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  「EWEN」&「魔王ゼファー」クロスオーバー企画第2弾
きみのそばに…




第1回 ―― ひじり


 遠く離れて暮らしているから、きみのそばにいたいと、ずっとずっと願っていた。
 きみに会って、きみと触れ合って、朝から晩まできみの隣で過ごせたら。
 でも、その願いがこんな形でかなえられるなんて。
 少しでも体が離れたら、永遠にさよならしてしまうかもしれない。
 ――そんな運命のもとで。



 道場の黒光りのする床板が、つめたい。
 したたかに打たれたばかりの腕の痛みも、焼けつくような肺も、気持ちよく冷やしてくれる。
 でも床から顔が上げられないのは、その心地よさを味わっているせいばかりではなかった。悔しさと自分への怒り。
 どうしても超えられない山を目の前に座り込んでしまう登山家の落胆。
「もう、終わりなのか」
 少し怒りを含んだお父さんの声が、上から降った。お父さんの足の爪先が視野に入ってきた。片方は素足で片方は義足。それを見ると、また悔しさがこみあげる。
 お父さんは強すぎる。僕にとって、どうしても超えられない山だ。竹刀を持って相対するたびに、その気にのまれて体が前へ向かっていかない。
 いや、そう言って僕は、自分の弱さの言い訳をしているだけなのかもしれない。こんなことじゃ、守りたいものも守れないじゃないか。三年前に固く誓ったはずなのに。


『オレ、強くなる。
中学になったら、お父さんから葺石流の剣術を学んで、強くなる。そしてアラメキアに行くときは、少しでもきみを守ってあげられるようになりたい』


 大好きな雪羽への誓いを、僕はまだ全然果たせそうになかった。中学に入って1年とちょっと、朝に晩にお父さんにつきっきりで稽古をつけてもらって、まだこの程度だ。僕には才能も気構えも全然足りないのかもしれない。
 そうやっていると、大きな手がぽんと僕の頭に乗った。
『そろそろ、朝ごはんの時間だ』
 お父さんは葺石流の稽古のときは日本語しか使わない。だから、ドイツ語は稽古が終わった合図だ。
 床にはいつくばっていた僕をあっという間に立たせてしまうと、僕の頭をまたくしゃくしゃと撫でて、笑った。さっきまで敵をにらむように冷たかったブルーグリーンの目が、いつもの優しい色になっている。
『あせらなくて、いい』
 僕の落ち込んだ様子に、気づいているのだろう。『おまえはまだ成長の途中だ。筋肉もついていない。強くなるのは、ゆっくりでいいんだ』
『でも……』
 言いかけて、僕は口をつぐんだ。
 いつかアラメキアに行くと決めたことは、雪羽と僕だけの秘密だ。第一、行く方法すらまだ見つかっていないのだ。お父さんの言うとおり、あせる必要はないのかもしれない。
『わかった』
 うなずいて、母屋への廊下を走り出した。気がつけばお腹がぺこぺこだ。
 ふと、雪羽に会いたいと思った。
 あれから一度も会うチャンスがない。お互い中学に入って、余計いそがしくなってしまった。ネット電話でときどき話してはいるものの、それだけでは全然足りない。
 画像ではなく、本物の雪羽に会いたい。彼女に触れて、思い切り抱きしめたい。
 朝からそんな妄想みたいなことを考えてる自分が、またイヤになる。
 ぷんとコーヒーのいい香りが漂ってくる。台所の隣の居間のふすまを開けた。
 もうみんな先に食べ始めていて、朝の食卓はすごく賑やかだった。
 いつものとおり、上座に惣一郎おじいちゃん、その隣にお母さん。その隣が妹のエリン。その向かいが雪羽――。
「え、えーっ」
 僕は自分の目を疑った。
 なんで、雪羽がここにいるんだ! しかも家族といっしょに平然と朝食を食べてるんだ!


