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   今回の予告は……

   このコラボもようやく全7回のちょうど折り返し点。
   分水嶺とも言える今回、物語はいよいよ核心部分に到達する。
   映画の名場面を随所にちりばめます。



Side DOUGHNUT   第4話 「オールドファッション・ドーナツ」

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 駅舎の時刻表で次の電車の時間を確かめると、香澄はほっとため息をつく。虫の音に囲まれたプラットホームに立ち、またため息をつき、携帯を取り出す。
『お母さん、どこ?』
「あ、由香。ごめん。打ち合わせが長くなっちゃって、まだ現地なの」
『えー。それじゃ、家までは大分かかっちゃうね』
「晩ごはんに間に合わない。どうする? 鰻が冷蔵庫に入ってるんだけど」
『あ、それなら、うな丼作るよ。ごはんは炊けてるし』
「あと、冷凍庫にほうれん草が入ってる。解凍して、ぎゅっと水気絞ってから使うのよ」
『いいけど、胡麻和えって、どうするんだっけ』
「すり胡麻と、砂糖とお酒としょうゆ。味の素ぱらぱらっと混ぜて、和える。……あと、味噌汁はできるわね」
『だしのとり方、ばっちり教わったもん。中身は、お父さんの好きな豆腐とワカメでいく。お母さんはどうする?』
「私はどこかでお蕎麦でも食べて帰ることにする。……ごめんね、由香。このごろ、家のこと全部まかせちゃって」
『いいってことよ。お母さんの人生を左右するビッグプロジェクトなんだもん』
「大げさね」
『マジ、この頃のお母さん、イケてるよ。生き生きしてて』
「そうかな」
『うん、その調子で、がんばって』
「ありがとう……あ、電車来たから、切るね」
 上りの空いている席のひとつに背を預け、香澄は車窓に写る自分の顔をじっと見つめた。
 単調な揺れのリズム、すぐに訪れたまどろみの中で、この数週間の急展開が、外の夕景とともに流れていく。


 自宅の改装工事も終わり、来春のトールペイント教室開講に向けて準備していたところに、施工してくれた「下坂住建」から思ってもみない仕事の依頼があったのは、先月のことだった。
「牧村さんのねえ、お庭の写真をですねえ、いや、これはご許可をくださったということで感謝をしておるのですが」
 「下坂住建」の社長が訪ねてきて、バーコード頭をなでながら、経緯をまどろっこしく説明しはじめた。
「その写真をでっかいパネルにしてですねえ。あれはほんとになかなかよく撮れておってですね、まあ、お庭自体も大層みごとな出来栄えだからなのですが」
「はい、父ちゃんストップストップ。あとはまかせな」
 横にいた息子の下坂亮太が、代わりに三倍速のスピードで要約してくれたことによると――
 牧村家の庭の写真をパネルにして、事務所の表の案内板に掲示したところ、何組もの新規客が事務所を訪れて、この写真のような庭をうちも造ってほしいというリフォームの依頼をしていったのだと言う。
「いや、ガーデニングのブームというのはねえ、これまた前からすごいとは聞いていましたが、相変わらずの人気なんですねえ」
 まだしつこくしゃべっている父親の口に、皿のオールドファッションドーナツを丸ごと突っ込むと、
「で、香澄さん。そのお客さんたちが皆、判で押したように、写真に載っている香澄さん手作りのネームプレートや置物やプランターも注文したい、とご希望なさるんすよ。これは行けるということで」
 亮太は父親といっしょに、ぺこりと頭を下げた。
「わが下坂住建と香澄さんのコラボ企画、ぜひ本格的に立ち上げてみたいんすけど、いかがでしょうか。お願いします。ほら、父ちゃんからも」
「ほへはいひわふ(もぐもぐ)」
 話を聞いて、最初はかなり迷った。
 トールペイントは、今まで自分の趣味で作ったり、教えたりはしてきたけれど、客から注文を取って、商品として売るなどということは経験したことがなかった。引き受けた以上、大きな責任がともなう。
 しかし数日後には、香澄の決心は固まっていた。
 やろう。待ちの一手だけでは、人生何も起こらないもの。まだ体力と気力のあるうちに、何か新しいことをやってみたい。
 それからというもの、香澄はカルチャーセンターの講座のかたわら、毎日フル回転で働いた。数週間のうちにカタログ用の見本をいくつか作って、写真撮影に間に合わせなければならなかったからだ。
 今日も片道2時間もかかる郊外まで来たのは、家具工場を直接訪れて、コーヒー豆の木樽をプランター用の手ごろな大きさに切って加工してくれるようにオーダーするためだった。
 専用ホームページも立ち上げることになり、「香澄自立応援チーム」のブレーン役、高野直己がその分野でも大いに貢献した。
 「お色気担当」の由香は、高校中の生徒にこの新プロジェクトを宣伝する役。
「ドロンジョさま、廊下の隅で下級生たちをなかば脅していたらしいぞ」という目撃証言もあったものの、成果は、リフォームの依頼が2件も舞い込んだ。
 あの下町の甘味処、「田処処たしょしょ」にも頼んで、ビラを置かせてもらうことになったらしい。
 人生とは、いつ動き出すかわからない船のようなもの。乗組員さえ気づかないうちに、港からはるか沖に出ている。
 香澄も無我夢中でいるうちに、いつのまにか前に大きく踏み出していたのだ。自分を守っていてくれた殻を砕いて脱ぎ捨てるような不安と頼りなさと、けれど開放感に満ちた日々に向かって。


