エピローグ ―― 雪羽
私たちは宮殿の奥まった場所に通された。
そこは室内というより、まるで庭のようで、たくさんの花がいたるところに咲き誇り、木の実がたわわに生っている。
精霊の女王は、部屋の中央に設えられた寝台で、手折られた花のように眠っていらした。
「女王さま」
私はなるべく静かに枕元に近づいて、そっと呼びかけた。
精霊たちは人間とは比べ物にならないくらい寿命が長く、何百年でも年を取らないが、決して不死なわけではない。女王の美しい真珠色の面立ちには生気がなく、今にも溶けて行ってしまいそうな儚さが漂っていた。
そう言えば。
この数ヶ月、地球で一度も女王の姿を見ていないことに思い至った。以前なら、私と父上をどこかの花の陰から、そっと見ていてくださったのに。
女王はゆっくりと目を開けると、いつもの優しい笑みを浮かべた。
「雪羽……そして、聖。どうしてここへ?」
「私たちにもわからないんです。気がついたらアラメキアでした」
女王のことばはアラメキア語だが、同時に心に直接響く音楽のようだ。だから今話していることは、聖も理解しているに違いない。
「いったい、どうなさったのですか」
「それが……この1年というもの、ずっと床から起き上がれないのです。そして……」
女王はそこで言葉を途切れさせると、恥ずかしさに耐え切れないというように、薄い絹のような掛けぶとんで、ご自分の顔を覆ってしまわれた。
私たちを案内してくれた侍女が、消え入るような小声で説明した。
『陛下も私たちも、通常のものを食べられなくなってしまったのです。どんな美味な花弁や木の実にも食指が動かず、……ときどき無性に食べたくなるものと言えば……土』
「土?」
『それに道端の石』
「石?」
『お互いの手なども舐めたくなることもございまして……国中のあらゆる薬師を呼び寄せたのですが、一向に原因がわからず……』
「ちょっと、待って!」
私の通訳をじっと聞いていた聖が、突然叫んだ。
「一度、これを食べてみて」
聖がごそごそとリュックサックから取り出したのは、白い粉の袋だった。
「それは、なんです?」
「塩です」
「塩!」
事態は急転直下だった。
聖が差し出した塩をおそるおそる舐めた女王、そして侍女は、あっというまに元気を取り戻した。
「どうして、塩が特効薬だとわかった?」
私の問いに、聖はちょっと照れたように頭をかいた。
「おじいちゃんのおかげなんだ。アラメキアに持って行くなら塩がいいと。そのときの説明によると……、ええと、うんと省くけど、塩というのは、人間を含めてあらゆる動物に必要なものなんだって。
特に、肉食動物とちがって、草食動物は草から塩分をとることができないから、特別に塩を取る必要があるんだって。そうしないと食欲も元気もなくなり、やがては痩せて死んでしまう。
野生の動物は土や岩をなめることによって、無意識のうちに塩を摂取しているし、牛とか羊みたいな家畜には、人間が飼料に塩を混ぜたり、塩のかたまりを舐めさせることもあるそうなんだ」
最後のほうは、ちょっと遠慮した声だった。精霊の女王を牛や羊にたとえてしまったことの無礼さに、途中で気がついたらしい。
「聖。本当に助かりました。リューラの街全体にも、ほどなく塩が行き渡りましょう」
精霊の女王は起き上がって、すっかり回復した侍女たちが運んできた果物を召し上がったところだった。長い紫の御髪(おぐし)にも艶が戻っている。
「わたくしは千年以上生きているのに、こんなことは初めてなのです。いったいどうして、急に塩がわたくしや街の者の身体から不足してしまったのでしょう」
「女王さま、この街の人は、飲む水を最近変えたということはありませんか?」
聖が訊くと、女王は首を振った。
「いいえ、数百年このかた、わたくしたちは変わらずに、この宮殿のそばに湧き出る『女王の泉の水』を飲んでいます。けれどこの数十年、水の味が少し変わったという感覚はありました。ひどく気が抜けたような感じで、美味しくないのです」
「もしかすると、その泉の水質が突然変わったのかもしれません。
そのために、それまで自然に水から摂取できていたミネラルが摂取できなくなり、その水で育てた野菜や果物にも影響が出て、健康が徐々に害されていったのではないでしょうか。魔族や人間は、肉から自然に塩分を摂取できるけど、精霊だけは肉を食べませんから。
できたら、これからは意識して塩を舐めるか、別の水を飲んだほうがよいかもしれません」
「聖。そなたという子は」
女王は感極まったように、腕を差し伸べて、聖の頭に触れた。
「なんと、賢い子なのでしょう。そなたのおかげでわたくしたちは命を永らえました」
「ええと、実は祖父の話の受け売りばっかりなんですけど」
「わたくしは知らず知らずのうちに、雪羽とそなたをアラメキアに召喚していたのかもしれませんね。そなたがわたくしたちを救ってくれることを、霊力で感じ取っていたのでしょう」
ああ、そうだったんだ、と私は思った。
