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EWEN

Chapter 6

 5ヶ月がのろのろと過ぎた。
 私は17歳になった。
 秋になるとすっかり、普通の女子高生としての生活が始まった。
 体育祭があり、中間テストがあり、文化祭があり、期末がある。
 部活がある。練習試合や、公式試合がある。
 友だちとのおしゃべり。
 家に帰れば、藤江おばさんと夕食の支度。
 道場からは、稽古の音がしている。
 祖父と、鹿島さんがいれば鹿島さんとの、夕食。
 テレビ。CD。まんが。
 今までずっと、これと同じ毎日を送っていたはずだった。
 なのに私の心はいつも、うつろだった。何もかもが現実とは思えないほど色褪せて見えた。
 ディーターがいないだけなのに。
 私は彼と知り合う前、どうやって生きていたのだろう。そんなことさえ思い出せなかった。
 彼からは何の連絡もない。
 父はケルンに帰る前、家出人保護願を警察に出していった。
 パスポートは彼の部屋からなくなっていたから、もし彼がそれを使って国外に出ようとしているなら、すぐ私たちのもとに連絡がくるはずだった。
 でも、それもない。
 私は藤江伯母さんには、ディーターは父親の葬儀のためドイツに帰ったのだ、と言ってあった。
 伯母さんは私が元気がないのは、彼がドイツから連絡をよこさないからだと思っている。
「円香ちゃん、だいじょうぶや。親が死ぬってのは、いろいろと用事が重なるもんなんや。きっとすぐに連絡が来るよ」と慰めてくれる。
 それを聞くと、伯母さんの優しさゆえ、嘘をついている私はますます辛くなる。
 でも心配性の伯母さんに、真実はあまりに荷が重過ぎるのだ。
 彼の近況を聞きたがる学校の友人たちにも、同じ言い訳を使っている。
 ただ瑠璃子にだけは、彼が突然行方不明になったという形で、真相の一部は打ち明けてあった。もちろん彼の病気のことも、テロリストのことも伏せたうえでのことだ。
 勘のよい彼女のことだから、きっと何かは気づいているのだろうが、察して何も聞かないでいてくれる。
「辛いよね。飛んで行ってしまう人に、恋するって」
 と、ぽつりと独り言めかして、慰めてくれるのがとてもうれしい。
 私は毎週、ディーターのアパートを訪れる。
 大家さんの菅さんには、お父さんの不幸で一時帰国しているだけだからと、無理を言って無人のまま借りたままにさせてもらっているのだ。一方的なこちらの我が侭なのに、快く受け入れてくださっている。
 部屋を隅々まできれいに掃除して、ふとんも秋から冬物へと、その都度入れかえる。
 彼が残していった服のサイズに合わせて、新しい冬服も買った。
 冷蔵庫もいつも電気を入れて、ビールをぎっしりと入れてある。
 いつ彼が戻ってきても、すぐ生活できるように。
 そして全部終わると、部屋のまんなかに座りこんで泣く。
 何て弱い女になってしまったんだろう。私は。
 ディーターのせいだ。
 キスをして、結婚の約束をして、私を一人で生きられなくして。
 それから、いなくなってしまった。
 最悪の、男。
 鹿島さんは、ハリウッド時代に懇意になったアメリカ人ジャーナリストに、ときどき連絡をとっている。
 彼は国際テロの類に詳しく、テロ組織に直接取材したこともあるという。
 ユーウェンがいったいどの組織と関わっているのか、少しでも情報を教えてほしいと頼んであるのだが、これといった収穫はまだない。
 ただ、そのジャーナリストはこう教えてくれたそうだ。
 テロ組織の狙いは、世界にむけて自分たちの存在をアピールすることだ。
 そのためなら、奴らは手段を選ばない。
 敵対国の在外公館や、国連関係の建物の爆破。
 オリンピックなどの国際スポーツや、国際会議の襲撃。
「中でも近年、奴らの格好の標的になるのが、先進主要国首脳会議、いわゆるサミットらしい」
「サミット?」
 世界の人々の、搾取の象徴。不合理と、弱肉強食の論理の象徴。
「もしテロ組織が、日本への潜入を画策しているのなら、その標的はおそらく……」
 2000年日本で行なわれる予定の、会場が決まったばかりの、
 九州・沖縄サミット。
 鹿島さんはそれを受けて、国内の報道関係のコネを通じて、沖縄サミットについての情報も集めているらしい。
 祖父は、古物商の友人を介して全国の骨董店に、土岐守の銘の小太刀が売りに出されていないか問い合わせて回っている。また、バンコクに永住している元日本軍兵士の同期にも、ディーターが住んでいた頃の足取りを調べてもらうらしい。1年の滞在中に、しばしば組織と接触していたことが考えられるからだ。
