路の一角にあり、京都の町屋といった風情の店構えだった。
道に迷いかけて約束の時間ぎりぎりになって暖簾をくぐると、
「あ、香澄、こっち」
友人の涼子が、店の奥の2人掛けのテーブルから手を振る。
「久しぶり、涼子」
腰掛けようとした香澄は、その隣の四人掛けの席に座っている若者のグループにふと目を留めた。
そのうちのひとりに、見覚えがある。半年前に夫の浮気調査を頼んだ紫村という探偵。その向かいには助手の女の子もいる。
探偵は香澄に気づいたようだったが、表情を変えることもなく視線をそらした。
他人の前で互いに知り合いであることがバレてはいけない。職業柄そういった気遣いにも長けているようだ。
「あんた、疲れてるねえ」
涼子が、昔からちっとも変わらない張りのある声で、言う。
「歩き方がよたよたじゃん」
「まあね。毎日カビ取り剤にまみれながら、モップと雑巾がけに明け暮れてるんだもの」
「カルチャーセンターの講師って、そんなことまでさせられるの」
「私だけすっごく理不尽な目に会ってるのよ。あの駅前カルチャーセンターで殺傷事件が起こったら、たぶん私が犯人よ」
「ははは、そういう物騒な話なら、うちの亭主に代行させる? 手際がいいよ」
彼女は香澄の短大時代の同窓生で、駅前に水商売の店を一軒持っている。今年になって3度目の結婚をした。今度の相手はその筋の関係者らしい……ということしか香澄は知らない。
「もともとあんたって昔から、ヘンなところで意地を張っちゃう性分だもんね。覚えてる? 短大の学祭。校門に掛ける大看板が気に入らなくて、私まで巻き込んで描き直しに没頭して、気がついたら終電もなくなってて。勇作くんたら、電話したらあわてて車で迎えに来てくれたよね」
「よく覚えてるね、20年も前のこと」
「感動したよ。こいつ、香澄に本気で惚れてるなって。そんな大恋愛の果てに結ばれたのに、どうして今になって旦那を裏切って、第二のロストバージンなんか企むかなあ」
「由香ったら、しゃべったの?」
「あんたのこと心配してるから、相談に乗ってあげたのよ」
「あの子、なぜだか涼子になついてるのよね」
「性格そっくりだもん。ウマが合うのかな」
「私が不甲斐ない母親だから」
「あのね。あんたはできすぎた母親よ。高校生の娘に毎日ドーナツを手作りしてやってる母親なんて、今どきあんたくらい。もういいかげんに子離れすべき時期なのよ。由香ちゃんはもっとあんたに、私みたいにいい加減で自由な女になってほしいんだと思うな」
涼子は店主を手招きした。
「黄な粉プリンの黒蜜仕上げ、ふたつね」
店主がうなずいて、奥に引き取ると、
「ここの名物なのよ。一度食べると病みつきになるから」
「えー、カロリー高そうだなあ」
「だいじょうぶ。プリンと言ってもここのは豆乳と、カラメルの代わりに純粋な黒蜜使ってるから」
そう言ったあと、涼子はげらげらと笑った。
「ダイエットしてるんだって? 男の前でいつでも脱げるように」
「そうよ。ダイエットって今までことごとく失敗してきたけど、こういう動機だと案外続くものよね。新発見だわ」
「そこまでして、他の男に抱かれたいんだ。どうして?」
「どうしてだろうね」
香澄は、ほうっと長い吐息をついた。
「体の芯がね、うずくのよ。ぽっかりと穴が開いているようで、でも熱くてたまらないの。私って、ちょっとおかしいのかな。若い頃はこんな気分になったことなかったのに」
「燃え尽きる前の蝋燭って、ぱっと明るく輝くっていうでしょ。私たちも、そういう年頃なのかもしれないね。閉経が間近に迫っていて、もう妊娠できる可能性はあとわずか。そう気づいた女の本能が、最後の恋愛のチャンスへと気持ちを駆り立ててるのよ」
「涼子、あんたも?」
「うん、だから、もう絶対こりごりと思ってた再々婚に踏み切ったのかも」
豊かなウェーブを艶っぽい仕草でかきあげる。人に見られることに慣れている女性だ。
「女盛りに比べると男盛りっていうのは、もっとうんと早いわね。だから40を過ぎると、その方面はめっきり衰えるのよねえ。そのギャップに多くの夫婦が悩むわけ。夫婦ってたいてい男の方が年上だし、香澄のとこなんて7つも上でしょ? 若い頃は頼もしく見える年上の男ほど、早く年取って萎びちゃう」
「激しく同意だわ」
「私みたいに、3回結婚して、3回とも同じ年齢の男だったっていうのが理想的なのよ」
