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EWEN

Chapter 4

 こんな暑い盛りに京都に行くのは、自虐的といわねばなるまい。
 京都は、暑いのだ。ほんと。関西一。
 今日も、37度は超えているだろう。
 お盆の中日、私たちは鹿島さんの案内で、京都見物に出かけた。
 と言っても、そのときは暑くてぼーっとしていて、どこを訪れたのか、この手記を書いている今となっては、さっぱり思い出せない。
 ただ、嵐山は覚えてる。桂川の渡月橋を渡った風が涼しかった。
 嵯峨野の常寂光院も覚えてる。竹林が美しくて、夢のように涼しかった。
 落柿舎も、侘び寂びの世界で、なかなかよかった。涼しかったし。
 とにかく涼しいところしか、私の中にはインプットされなかったようだ。
 ディーターは、何を見ても楽しそうだった。
 やはり西洋人の心のツボにぴったりとはまるのだろう、京都は。
 夕方近く、鹿島さんの車は太秦の映画撮影所に向かった。
 撮影所の中は、人気がなかった。
 入り口の通用門を開けてくれた守衛さんが、運転席の鹿島さんに親しげに挨拶した。
「やあ。先生。こんな休みの日に、どうしたの」
「観光や。酒井さん、ほら、この子、葺石先生のお孫さん。昔、連れて来たことあったな」
「ああ。円香ちゃん。まだ、ちいちゃい頃やったな。その外人さんは、新人かね」
「外人は、いくらなんでも、太秦には出られんやろ。葺石先生の食客や」
「そうか。いや、カメラ写りのええお顔してはるからな」
「酒井さんに見こまれた新人は必ずスターになる、て神話がほんとうなら、こりゃ本気でディーターを勧誘せにゃならんな」
「ははっ、昔の話や。時代劇が斜陽になった今は、笑い話ですわ」
「悪いけど、第三スタジオの電気と空調の元、つけといてくれへんかなあ」
「お安いご用や」
 鹿島さんの車は、大きな格納庫のような建物の一つに横付けされた。
 なつかしい場所だ。鹿島さんに連れられて、小学校のときは何回か来たことがある。
 スポットライトを浴びる人々の厳しさと緊張感が、私は嫌いではなかった。
 鹿島さんは守衛さんにもらった鍵でドアを開けて、暗がりを迷わず電源のボックスに向かい、慣れた手つきで操作した。
 そこに、たった今虚無の空間から創造されたばかりのように、箱庭の世界がライトを浴びて映し出された。
"Wow !"
 ディーターは初めて時代劇のセットを見て、感嘆の声を上げた。
「ここが、映画のスタジオ、俺が殺陣師をしてる仕事場、や」
 鹿島さんは作り物の小川を渡り、映像の中のようには、そよとも動かぬ木々の前に立った。
「ディーター、悪いけど、俺の前に立ってくれないか。2メートルくらい、そっち」
「ココ?」
「ああ、そこでいい」
 鹿島さんはそう言い置くと、セットの裏手に回って、二本の木刀を手に戻ってきた。
「実は俺、休み明けの殺陣のことで、煮詰まっとってな。どうしても、いいアイディアが出てけえへん。主人公の浪人と不倶戴天の敵の、一騎うちの場面やけどな」
 と、ディーターにそのうち一本を放り投げた。
「悪いけど、今から、主人公の相手役になってくれへんか。おまえがバッドガイで、俺はグッドガイ、や」
「バッドガイ」
 ディーターは、いたずらっぽく笑った。
 鹿島さんは、ところどころ英語をまじえて説明した。
「俺は昔、おまえの兄を、やむにやまれぬ事情で殺してしまった。そのことを悔やんで脱藩し、国中をさすらっている。おまえは、兄のかたきを討つためにどこまでも追いかけてくる役や。やっとのことで俺の隠れ家を探し出し、俺を殺そうと向かってくる」
「殺……ソウ、ト?」
「ああ。真剣勝負のつもりで向かってきてくれ。殺すつもりってとこが、わかるようにな」
「殺ス、ツモリ」
 ディーターは、真顔になって構えた。
 おもしろくなってきた。わたしは、ぞくぞくしてそばで見ていた。
 鹿島さんが仕事の顔になっている。ディーターも役になりきっている様子だ。
 音もなく飛び立つ鳥のように、ディーターが仕掛けた。
 速い。一瞬後にはもう鹿島さんの喉めがけて、切っ先が突き込まれる。