 本職の刑事でも、探偵でもない私たちにできることは限られていたが、みな何かをせずにはいられなかった。
 祖父も鹿島さんも、ディーターのことを家族以上に大切に思ってくれているのだ。
 かくいう私も、ただ無為に日を送っていたわけではない。
 英語の猛勉強を始めたのだ。
 今までディーターとの会話を日本語だけに頼っていた。もっと深い話がしたくてもできなかった。
 もしかして、私が彼の英語を理解できたら、もっと早く何かの異変を感じとれていたかもしれないのだ。
 それに、ユーウェンと対決する日が来ても、英語は必ず必要になる。
 私は今まで居眠りしていた、英語の授業に食らいついた。
 行き帰りの道も、今まで家でぼーっとして過ごしていた時間も、すべて英会話のテープとテレビ・ラジオの英語講座を聴く時間に変わった。
 目的があるというのは、恐ろしい。
 私は英会話教材の広告に、写真入りで載ってもいいかもしれない。
『わたしは、たった○ヶ月で英語がしゃべれるようになりました!』、なんてね。
 年末頃には、アメリカ映画の会話まで聞き取れるくらいに上達した。
 高校の先生方も、一見積極的で何事にもがんぱっているように見える私を、とても喜んでくれた。
 でも、本当は違った。
 本当の私は。
 もうだめだ、と思うときが、何回もあった。
 庭を縁側からぼんやり見つめている私の隣に、ときどき恒輝が座ってくれた。
「何や。あんた、まだ稽古にきてんの。受験は、だいじょうぶやのん」
「余裕、余裕。俺の本命は後期日程やから、3月までのんびりやるつもりや。ま、精神修養と肉体の鍛練、ってとこかな」
 おまえこそ、だいじょうぶなんか。
 何が。2学期の期末ならもう済んだよ。
 ディーターのことや。忘れられへんのか。
 ……うん。
 忘れてまえ。俺が、代わりになったる。
「……ごめん。恒輝」
 ごめん。それだけは、できひん。
「あほ、冗談や」
 恒輝は立ちあがった。「受験生には色恋はご法度。あーあ、今夜も寂しくひとりで抜くかなあ」
「どあほっ! 女子高生の前で、そんなこと言うな!」
 ありがとう、恒輝。
 でも、自分でもどうしようもない。
 私の心は、ディーターにしか埋められない。


 記念すべきミレニアムの年が明けたばかりのある日、待っていた知らせが来た。
 秋田県の、入国管理局出張所。
 ディーター・グリュンヴァルトと名乗る外国人が、不法入国の容疑で保護されている。
 パスポートも何も持たず、ずぶぬれになって海岸に上がったところをすぐ巡視船に見つかったという。電話の応対に出た鹿島さんが、送話口を押さえながらその都度、内容を教えてくれた。
「日本海を泳いだ、やて?」
 私は耳を疑った。今、1月だよ。
 だからとても衰弱していて、病院で治療を受けてから管理局に回されたそうや。
 自分の名前と、それにケルンの葺石先生の名前以外、何もしゃべらない。
 職員がケルンに連絡をとったところ、先生は、それは私の患者だ、すぐそちらに向かう、と言った。
 父はうちの電話番号を告げ、必要品と書類と用意してすぐ車で来るように連絡を取ってくれと、図々しく相手に頼んだらしい。
「パスポートのコピー。はい、あります。1頁目と、ビザのスタンプ欄と、最新の出入国記録欄。それと、身元引き受け人の住民票、印鑑……」
 私はディーターのアパートに、着替えの服を取りに走った。
「円香ちゃん。門下生たちに、今日と明日の稽古は休むと連絡しといてくれるか」
「うん、わかった」
 祖父も同行して、鹿島さんの車は秋田県に向かって出発した。
 父から、成田経由で直接秋田に向かうとの電話が入ったのは、その後だった。
 長い2日間だった。
 その間、父も祖父も鹿島さんも、何の連絡もよこさない。
 私は、悪い方へ悪い方へ、思考が傾くのをどうしようもなかった。
 なぜディーターは、うちの連絡先を最初に言わなかったのだろう。
 まさか、この家のことを、私たちのことを全部忘れてしまったのだろうか。
 2日目の夜遅く、鹿島さんの車は4人を乗せて、門から庭に乗り入れた。
 走り寄った私を、真先に車から降りた父が押しとどめた。
「円香、俺の診察室は準備できてるか」
「うん、シーツも新しいのに換えといた。ねえ、ディーターは……」
 言いかけて、私は喉を詰まらせた。
 運転席の後部から、鹿島さんに助けられて彼が出てきた。
 ひとりでは、ほとんど歩けないようだった。
「ディーター!」
 私の声に、庭園灯に淡く照らし出された彼の顔がこちらを向いた。
 焦点の定まらない、澱んだ目。
 そのまま顔をそむけると、父の後ろを鹿島さんに抱きかかえられて、家に入ってしまった。
 愕然とした。
 あれが……、ディーターなの?