ちなみに涼子が最初に結婚したのは22歳のとき。相手は10歳も年上で、これ以上ないというほどの吝嗇家だった。離婚して、再婚したのは31歳。今度は正反対に、金にルーズな男。莫大な借金だけを涼子に残して、3年前に逃げた。そしてその借金の取立てに来たヤクザというのが、今の旦那だったというわけだ。
「人生結婚二回説、っていうの知ってる?」
「ううん」
「木々高太郎って推理作家が唱え、自らも実践した説らしいけどね。人間は、20歳と40歳の二回結婚すべしというのよ。20歳の女は40歳の男と結婚して、趣味のよい贅沢な暮らしを楽しみながら、性の喜びだけではない情感ゆたかな愛のありかたを教えてもらう。そして40歳になる頃その男を看取ってから、今度はその遺産をたずさえて、20歳の男と命を燃やし尽くすような恋をする。男性の場合もそれに同じ。ただし、この説の欠点は、今は寿命が80歳まで延びちゃってるから、下手すると看取ってるあいだにこっちもヨボヨボになりかねないことなんだけどね」
「涼子は、二回どころか三回も実践しちゃってるじゃない」
「ふふふ。うらやましいでしょ」
「なんか、癪」
今まで、幸福な結婚をしたのは自分のほうで、不幸なのは涼子のほうだと思っていた。でも、今となってはそれが逆転しているような気がする。
「私だって、あんたが今頃になって、結婚生活に絶望したり、社会で苦労してるって聞いて、すごくいい気分だわ。溜飲が下がったわよ。今まで一方的に絵に描いたような幸せを見せつけられてきたからね。人生、最後まで何が起こるかわからないってことよ」
「すっごく、むかつく言い方よね、それ」
「むかつきなさいよ。社会で理不尽な思いをして疲れ果てているのは、あんただけじゃないのよ。うちの店に来るお客は、そんな愚痴ばっかり。勇作くんだって毎日会社で、あんたの何倍もひどい思いをしてるんだからね。相手してもらえないってスネるのは、ただの甘ったれよ」
「すっごーい」
突然、隣の席からパチパチと拍手が聞こえてきた。「細木数子の番組、見てるみたい〜。あざやかだわーん」
「こ、こら、チャーミー」
探偵があわてて制止する。
「ええっ、えっ」
今までの恥ずかしい会話、まさかこの子たちに全部聞かれていたの? 香澄はパニックのあまり、思わず立ち上がっていた。
「あ、ごめんなさい」
少女は、自分の不用意な発言が相手をびっくりさせたことにすぐ気づいて、申し訳なさそうに謝った。
「ほんとうに、ごめんなさい。つい聞こえちゃって」
「香澄、落ち着いて。実はこの中のひとりが、私のちょっとした知り合いなの」
涼子は香澄の袖を引っ張って、強いて座らせた。
「みんな口の固いのは保障つきだから、ね?」
いっしょに座っていたジャニーズ風のイケメンの男の子も、ちょっと鋭い目のツンツン頭の男の子も、香澄と目が合うと軽く会釈する。
「さあ、お待たせしました」
店主が盆を運んできた。まさに、狙いすましたような絶妙のタイミング。
「今日は、中国・貴州省産の「銀球茶」という珍しいお茶を淹れてきました。こちらは、「黄な粉プリン黒蜜仕上げ」です」
香澄の前に置かれた器の中では、球状に結ばれた茶葉が浅黄色の熱湯の中でゆっくりとほぐれていくところだった。
「ガーベラの蕾が開いていくみたい……」
「色が濃くなったら飲んでごらん」
涼子に薦められるまま飴色になった液体をひとくち啜ると、濃い芳香とともに、熱い流れがじわりと体の内壁を伝い落ちる。
「おいしい。口当たりがさっぱりしてる」
「プリンも、食べて」
一口ごとに、張り詰めていたものがほぐされていく。こんなゆったりした気持ちは久しぶりだ。絶品のお茶も菓子も、この店のたたずまいも、店主の気配りも、そして彼女のスプーンさばきを微笑みながら見ている学生時代からの親友も、その背後の若い相客たちも。
すべてが、心地いい。
「いい店だね」
「よかった」
香澄は自宅の一部を改装して、教室を持つことを考え始めた。
イングリッシュガーデン風の庭は、そのままトールペイントの作品の展示場になる。晴れている日は、軒先の長いサンルーム風のテラスでお茶とおしゃべりを楽しむ。そんな夢のような教室。
今のところは、なりふり構わずカルチャーセンターでの自分の講座を死守しているものの、いつ支配人・三雲の気まぐれで状況が変わるかもしれない。