 木刀の合わさる音が、カシィーンとスタジオ中に響いた。
 その余韻が耳に残る間に、もうディーターは、みぞおちに叩きこもうとしていた。
 眉間、心臓、脇。
 彼の木刀は、恐ろしいほど正確に人体の急所を狙っていた。
 余分な動きは何もない。ただ、相手を殺すことだけを目的とした、冷徹な機械のような動きだ。
「ち、ちょっと、タンマ! ディーター、待ってくれ!」
 ついにたまりかねて、鹿島さんが叫んだ。
「ひえぇ。まいった。ほんまに死ぬかと思った。勘弁してくれ」
 鹿島さんは、ぺたんと坐りこんで、汗をぬぐう仕草をした。
「おまえ、本気で俺を殺すつもりやったやろ、殺気がぶおっと溢れてたわ。そこまで役にはまりこめるなんて、すごい才能やな」
 ディーターは、剣先を下ろした。
「モウ、終ワッタ?」
 夢から覚めたばかりのような、ぼんやりした表情で聞く。
「終わったよ。おかげで、参考になったわ。ああいう動きをさせる手もあったんやな」
「……」
 鹿島さんは、ディーターの肩をぽんと叩いた。
「どうしたんや。顔が真っ青やで」
「頭ガ、痛イ……」
「ディーター、どうしたの?」
 私は、異常を知って走り寄った。
「頭痛がするらしい。空調があんまり効いてなかったから、そのせいかな」
「早く出ようよ。鹿島さん。もう、十分でしょ」
「ああ」
 私たちは、急いでスタジオを出た。
「だいじょうぶ? ディーター」
 彼は汗をびっしょりかいて小刻みに震えていたが、それでも私の問いかけに、無理ににっこり笑った。
「ウン。ダイジョウブ」
「観光はこれくらいにして、『あかね』に行こう。ちょっと早いが、あそこなら休める」
 鹿島さんが携帯を取り出すと、そう言った。


 『あかね』というのは、太秦の撮影所の近くにある、鹿島さん行きつけの小料理屋の名前だ。
 女将さんの名前が、茜さんというのだ。
 30過ぎだと思うけれど、大人の魅力のある、ほんとに綺麗な人だ。
「ごめんねえ。板さんがいなくて、こんな料理しかお出しできんで」
 泣きぼくろのある口元をほころばせて、すまなそうに言う。
 それでもカウンターには、小鉢に盛られた煮物や、おいしそうなお造りが次々と並んだ。
「もしかして、今日はほんとはお休みなのに、私たちのために、わざわざ開けてくださったんじゃないんですか」
 暖簾を中に入れ、貸しきり状態の店内を見まわして、私は心配して尋ねた。
「ええのどす。どうせ、休みていうたかて、どこにも行くとこないし、暇してますよって」
「彼氏が、どこも連れてってくれないんでしょう?」
「ほんまにねえ」
 鹿島さんが私の隣で、渋面を作って小鉢をつついている。
「そちらさん、もうビール、おへんなあ。お注ぎしまひょ」
「こら、ディーター! 何をがばがば、飲んでんの。さっきまで、熱射病で倒れてたくせに」
「ダカラ、モウ直ッタ」
「直ったから、ええってもんやないでしょ。あんた絶対、肝臓かどっか悪いんやで。少しはビールやめなさい」
 和服姿の茜さんは、ころころと笑って、私たちを見ていた。
「仲がええんやね」
「ああ。このところ、しょっちゅうデートしてるよな」
「よろしおすなあ」
 茜さんと鹿島さんは決して目線は合わせないが、それでも二人の間には、何か特別なものが漂っている。
 ディーターもそれに気づいたらしく、彼らをじっと見た。
「あのね。鹿島さんと茜さんは、恋人同士」
 私はディーターに、ばらしてやった。
「エッ」
「それももう、4年越しかなあ、5年越しか。長いよねえ」
 前にも言ったけど、鹿島さんは私の初恋の人だ。茜さんはいわば、私の初恋を阻んだ恋敵。
 こんなに心から屈託なく、二人の前で笑うことができるようになったのは、そう遠い前ではないのだ。いくらガサツな私でも。
「ドウシテ、結婚シナイ?」
 唐突にディーターは、二人に向かって無邪気に尋ねた。
「ドウシテ、一緒ニ、暮ラサナイ? 好キナノニ」
 素朴な疑問だ。
「さあ、何でやったっけ。康平さん」
「何でやろなあ」
 二人は他人事みたいに暢気な調子で、微笑した。
「あのね、大人には、いろいろと事情があるの。お互いの仕事、とか、そういうの。わかるやろ」