「おじいちゃん!」
 私は、最後に車から出てきた祖父に飛びついた。
「あれは、ディーターやね。おじいちゃん。他の人格と、違うよね」
「ディーターや」
 疲れ切ったように祖父は答えた。
「今は意識がもうろうとしとる。惣一郎が鎮静剤を打ったんや。車の中で手のつけようもないほど暴れて、どうしようもなかった」
 私は、喘いだ。
「いったい、何があったん」
「あとで話す。今は、休ませてくれ」
 祖父の後姿を見送って、庭でひとり立ち尽くした。
 ディーターが帰ってきた。それだけでうれしかったはずなのに。
 地獄のような日々が始まったのは、それからだった。


 それからの一週間、父は彼といっしょに診察室に閉じこもったきり、文字通り寝食をともにした。
 鹿島さんや祖父も、交替で手伝いに入った。
 ディーターの状態は、最悪だった。
 発作を起こすと、大きな声で泣き喚き、暴れた。
 父は全部で3回、注射をして彼を鎮めなければならなかった。
 一回みんなの隙をついて、手首を切った。
 恐らく父は夜も寝られなかったろう。一週間で、体重が三キロも減っていた。
 心に病を持つ人の家族がどれほど大変かは、父の職業柄知ってはいた。
 だが、これほどとは思わなかった。
 自分の愛する者が壊れてしまうのを見るのが、これほど辛いとは。
 みな、くたくたに疲れ果てた。
 藤江伯母さんは何の予備知識もなくディーターの様子を見て、さぞ驚いたろう。祖父がどうにか納得させるような説明をしてくれたが。
 伯母さんが献身的に私たちを支えてくれなければ、私たちはとうにつぶれていた。
 葺石流の稽古どころではなかった。門下生たちは訳も知らされず、一週間の休みを訝っていたと思う。
(恒輝に何も知らせなかったのは、センター試験の真最中だったからだ。)
 悪夢のような一週間が過ぎ去り、ようやくディーターの病状は良くなった。
 どうにか普通の生活が送れるようになり、食事も居間で私たちとともにとれるようになった。
 だが、決して笑わなかった。
 私たちとは、目も合わさなかった。
 食事のたびに彼の飲む膨大な薬の量に、私は驚かされた。
 その薬のせいなのか、彼はいつもぼうっとしていた。
 朝から晩までうつろな瞳をして、障子越しに庭の景色を見ている。
 手首には、痛々しい包帯が巻かれている。
 話しかけても、何も答えない。そばに坐っても、見てもくれない。
 私は皆の前では、できるだけ明るくふるまっていたが、自室に戻れば泣き明かす夜が続いた。
 10日以上経って、ようやく父とまとまった時間、話せるときが訪れた。
「ディーターは何で、秋田県の海にいたの?」
「船の中で監禁されていたそうや。ユーウェンからディーターに戻るのを恐れて、奴らは彼をいつも軟禁状態に置いていた。秋田県沖を航行していたとき、隙を見て飛びこんだと言ってる」
「いったい、どこへ行く途中だったの?」
「ロシアからの帰りだった」
「ロシア? ユーウェンはこの5ヶ月何をしてたの?」
「日本を船で出国して、リビア、ヨルダン西岸、アフガニスタン、世界じゅうの紛争地域を転々としていたらしい。あるときは現地のテログループとの交渉に参加し、あるときはともに戦っていた」
「ユーウェンが、そうしゃべったの?」
「いや、ディーターはその間ずっと意識があったらしい。ちょうど、舞台の袖で出演者を見ている脇役のように、ユーウェンの行動を逐一見ていた、と」
 父は、こけた頬をひくりとさせて、俯いた。
「それはユーウェンのしわざかもしれん。ディーターにとって、ユーウェンが残虐に人を殺す場面を見ることは、耐えられない痛みやったと思う。それをわざと見せて、ディーターの精神をずたずたにするのが、奴の狙いではないかと俺は考える」
「そんな……」