 乗り換えのターミナル駅に降り立ち、女性がひとりで入っても気後れしない飲食店はないかと探していると、突然声をかけられた。
「植田。植田じゃないか?」
 「植田」は、香澄の旧姓だ。なつかしい響きに驚いて振り返ると、スーツ姿の背の高い男が視界に入る。
「榊(さかき)……クン?」
「うわっ、やっぱり、そうか」
 それは、榊広之。香澄の高校二年のときの同級生だった。
「偶然て重なるものだなあ。実は先週もここで、椿本(つばきもと)にばったり会っちまってさ」
「椿本って……、あの椿本くん?」
 名前を聞いて心臓がどきっと躍る。野球部のエースだった椿本修に、香澄はひそかにあこがれていたのだ。
「ああ、16年ぶりに同窓会しようぜって、急に盛り上がっちまってさ。おかげで終電がなくなるまで飲み歩いて、ひどい目にあったけどな」
「へえ。同窓会」
 なつかしさに、目の奥がくらくらする。22年前の高校生の頃の記憶が流れ込んで、今の40歳の思考とむりやりに混ざろうとしているのだ。
 榊は、彼女の顔をしげしげと見つめると、ふと思いついたように言った。
「そうだ、いっしょにメシでも食いながら話できるかな。おまえにも手伝ってもらえると助かるんだけど」


