第2回 ―― 雪羽
あなたの腕の中は、あまりに居心地がよすぎる。
あなたがそばにいると、私はいつもの私ではなくなってしまう。あなた以外のすべてが、どうでもいいことに思えてしまう。
差し出された手につかまるのは弱くなること? それとも、強くなれること?
東京の下町に住んでいると、地平線を見ることは、まずない。
だから目を開けたとき、私は真っ先に、「地平線ってはじめて……」とぼんやり考えていた。意識が次第にはっきりしてきてようやく、わかった。私は上野公園よりも、水元公園よりも広い、草原の草の上に寝ているのだ。
「ここは……」
起き上がろうとすると、聖の体が私のすぐ後ろにあることに気づいた。片方の手は私を守るように、私の腕のあたりに伸ばされている。その手を動かさないように、ゆっくりと体の向きを変えた。
聖は横たわったまま、まだ目覚めていなかった。あの穴に吸い込まれようとした瞬間、とっさに抱きしめてくれたことをかすかに覚えている。もしかして、私をかばおうとして、余分にあのときの衝撃を受けたのかもしれない。
「聖」
そっと呼びかけた。答えるように、睫毛がかすかに震える。聖のキレイな顔をこんなに間近に見たのははじめて。頬が火照るのを感じる。
「聖」
もう一度、大きな声で呼びかけると、近くの草むらに隠れていた小さな生き物が、ぱっとジャンプした。ぴょんぴょん跳んで、逃げて行ってしまった。
見たことのない生き物。後ろ足の形はウサギにそっくりだけど、青くて耳が短い。
その気配で聖はいっぺんに目が覚めて、飛び起きた。
きょろきょろとあたりを見回してから、ぼんやりと私を見る。
「ここは……」
「わからない。気がついたら、ここにいた」
「オレ、どれくらい寝てたんだ?」
「さあ。私も目覚めたばかりだから」
「今何時だろう」
聖は左手の手首を確かめるような仕草をしたが、あいにく腕時計ははめていなかった。私も普段から時計は持っていない。ふと思いつき、上着のポケットから携帯を取り出した。
「9時35分」
「じゃあ、まださっきから5分も経ってない」
そう言ってから聖は、私の手の携帯を指さした。「通じる?」
「……やってみる」
キーを押す前から、結果はなかば予想できた。案の定『圏外』の表示。
だって、この広い草むらを見渡すかぎり、電線一本、電信柱ひとつ見えない。道路も家も、何もない。
まるで陸の孤島だ。聖の住む西宮の住宅地から5分では、とても辿りつくはずのない場所。
「ここは、アラメキアかもしれない」
つぶやいて、聖の顔を見た。聖は答えなかったが、私と同じことを思っているのはわかった。
いきなり目の前に現れた空の穴に吸い込まれたのだ。それ以外にどんな結論があるというのだろう。
「でも、どうして? どうして聖の家の庭がアラメキアに通じていたんだろう」
聖は首を振った。
「わからない。ただオレ、ここに来る直前、林の中で光の球が飛んでいるのを見た」
「私もだ……」
「たぶん、何かの偶然で、向こうとここの空間が一時的につながって、ゲートが開いたんだよ」
「うん」
聖の言うことは結局何の答えにもなっていないが、ここへ来た理由が欲しかった私たちは、とりあえずそれで納得することにした。
立ち上がって、あたりを見回した。私たちのいるところは、なだらかな丘の斜面で、ずっと視界の向こうまで尾根が続いている。
空が淡い紫色をしている。じゃれあって飛ぶ小鳥たちも、鳴き声が微妙に違って聞こえる。草花の種類や、その中にひそんでいる虫も、見たことがないものばかり。少しひんやりとした風にまじるのは、今まで嗅いだことがない異世界の香りだった。
ここはアラメキア。私たちはとうとうアラメキアに来たんだ。