聖は自分はアラメキアにいる資格がないと言っていたけど、本当にアラメキアに必要とされていたのは聖の方だったのかもしれない。
そう思うと、私はなんだか自分のことのようにうれしくなってしまった。私だけではない。聖もアラメキアの子どもなのだ。
「女王陛下。お願いがございます」
私はひざまずいた。私も聖に負けずに、自分のできることをしなければ。
「魔族を助けてやってください。河の洪水と旱魃の繰り返しによって、彼らの土地は疲弊しています。家畜たちも餌が足りずに失われています。魔王であった父の代理として伏してお願いいたします。魔族に女王のお慈悲を賜りますよう」
「わかりました。雪羽」
女王は深くうなずかれた。
「自らの病にかこつけて、魔族の窮状に目が届きませんでした。わたくしの過ちです。さっそく彼らに、食物や家畜を届けさせましょう」
「ありがとうございます」
「ゼファーはどうしています? しばらく会っておらぬが」
「はい、父も母も、ともに元気です」
「それはよかった」
精霊の女王は透き通った裳裾をふわりとひるがえして長椅子から立ち上がると、聖の前に立った。
「聖。そなたに頼みがあります」
「は、はい」
「そなた、雪羽の騎士になってくれませんか」
「騎士?」
そのロマンティックな響きに、聖は度肝を抜かれたようだった。竜と戦うテレビゲームの画面が頭をよぎっていたかもしれない。
「アラメキアでは、国を治める女王には必ず命を懸けて付き従う騎士がひとりいます。わたくしも本来ならば、ゼファーが騎士として仕えてくれていたのですが……」
女王は僅かなあいだ、物思いに引き込まれるように黄金色の目を伏せた。
その寂しげなまなざしを見て、女王はまだ父上のことがお好きなのかな、とちょっと思ってしまった。ふたりは互いを想いながらも、とうとう心が通じ合うことがなかったのだと聞いている。
「雪羽には、アラメキアの行方を左右するような大きな使命があります。もしそなたさえよければ、雪羽を守り助ける騎士となって、一生仕えてほしい」
「僕は……」
聖は私の方をちらりと見やると、当惑したように目をそらしてしまった。
「わかりません……。今は返事ができません」
「そうですか」
聖は澄んだ茶色の瞳で、まっすぐに女王を見た。
「ずっと雪羽を守ると約束しました。その気持ちは今だって全然変わりません。
でも今の僕には、自分の将来が全然見えていない。そんな大切なことを、簡単に安請け合いするのはよくないと思うんです」
「その気持ちは、よくわかります」
女王は、微笑まれた。「そなたは、本当にゼファーにそっくりですね」
「え? 雪羽のお父さんに?」
「ゼファーもそなたと同じくらい、生真面目な性格でしたよ」
女王は手を差し伸べると、「聖。腰のものをこれへ」
聖が差していた木刀をはずすと、女王は口の中で短い呪文をつぶやいた。
木刀の柄の先から芽が生え出で、見る見る間に枝葉が木刀全部を覆いつくしてしまった。たちまちのうちに、それらは木刀を包み込む緑の鞘となった。
「聖。これからアラメキアに来るときは、この剣と鞘を必ず持つようにしなさい。そうすればそなたは雪羽がそばにいなくても、アラメキアにずっと留まることができます」
「ほ、本当に?」
「もう効き目は現われていますよ。ほら、お互いから離れてごらんなさい」
私たちは唖然として、顔を見合わせた。
この三日間の冒険で、いつのまにか私たちは絶対に2メートル以上離れない癖が身についてしまった。今もそうだ。
あれほど不便に感じていたのに、もう離れてもいいのだとわかったとたん、ほっとするより寂しさを感じたのはなぜだろう。
私たちにとって、この三日間は何よりも幸せな時間だったのだ。
夜の帳が降り、私たちは、女王と国民快癒の祝賀に湧いている宮殿を出た。
宮殿の高台から見降ろしたリューラの都には活気が戻っていた。ギリシャ神話のようにゆったりとしたローブをまとった精霊たちは鱗粉でうっすらと光り、まるで羽があるように軽やかに歩いている。
「そなたたちを地球に帰すのは残念ですが、早くしないと家の方が心配しておられますね」
女王と私たちは名残の時を惜しむように、宮殿の庭をゆっくりと歩いた。
「それで、僕たちは」
と聖は念を押す。「いつかまた、アラメキアに来れるんですね」
「いつでも、呼びますよ。またそなたたちの力が必要になったときは」
「はい」
「それでは、地球への通り道を開けましょう」
花壇の美しい花々の上に、夜目には蛍のように見える光の球が舞っていた。
上空にぽっかりと穴が開いた。聖の家の庭からアラメキアに来たときと、何もかもそっくりだった。
「では、送ります。用意はいいですね」
私たちの身体がふわりと浮き上がったような感覚があり、そして目の前の景色が消えた。
遠くで女王が戸惑ったようにつぶやくのが、最後に聞こえた。
「あら……。聖の家は、どこだったかしら?」
