真夜中の2時、柏葉恒輝が自転車を漕いで、はるばる尼崎から来てくれた。 「ごめん、恒輝。こんな時間に。おじいちゃんも鹿島さんも、東京に行ってて……」 彼は、涙でまだら模様を描いてさえいた私の汚い顔をちらりと見て、ぽんと肩を叩いた。 「ディーターは?」 「居間にいる。だけど……」 驚かないで。 そのことばが出ないうちに恒輝は、居間のふすまを開け放ち、喉がつまったような声をたてた。 「……どうなってるんや」 ディーターは居間の隅に、膝を抱えてうずくまっていた。 ぼんやりとしたその表情は、明らかに幼児のものだった。 「声が出ないみたいやの。何かしゃべりたそうにするんやけど、口が動くだけ」 私の一本調子の説明が、恒輝の背後から続いた。 で、絵を描かせたの。これ。 テーブルの上の数枚の広告のチラシの裏を、彼に見せた。 多分5歳か6歳の子の描くような、人や、ぐちゃぐちゃの線や、裏返ったアルファベットの文字が踊っていた。 「何が、起きたんや」 恒輝は紙をくしゃくしゃにすると、ディーターの胸倉を無理やり掴み、怒鳴った。 「何が、起きたんや。おい、ディーター!」 「やめて! 恒輝!」 ディーターはそれを振りほどき、亀のように頭をすくめて両手で抱えると、腕の隙間から、反抗的で卑屈な瞳で恒輝を睨んだ。 「何なんだよ、いったい」 恒輝はぺたりと胡座をかくと、首を振った。 私はぼつりぼつりと、今まであったことを話した。 ディーターはお父さんの患者で、精神の病を持っていること。 このところ急に記憶が途切れ始め、そのときは別人のようになってしまうこと。 ついさっき、父親の死を知って以来、今の状態が続いていること、など。 「……親父さん、明日、帰ってくるんやな」 「うん……」 「明日まで、このまま、見てればええのか」 「薬を飲ませて、鍵のかかる部屋に閉じ込めろって」 「何や、それ。まるで重罪人扱いやないか」 私は、言えなかった。 彼に、養父を殺した嫌疑がかかっていることを。 「暴れると、危険だから」 「……わかった。手伝う」 私は薬箱から取り出した薬を、粉にして水に溶かした。 「……は、あるな。それを、○錠、いっぺんに飲ませろ。」 父が電話で口にしたのは、どこにでもある鎮痛剤の名前だった。この手記でその名前と数量を伏せるのは、これが緊急事態で、医師の指示で初めて許される危険な措置であるからだ。 「ディーター、飲んで」 幼い子を抱きかかえるようにして、彼の口にコップをあてがった。彼は抗うこともなく、諦めきったように、こくんと喉をならして飲みこんだ。 ほどなく、ぐったりした彼を背中に背負った恒輝を、もと父が使っていた部屋に誘導した。 そこはこの家で唯一の洋間で、たくさんの医学書と机と患者用のベッドは、父がここで開業していた頃そのままに保存してある。 そして、ここだけは外側から鍵がかけられるのも、精神科医としての特殊な状況を考慮してのことだった。 ディーターをベッドに寝かせると、私たちは黙って居間に戻った。 恒輝は腰をおろすと、吐き出すように言った。 「あんなディーター、見たくなかったよ」 私も。見たくなかった。 つい数時間前まで、彼はあれほど優しかったのに。 私たちは、幸せの絶頂だった。いつまでも、いつまでも一緒にいられると思っていたのに。 「師範と師範代は?」 恒輝の問いが、私を感傷から引き戻した。 連絡はとれたけど、抜けられない、大事な仕事やから。今日、夜中の撮影が終わったら、おじいちゃんだけ戻ってきてくれるって。鹿島さんはあさってまで戻られへん。 「俺、明日いっぱい、ここにいてやるよ」 「ごめんね。受験生やのに。予備校、あるのに」 「お前のため、だけやない」 私は、涙をふいて頷いた。 ちょっと今のうちに、ディーターのアパートへ行ってくる。血だらけの服着替えさせたいし、要るもん取って来る。 彼のポケットから抜いておいた鍵を手に、夜の町を走った。 誰もいないアパートの明かりをつけ、奥の部屋のクローゼットを開けた。 ハンガーにかかっているTシャツとジーンズ、引出しの下着などを手早く引き抜くと、入れ物を探して、クローゼットの奥の床に置いてある紙袋を見つけた。 そこには、何着かの衣類がすでに無造作に突っ込んであった。 黒のシャツとスラックス、黒のジャケット。 ディーターが着ているのを、見たこともないようなもの。 全身の肌が粟立つのを覚え、あわてて立ちあがった。 そして、台所わきのバスルームに飛びこんだ。 もどかしさのあまり、乱暴に洗面ユニットの鏡面の扉を開ける。 果たして、私の予想していたものはあった。 黒色のヘアーダイ。ボトルは8割方、空になっている。 私は混乱して、髪をくしゃくしゃとかきむしった。 ディーター。あなたは、誰だったの。 私の知っていたあなたは、本当は、誰だったの。 バスルームから出ると同時に、玄関の扉が開いた。 立っていたのは、見知らぬ女性。 黒い装束に身を固めた、外国の人。 「誰っ?」 私の叫びに、はっとして女はとびのいた。 