うれしいはずなのに、何故かちっともうれしくない。まったく知らない世界に予告もなしにぽんと放り出された、とらえどころのない不安が、さっきからずっと私の心を満たしている。
「ねえ、ちょっとだけ回りをくるりと調べてみようよ」
聖が、冒険心にうずうずと身体を動かし始めた。
「でも、ここから離れてしまって大丈夫だろうか?」
「何か目印をつけておこう。調べたら、また戻ってくればいいんだからさ」
ここにはいつかまた、聖の家へとつながるゲートが出現するかもしれないのだ。正確な場所を覚えておいたほうがいい。
聖は足元を見つめて、目印になるような適当なものを探した。
結局、雑草の固い茎を何本か束ね合わせて蔓でゆわえ、それを地面にしっかりと突き刺しておくことにした。
「これなら、何百メートル離れても見えるよ」
聖は満足げに自分の労作をながめると、立ち上がった。「行くよ」
そこから、目の前の尾根に沿って進んだ。ふたりとも庭の古い男物のサンダルを履いたまま来てしまったので、とても歩きにくい。
尾根の端にたどりついたとき、私たちは同時に感嘆の声をあげた。
その先は思ってもいなかった雄大なパノラマが開けていたのだ。
見渡すかぎり、ゆるやかな谷が続いている。丸い雲がいくつも谷に影を落とし、草原を水玉に染め分けながら、まるで気球のようにゆっくりと移動している。
谷は上から見下ろすと、とろりとした緑の海のようだった。あらゆる色の草花が泡のように海の表面で揺れている。ときおり風が吹いて、葉を裏返し、銀の波頭を立てていく。
「雪羽!」
聖は感動のあまりことばが出てこないらしかった。私の名を呼ぶと、手を握り、引っ張った。
私たちは手をつないだまま、斜面を一気に駆け下りた。緑の草が私たちを迎え入れるようにふたつに分かれ、また背中で閉じ合わさる。まるですっぽりと柔らかいベールにからめ取られて、ふわりと浮き上がっていくような感覚。
次の瞬間、私は大きなサンダルのせいで、つんのめってバランスを崩した。とっさに聖が、私の身体を脇から受け止めてくれる。
私たちは大きく息をつきながら、地面に寝転んで空を見上げた。
「すごいや、信じられない。オレたち、ほんとにアラメキアに来たんだ」
と感極まったようにつぶやいてから、聖はあわてて付け加えた。
「あ……。アラメキアがあることを疑ってたわけじゃないんだよ。ただ・・・…」
「わかっている」
わかっている。きっと聖も、アラメキアの存在は信じてくれていたのだろう。だけどそれは神話のような信じ方で、漠然とおとぎの世界を夢見るだけで、自分が実際にそこに立つなんて思い浮かべたことがなかったに違いない。
私も似たようなものだ。
小さい頃からアラメキアの話を聞かされて、あれほどアラメキアにあこがれていたくせに、心のどこかでは遠いことのように感じていたのだ。
鼻の中がつんと痛くなる。
父上。父上があれほど焦がれていたアラメキアに、ようやく来れたというのに。
そう思ったとたんに、一気に感情が奔流のように溢れ出した。
私は何の心の準備もしていなかった。何をしていいかもわからない。ここがどこかも。どこへ行けばよいかも。
「雪羽?」
聖の声で、私は自分が涙を流しているのに気づいた。
聖はくるりと身体を起こすと、心配そうに私の顔をのぞきこんだ。
「泣いてるの?」
「……いきなり私たちがいなくなって、聖の家族はみんなびっくりしてるだろうな」
「うちは暢気だからなあ。たぶん、どこかに遊びに行ったと思ってるよ」
「元の世界に……戻れるのか、私たちは?」
「……」
「帰る方法すらもわからない。あれほどアラメキアに来たかったというのに、今は不安で不安でたまらない。バカみたいだ」
「雪羽……」
「父上と母上のいる世界に……戻りたい。戻れるものなら今すぐに」