目を開けたとき、それは見知らぬ街の真ん中だった。広々としたまっすぐな車道が一本貫いている。幸い、車の行き来はなく、私たちはあわてて街路樹の立つ歩道に駆け寄った。
「どう見ても、西宮じゃないよな」
どうやら精霊の女王は、聖の家の位置を知らなかったので、私たちを西宮に送り返せなかったのだ。
女王さまのドジ。でもなんだか精霊の女王って、私の母上によく似ている。
「すいません、ここはどこですか」
聖が通行人にたずねると、その人は怪訝そうな顔をした。
まるでアラメキアにいるのに「ここはアラメキアですか」と聞いたときのようだ。そして、無言で私たちの後ろを指差した。
私たちは弾かれたように振り返った。
そこには、美しい城が立っていた。
ちょうどアラメキアの宮殿と同じ位置に、ライトアップされて真っ白に輝く「白鷺城」――姫路城がそびえていたのだった。
JR姫路駅から電車に乗って、西宮の聖の家に着いたのは、もう真夜中だった。私たちは聖の部屋の床に倒れこんで、そのまま朝まで熟睡してしまった。
翌朝起き上がったとき、一瞬すべては夢ではないかと思ったけれど、そうでない証拠は、聖の手の中にあった緑色の鞘に入った木刀だった。
当然のことながら、私たちは聖のご両親にこっぴどく叱られた。お祖父さんの惣一郎さんがうまく言いつくろっておいてくれたおかげで、それほど心配はされてなかったみたいだけど。
「なあに言うとるんや。おまえら二人かて、最初の夜は無断外泊やったやないか、俺を一晩門のところに立たせておいて」
と惣一郎さんに子どもの前で暴露されてしまい、ディーターさんも円香さんも渋い顔をしていた。
聖の着ていたウィンドブレーカーがずたずたになっていたし、私たち二人とも、たった半日外出していたとは思えないくらい服も靴もひどく汚れていたので、「一体どないしたんや」と藤江おばさんに目を丸くされた。
エリンちゃんはと言えば、「せっかく、夜は雪羽ちゃんといっしょに寝られると思ったのに」と半泣きだった。私はその埋め合わせをするために、その日はずっとエリンちゃんにつきっきりで遊んであげることになった。
聖ともう少し話したかったけど、まあ仕方ない。一泊の予定だったのに、四日以上いっしょにいられたわけだし、それはそれは語り尽くせないくらい、いろんな体験を共にしたのだから。
夕方になれば、結婚式に出席した私の両親が、私を迎えに来る。アラメキアに行ったことを父上になんと話そう。そのときの父上の顔を見るのが、楽しみだった。
最後の十数分だけ、やっと聖とふたりになれた。私たちは、縁側に並んで腰かけて、葺石家の日本庭園を眺めた。
「今晩から雪羽が隣にいなくなると思うと、ちょっとショックだ」
ぶっきらぼうに聖が言った。
「私もだ」
同じようにそっけなく、答えた。
さっきから背後にたくさんの視線を感じるのは、気のせいではないと思いつつ。
「雪羽の騎士になるって、はっきりと答えられなくて、ごめん」
「ううん」
「オレ、まだ自信がない。もっと剣の修行をして、もっと精神的にも強くならなきゃ。きみを守りきることなんかできないと思うから」
「……うん」
「雪羽の夫になるかって質問だったら、案外あっさりと答えられたのにな」
「……え?」
思わず聞き返してしまったけど、その瞬間、家の中からガラガラとお盆か何かを落とす音が聞こえて、私たちは真っ赤になって顔をそむけあった。
「それに、オレ、もうちょっと勉強したいんだ」
「何を?」
「今はわからない。環境とかミネラルとか水質とか異常気象とか、そういうのにつながること。
なあ、思ったんだけど、魔族の地で河が氾濫したり、精霊の国で泉の水質が変わったのって、地球の環境汚染と関係があるんじゃないかな。だって、アラメキアと地球は、一枚の紙の裏と表なんだから」
聖の言うとおりかもしれない、と思いながら、私は夕焼け空を見上げた。
この空の向こうにアラメキアがつながっている。
私たちは、また近いうちに行けるだろうか。そしてそのとき、地球の八倍の速度で時が流れているアラメキアの自然は、美しく保たれているだろうか。
そうあってほしいと願いながら私と聖は、三日間ずっとそうしたように、最後にもう一度手をつないだ。
―― 終 ――
ラストまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
このお話は「四周年企画お絵かき掲示板」においてリクエストを募ったとき、みつきさんが「『手編みのマフラー』の続編で、ふたりがお年頃になったときの話を」とリクしてくださったものです。
すっかり独立したシリーズになってしまった感がありますが、あくまでもこれは「お遊び企画」であって、「EWEN」「魔王ゼファー」本編のこれからの展開とは異なりますので、その点ご了承ください。
よろしければ、感想をお寄せください。
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