後を追いかけて裸足で外に飛び出たが、もうそのときには、影も形もなかった。 まんじりともしない夜が明けたあと、朝一番の飛行機で祖父が帰ってきた。 私のつっかえながらの説明を黙って聞くと、深い吐息をついた。 惣一郎のやつ、まだ、わしらに何か隠していたようやな。 昼過ぎ、タクシーで空港から乗りつけた父が、玄関に駆け込んできた。 「お父さん」 恥ずかしながら、父の胸にとりついて、わあわあ泣いてしまった。 ボストンバッグとともに、大きな黒い医師用カバンをどすんと居間の畳に置くと、父は私たちの知りうる限りの全ての説明を求めた。 こういうときの父は骨の髄まで医者なので、久しぶりの親子の会話も、余談も世間話も、一切入りこむ余地はない。非情すぎて、かえって小気味がよいほどだ。 父、惣一郎は、45歳。 性格は、とにかく直線的。 物腰も、しゃべりかたも、何かに突っ込んで行くようだ。 まわりに言わせると、私はそういうところがそっくり、なのだそうだ。 父への報告は、ほとんど私がひとりで、しゃべりっぱなしになった。 結婚の約束をしたくだりは、さすがに父も祖父も、恒輝までしばらくどよめいていたが、そのほかは相槌もなく、私以外はみな一様に静まりかえっている。 真夜中に彼のアパートで発見した黒い服と、訪れてきた見知らぬ女性のことで、話をしめくくった。 父は、しばらく押し黙っていた。 正月に会ったときより、頂きに白いものが目立つ。少し痩せてもいるようだ。 「ディーターに、会おう」 結論だけ言うと、父は立ちあがった。 「おじさん」 廊下に出たとき、恒輝が後ろから叫んだ。 「教えてくれよ。ディーターの病名。あないになるなんて、いったい何の病気なんや」 父は立ち止まり、半分振りかえると、苦悩の表情を浮かべた。 「解離性同一性障害」 「え?」 「いわゆる、多重人格のことや」 私は、めまいを起こしかけた。 多重人格。 そう考えれば、すべての辻褄が合う。 突然、冷酷な表情を浮かべていたことも。自分の言ったことを覚えていなかったことも。夜中に子どもの声で起き上がったことも。幼児のような絵しか描けなかったことも。黒い服を着て外出していたことも。 そして。 私に結婚しようと言ってくれたディーターは、その中のたった一つの人格にしか過ぎなかったのだ。 恒輝が私の背中をそっと拳で突付いたので、私は正気にもどり、父の部屋の鍵を開けるため小走りに父を追った。 ディーターは患者用のベッドで、静かに仰向けに眠っていた。 もう、あれから半日もたち、薬の効き目もとっくに切れていても不思議はなかったのに。 眠っているというより、全ての外界との接触を遮断して、横たわっている、そんな感じがした。 "Dieter, Hoerst du mich?(ディーター、聞こえるか。)" 父は彼の額に手を置き、愛情と厳しさをこめた声で、話しかけた。 "Ich moechte dir helfen. Keine Furcht, aber komm zurueck !(きみを助けたい。こわがるな。戻ってこい。)" ディーターは、ゆっくりと、目を開いた。 そして、父に真っ直ぐ、澄んだ青緑色の瞳の焦点を合わせた。 "Doktor Fuki " 「ディーター、だな」 「ハイ……」 私はもう堪えきれなくなり、彼の肩にとりすがって泣きじゃくった。 ほどなく父の命令で、私は食事を整えにしぶしぶ台所に向かった。 シャワーを浴び、服を着替え、食事をしたディーターは、少し弱々しくはあったが、いつもの彼に戻ったように見えた。 誰も見ていない隙に、私たちはキスまでした。 重要な問題が何も解決していないのにもかかわらず、私はもう全てが元通りなのだと錯覚した。 父が食事のあと、口を開くまでは。 「ディーター、もう、いいか」 「ハイ……。ドクトル」 「今から、診察を行なう」 ディーターは、屠殺場に引きずり出される動物のような不安に怯えた目をして、従順に頷いた。 「待って。お父さん。もう少し、落ち着いてから」 「円香」 父は、険しい表情で私を見つめた。 「おまえは、口出しするな」 「せめて、せめて、私も一緒にいさせて」 「あかん。邪魔や」 「ボクモ、円香ニ、イテ、ホシイ」 ディーターが、すがるように言った。 「お願い。お父さん」 つらい思いをするのは、おまえなんやぞ。 口には出さないが、父の眉間の皺がそう語っていた。 「わかった。その代わり、親父と恒輝くんにも入ってもらうぞ。いいな、ディーター」 「ハイ」 「手伝ってもらうで。いいな、恒輝」 「ええけど、何を手伝うんですか?」 「いざというとき、ディーターを押さえつける。暴れるようなら、失神させろ」 その、あまりにも悲惨な状況を予測させることばに、恒輝は顔色を失った。 私たち5人は、父の自室兼診察室に入った。 上半分を起こした患者用ベッドに、ディーターが座る。 父はその正面の腕付き椅子に陣取る。 私はベッドのそば、絨毯の上に座りこみ、祖父と恒輝は、ディーターから見えない後ろの位置の丸椅子に腰掛けて、待機した。 