 榊の行きつけらしい居酒屋に案内されると、突き出しの小鉢が数種並べられたテーブル席で向き合った。
「とりあえず、男のほうは、椿本と俺で手分けして名簿洗い直すことになってさ。あいつが主に運動部関係、俺が文化部関係」
 榊は、映画部の部長を務めていた。
「植田には、女子のほうの連絡を頼めないかな。バドミントン部で仲よかった奴らとか、A組の女子とかさ」
「でも、私、このところ全然誰とも連絡取ってないし」
「桑原夫妻も協力してくれるって言ってたぜ。知ってるだろ、桑原。同じ水泳部の三橋慧子と結婚したの」
「ああ、うん。誰かから聞いた」
「前の同窓会のとき、ちょうど新婚アツアツでさ。……そう言えば、おまえはあのとき、欠席だったのな」
「うん。ちょうど娘を産んですぐのときだった」
「みんな大騒ぎしてたぜ。植田香澄が短大卒業と同時に結婚したってホントなのかぁって。子ども産んだの、俺たちの中で一番早かったんじゃないか」
「そうかも、ね」
「その娘さん、何歳?」
「もう、高2よ」
「うへえ。高校生か」
 榊は頬杖をつきながら、徳利を振った。
「俺なんて、30過ぎてから結婚したからな。上が小学1年の娘、坊主がまだ3歳だ。下のが大学に行く頃は、もう俺60だぜ」
「いいじゃない。可愛い盛りでしょう?」
「まあな。休みのたびにどこか連れてけって、嫁さんと三人で大合唱だぜ。まいるよ」
「うらやましい。高校生にもなると、家族で出かけることって皆無よ。そんなこと言ってもらえるの、今のうちなんだから」
「その娘さんのほかに、子どもはいないのか?」
「うん、結局ひとりだけ。産後の体調が悪くってね。もうこりごりだと思ったの」
「そうか」
「妊娠中もね。おでこの髪の毛の生え際がどんどん薄くなっちゃって」
「本当かよ」
「もちろんまた生えてきたけど。でも、カルシウム不足で歯を失っちゃう人もあるって聞いたし。自分の命をすり減らしてるって言うの? そんな気分がして、なんだか二人目を生むのが怖くなっちゃった」
「女性にとって、子どもを生むって命がけの仕事だっていうからな。うちの女房も、俺には言わないけど、そういう怖さを味わってたのかな」
 榊はしんみりと小鉢の中を箸でつついて、ふと訊ねる。
「植田は、こんな遅くまで仕事って、いったい何してるんだ?」
「トール・ペイントの講師よ」
「トール・ペイントって?」
「アクリル絵の具で、花や動物なんかの素朴な絵を描いていくのよ。木工製品が主だけど、ブリキの缶や布に描くこともある」
「ああ、よく雑誌のグラビアなんかの、カントリー調のインテリアに出てくるやつか」
「そうそう。それを生徒に教えてたんだけど、今度あたらしく商品としても売り出すことになって、いろいろ東奔西走してる」
「いいなあ。忙しいのは同じでも、女の「忙しい」はなんか夢があって。俺なんか、しがない営業だもんなあ」
 嘆息しながら、自分と香澄の猪口にそれぞれ新しい酒を注ぐ。
「そんなことない。榊くん、見違えたよ。高校のときは、どちらかと言うとのんびりしたタイプだったのに、今はバリバリ社会の一線で働いてるって顔してるもん」
「疲れきった顔だろ」
「疲れきってるのは、お互いさまよ。私なんか背中や肩にピップ○レキバン貼りまくり」
 香澄は突然、クスクスと思い出し笑いをこぼした。
「旦那に毎日そういう色気のカケラもないことさせてるから、女として見てもらえないのよね」
「あれ、意味シンなセリフ。まさか旦那さん、浮気でもしてるとか?」
「ううん、そうじゃないみたいなんだけど。私にもう、女としての魅力を感じてないらしい」
「女としての魅力か。でも、仕方ないだろうな。女房にいちいち女を感じてたら、身がもたないよ」
「榊くんまで、そんなこと言うの?」
「責めるなよ。俺だけじゃなくって、女房のほうも今は子育てに手一杯で、それどころじゃないみたいだしな。それ以前に何ていうか、結婚すると、男と女というより家族だっていう感じで」
「家族……」
「どんなに、女房が大口開けていびきかいてても、亭主が屁をこいても、互いに許せてしまう気安さっていうのか。それがないと何十年もいっしょに暮らしていけないだろ。ピップ○レキバンをよその男に貼らせることはできなくても、亭主なら安心して貼ってもらえるというのも、その証拠だよ」
 榊のことばを聞いて、香澄は三雲との密会のときのことを思い出した。いたたまれなくなって、手元の箸袋を神経質に折り畳む。
「……ねえ、榊くん。私、同窓会には欠席するかもしれない」
「え、どうしてだよ?」
「だって、一番早く結婚した分、多分ほかの人たちより老け込んでるに決まってるし。なんか、みんなに会うのが怖い」
「なんだ。そんなことか」
 榊は、思い出したように突然大声で笑った。
「知ってるか。椿本のヤツってば、てっぺんがほとんど禿げ上がってるんだぜ」
「え、ええーっ」
「かく言う俺だって、なんか年々心もとないものを感じてるしさ」
 と言いながら、まだ黒々とした頭頂の毛をちょんちょんと労わるように撫でる。
 椿本くんがハゲ? 下坂亮太の父親のバーコード頭が目に浮かぶ。甘酸っぱい初恋の思い出が、がらがらと音を立てて崩れ去っていく気分に襲われる。
「何も、おまえだけが年を心配することないよ。ちゃんと22年の歳月は俺たちに平等に流れてるんだから、さ」
「うん……」
「俺の目から見ても、植田は綺麗だよ。若い子にひけをとらない」
「でも……」
 食事のあいだずっと、真正面から彼に見られていたことに気づき、香澄の横隔膜がきゅっと縮まった。
 顔が火照る。今さら日本酒のせいにできない。何か言ってごまかさなければ。
「でも、着ていく服もないし。よく娘に言われてるんだ。服の趣味が悪い、地味で老けた色ばかり選ぶって……」
「ふーん」
「このスーツだってそうよね。そういえば、私って昔からそうだったかな。美術の時間も丑田先生に言われたっけ。どうせ描くなら、もっと明るい色で描きなさいって」
「植田、今からまだ時間ある?」
「え?」
 唐突な申し出。次の瞬間、榊はもうカバンを手に立ち上がり、勘定書きをつまみあげていた。
「この近くに、ミセス向きの服をそろえてる店があるんだ。行こう」
「え、で、でも。こんな時間なのに?」
「そこは八時すぎまで開いてるよ。こう見えても、俺はアパレルメーカーの営業なんだぜ」