 私は、自分より3つも年上の男に向かって、懇々と諭した。
「ただ、単にめんどくさかっただけやけど、な」と、鹿島さんが照れくさそうにコップを傾けた。
「ボクナラ、好キナ人ト、1秒デモ、ハナレタクナイ」
 思いつめたように隣で呟くディーターのことばに、私はどきっとして、それっきり口を噤んだ。
 夜がふけてゆき、男どもは今度は冷や酒を酌み交わしながら、英語でなにやら、映画とか、ハリウッドのこととかを話していた。
 ついてゆけない私はあくびを始め、茜さんが、店の2階の6畳ほどの和室に連れて行ってくれた。
「ごめんね。泊まるつもりや、なかったんやけど」
「ううん。康平さんがあれだけ飲み始めたら、もう今日は運転できひんわ」
 茜さんは、糊のきいた白いシーツを手際よく敷き布団にかけながら、答えた。
「それと、もう一つ、ごめんなさい。せっかくの逢瀬やったのに、邪魔者がついて来て」
「あら、邪魔者は、うちらのほうと、違うかったん」
 彼女は、鈴をころがすように笑った。ほんとは、ディーターとふたりで一夜を過ごしたかったんと、違う?
「やだ、茜さん」
 私は恥ずかしさに耐えかねて、まくらを抱きかかえると、ごろんと横になった。
「茜さん、ほんとうのこと言って、鹿島さんと離れて暮らして、幸せ、ですか」
「ふふ。これでも、けっこう満足してるんよ。うちらは」
「ごめんなさい。私まで変なこと聞いて。理由、全部わかってるのに」
「今は昔と違うて、ここまで、こだわらんでも、ええのんやろうけどなあ」
「そうなんですか」
「うち、昔の人間やから」
 鹿島さんが、未だに茜さんと結婚できない理由。
 茜さんには、この店を出してくれた「旦那さん」がいるのだ。
 ディーターには、きっと説明してもわからないだろう。こういうのって。
「ただ、きっかけを、失ってしまったんやろなあ。一緒になる」
「きっかけ」
「男女の仲は、きっかけってすごく大事なんよ。円香ちゃん」
 茜さんは、ほっそりした指でうちわを持ち、私に風を送りながら、考え込むように言った。
「そう、かもしれませんね」
「ディーターのこと、どう思てるの?」
 どうって。あの。
「好きな人と離れたくない、って言ったとき、彼、あなたの方を見たのよ」
 私はまた、ごろんと仰向けになった。
「昨日、私たち、キスしたの」
 茜さんは、何も言わず、頷いた。
「好きだって、言ってくれた。でも私、すごく不安で。なんだかあしたになったら、キスなんかしてないって言われそうで」
 そして、彼が記憶喪失症であることを、茜さんに打ち明けた。
「それまでは全然、普通に接していられたのに。キスしてからすごく辛くて、不安でたまらない。彼が私のこと忘れてしもたら、私……」
 私はふとんから起き上がって、顔を両手に埋めて泣き出した。
「どうしよう。私、ディーターのこと、こんなに愛してるんだ」
「早く気がついて、よかったね。彼に、ちゃんと言うてあげなさい」
 うちらみたいに、ならへんように。
 茜さんはそう言って、母親のように、私の頭を撫でてくれた。


 次の日、出発する前、私たちは茜さんの心づくしの朝ごはんまでいただいた。
 鹿島さんとディーターはゆうべ遅くまでさんざん飲んで、店の奥の部屋で雑魚寝したらしい。
「ディーターったら、はげしく寝ぼけるんやな。知らんかった」
 鹿島さんはぼさぼさ頭のまま、朝食の席で愉快そうに、彼の生態を暴露した。
「夜中に突然起きあがって、英語で『暗いよ。ここはどこ』ってな感じで、寝言を言い出すんや。それも何やしらん、小さな男の子の声で。俺、別人か思うて、びっくりして飛び起きてしもうたわ」
「覚エテナイ……」
「あたりまえや。寝言なんやからな。話しかけたらすぐまた、ぐうぐう寝入ってたし。こっちはしばらく気色悪うて、寝られへんかったわ」
 後から考えれば、ディーターはこの頃から、頻繁に「変わる」ようになっていた。
 でも、当時の私たちには、そのことはわからなかったのだ。


 お盆が終わるとディーターは、深夜から明け方にかけての道路工事に、東灘のほうまで出かけるようになっていたし、私も部活が再開して、二人の時間はなかなか合わなかった。