父は、小型のカセットレコーダーにテープを入れて準備する。精神科医の必須アイテム。 この手記を書くにあたって、父からこのテープの記録を翻訳したものをもらっている。父とディーターとの会話は、このあとずっとドイツ語になるからだ。 その当時は、二人のやり取りを、表情や息遣いで判断するしかなかった。 『深呼吸をして。深く、深く、息を吸い込み、ゆっくり、吐く』 父のことばは、催眠術をほどこしているかのように、静かな調子でしばらく続いた。 『日本へ来てからのことを、聞こう』 『はい』 『記憶が途切れたことは?』 『最初の日から。空港からここに向かう途中。気がついたら、門の前に立っていました』 『そのほかには?』 『何回か。数分のことも、2,3日のことも、ありました』 『何か、変わったことは?』 『朝、起きたら、服が変わっていたり、見たこともないものが部屋にあったり』 『頭痛は?』 『あります。ほとんど、毎日』 『離人感は?』 『一日に、3,4回』 私は今これを書きながらでも、驚きを禁じえない。ディーターは、こんなに多くの症状を抱えながら、私たちの前ではそぶりも見せず、いつも優しくふるまっていたのだ。 『自殺衝動は?』 『日本では、1度もありません。バンコクで睡眠薬を大量に飲んで、入院したことがあった』 『なぜ、ケルンで診察に来たときに、そのことを話さなかったんだ?』 『言えば、病院に戻されると思ったから……。もう、日本に行けなくなると思ったから』 ディーターの泣きそうな表情を見て、私は思わず、彼の手を握り締めた。 父はずっと後になって、ウイスキーのグラスを弄びながら、ぼんやりと呟いたことがある。 「結局俺は、ディーターの信頼を得られていなかったんやなあ。患者に隠し事をされる医者なんて、ほんまに医者失格や」 父の問診は、彼がイスタンブールや香港にいたころまで遡った。 彼は世界中を旅している間も、頻繁に記憶を失い、あるときは全く別の国にいたことも、見知らぬ他人の家の中にいたこともあったという。その長さも、数時間から数週間、そのたびに彼は日付が全然わからなくなっていた。 その絶望感と苛立ち。最後にはいつも自殺を考えたと、彼は淡々と話した。 でも、日本ではそうではなかった。 『円香がいたから。師範も、鹿島さんも、藤江さんも、恒輝も、僕の本当の家族みたいだった。僕は初めて、ここで生きたいと思う場所ができた』 ディーターはこう言ったとき、涙をためて微笑んでいたと記憶している。 でも父はあくまでも冷静に、質問を進めた。 『ドクトル・グリュンヴァルトの別荘にいたときのことを、聞きたい』 『……』 『別荘を発ったのは、日本に向かう前日、4月28日のことだったね』 『はい』 『最後に、何を話した?』 『日本は、どんな国か、とか。何をしたいか、とか……』 ディーターは奇妙な、曖昧な表情を浮かべて、押し黙った。 『別れるとき、博士はどんな様子だった』 『覚えて、いません』 『きみは、そのあと俺に電話したね。今から日本へ出発すると言って。ドクトル・グリュンヴァルトは夏じゅう別荘で静かに過ごす予定だから、心配しないでほしいと伝えてくれたね』 『……覚えて、いません……』 数十秒の、沈黙があった。 『ディーター、今からユーウェンを呼ぶ。いいね』 "Nein !" 彼は悲痛な叫びを上げると、ベッドから身体を浮かせた。 『やめてください。あいつを出しちゃ、いけない!』 『ユーウェンに聞かなければ、博士の死の真相はわからない。きみにもわかってるはずだ!』 『でも、僕は戻れなくなる! このまま、あいつに身体を乗っ取られて、出られなくなってしまう』 『だいじょうぶだ。俺がついている。必ず、出してやる』 『いやだ!』 『ディーター!』 ベッドから逃げ出そうとする彼を、父は押さえつけた。祖父も、恒輝もそれに加わった。 「円香、円香、助ケテ!」 「お父さん、やめて。こんなに嫌がっているのに」 私はありったけの力で、父にしがみついた。 「円香、何してるんや。放しなさい!」 「だって……」 修羅場を終わらせたのは、恒輝の咆哮だった。 「この、あほ!」 そしてディーターの頬を平手打ちする、かなり大きな音。 手加減したんやけどなと、後で恒輝は弁解していたが。 「何をよわっちいこと言うてんねん。おまえそれでも、俺のライバルか! 俺はこんな男に負けてたんか!」 ディーターは目を見開いて、恒輝を見た。 「俺には、何をおまえがそんなに嫌がってるのか、さっぱりわからへんけどな、おまえは、やらんならんことから逃げてるだけやないのか。葺石流の真髄は、俺たちの稽古してきた剣は、おのれに勝つってことやぞ」 恒輝は、捕えていたディーターの首筋を乱暴に離すと、床に視線を落とした。 「いいから、やること、さっさとすませろ。それからまた、俺と勝負せい。今度こそおまえなんかに勝たせへんからな」 「ツネキ……」 ディーターの表情に変化が生まれた。唇を結んで、瞳に静かな意志が形をとった。 『ドクトル、わかりました。