 数十分後、白い紙バッグをたくさん抱え、香澄は上気した面持ちで、店員たちのお辞儀に見送られて、店を出た。
「ふうう」
 香澄は、満足げな息を吐き出した。
「あれだけの試着をしたのは、初めて。しかも店員さん総がかりで、絶対に自分なら選ばないような明るい色の服ばかり。鏡の前でポーズをとってるだけで、うっとりしちゃった」
「なんだか、『プリティ・ウーマン』のワンシーンみたいだったな」
 元・映画部の榊も、興奮の余韻で饒舌になっていた。
「植田が試着室にいるあいだに、あの店長、俺に向かって「奥さん、お綺麗な方ですね」なんて言うんだ。誤解を解くのもめんどくさいから、適当に話をあわせておいたけど」
「え。私、榊くんの奥さんと間違えられてたの?」
「だから、支払いは当然俺がすると思ってたらしい。本当は半分くらいは払おうかって気になってたけどな」
「やだ、何言ってるの。こんな高いもの、払ってもらう理由がない」
「いや、俺がむりやり連れていったんだから。それに、『プリティ・ウーマン』のリチャード・ギアの気分を味わわせてもらった上に、うちの会社のブランドを植田くらいの女性がどう着こなすかも見せてもらったし、勉強になったよ。……しかし」
 はたと立ち止まって、頭を掻く。
「おまえのクレジットカードの名義を見たら、女房でないことは一目瞭然だったな。次に営業に行ったら、不倫疑惑で冷ややかな眼で見られそうだ」
「ごめんなさい、榊くんに迷惑かけちゃったね」
「迷惑なんか、してないって。高校時代のことをいろいろ思い出せて、楽しかった」
「私……も」
「……あ、悪い。紐がほどけた」
 榊は、車道沿いの街路樹の際にしゃがんで、たいしてほどけてもいない靴紐を結び直している。まるで香澄から顔を隠すように。そのうなじを見て、香澄も鼓動が早まるのを感じた。
「もう時効だから言うけど、映画部の秋本がおまえにベタ惚れだったんだ」
「ええっ」
「知ってたか」
「全然、知らなかったよ。何も言われなかったし」
「あのあとすぐ、クラスの何人かで『フラッシュダンス』を観に行っただろ? あれも、植田とお近づきになるのが目的の、秋本の提案だったわけ」
「……だったんだ」
 立ち上がった彼は、まだ香澄から視線をそらして、街路樹の点滅する豆球越しの夜空を見上げた。
「ああ、あの頃はいい時代だったな。バブルの前で、みんな未来になんとなく希望を持ってて。映画も名作がいっぱいあったよな。『E・T』とか『黄昏』とか『ソフィーの選択』とか、『愛と青春の旅立ち』なんか最高によかった」
「『愛と青春の旅立ち』も、主演はリチャード・ギアだったね」
 香澄は思い出したように、しのび笑った。「あのね。実はうちの主人、若い頃はリチャード・ギアにそっくりって言われてたんだよ」
「へえ。そりゃすごいハンサムな旦那さんじゃないか」
「でも、20年経った今は、『釣りバカ日誌』の西田敏行」
 ふたりは、思わず顔を見合わせて笑う。
「高校の頃って、毎日楽しかったね」
 香澄は、ことばを噛み締める。
「高校生の娘を見てると、あの頃に戻りたいと思う。毎日声がかすれるくらい、友だちと笑ったりしゃべったりしてた」
「そうだな。そのくせ一方では、妙にちっぽけなことで悩んだり、自己嫌悪に陥ったり」
「夢がいっぱいあったね。今はすっかり夢もしぼんじゃったけど。老後ってイヤなことばだけど、でも、これからの人生はもう老後だって考えてる自分がいる。それで、無性に悲しくなったり、娘と自分を比較して、うらやましくてたまらないのかもしれない」
 気がつくと、榊はまだ香澄のことを見つめていた。
「植田。『フラッシュダンス』のアレックスがニックに言われたことば、覚えてる?」
「ううん」
「『夢はあきらめれば、それで終わりウェンユーギブアップ ユアドリームス、 ユーダイ』」
「……」
「俺たちは、ちょうど人生の道半ばなんだよ。40歳で、夢とか未来とか諦めるのはまだ早すぎじゃないか?」