「あはは。お兄ちゃんたら、すごーくびっくりしてる」
 エリンが僕のあわてふためく姿に、笑いころげている。
「聖くん、おはよう。お久しぶり」
 雪羽がミルクのマグカップを置いて、僕に向かってちょっと他人行儀にお辞儀した。
「今、東京から着いたところなの。夜行バスで」
「でも……、どうして?」
「大阪で母の従兄弟の結婚式があって、両親が出席するの。私は出席しないけど、チャンスだからいっしょに来たの。こちらで明日までお世話になります」
「よかったねえ。お兄ちゃん。ねえ、うれしい、うれしい?」
 僕は生意気な妹をぎゅっとつねって、その隣に座った。エリンは泣き声を上げて雪羽にむしゃぶりつく。いつもならお母さんのところへ行くのに、今日は雪羽が僕の弱点だと知っているのだ。ほんとにこいつは要領がいい。
 お父さんは部屋に入ってくると、「あ、雪羽ちゃん」と当たり前みたいな顔をした。
 その様子を見ると、どうやら雪羽が今日来ることを知らなかったのは僕だけらしい。うちの家族はこういうとき、妙に底意地が悪いところがあるのだ。
「ディーターさん」
 雪羽は挨拶もそこそこに、目を輝かせて言った。「先週の「江戸剣風録」見ました。クライマックスのあの殺陣、感動しました。素晴らしかったです!」
「そう? よかった」
 時代劇フリークの雪羽は、鹿島師範とお父さんが監修している時代劇はみんなチェックしているらしい。こんな身近に若い女の子のファンがいることに、お父さんもまんざら悪い気持ちではないと見える。
 僕のほうは、雪羽がうっとりとお父さんを見ているのが、ちょっと面白くない。そんなつもりはないんだろうけど、万が一、父親が恋敵なんてことになったらシャレにもならない。
 雪羽とふたりだけで話したいことがいっぱいあったけど、ほかの家族がいるので、食事のあいだは我慢していた。おじいちゃんとお母さんとエリンが三人揃って家にいるときは、食卓はすごくにぎやかだ。それに、雪羽もよくしゃべった。
 今日の雪羽は、なんだか雰囲気が違う。ことばも柔らかくて、女らしくて、三年前に会ったときより、物腰がものすごく大人びている。僕はもう、食べ物の味なんかわからないまま、彼女に見とれていた。
 ようやく食事を終えて、彼女を連れ出せると思ったとたん、お母さんが「ああっ。こんな時間」とあわて始めた。
「ごっめーん。もう行かなあかん。聖、エリンといっしょにお皿洗っといてくれる?」
「いいけど、土曜日なのに仕事?」
「向こうの都合で今日になってしもたん。藤江おばさんにお昼は頼んどいたからね」
 と話していると、横からエリンが割り込んでくる。
「ムッティ。私が雪羽ちゃんといっしょにお皿洗う。お兄ちゃんは要らないもん。雪羽ちゃん、いいよね」
「いいわよ」
「じゃあ、お願い。よろしくね。二時には帰ってくる」
 お母さんはばたばたと走っていってしまい、おじいちゃんは診療の時間で、お父さんは午後の門下生を迎えるために道場の掃除。雪羽はエリンに引っ張られて台所で片づけを始めた。そして僕は、妹のあかんべとともに台所から追い出された。エリンのやつ、徹底的に僕の邪魔をする気だ。
 結局、僕はひとり残され、何もすることがなくなって廊下に出た。せっかく雪羽と会えたというのに、ちっともふたりきりになれない。あと少しすれば、いやでもふたりきりになってしまう運命が待っていることを、そのときの僕は知らなかった。