始めてください』 それでも、押しこめた低い声を恐怖にかすかに震わせながら、ディーターは決意した。 その後父のしたことは、目をそむけずにはいられなかった。 父はディーターを後手に縛り、罪人を拷問するときのように、床にうつ伏せにころがしたのだ。 「円香、ディーターのそばから離れていなさい」 「お父さん……」 「ユーウェンは、危険すぎる。もっと後ろに隠れてなさい」 私はぶるぶる震えながら、2,3歩、後ずさった。 父は見たこともないほど緊張した面持ちで、しばらく呼吸を整えていたが、ついに鋭い声で言った。 "Ewen, come out.(ユーウェン、出てこい)" そのとき見た光景を、私は一生、忘れない。 天使が堕天使に堕ちた瞬間、というのがあったとすれば、私の見たものがそれだろう。 変化は、2秒とかからなかった。 その瞳の美しい翡翠の色は何も変わらないのに、それは、冷たい氷の色になった。 いつも穏やかに微笑んでいた唇は、少し開くと、醜い憎しみの形に歪んだ。 自らが緊縛されているのを知るや、眉はつりあがり、全身の筋肉が殺気をまとって、よじれた。 私も祖父も、恒輝も、しばらく息をすることさえできなかった、と思う。 "Ewen, it's nice to have you back here.(ユーウェン、よく戻ってきたな)" 父の呼びかけを嘲るように、彼は、ユーウェンは、薄く笑った。 ここからはまた、父のテープの翻訳をもとに、手記を続ける。 使われている言語は、英語だ。 『ユーウェン、久しぶりだな。95年の1月以来か』 応答なし。 『おまえは消えたと思っていたよ。我々の前には、全く現れなくなったからな』 応答なし。 『いくつか質問に答えてほしい。何についてかは、わかっているだろう』 応答なし。 『ユーウェン。俺に協力しないと、ベルファストの刑務所の懲罰房に逆戻りさせるが、それでもいいのか』 『おまえに話すことなど、何もない。ドクター』 『簡単な質問だ。答えろ。イエスかノーか、だけでもいい』 『ふん』 『おまえは、消えていたのがまた生み出されたのか。それとも、我々を油断させるために隠れていたのか』 『眠っていた。かすかに、意識はあったがな』 『あれから最初に出てきたのは、いつだ。イスタンブールか?』 『パリだ。奴らが最初に接触してきたのが、目覚めるきっかけだった』 『奴らとは、誰だ。国際テロ組織のたぐいか』 『話す、必要はない』 『円香がおまえのアパートで見た女も、その一味か』 『話す、必要は、ない』 『おまえは黒い服を着て、髪を黒くして、しばしば出かけていたそうだな。IRAで戦っていたころのおまえの姿、そのままだったな』 『……』 『わかった。別のことを聞こう。他のみんなのことを教えてくれ。全員のことを知っているのは、おまえだけだからな』 『そう、だな。俺だけだ』 ユーウェンは小ばかにしたように、喉の奥で笑った。 だが、今までとはうってかわり、饒舌になった。 彼にとっては、他人に吹聴したい苦労話だったのかもしれない。 『ダニエルは? どこに、いる?』 『俺たちの「宿主」なら、一番奥で寝ている。誰も人のいない、夜中にしか起きてこない。それもすぐに引っ込んじまう』 『ケヴィンは?』 『ついゆうべ、外に出て、そこにいる奴らに会ったんじゃないのか。字や絵を書かされてたぜ。相変わらず口がきけないからな。あいつは』 『ルイは?』 『俺が、消した』 『消した?』 『吸収した、というべきかな。あいつは、厄介な奴だった。いつも死にたがっていた。タイで睡眠薬自殺をはかったのも、奴のしわざだ。俺がそのときに無理やり力ずくで奴を壊して、吸収した。多分、もう出てこない』 父が、畏怖にうたれたように大きく深呼吸するのが、聞こえた。 『ディーターのことを、どう思っているのか、聞かせてくれ』 『あいつは、腰抜けだ』 即答だった。 同時に、ものすごい背筋の力で後手に縛られたまま起き上がって、壁を背に、憎悪を顕わに、部屋にいる私たちを見渡した。 『あいつは、自分だけいい思いをして、辛いことや苦しいことが起きると、みんな他人に押しつける。ダニエルそっくりだ。人からの好意や笑顔を一人占めにして、醜いことはなにも見ないように、目を瞑っているだけだ』 『ディーターを、憎んでいるのか』 『あいつも、いずれは消す』 しばらくの、沈黙。 『グリュンヴァルト博士を殺したのは、おまえか』 『やっと死体が、見つかったんだってな』 『別荘の書斎の机の上に、この文章を走り書きしたメモが遺されていたらしい』 父は用心深く、数歩歩み寄ると、1枚の紙を、ユーウェンの目の前にかざした。 "Der Teufel hat wieder zum Leben gekommen." 『何て、意味だ』 『「悪魔が、生き返った」、だ』 『ふっふふ、いひひひ……』 ユーウェンは、ぞっとするような狂人の笑い声をあげた。 『おまえなんだな、博士を殺したのは。ユーウェン!』 『とても驚いた顔をしていたよ。悲しい顔、かな』 含み笑いとともに、詩をうたうようにゆっくりと彼は答えた。 