 まるで、怒っているような調子。
「もっと自分に自信を持てよ」
「うん……」
 彼は、まだ靴紐を気にしているように、うつむいて地面を見た。
「あのな。おまえってお固いイメージがあったから、みんな諦めてたけど、ひそかに惚れてたヤツ、他にもいたんだよ」
 ふてくされた少年のようにつぶやく。「秋本、だけじゃなくて、……も」
「え?」
 一歩後ろに引こうとした香澄のハイヒールは、植え込みの下草にひっかかり、みごとにバランスを崩した。
「あぶない!」
 榊はとっさに腕をのばして、香澄のからだを引き寄せた。
 そのわずか、数十センチ後ろの車道で、轟音を立ててトラックが通り過ぎる。
 自分に起こっていたかもしれないことを想像して、香澄は「ひい」という小さな声を上げた。
「あっぶねえ。『ファイナル・デスティネーション』の事故シーンが頭をよぎった」
 榊のつぶやきを頭上に聞き、膝から力が抜けそうになるのを必死でこらえた香澄は、自分の今いる場所を思い出して凍りつく。
 暖かくて力強い、腕の中。
 思わず顔を上げると、榊の真剣な顔が、ほんのそこにある。鼻も口も、香澄のことを見つめる当惑した眼も。
 いっせいに回りが退いていく感覚がする。遠くなった音と光。
 宇宙にふたりきりでいるような、浮遊感。
 ふたつの星が互いを引き合う、迷いのない引力。
 しかし、それはわずか一瞬。次の瞬間には周囲の空気がシャボンの泡のごとく弾けていた。
 クラクションの音と、歩行者信号の青い点滅と、冷たい夜風と。現実が急激に熱い重みをともなって、頬に戻ってきた。
 22年前のクラスメートたちはあわてて身体を離し、蝕の終わった惑星が遠ざかっていくように、ゆっくりと正気に返った。
「も、もう帰らなくちゃ」
「あ、ああ……。そうだよな。ご主人待ってるんだったな」
「榊くんのお子さんたちも、起きてパパの帰りを待ってるんじゃない」
「そうかもな。近頃のチビは夜更かしで、なかなか寝てくれなくて困るよ」
 猛烈な気まずさをまぎらわすために、ふたりは懸命に照れ隠しの会話を交わした。
「スーツも買ったし、今度の同窓会に出ないとはもう言えないぞ。そのうち桑原夫人から情報がいくと思うから、よろしく頼むな」
「うん、わかった。それまで、できるだけ女子に連絡取っておく」
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん、ありがとう。おやすみなさい」
 後ろ髪を引かれる思いで、香澄は榊に背を向け、ついで榊が香澄に背を向ける。
 混んでいる十時過ぎの電車の吊り革にぶらさがりながら、虚脱感の中で香澄はずっと、後悔と安堵を心の天秤にかけていた。そして家に近づくにつれ、安堵のほうに針が触れるのを感じていた。
 深みに陥る一歩手前で引き返してよかった。取り返しのつかない分岐を選ばなくてよかった。もし榊とそんなことになれば、遊びではすまない。ふたりとも家庭を失い、一生のあいだ高校時代の自分を裏切った気持ちになっただろう。
 いつも、大切なものをつかみかけては、手からこぼしていくような気がしていた。若い頃の自分を取り戻せば、もう一度恋をすれば、それがつかめると思っていた。
 でも、それは錯覚だったと知る。人生とは、ひとつを得れば、ひとつを手放してしまうもの。
 ドーナツのように心にぽっかり空いた穴を都合よく埋めてくれるものなんて、本当は存在しないのかもしれない。昨日の自分を懐かしむのではなく、明日の自分へと毎日をせいいっぱい生きていくこと。そうすることで、穴はいつのまにか埋まっていくものなのかもしれない。
 ――もう、今日かぎりで不倫願望なんてやめよう。
 夫や娘のことだけを考えている、不器用で平凡な女のままでいよう。たとえ、全身全霊を揺さぶられるくらい激しく愛し愛されることが、もうなくても。
 香澄はそう心定めると、勢いのいい足取りで家路をたどり始めた。