 それ以外にも彼とは、2日間ほどまったく連絡のとれない日があったりして、私たちがふたたび約束して出かけることができたのは、夏休みももうあと数日で終わるという日だった。
 東京のスタジオでお正月用の時代劇の収録があり、しかも大掛かりな立ちまわりのシーンがあるとかで、鹿島さんと祖父は二人とも4日間の予定で上京していた。
 当然、稽古もお休みで、私たちは藤江おばさんに後を託して、三時ごろ家を出て、JR西ノ宮駅から電車に乗った。
 長田駅から北向きに、山のほうにしばらく坂を登った。復興が進みあたりの景色が変わったせいで、少し道に迷いかけたけれど、無事1年ぶりに私の親友に再会を果たすことができた。
「ディーター、私の一番仲のいい友だち、未来(みき)ちゃん」
 灰色のまだ新しい墓石を、そう紹介した。
「未来ちゃん、隣にいるんが、ディーター。私の彼」
 お花とお線香を供えると、墓の前で、しゃがんで手を合わせた。
 ディーターも隣にしゃがむと、同じように手を合わせた。
「ほんとは、いつも誕生日の8月20日に来てるの。今年は、なんか来そびれてしもうて」
 お参りが終わると、私は問わず語りに話し始めた。
 未来ちゃんは、私の小学校からの友だち。5年のときにおばあちゃんの家に引っ越すことになってこの長田区に来るまで、毎日遊んでいた親友だった。
 あの阪神大震災のあった日、古かった家はひとたまりもなく崩壊し、一階に寝ていたおばあちゃんとお母さんは、即死。2階にいた未来ちゃんと4つ年上のお姉さんは、家の屋根や柱や家具に挟まれた。お父さんは単身赴任中で無事だった。
 お姉さんは真っ暗闇の中、なんとか隙間から脱出すると、未来ちゃんを助け出そうとした。でも、完全に屋根の下敷きになって、かろうじて手が見えて声がするだけだった。
 お姉さんは必死になって、近所の人や警察に助けを求めたが、ジャッキとかクレーンとかがないから、為す術がないと言われてしまった。
 そのうち、長田の町を大火が襲った。お姉さんは髪の毛がチリチリになるまで、未来ちゃんの手を握っていた。
「未来ちゃんは、すごくか細い声で、お姉さんに言うたんやて」
 おねえちゃん。私はいいから、早く逃げて。
 私は目をしばたいて、こぼれ落ちそうな涙を追いやった。泣く自分を見せたくなかった。
 でも、隣に立っている彼を見上げて、驚いた。
 彼の翡翠色の目から、幾筋もの涙がこぼれている。
「ボクノ、マチモ、同ジ。火事デ、燃エタ。タクサン。子ドモノトキ」
 彼は指の背で、目をぬぐった。
「ディーター! 思い出したの? 子どもの頃のこと」
「ワカラナイ。……今、見エタ、ダケ」
「ほかに、何か、思い出さない?」
 彼は強く、首を振った。「思イ出シタク、ナイ」
「そうか……」
 私たちは、しばらくお墓の敷石で、落ち着くまで黙って座った。
「なんだか、とても不思議。生きてるって。死ぬのと、ほんの少しの違いしかない」
 私は、ぼんやりと色褪せはじめた夕方の青空を見つめながら、ぽつりと言った。
 でも私たちは、生きてる。今この瞬間も、人を愛して、求め合って。
「円香」
 ディーターは、私の手を握った。
「結婚、シヨウ」
「ええっ」
「円香ト、一緒ニ、イタイ。一生、暮ラシタイ」
 彼の目を覗きこんで、息がつまった。
 恐ろしいほど、身がすくみあがるほど、彼は本気だった。
「結婚……、考えたことなかった」
「結婚スレバ、日本ニ、ズットイラレル。ドコニモ、行カナクテ、スム」
 きっと、予感していたのだろう。
 もうすぐ私のもとから、去らねばならなくなるのを。
「わたし……」
 観念した。もう誰が何と言おうと、私は彼に捕まってしまっていたのだ。
 勢いよく彼の胸に頭から突っ込んで、言った。
「いいよ。結婚しよう」
「円香」
「私、ディーターのこと、好き。死ぬほど、好き。もう、わけわからないほど、好き」
 私たちは、もう絶対離れない、とでも言うように、抱き合ってキスした。
 今でも思い出すと、笑ってしまう。悲しくて、おかしくて。
 私たちのプロポーズは、墓地の中だったのだ。
 未来ちゃんに悪かったかなあ。ううん、きっと喜んでいてくれたと信じたい。