『金庫の中のものが、全部なくなっていた、と聞いたが』 『ああ。ナイフを突きつけて、開けさせた』 『なぜ、そんなことを……。ディーターにとっても、つまりはおまえにとっても、恩人だったかたじゃないか!』 『だからディーターは、あのじじいの死体を見下ろしたとき、たまげてたぜ。自分の手にナイフが握られてたんだからな』 『ディーターに、見せた……のか』 『全くずるい奴だぜ。あまりのショックに、急いで別の新しい人格を作り出しやがった』 『何だと……』 『カンボジア人の農夫だ。俺は、「ボディスウィーパー」(死体処理屋)と名づけたがな。そいつが首を切り取って、庭に穴を掘って死体を埋めたのさ。まるで、地雷を処理するときのように黙々とな』 父が、ことばにならない大きな叫びを上げて、ユーウェンに殴りかかった。 あんな姿の父を見たのは、初めてだった。 そのとたん、ユーウェンの手を縛っていたはずのロープが、するりと抜けた。 饒舌にしゃべっていたと見せかけて、その隙に私たちの目を盗んで、巧みにほどいていたのだ。 すばやく立ち上がると、父の腹部に膝蹴りを食らわせ、その身体を祖父や恒輝の方に突き飛ばして、余勢をかって矢のように部屋から飛び出した。 「逃がすな! 恒輝!」 祖父が、怒鳴った。 恒輝は真っ先に、彼の後を追いかけた。ついで、祖父、私、腹を押さえてうめきながらも、父。 少しのあいだ、私たちはユーウェンを見失ってしまった。ふたたび濡れ縁で発見したとき、彼の手には抜き身の小太刀が握られていた。 「あれはっ!」 祖父が叫んだ。 うちの家に、代々伝わる家宝、名匠・土岐守の銘のある小太刀。 何ヶ月か前、蔵出しの大掃除をしていたときに、ディーターが手にとって見ていた。 恐ろしそうに、でも、とても興味深そうに。 あれは、ユーウェンがさせていたのか。 「ディーター、待って!」 私は、大声で叫んだ。 彼は私の方をちらりと見ると、いたぶるような笑みを浮かべて、縁側から庭に裸足で飛び降りた。 恒輝がタックルをしかけたけれど、間に合わなかった。 「ディーター!」 私の肺を破るような叫びも、届かない。 彼は、そのまま、門から姿を消した。 私たちが道に飛び出した頃にはもう、どこにもいなかった。 どこかで、車が急発進する音が聞こえた。 「すまない」 父は胡座をかきながら、肩を落として私たちに深々と頭を下げた。 「ユーウェンを、見くびっていた。あんなにやすやすと逃げられてしまうとは……」 「お父さん。ディーターはずっとユーウェンでいるわけではないんやろ。いつか自然に戻れるんやろ」 私は、放心状態をようやく脱していた。 「いや」と父は、沈鬱に答えた。 「ユーウェンは、彼らの中で支配的人格や。彼が自分からディーターに戻ろうとせん限り、もしくは、かなりの疲労や衝撃を感じない限り、ユーウェンのままでい続けることができる」 「そんな…」 「おまけにディーターは、グリュンヴァルト博士の死が、自らの手によるものであることを知ってしまった可能性がある。最悪の場合、彼自身が出てくることを拒否するかもしれん」 「おじさん」 黙っていた恒輝が、口を開いた。 「俺たちにはさっぱり事が飲みこめていないんや。ユーウェンって、一体何者や。ダニエルとかケヴィンとの関係はどうなってる。それにIRAって、俺たちがニュースで知ってる、あれのことなんか?」 国立志望で、私よりよっぽど英語の成績のいい恒輝は、父たちのやりとりをかなり理解していたらしい。 「わかった。はじめから、話そう」 吐息をつくと、父の長い話が始まった。 「ディーターは本当は、ドイツ人ではない。北アイルランドのベルファストの生まれや」 北アイルランド。 ニュースにとんと弱い女子高生の私にも、その国名の意味することは、おぼろげにわかった。 「ユーウェンに初めて会ったときに、1度訪れた。とても美しい国やった。雨に濡れる緑の木々が幻想的といえるほど美しく、理想郷のようだった。エメラルド・アイルと呼ばれている所以だ。 だが、その美しさと豊かさゆえに、そこは、近世から領土争いの標的となった。今でも、イギリスとのあいだに紛争が続いているのは、知ってのとおりだ。アイルランドという島の北半分だけが、ぽっかりと分離しているかたちになっている。 たとえて言えば、そうやな。日本の九州地方だけが、どこか近くの国、たとえば中国とかロシアの干渉を受け、そこからの移民に政治・経済すべてを牛耳られて、日本から独立させられてしまう。それが、今の北アイルランドの状況なんや」 「あそこの紛争は、カトリックとプロテスタントの宗教上の争いやと思ってたけど」 恒輝は、社会学部志望だ。 「それは、あまり正確ではない。確かに、アイルランド系カトリック住民と、イギリス系プロテスタント住民の間の戦い、という見方もあるが、本質は、土地の奪い合いなんや。争っている歴史が長いから、どちらも自分たちの土地だと譲らない。パレスティナ紛争と似ているところがある。 