それに何よりも、あの『田処処』でのくつろいだひとときが、香澄を驚くほど癒したのだ。趣味の合う者同士でなごやかに過ごすことができる空間が、これからの自分には何よりも必要なものだと思えたのである。
その改装の設計・施工を引き受けてくれたのは、由香の同級生、下坂亮太の家族が経営している「下坂住建」だった。
「ごめんね。こんなに工事費をまけてくれて」
「いえ、名誉あるMRAのメンバーとして、香澄さんのためなら死をも厭わぬ覚悟っすよ」
見積書を持ってきた下坂に、香澄は紅茶と、あの「黄な粉プリン」にヒントを得た、黒砂糖をかけた豆乳ドーナツを勧めた。
「私じゃなくて、由香のため、よね」
「あはは。バレてますか」
ここぞとばかり彼は、ライバル高野の居ぬ間に、抜け駆けをはかる。
「ところで由香さんって、カレシがいるんですか」
「さあ、肝心なことは親には言わないわねえ」
「どんなタイプが好みとか?」
「私に似て、面食いかしら」
「面食い……」
下坂、さっそく玉砕ムード。
「でも女としては、生活力も捨てがたい要素よね。自営業なんかいいかも」
下坂、みるみる復活。
「ふふっ、頑張ってね」
「はい。頑張るっす!」
若いっていい。悩みながらも、すべてが輝いていたあの頃に戻りたい。娘やその友人たちを見るたびに、もう一度青春を味わいたい、それを誰かと分かち合いたいと願う自分に気づく。
夫の勇作に、心に描いている夢や計画を話しても、ただ「好きなようにしていいよ」と言うだけである。妻になど、もう関心がないのだ。若いときは、電話をしただけで飛んできたのに、今は隣に座っているときでさえ生返事しかくれない。
どんなに忙しく立ち働いていても、やはり香澄の中の空洞は満たされないままだった。
数日後、涼子から電話があった。
『あれから、どう? 何か心境の変化はあった?』
「うーん、特になし、かな」
『まだ、不倫願望は健在ってわけね』
「ん……」
『ひとり紹介してあげようか。すっごくかわいい二十歳の男の子』
「は、はたち?」
『こないだ言ったでしょ。「人生結婚二回説」を試すわけよ。40歳の女と20歳の男。なかなかにエキサイティングじゃない?』
「でも、その子って、涼子とどういう知り合い?」
『詳しく話すのもなんだけど、うちの亭主がらみでね。いわゆる出張ホストやってる子なの』
「出張ホスト……」
『料金はかなり高いけど一日コースで遊びまくるのよ。ベッドまで行くかどうかは、あんたの気持ち次第。もう一度、自分の覚悟を確かめてみたら?』
「でも……」
『金だけの関係はいや? 家庭を壊さずに擬似恋愛を楽しむんだったら、こういうのが一番後腐れがなくていいの。
私はね、香澄』
涼子は、受話器の向こうで引き絞るような声を出した。
『あんたに家庭を捨ててほしくないのよ。由香ちゃんも勇作くんも、誰も傷ついてほしくないの。……二度離婚を経験した者としてね』
翌日の午後、待ち合わせ場所の駅前の陸橋の上に立っていた人物をひとめ見て、香澄は茫然とした。
色素の薄い肌。さらさらと風になびく茶色の髪。まるで彫刻のようにすらりと美しい青年だった。
「はじめまして、香澄さん。遥といいます」
そばを通り過ぎる女性たちが、みんな彼をふりかえり、凄まじい嫉妬のまなざしで香澄を睨む。
いくらなんでも、これじゃ目立ちすぎだよぅ。涼子。
「香澄さん?」
「は、はい」
「今から、どこへ行きましょう」
「お、おまかせするわ」
彼はくすりと笑った。
「そんなに固くならないでください。行き先は、お客様が選ぶものですよ」
「普通、こういうときはどこへ行くものなの?」
「喫茶店へ行っておしゃべりしたり、カラオケや遊園地やボウリング、水族館というのもあります。もちろん」
遥は、意味ありげに声をひそめる。「今すぐホテルっていうのも、それはそれでアリですけど」
ひー。ヘイデン・クリステンセン並みの美貌で、そんなこと言わないで。
「とりあえず、歩きましょうか」
香澄はただ、コクコクとうなずく。心臓が悲鳴を上げている。歩いているうちになんとか落ち着かなくては。
「いいんですけど、どうして2メートルも離れて歩くんです?」
舗道で、遥は立ち止まって不思議そうに香澄を振り返った。
「せっかくだから、腕でも組みませんか」
「あ、ありえないっ。町中の女の子から呪詛されちゃうわ」
「じゃあ、せめて手をつなぐとか」