 私たちは三宮で途中下車して、中華街で晩ご飯を食べた。婚約祝いだと、貧乏な私たちにしてはすごく奮発して、いっぱい注文して食べまくった。
「ねえ。ディーター。私と結婚すると、葺石流の師範になるんだよ」
 と言うと、彼はすごくむせていた。
「ホ、ホントニ?」
「うん。今までのとこ、世襲制やからね。まあ、14代目が青い目の外国人、ていうのも、なんかおもしろくていいかも」
「ダイジョウブ、カナ」
「大丈夫よ」
「師範ハ、恒輝ト、円香ト、結婚サセタカッタ、違ウ?」
「やだあっ! ない、ないって。そんなの。いざとなったらお父さんに形だけ継いでもらって鹿島さんに任せるって、おじいちゃん言うてたこともあるもん」
「ドクトル・フキ、ガ、師範?」
「きゃはは。最弱の師範やんか」
 それから、元町通から三宮センター街と、ウインドウショッピングして回った。
 私たちはその間、ずっと身体のどこかを触れ合わせていた。
 私はもともと、街でこれみよがしに引っ付くカップルを苦々しく思っていた方だ。電車の中で恍惚とキスしてるような輩には、「あーあ、ばかとちゃうか」と、冷笑を浴びせるタイプの人間だったのだ。
 でも、当事者になってしまった。
 身体が、熱い。しびれている。
 好きな人と触れていることが、こんなにも強烈な感覚だったなんて。
 正直、おじいちゃんも鹿島さんもいなくて、藤江おばさんも帰ってしまった家にふたりで戻ったとき、どうなってしまうのか考えただけで茹だりそうだった。
 センター街からいったん外に出て、阪急三宮駅に向かっているときだった。
 阪急の高架下で騒ぎが起きているのが、まず見えた。
 近づくと次第に、怒号、奇声が聞こえる。
 高架下の狭い通路で、数人の茶髪の暴走族の風体の集団が、同じくひとりの茶髪の男を袋叩きにしているのだ。一方的にやられている男は、もうかなりボコボコに殴られ蹴られている様子で、すでに血が見える。
 周りにいる人々は、嫌悪の表情を浮かべて、通りすぎるか、遠巻きに眺めているだけ。
 状況を見れば、ヤンキー同士の内輪もめという感じはする。
 さわらぬ神にたたりなし、か。
 隣にいるディーターが、歯をギリッと噛むのが聞こえた。
 ああ、そうだった。
 この男は、苦しんでいる者を放っておけないのだ。
 私は、こう言うべきだったのだろう。
 やめとき。もうすぐ、警察が来るよ。巻き込まれたら、怪我や済まへんよ。
 でも、言えなかった。ディーター以上に、私が腹を立ててしまったのだ。
 ここで見て見ぬふりをしたら、もう武道家じゃないでしょ。
 ディーターが私と握っていた手に、力をこめた。私は、それに握り返した。
 もうそれで、お互いの意志は伝わった。
 私はバッグから折り畳み傘を取り出し、柄の部分を引っ張り出し、剣道の竹刀のように握った。
「助けたら、すぐ逃げる。わかった?」
"Ja. Meine Dame.(はい、奥さま)"
 彼は微笑むが早いか、走り寄って人垣を押し分け、早口のドイツ語でなにごとか叫んだ。
 前に鹿島さんが言っていたことがある。
 けんかと値切りは、自分の母国語でやれ、と。
 へたに相手のことばで相撲をとるより、自分のペースに巻き込めるからだ。
 まさにディーターは、相手の度肝を抜くに十分な、ドスのきいたドイツ語を叩きこんだのだ。
「なんや、てめえは!」
「うぜえな、やってまえ!」
 反応は、ありきたり。幼稚園児なみ。
 ディーターは、軽く握った拳を脇に垂らして構え、殴りかかってきた一人を、左の脚の目にもとまらぬキックで迎撃した。
 やった。これが、タイのキックボクシング、ムエタイ。
 二人目は、横からの回し蹴り。
 わずか数秒で、二人が舗道のマットに沈んだ。
 私は、ディーターが5人を相手にしても、負けるなんてハナから思っていなかった。
 ムエタイの実力だって、まだ彼は全然出していない。
 腕を構えていないのがいい証拠だし、何よりもプロのムエタイ選手なら、キックで木の厚い板をやすやすと打ち抜くと言われるほど、強烈なのだ。1年の修行ではそこまでいかないとしても、ディーターの脚力も相当なものだろう。
 と、見とれている場合では、ない。