 夜道の途中、ぴたりと歩を止める。
 しまった。この道を通るんじゃなかった。
 駅から香澄の住む街までの途中の道には一箇所だけ、ビニールハウスの立ち並ぶ畑と小さな林に挟まれた寂しい場所があった。コンビニや商店の立ち並ぶバス道に沿った通りもあるにはあるが、ずっと遠回りになる。近くには住宅もあるから大丈夫、と油断していた。
 ひと気の絶えたアスファルト道、街灯の光の輪を避けるようにして、ひとりの男が大の字になって寝ているのだ。
(なんでこんな道の真ん中に。酔っ払いかしら。まさか、突然襲ってきたりしないよね)
 香澄はおそるおそる、できる限り道の端に寄って、男を避けようとした。
(着てるものもぼろぼろ。ホームレスだわ。まだ若そうに見えるのに)
 男はゆったりと四肢を伸ばして、仰向けに横たわっていた。香澄がそばを通っても、気づく気配もない。
(……死んでは、いないよね。でもこのままだと、車が通ったら轢かれてしまう)
 いったんは通り過ぎた香澄だったが、後頭部に何かがツンと当たったような錯覚がして、とっさに振り向いた。
 そのお節介な行動が、彼女の人生を変えることになるとは夢にも思わず。
「あの、……大丈夫、ですか?」
 十分な距離を確保して、もしもの時はまっしぐらに逃げられるように身構え、香澄はへっぴり腰で彼の顔を覗き込んだ。
 男は目を開けていた。意識は最初からあるようだが、微動だにしない。不思議なことに、香澄の声と同時に彼はまるで遠い異次元から降り立ったように見えた。
「あのぅ、もし具合が悪いのなら、救急車を呼びましょうか?」
「……てたんだ」
「え?」
「星を、見てたんだ」
 男はまだ夢の続きの世界にいるように、わずかに笑んだ。
 


第5話につづく


企画/高橋京希、アンリミテッド・クローバーズ
制作/BUTAPENN



写真素材: Anemos   師匠小屋