「……それなら、まあ」
香澄はおそるおそる手を伸ばし、そっと小指をさしだす。
「香澄さんて」
遥は、こらえきれない笑いを漏らした。「本当に、子どもみたいな人ですね」
突然、つんとデジャビュが鼻の奥にこみあげる。
今と同じことを、勇作にも言われた。やっぱり今と同じ、小指だけつないだデート。スーツ姿の彼の隣を歩いて、キャンパス中の羨望の的になっていた私。
彼だけを見ていれば何もいらなかった。晴れがましくて、誇らしくて、何の翳りもない未来だけが目の前に広がっていた、二度と戻らない日々。
黙り込んでしまった香澄の小指を、遥は両の掌でぎゅっと包み込んだ。
「僕は、香澄さんに5万円で自分の時間を買ってもらったんです。だからちゃんと5万円分、全力で尽くすことが、僕のプライドなんです」
そのことばで我に返った。
そうだ、この子は私のことを愛してくれているわけじゃない。5万円分の関係。明日になれば、見知らぬ他人に戻る関係なんだ。
「……わかったわ」
「じゃあ、あらためてお聞きしますね。香澄さんの行きたいところは、どこですか」
「ゲーセン」
香澄は顔を上げた。「ゲーセンに一度行ってみたいと思ってたの」
地区の補導委員をしていたとき、いつも高校生たちがたむろしているのを見て、あこがれていた。
対戦格闘ゲーム。UFOキャッチャー。シューティングやカーレース。ターンテーブルを必死で回す音ゲーや、昔ながらのもぐら叩きなど。
意識せずとも自然に体が触れている。隣り合う位置は居心地がよい。
遥は自分が楽しむのではなく、いつも香澄を楽しませようとしていた。座るときは椅子を引いてくれ、喉が渇いたと思ったらドリンクを運んできてくれ、満員のエレベータでは当然のように彼女をかばう位置に立ってくれる。もう何年も味わうことがなかった、大切にされている至福。
めくるめくような時間を過ごし、彼とともにゲーセンを出ると、階段の踊り場から見える外の空はもう暮れなずんでいた。
訪れる夜への予感に、香澄は立ちすくむ。また心臓が早く打ち始めた。
今夜どうするかは、私の気持ち次第と言っていた――。
遥なら、望んでいたとおりの快楽の高みへと香澄をいざなってくれるだろう。でも、「金だけの、後腐れのない関係」が、本当に自分が望んでいたものだろうか。
結論を出せないまま雑居ビルの暗い階段を降りると、踊り場の隅の暗がりに、ひとりの幼い男の子がしゃがみこんでいた。
涙のにじんだ、おどおどした上目づかいで、香澄のことをじっと見る。
「どうしたの? おうちの人は?」
思わず、問いかけた。
首を振る。
「この上にいるの?」
また、首を振る。
「どうしよう、迷子だわ」
香澄が困惑して遥のほうに向くと、彼はいかにも興味がないという冷めた目つきで、男の子を見ていた。
長い夜だった。
交番に迷子を連れていくと、
「ああ、またこの子ね」
と当直の警察官が、ため息まじりに言った。
この子の母親は、近くのパチンコ店にいりびたって日銭を稼いでいる、いわゆるパチプロらしい。息子に駄菓子を与えて、「どこかで遊んでおいで」と追い出し、調子がよければ何時間でも台に張りついているのだ。
退屈した男の子は、あちこちふらついている間に、母親のいる店がわからなくなってしまう。やがてお腹をすかせて泣き出し、交番に連れて来られる。その繰り返し。香澄たちが警官から話を聞いているあいだにも、交番の椅子の上で足をぶらぶらさせながら、コンビニで買ってやったおにぎりに貪りついている。
その子の年齢を聞いて、香澄はショックを受けた。体が小さすぎる。同じ年齢のとき、由香はもっと背も体格も大きかった。
「これは、あきらかに虐待じゃないんですか」
「そうは言っても、親から暴力を受けているような傷痕もないし」
「違うわ、虐待と言っても、これはネグレクトよ。食べ物も世話も与えないで、何時間もほったらかしにしておく。保護者が養育者として果たすべき義務と責任を放棄しているのよ。どうして、さっさと何かの手を打たないの」
香澄の剣幕にたじたじとなった若い警官は、しどろもどろの返事をするばかりだった。
結局、香澄が自分でその地区の民生・児童委員に連絡を取り、児童相談所への通告を頼んでから、当たり前の顔をして迎えに来た母親と大喧嘩をして、交番を出たのはもう深夜になっていた。
「ごめんね。遥くん、ずっとつき合わせちゃって」