しかも、今言うたように、イギリス系住民が政治経済のほとんどを支配し、アイルランド系カトリック教徒を差別してきたから、対立の構造はますます根深いものがあるんや。 1969年、紛争が本格化してからは、血で血を洗う惨劇が、あの美しい土地で繰り返されてきた…。 ディーターは本名を、ダニエル・デュガルという。1979年、アイルランド・カトリック系住民の子どもとして生まれた。 生まれたときから彼の住む町は、戦場やった。手榴弾が飛び交い、小銃の音が鳴り響き、車や店の商品が日常茶飯事で燃えていた。炎に包まれた街やった」 私は、未来ちゃんの墓の前でディーターが言ったことを思い出した。 『ボクノ、マチモ、同ジ。火事デ、モエタ』 彼は、ベルファストのことを、潜在意識の中で覚えていたのだろうか。 「ダニエルが5歳頃、医師だった父親が、銃撃戦に巻き込まれて死亡した。ほどなく母親も、自宅で火事に会い焼死した。ダニエルは、母方の叔父に引き取られた。 そして、叔父の執拗で残酷な、身体的、性的虐待にさらされることになった」 父はここで、念をおした。誤解しないでほしい。アイルランド人が悪いとか、戦争のもたらした悲劇や、というつもりではない。幼児虐待は平和な国にもある。しかもこのところ明らかに着実に増えている。 「日本でさえ例外ではない。そして、幼児虐待がもたらした一番大きな悲惨な結末が、多重人格として現われる精神障害なんや」 身体的、精神的虐待にさらされる幼児は、防衛本能のあまり、辛い目に会っているのは自分ではない、誰か別の人間なんだ、と思いこもうとする。そして、別の人格を生み出す。そうしないと精神が破綻してしまうからだ。そして、虐待に会っていた間のことはすっかり記憶から拭い去ってしまう。しかし逆にいえば、苦しみを引き受けさせられた側の人格には、虐待を受けている記憶しか残らない。こうして、主人格とは異なった性格と年齢の人格が形成される。 こうして繰り返し虐待を受けている間に、いくつもの人格が次々と生み出されることになる。 「ダニエルは最初、ケヴィンという人格を生み出した。ことばを話すことのできない5歳の男の子や。無気力で、何をされても抵抗しない、ただじっと睨みつける。そんな子。 心の働きの不思議なところや。ケヴィンになっている間、彼は本当にしゃべれない。知力もなにもかもが、5歳に戻ってしまう。演技ではない。 次に、攻撃的で、自傷行為と他への暴力を繰り返す、コーリーンという女の子の人格が生まれた。しかし、この人格はもうない。成長にともない、ダニエルはいくつもの人格を生み出しては、吸収していった。 そして11歳のとき、叔父の家を飛び出すと、北アイルランド独立派の過激テロ組織IRAに、少年兵として加わった。彼のような身寄りのない少年にとって、たとえテロ組織であろうと、居場所を提供してくれる彼らは救いだった。ましてや社会的搾取を受け続けているカトリック系住民にとって、彼らは英雄であり、神様のような存在だったんや。 ダニエルが彼らの一員として、銀行強盗や爆弾闘争に参加したことを、責めることは誰にもできん」 しかし13歳のとき、彼は初めて自分の手で、対立する組織のひとりを射殺してしまった。 もともと信仰深く、優しい性格のダニエルには、殺人という禁忌を犯した衝撃は耐えられなかった。 だがIRAの組織に属している以上、敵を殺すことをためらうことは、自分と組織を危険にさらすことになる。 ダニエルは、人殺しを何とも思わない、冷酷で残忍で、機械のように無慈悲に行動できる人格を生み出す必要性に駆られた。 「それが、ユーウェン……」 「ユーウェン・オニールは、もともと実在の人物だ。IRAで、ダニエルの5才先輩で、黒い長髪をして、黒ずくめの服装を好み、どんな戦場でも的確で冷静な判断をする、少年兵たちの憧れの存在だった。しかし彼は、イギリス系過激テロ組織に自宅前で射殺されてしまった。ダニエルはその現場を目撃していた。 次に彼が他のメンバーの前に現われたとき、黒い服に身を包み、髪を黒く染め、別人のようだったという。彼はそのときからダニエルという名前を捨てて、ユーウェンと名乗った」 父はこれらのことを、当時IRAのメンバーだった兵士に、直接聞いたのだという。 ユーウェンは、その卓越した射撃とナイフの腕を買われて、暗殺者として組織の裏の仕事を任されるようになった。特に、ナイフの扱いは超人的で、彼が切った傷口は血を流さないといわれたほどだった。 彼は1992年から94年にかけて、10人以上を暗殺した。 敵対する組織のリーダーや幹部が彼の手にかかった。特にロンドンでの警察官の連続殺害は、当時のイギリス市民を恐怖のどん底に陥れたという。また、ベルファストやイギリス各地での爆弾テロ事件でも、影の役割を果たしていた。 どんなに人を殺しても、顔ひとつしかめないその冷酷さは、仲間うちからも恐れられていたらしい。 「だが、時代の流れは、着実に紛争終結へと流れていた。 1994年9月、IRAによる完全停戦の発表と、プロテスタント過激派の呼応に端を発して、北アイルランドの住民の中にも厭戦ムードが高まりはじめ、当然IRAの末端でも議論が百出した。 