 私は、リンチを受けていた男を助けるべく、車道から入りこんだ。男の襟を鷲づかみにしながらポカンと闖入者の方に気を取られている一味のひとりの虚をついて、折り畳み傘で打ちかかった。
 まずは、面。そして、喉に突き。
 あっという間に、女物の折り畳み傘はおしゃかになってしまったが、敵はのけぞって目を回した。
「だいじょうぶ?」
 私は、やられていた男を助け起こした。
 ところが男は私を突き飛ばすと、最初よろよろと、あと脱兎のごとく逃げ始めた。
 何や。じゅうぶんまだ体力あるやんか。
「待って。警察にちゃんと、届けてよ」
 と、背中から怒鳴った私のことばが届いていたとは、思えない。
 ディーター、逃げよ。
 彼に振り向いて呼ぼうとした私の口から、代わりに短い悲鳴が洩れた。
 三人目を倒した彼は、四人目に蹴りを食らわしたところだった。その四人目はあっぱれにも彼の蹴りに耐えきると、ふところからナイフを取り出したのだ。そして、上着の身ごろの陰に隠し持ち、ディーターからはそれが見えない角度で近づくと、いきなり切りつけた。
 咄嗟にディーターは、後ろに引いてかわしたが、右の二の腕にナイフの切っ先がかすり、皮膚を引き裂いた。
 血が、スプレーの液体のように、空中に小さい飛沫をあげた。
「ディーター!」
 私は、叫んだ。
 その、次の瞬間。
 全く使おうとしていなかったはずの彼の左のストレートが、ナイフ男の顔面を正確に捕えた。
 ぐしゃっと嫌な音がして、男の口から血が噴き出した。スローモーションのように倒れ伏す、その右半分の顔は、醜く変形している。多分、頬骨は砕けていただろう。
 ディーターは、意識を失った男の手からナイフをもぎとって、左手に収めた。
 そして、自分の血で濡れた刀身を、ゆっくりとしゃぶった。
 赤く染まった唇を、薄く笑みの形にすると、彼は言った。
"Who's gonna be the first?(誰が最初だ?) "
 私は、あえいだ。
 彼は、ディーターではなかった。
 その、氷のような瞳。
 悪魔を思わせる、残忍な微笑。
 同じ声のはずなのに全く違う、抑揚のない冷たい響き。
 そうだ。私はこれを見たのだ。彼が私の家に来た最初の朝。
「ディーター、逃げるよ!」
 かすれた声で呼んだ。
 でも、彼は聞いている風すらなかった。
 茶髪グループに向かってナイフをかざし、一歩踏み出す。
 殺される。こいつら、皆殺しになる。
 戦慄が背中を駆け抜ける中、そう直感した。
「ディーター!」
 なおも、必死で呼びかけた。
 パトカーのサイレンの音が、猛烈な勢いで迫ってきた。
 警察がここに来たら。
 奴らのひとりに重傷を負わせてしまったディーターは、どんなに正当防衛を主張しようが、一晩留置から逃れようがない。まして、被害者である当人が逃げてしまったのだ。へたをすれば、彼と暴走族グループとのけんかと見なされてしまう可能性だってある。
 古武道・葺石流の家に生まれ、相当な修羅場だって冷静さを失わない自信があったはずの私が、がくがくと膝をならしながら駆け寄る。
 警察よ。ディーター。逃げよう。
 必死に彼に組み付き、左腕に両手を回して、引っ張る。懇願する。
 逃げて。お願いだから、逃げて。
 どこをどう走ったのか、わからない。
 私たちは、オフィス街の人気のない一角の、ビルの狭間にいた。
 ディーターは、呆けたように壁に凭れて、地べたに座りこんだ。
 私は震える手で、彼の手にしっかりと握られたナイフを取り上げようと、一本いっぽんの指をこじあけていた。
 ナイフがアスファルトの上に落ちると、涙を懸命に押し戻しながら深呼吸して、バッグから大判のスカーフを取り出した。
「ディーター、ディーター、しっかりして」
 私は、彼にというより、自分に言い聞かせるようにそう囁きながら、右腕の傷にスカーフをきつく巻きつけた。
 ディーターは、うつろな目を宙に漂わせ、カタカタと小刻みに震える歯と唇に押し当てるように拳を組んで、その間から低く呟いている。
"Sancte Deus. Sancte fortis. Sancte misericors salvator, amarae morti ne tradas nos."