この時間になってなお多くの人々を飲み込んでいる繁華街。その雑踏の中を疲れきった足取りでとぼとぼと歩く。
「ああいう子どもを見ていると、私黙っていられなくて。今ニュースで騒がれている虐待なんて、ほんの氷山の一角。隠れたところで、その何倍もの予備軍がいるって聞いたことがある。日本はどうして、これほど子どもに優しくない社会になってしまったの」
慰めるようにそっと彼女の手を握る遥に、香澄は謝った。
「あなたにまで、いやな思いさせたね」
「いいえ、僕は面白かったですよ」
遥は相変わらず穏やかに微笑んで、彼女を見つめている。
「子どものように無邪気に遊んでいたあなたが、突然母の顔になった。そのギャップの鮮やかさに、ただ驚いていました」
「母の顔?」
「はい。よその子を我を忘れて助けようとしていたあなたは、母そのものでしたよ」
「あの子を見たとき、娘の小さい頃を思い出して、きゅっと胸がつまったの」
香澄は、頼りなげに自分の両腕を抱え込んだ。
「自分のことに夢中でわが子を忘れたあのお母さんを責めることはできない。私もあの人と結局は同じ。夫や娘を忘れて一時の恋に走ろうとしてるんですもの」
手作りドーナツなんかで誤魔化して、長いあいだ私は母を演じていただけ。だから今になって、ドーナツみたいな空虚な人生にしっぺ返しされているのよ。
「香澄さん、ひとりの女性の中に「女」と「母」は同居できないんですよ。どちらかを選ばなければ」
「「女」と「母」は同居できない……」
ふたりはいつしか、今日最初に会ったあの歩道橋の上で、足を止めて向き合っていた。
「少なくとも僕は、母である今のあなたを抱くことはできません。それは教会の聖母マリアを侮辱するようなものです」
「そうね。私も今日は、ダメ」
香澄も、うなだれる。
「幼い娘の姿が目に浮かんで、これから女に戻るなんて、もうできそうにないわ」
「明日の朝までなら、どこへでもお付き合いしますが、……どうします?」
「ううん、まっすぐ家へ帰ります。ありがとう。今日は楽しかった」
「僕もです。5万円分の仕事ができなかったのは口惜しいですが」
遥は彼女の片腕を引き、顎に手を添えた。
「最後にキスしていいですか」
「は、はい」
「ステキになりそこねた夜の名残に」
香澄におおいかぶさるように唇を重ねる。
夏の夜風が歩道橋の上を吹きぬけ、ふたりのシルエットを縁取るネオンサインを、さわさわと星のように瞬かす。
とろけるような甘いキスに、香澄の身体の奥がちくんと痛んだ。時計の針が進めば他人になる恋人。たぶんもう、二度と会わない人。
「遥くん。嘘でいいから、愛してるって言ってくれる?」
「愛してます。香澄さん」
「5万円分?」
「5万円をちょっと上回るくらい」
香澄と別れた遥は、携帯を取り出し、番号を押した。
「黒河のおかみさん?」
『あ、黄田川くん』
涼子の声だった。
「香澄さんと今、別れたところです。お望みどおり、何事もなく、ね」
『よかった。あんただったら、うまくやってくれると思ってたわ』
「聞いた話よりずっと強い女性ですね、あの人は。さすが、お涼さんのお友だちだ」
黄田川遥は、くすくすと楽しげに笑う。
「本気で惚れそうになりましたよ」
『よく言うわ。あんたの言うことなんて、嘘ばっかり』
さて、香澄が予言したとおり、カルチャーセンターでの殺人事件は本当に起きる。
クラスの準備のために早めに出勤すると、ホールの掲示板の前に人だかりがしていた。
「ひゃあ」
思わず腰を抜かしそうになった。たくさんの写真がベタベタと貼りつけられている。明らかに三雲とわかる男が、複数の中年女性たち(顔の部分加工済み)と、それぞれコトに及ぼうとしている映像だった。
自分の写真がないことがわかり、ほっと胸をなでおろすと、香澄の口元に次第に笑みが広がった。
これで、ひとりの女タラシが社会から「抹殺」されたのだ。
第4話につづく
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企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN
写真素材: Anemos
師匠小屋
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