ある者は、強硬に紛争の継続を主張し、ある者は停戦を支持した。分裂が始まり、メンバーはお互いの裏切りに疑心暗鬼となった。 そして……」 ユーウェンのいた支部で、悲劇は起こった。 長い長い激論。いのちを賭けたやりとり。 ユーウェンたちは戦うことを主張した。彼の人格は、そのためだけに生み出されたものだったから。 しかし大多数のメンバーは、彼ら好戦派をののしった。 その夜。 報を受けた警察がかけつけて、メンバー全員を逮捕したとき、そこには、死体と重傷者の血でできた凄惨な絨毯が、織られていた。 ユーウェンは政治犯として判決を受け、その若き日の大部分を少年刑務所で送ることになった。 わずか、15歳のときだった。 「水を、一杯くれ」 父は精魂尽き果てたように、がっくりと首を項垂れた。 私は、ふらつきながら台所に行き、人数分の麦茶をコップに汲んで、戻ってきた。 私たちは、平和な日本ではありうべからざる、遠い美しい国でのあまりにも悲惨な現実にうちのめされ、覚めるまで長い時間を要した。 「惣一郎。なのになぜ、彼はドイツのおまえのもとに、来たんや」 一番冷静で、判断力のある祖父が、長い沈黙に沈む父を促した。 「ユーウェンは刑務所の中で、一切の食事を拒否した。水だけ。いわゆるハンガーストライキや。 IRAの闘争の歴史の中で、ハンガーストライキで餓死することによる、世界への政治的アピールは、しばしば繰り返されてきた。 しかし、それがわずか15歳の少年という事実は見過ごされるわけにいかず、さらに彼の言動に異常なものを感じ取った当局者によって、秘密裏に俺たちがベルファストに呼ばれた。 俺の属している聖ヘリベルト大学の、グリュンヴァルト博士を中心とする研究チームは、カンボジアやユーゴなど紛争地域の少年兵の精神病理について、長い間研究してきた。その実績を買われたらしい。 ユーウェンに初めて会ったとき、彼は懲罰房の暗闇の中で、拘束衣に入れられて、こちらを睨みつけた。 人間というより……いや、言葉が出てこない。精神科医となって初めて出会う、畏怖さえ感ずる目、やった。 行って何回か面会するうちに、彼の中にいくつもの人格が存在する、解離性同一性障害、いわゆる多重人格であることに、我々は気づいた。 我々は治療と研究のために、彼の出所を要請した。かなりの時間を要したが、ユーウェンは精神障害者として仮釈放され、ドイツのケルンに護送されてきた。 俺たちは2ヶ月間、彼の治療を続けた」 わかったことは、彼の中には過去12の人格が存在し、そのうち2人が女性、そして統合、吸収を繰り返し、そのとき残っていたのは4つ、すなわちダニエル、ケヴィン、ルイ、ユーウェンであること、だった。 しかし懸命の治療もむなしく、彼は決して食事をしようとはせず、栄養チューブも点滴も拒否した。 体重は35キロ以下になったという。最後の数日は、水さえ口にしなかった。 彼は、戦いから隔絶された人生よりは、むしろ死を選んだのだろう。 「俺は、奴の枕元に行って懇願した。頼むからこの水を飲んでくれ。生きてくれ。 だがユーウェンは、ひび割れた唇で嘲るように微笑んだきり顔をそむけ、そのまま昏睡状態に陥った。 俺は、あれほど絶望したことはない。 奴の目には、地獄よりなお暗い闇があった。生きるもの全てに対する憎悪があった。 ユーウェンは、人間たちが自ら引き起こした戦争、その中から生み出された悪魔だった」 父はこのことを語ったとき、すすり泣いていたと思う。 私たちからは顔を隠していたが。 昏睡に落ちたことで、ユーウェンは延命措置を施され、植物状態でなお数日永らえた。 そして、1995年1月17日。 阪神・淡路大震災。 父はケルンで第一報を聞き、恥ずかしいほどうろたえながら、受話器にしがみついたという。 不思議なことにその日、阪神間の電話はことごとく不通になっていたのに、ケルンからの交換手を通じての国際電話だけはすんなり通じたのだ。私たちは父の国際電話を中継して、兵庫県の他の親戚や、友人の安否を知ることができた。 ようやく関空行きのチケットが手に入ると、父は全ての仕事を投げ打って、1月18日帰阪の途に着いた。 ユーウェンのことは、諦めるしかなかった。 この昏睡状態から脱してふたたび意識を取り戻すことなど、医者の目から見てありうるはずはなかった。 1月20日、半壊したわが家で、父はユーウェンの心臓が停止したとの連絡を受けた。 私はそのときのことを、はっきり覚えている。父は受話器を握り締めて、いつまでもぼんやり立っていた。 ところが、そのわずか数分後、電話はふたたび鳴った。 心臓が鼓動を再開したという、まさに奇跡のような朗報だった。 父はその結果、荷物をまとめてさっさとドイツに戻ってしまう。 半壊の我が家と、私たちを残して。 けっこう、恨みました、私は。そのとき、父と、生き返ったというその患者さんを。 