「聖くん」
 ぼんやりと縁側に腰をかけて庭を見ていると、後ろから声がした。
「雪羽」
「ごめんね。来ることを内緒にしていて。……驚いた顔が見たかったから」
 と謝りながら、彼女はすっと僕の隣に腰をかけた。
 生きて動いている雪羽。こんな言い方をすると、まるで動物園の珍獣みたいだけど、ずっと三年間、ネット電話の画面でしか見なかった彼女が今、体温を感じさせるくらい近くにいることに、僕はしみじみとうれしさを噛みしめていた。
「今日は、ご両親とは別行動?」
「ええ。ふたりは明日の結婚式に出席するだけだから、あとから飛行機で来るの。……すごいと思わない、母の親戚の行事に父が出られるっていう事実。三年前なら考えられなかったわ」
 僕は「うん」とうなずいた。雪羽のお母さんは、親の決めた以外の男性と勝手に結婚したという理由で、それまでずっと雪羽のお祖父さんに勘当されていたのだ。
 今はすっかり仲直りして、お祖父さんともうまく行っているらしい。
「じゃあ、いつまでいられるの?」
「明日の夕方。両親と合流したら、帰りは三人いっしょに帰ることにしてる」
 それなら、明日の夕方まで雪羽といっしょにいられるのだ。襲ってきた幸福感に頭がくらくらしてしまう。
「今夜は、ここの家に泊まるんだね」
「うん、エリンちゃんの部屋に泊めてもらうことになってるの」
 さすがに、僕の部屋に泊まってほしいなんて言えないよな。これは我慢しなければ。
 ……などという僕の邪念が伝わったのだろうか。雪羽は急に口をつぐんで、横を向いた。
「すてきなお庭ね。まるで公園みたいに広い」
「見てみる? 案内するよ」
 上がり口に置いてあったサンダルを雪羽に勧めた。家族の邪魔が入らないところに行くに越したことはない。
 僕たちはしなびた男物のサンダルをつっかけ、石砂利を踏んで、ゆっくりと歩き始めた。
「エリンちゃん、すっごく可愛いわね」
「そうかなあ。小学二年の妹なんてうるさいだけだよ」
「ほんと? 聖くんはエリンちゃんのこと、可愛くて可愛くてしかたないって感じよ。私も妹がほしくなっちゃたわ」
「妹より猫のほうがマシだよ。そういえば、あのしゃべる猫は? ヴァルって言ったっけ」
「ふふ。お留守番よ。すっかりへそ曲げてたけど」
 石畳をたどって、小さな池にかかる橋を渡った。雪羽は僕の一歩後を伏し目がちについてくる。
 どうも変だ。やっぱり変だ。いつもの雪羽らしくない。
 僕はふりかえった。
「今日の雪羽、何だか……違う」
「え?」
「なんていうか、声が頭のてっぺんから出てる」
 普段の彼女は、もっと声が低くて威厳がある、お姫様みたいな話し方をするんだ。それを聞いたとたん彼女は目をまんまるに見開いて、それからプッと吹き出した。
「やっぱり、聖はだませないな」
「……だましてたの?」
「そうではないが、聖のご家族の前で、第一印象を大事にしたかったからな」
 彼女は僕の隣に並ぶと、頬にかかる長い髪をかきあげた。たったそれだけで、ふんわり優しい雰囲気だった女の子は、まっすぐな眼差しをした意志の強い女の子に変貌した。
「ああ……、いつもの雪羽だ」
「いつもの私だろう? 偉そうで生意気で、可愛げがない」
「誰かが、そんなふうに言ったの?」
 雪羽はそれには答えず、ただ微笑んだ。
「そういう女が嫌いな人間が多いということを、中学生活で学んだ。だから、ことばづかいも、この頃は女らしく変えている」
「必要ないのに。雪羽は雪羽らしくすればいいのに」
「こんな偉そうな女で、聖はかまわないのか?」
「あたりまえだろ」
 どんな辛い経験をして、雪羽は本当の自分を隠そうとしていたのだろうか。そう考えるとなんだか急に悲しくなって、いとおしくなって、横から片手を差し出した。まるでもろいガラス細工を触るみたいに、そっと彼女の手を握る。
「偉そうでも、生意気でも、本当のきみがいいんだ。オレはどのきみでも大好きだから」
 雪羽の横顔がせつなげになった。下の睫毛にほんの少し、涙がたまっている。
「本当の私は、泣き虫だぞ」
「泣き虫の雪羽も好きだよ」
「聖……。会いたかった」
「オレも」
 僕たちは並んで立ったまま、お互いの手をきつく握りしめ合った。そばにいると、雪羽から三年前には感じなかった大人の女性の香りがした。
 彼女と触れ合っている部分から熱が回って、全身が氷砂糖のように溶けていく気がした。
 なんだか、後ろめたい気持ちになってくる。もしかすると、こうしているところを家から誰かに見られてるかもしれないと気づいた。
 道場にいるお父さんか、母屋にいるエリンか、――庭と反対側にある診療室の惣一郎おじいちゃんだって。治療そっちのけで、患者さんといっしょに双眼鏡でのぞいてるってことも、おおいにあり得る。
「もうちょっと奥へ行こうよ」
 たまらなくなって、僕は雪羽にそう提案した。
 その先はせまい雑木林になっている。初夏のみずみずしい若葉がうっそうと茂って、僕たちを隠してくれるはずだ。
 落ち葉の下のひんやりとした土の匂いは、小さい頃空想の中で遊んだ秘密基地を思い出させた。トンネルを掘ったり、宝物を木の根元に埋めたり。
 はじめてお父さんやお母さんに内緒ごとを持つ楽しさを覚えた場所だ。そこに今、僕は大切な人を連れてきた。
 子どもの頃の、あのみぞおちがぞくぞくするような冒険のスリルと、今僕が雪羽に感じている、体の芯が火照るような後ろめたい感情には、どこか共通点があるような気がする。
 僕は大きく息を吸い込むと、もう一度雪羽の手を握ろうとした。
 そのとき、彼女は「あ」と小さな声を上げた。
 葉っぱのちりちりしたシダや平べったいフイリギボウシ、あとは名も知らない下生えの草に覆われた地面に、スミレやムラサキカタバミやカラスノエンドウがかたまって、たくさんの小さな花がつけている一角があった。
 木漏れ日が斜めに差し込んできて、まるで地面そのものが光を放っているように見える。
 どこにでも咲いているような雑草のはずなのに、その美しさは生まれて初めて見た奇跡みたいだった。
「きれい……」
 雪羽がうっとりとつぶやく。「まるで……」
 その続きは言わなくても僕にはわかる。『まるで、アラメキアみたい』と彼女は言いたいのだ。雪羽にとって、美しいもの、優しいもの、高貴なものはすべてアラメキアに通じている。
 目を上げたとき、タンポポの綿毛のようにも見える球が、ふわふわと空中を漂っているのに気づいた。
 一体なんだろう。ぼんやりとにじんだような光を放ち、いくつもの球が僕たちの回りに集まってくる。
 この世のものではない、不思議な光景だった。
 ことばもなく立ちつくしていた僕たちふたりは、さらに腰をぬかすような驚きを味わった。
 僕たちの真上におおいかぶさっていた木々の重なりが次第に透き通っていき、とうとう消えてしまったかと思うと、ぽっかりとした空洞が青空を割り込むようにして、僕たちを飲み込んだんだ。
 


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