 うわごとのようにしか聞こえなかったが、後で、ラテン語の古い祈祷文だったことを発見した。
『聖なる神、聖なる救い主、我らを渡したもうな。無慈悲なる死の手に』
 私はぽろぽろ涙をこぼしながら、彼の首にしがみついた。
 数十分して、ようやく落ち着いたディーターと私は、家路についた。
 ゴメン。道々、ディーターは、何度も言った。ゴメン、円香。
 何で、あやまるの。
 ボクノ、頭、オカシイ。
 けんかの途中から何も覚えていないという。ナイフをなぜ自分が握っていたかということも。
 家に着いたのは、もう真夜中だった。
「とにかく、座って。傷の消毒、ちゃんとしないと」
 彼を家に上がらせると、薬箱を取りに道場へ走った。
 廊下を渡る途中、突然、電話が鳴った。
 私は何かの予感がして、飛びついた。
「もしもし」
「円香か。俺や」
 お父さん。涙がどっと堰を切ったように、溢れるのを感じた。
 お父さん。お父さん。
 良かった。神様が、心を通じさせてくださったんだ。
「い、今、電話しようと思ってたところやった。お父さん、助けて」
「円香、ディーターは、そばにいるか?」
 父は全く私の叫びに気づいていないように、低く尋ねた。
「えっ?」
「ディーターは、この電話が聞こえるところにいるか」
「ううん。居間にいてる」
「そうか」
「お父さん、ディーターが今日、大変やってん。けんかして、まるで別人みたいな目になって」
「円香、よく聞け」
 またも父は、私の必死の訴えをさえぎった。
「グリュンヴァルト博士が、死んだ」
「ええっ!」
 ディーターのお父さんが? まさか。なんで?
「俺は今から、そっちに行く。一番早い便で乗り継いで、あしたの昼、着く」
「お父さん。何、言うてんの。ディーターがそっちに帰るんやろ。その方が早いやん」
「円香、博士が死んだのは、もう4ヶ月も前だ」
 4ヶ月?
「スイス国境近くの別荘で、昨日発見された。死体は庭に埋められていた」
 死体が? 埋められていた?
「博士に一番最後に会うたんは、ディーターなんや」
 内臓がすとんと下がるのを覚えた。
「円香? だいじょうぶか」
「う、うん」
「円香、しっかりしろ。ディーターにはこの話はするな。俺が帰るまで黙ってろ。いいな」
「お父さん……」
 お父さん、もう遅い。
 私は後ろを振り向きながら、受話器に向かって声を搾り出した。
 廊下の端に、ディーターがいた。
 すべてを了解した絶望の目で、私を見ていた。
「ディーター……」
 彼は、声を失ったように喉に両手を当てると、かすれた音を立てた。
"Er hat keinen Kopf……."
 受話器のかなたのヨーロッパで、父が叫んでいた。
「円香、ディーターは、今、何て言ったんや。円香!」
「わからない……。ドイツ語やと、思う。エアハ、カイネ、コップ…って、聞こえた」
 父は、沈黙した。
『首が、ない』
「えっ?」
「円香……。 グリュンヴァルト博士は……」
 発見された死体には、首がなかった。鋭い刃物のようなもので切断されていた。
 首だけは、まだ見つかっていない。
 私は受話器を握り締めたまま、ずるずると床に座りこんだ。
 暗黒のとばりの中に、引き込まれるように。

Chapter 4 End


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