「心配するな。オレが必ず、雪羽を守るから」
聖は私の身体を包むように、上からおおいかぶさった。
「約束しただろう。アラメキアに行ったら雪羽のことを守るって。オレ、剣の腕はまだまだだけど、ちゃんと約束を果たす。ふたりで元の世界に戻るまで」
聖の茶色の瞳が、世界でたったひとつだけのものみたいに私を見つめている。目の奥がじーんと痺れた。身体の芯が震えるくらいの、幸福感だった。
「うん」
「大好きだよ」
聖の唇が、私の唇の上にまっすぐ降りてきた。
少しざらっとして固い、男性の唇の感触。まるでほっぺたにキスしてくれるときの父上みたいな。
聖とのキスは二度目だったけど、最初のときはほとんど軽く触れ合うだけだった。だって舗道の真ん中だったし、私たちはまだ小学生だった。
でも、今は違う。
息が苦しくなってくると唇の当たる角度を変えながら、何度も何度も口づける。どんどん身体が熱くなって、同時に自分が形をなくしていくようで、少しこわくなった。
「ん……」
思わず、声が漏れた。それを合図になったかのように、聖はさっと身を引いて行った。
暖かくて心地よい重みがなくなり、少しさびしい、でも少しほっとした気持ちで身を起こした。
聖は私に背中を見せて、しばらくうずくまっていたが、大きなため息をついてから立ち上がった。顔がすごく赤い。
「さ、行こうか」
「どこへ?」
「とりあえず、あの棒が見えるギリギリのところまで進んで、あとはぐるっと円を描くように歩いていくことにしよう」
洋服に付いた土や枯れ草を払うと、私たちは歩き始めた。
さっきまで泣きたいほど心細かったのに、今はそんな不安も薄らいでいる。
聖が守ってくれると言った。それを信じる。
たとえ元の世界に戻れなくなったとしても、たとえ両親に二度と会えなくなったとしても、聖といっしょなら生きていける。心の中で、そう覚悟を決めたせいかもしれない。
元気を取り戻した私とは対照的に、聖はしょんぼりしているみたいだった。
「はあ。オレって最低……」
またため息をついている。
「どうした?」
「な、なんでもない」
その会話はそのまま中断されてしまった。
私たちは大発見をしたのだ。丈の高い草に隠れて見えなかったが、踏み固められた一本の白い道が、ずっと長く延びている。
「道だ……」
聖が興奮したように叫んだ。「誰かが、ここを通るんだよ。ほら、車輪の跡がある!」
濃く薄く、幾筋も残る細い車輪の跡。馬車の轍のように見える。動物の足跡もある。
動物が曳く乗り物をあやつれる者が、この道をしょっちゅう通るのだ。
魔族か人間か精霊か、それはわからない。でも誰でもよいと思った。誰でもいいから、この世界の住民に会いたい。
私たちは待った。
口をつぐんで、ひたすら耳を澄ました。最初は風と草ずれと、羽虫の飛び回る音しか聞こえない。それでもなお待っていると、かすかにゴロゴロと硬い木の車輪の音が近づいてきた。それとともに、馬のひづめの音も。
道の向こうから小さく頭だけ見えてきたのは、馬ではなかった。馬に似ているが、頬がだらんとたるみ、鼻から角が生えていて、どちらかと言えばサイのような顔をした生き物。
その生き物が荷馬車を曳いて、こちらに向かってくる。御者台にはひとりの人間が乗っているのも見えた。浅黒い肌で、髪の毛は濃い藍色をしている。
御者の男は、私たちを認めると手綱をしぼって、荷車を停めた。
『見かけない子どもだな。港町から来たのかい?』
言っていることが理解できる。アラメキア語だ。私はしばらく、息をするのも忘れていた。
『あの、……こんにちは』
私は、一歩進み出た。『ここは、アラメキアですか』
『ここが、アラメキアかって?』
気のよさそうな男は、膝を打って大笑いし始めた。