「ケルンに帰った俺の前で彼が目覚めたとき、ユーウェンはもういなかった」 彼はなまりのない完璧なドイツ語で、自分はディーターというドイツ人だと名乗った。 新しい人格が生まれたのだ。 そして、主人格のダニエルをはじめとする古い4つの人格は、影も形もなかった。 先年引退し、医療チームのオブザーバーとして指導にあたっていたグリュンヴァルト教授は、腰を抜かさんばかりに驚いた。 ディーターというのは、第二次世界大戦中、空襲で命を落とした博士の弟の名前だったのだ。 グリュンヴァルト博士は、ユーウェンの前では、死んだ弟のことは話したことはないという。 「博士は何度も俺に尋ねたよ。東洋の生まれ変わりの思想のことを教えてくれ、とな」 ただの、偶然の一致か。 それとも博士が、彼の前で弟の話をしたことを、単に忘れているだけか。 本当に、生まれ変わりなのか。 今でも、わからないという。 ディーターはやせ衰えた身体を癒しながら2年間、聖ヘリベルト大学付属精神病院で、父たちとともに暮らした。 「聡明で、心の優しい子だったよ。きっと、ダニエルが平和な街で、両親の愛に育まれて15歳まで育ったら、こういう子になっていたんやろうな」 女性職員が、彼を天使のようだと評したという。 いつも人のことを気遣っていた。平和を愛し、諍いを嫌い、困っている人を助けた。 微笑みを絶やさなかった。 努力家で、2年のあいだに独学で高校卒業程度の学力を身につけた。フランス語やスペイン語もまたたくまにマスターした。まるで今までの人生を取り戻すかのように。 病院のスタッフと患者、全ての人に彼は愛された。 「そうだよ。それが、私の知っているディーター」 私は、涙をこらえながら呟いた。 そして最も彼を愛したのが、グリュンヴァルト教授だった。 教授は、ディーターを正式に養子として迎えた。 退院して半年間、彼は新しい父親の引退後の住まいである、スイス国境の別荘で過ごした。 スキーをしたり、釣りをしたり、博士に教わって、歴史や文学や音楽を学んだという。 幸福な毎日だったが、そこには彼の求めているものはなかった。 「ディーターは、人生の目的を、自分が自分として確信をもって生きていくための何かを、自分のアイデンティティを、探していたんやろうな」 悩んだ彼に相談を受けた父は、彼に世界を見て回ることを勧めた。 父自身も若い頃、医者になると決心する前、世界じゅうを貧乏旅行していたことがあるのだ。 葺石流の後継者として生まれながら、それに人生を賭けられなかった負い目。 そんなものから逃げて考える時間を、父は欲しかったのだという。 17歳のとき、ディーターは父の勧め通り、最初はヨーロッパ、次にアジア各地を旅するようになった。 そのうち武道に興味を持ち、少林寺拳法やテコンドーをかじり、ついにはタイで、ムエタイの指導者のもとに弟子入りした。そして、父との話から次第に日本に憧れて、日本の武道を修めたいと望むようになった。 「いつのまに、ユーウェンが、ほかの人格が姿を現わしたのか、俺は全く気づかなかったんや」 父は、自分を責めるように呟いた。 国際テロ組織と呼ばれるものが、そこに介在した。 IRAは、世界各国のテロ組織とのネットワークを作り上げていた。 世界じゅうの、不当に住む場所を取り上げられ、搾取に甘んじている人々。それを、暴力という手段で取り返そうとする者たちが生まれ、互いに手を結ぶ。 ついには、世界同時多発テロという方法で、人々に自分たちの主張をアピールしようとする。 そして、彼らはユーウェンの存在を欲した。 ダニエル・デュガルというアイルランド人は社会的にこの世から消えても誰も気にもとめないが、ユーウェン・オニールという卓越した殺人者を、彼らは求めて、接触を試みてきたのだ。 ユーウェンは、戦いという自らの居場所を彼らに与えられて、もう一度よみがえった。 争いを好まないディーター・グリュンヴァルトの中に、こっそりと自分を隠して。 そして、ディーターを凌駕するほど強力な存在となって、今、前面に現われたのだ。 「お父さん。ユーウェンのことを支配人格と、さっき言うたね」 「ああ。普通、多重人格のひとりひとりは、お互いのことを知らない。多分ディーターも、ユーウェンになってる間のことは何も覚えてないはずや。だがユーウェンだけは、他の人格のことが全て見えてる。そういう人格のことを、支配人格、リーダー人格と呼んでいる」 「それじゃディーターは、ユーウェンに勝てへんの? ユーウェンをもう一度、消すことはできひんの?」 父は、黙ってしまった。 ユーウェンは、ディーターを憎んでいる。ディーターを消したがっている。同じ土俵の上で戦うことさえできないのに、ディーターはユーウェンに勝てるのか。難しいだろう、と父は認めた。 もしかして。 次に会ったとき、ディーターは存在さえしていないのではないか。 私はそこまで考えたとき、すっと意識が遠のくのを感じた。 結婚するんだよ。私たち。そう言ったやない。約束したやない。 戻ってきて。ディーター。私に笑いかけて。 私は涙を浮かべながら、父の腕の中で昏倒していた。 |