たぶん私たちも、「ここは地球ですか」と聞かれたら、同じような反応をするに違いない。私がした質問は、それと同じくらい、馬鹿げたものだったのだ。
聖がもの問いたげな様子で見ているので、私は会話の内容を手短に伝えた。
「雪羽は、あの人のことばがわかるんだね」
「うん、いつも父上やヴァルと話していることばだ」
「しまった、オレもアラメキア語を勉強しとくんだった」
聖は悔しそうに、頭を抱えた。
「じゃあ、代わりに訊いてくれないか。ここがアラメキアのどの辺にあたるのか」
私はうなずくと、男のほうに向き直った。
『すみません。私たちはずっと……遠くのほうから来たので、このあたりのことがよくわからないんです。ここはなんという土地ですか』
『ははあ。じゃあ君たちは東の山を越えて、精霊の女王さま詣での巡礼に来たんだね』
『え……』
『ここは、ナブラ領。精霊の国への船は、ここから南に降りたところにある港町から出ているよ』
「精霊の女王」という名を聞いて、私の心は高鳴った。女王に会えれば、きっと元の世界へ戻る方法も教えてくださるに違いない。
「聖。精霊の女王がすぐ近くにおられるぞ」
「精霊の女王?」
「父上を追放したアラメキアの支配者、だが今は私たちの味方だ。地球へもしばしば現われて、私も何度かお会いしている」
「それじゃあ、オレたちのことも、地球に送り返してくれるかな?」
「頼めば、きっとそうしてくれる。港から、船に乗って行けば会えるそうだ」
「船?」
私は荷馬車の男を振り仰いで、尋ねた。
『ここから、その港町にはどのくらいですか?』
『ああ、今から歩きだと、途中で夜になってしまうよ。もうそろそろ日暮れだしな』
『……夜』
『今晩は、うちに泊まらないか? 明日の朝なら港町に商品を卸しに行くついでがあるから、馬車に乗せてってやるよ』
道の向こうを指差す。
『ほら、向こうに森が見えるだろう? あの森の入り口にある小屋に住んでいるんだ。小さいけど、きみたちふたりを泊める部屋くらいはある』
『本当? それは助かります』
私はまた、男のことばを聖に通訳した。
「だいじょうぶだと思う?」と、聖は用心深く訊いた。
私はうなずいた。
荷馬車の男は信じていい。相手に悪意があるかどうかを、私は小さい頃から比較的簡単に見分けることができる。ヴァルは、それが私の魔力のひとつだと言うのだけれど。
聖は少し考えてから、言った。
「わかった。とりあえず夜を過ごす場所は必要だし。さっきの目印の場所の方角さえきちんと覚えておけば、なんとかなるよ」
私たちはふたりで頭を下げて、宿を提供してくれる人に丁寧にお礼を言った。
『じゃあ、荷車のあとから歩いてついてきてくれるかい? 悪いね。荷台は干草の束をいっぱい積んでて、乗っけてあげられないんだ』
馬車が埃を立てて行ってしまうと、私は聖の腕を取った。
「行こう」
身体をぴったりと寄り添わせて、歩く。
私は少し有頂天になっていた。今夜を安全に過ごす場所が決まったし、精霊の女王にお会いするという目的もできた。
聖の家族がたぶん私たちのことを捜していると思うと気持ちはあせるが、今はとりあえず自分にできることをやるしかない。
ふと横を見ると、聖はうろたえたような顔をしていた。また真っ赤になっている。
「ち、ちょっと、雪羽。離れて」
「え?」
聖は私から身体を離すと、一歩二歩と遅れていき、怒ったように足元を見つめながら、私の後ろを歩き始めた。
いったい何があったというのだろう。私はいぶかしく思いながらも、荷車を見失いたくなくて、歩みを止めなかった。
数十メートルそのまま歩いて、後ろを振り返った。
聖の姿は、どこにもなかった。
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