「最後にロシアに渡ったのは、旧ソ連軍の兵器の横流し密売に参加するためやったそうや。ところが売買が終わったとき、港で敵対組織のメンバーと鉢合わせした。銃撃戦が始まり、ユーウェンも先頭に立って圧倒的な殺傷能力で、敵をほぼ壊滅させた。だが最後の一瞬、ユーウェンは……」
 父は首を振った。
「何の前触れもなく突然、銃撃戦の真っ最中に、ディーターを表舞台に引きずり出した」
「えっ!」
「パニックに陥ったディーターは、自分の身を守るため、咄嗟に右手にあった自動小銃の引き金を引いた……」
「……」
「それまでは、人殺しを犯したのはユーウェンの手だった。だが今はじめて自分の手で、目の前にいる敵を殺してしまったことを知ったディーターの精神は、もう正常ではいられなくなった。秋田で厳寒の日本海に飛びこんだときも、助かりたかったというよりは死ぬつもりやったんやろう……」
 私はがくがくと震えながら、父の話を聞いていた。
「なんで……。なんで……、なんで!」
「ユーウェンは全力でディーターを消すつもりや。それだけ、ディーターの存在に脅威を抱いているとも言える。だから、ディーターの大切なものを全て壊す行動に出始めた」
「グリュンヴァルト博士を、殺したのも……」
「ディーターの大切な父親。彼をもっとも愛してくれた存在。だから、殺した」
 父は冷淡に見えるほど無表情に、話し続けた。
 ディーターは、今だいぶ落ち着き始めた。
 来月ケルンに連れて帰ろうと思う。研究所の病棟に、もう一度入院させる。
「良く、なるの?」
 彼に良くなろうとする意志があれば。
「なければ?」
 この世から、消える。


 雪が時折ちらつくこともあったが、昔ほどではない。地球温暖化現象がここまで進んでいるのかと思わされる。
 そんな関西でも、やはり2月は住人にとっては猛烈に寒い。
 ディーターの帰国の準備は、着々と整っていた。
 紛失したパスポートも再発行され、関空発のフライト・チケットも手配が済んだ。
 次の月曜が出発日と決まった。
 あと3日という日、ディーターは私に話しかけてきた。「円香」
「なに」
「アパートニ、行キタイ。ツイテキテ。大家サンニ、アイサツ、モ」
「お父さんは、いいって?」
「ウン、少シナラ」
 私たちは木枯らしの吹く道を、黙って並んで歩いた。
 久しぶりに、いっしょに歩く。
 この間は、夏だった。季節が過ぎるのは早い。
 アパートの部屋に着くと、ディーターはクローゼットを開けて、自分の私物をバックパックに詰め始めた。
 と言っても、そんなにはない。
 日本で買ったものは、ほんのわずか。
「大家さん、いなかった。昨日から婦人会の旅行に行ってるんだって。しかたないね」
「ウン」
「私から、よろしく言っておくよ」
 彼の手にあるジャケットを見た。
「その服、私が買ってあげたんやで。今着てるのも。大きさぴったりでしょ」
「ウン。ソレニ、好キナ色」
「そうやと思った。なんか、似合うやろうなあって」
 知らず知らずのうちに目頭が濡れてきたのに気づいて、あわてて顔をそむけた。
「あ、布団はそこに置いといて。冬布団で重くて運べないから、今度鹿島さんの車で運んでもらう。台所のものなんかも」
「ソレニ」
 ディーターは冷蔵庫に歩み寄った。
「コレ、捨テテイイ。粗大ゴミ。券ヲ買ッテ、電話シテ取リニ来テモラッテ」
「なんや、私より詳しいなあ」
 しゃがんで冷蔵庫のドアを開けると、隙間なく詰まったビールが見えたらしい。
「ナニ、コレ」
 彼がクスッと笑う声が聞こえた。笑ったのは、戻ってきてからはじめてだった。
「いつ戻ってきても飲めるように、ちゃんと買っといたんだよ。もったいないから少し飲んでよ」
「ダメ。薬、飲ンデルカラ」
「……そっか」
 二人は俯いて、押し黙った。
 伝えたいことがいっぱいあるのに。胸がつまって、何も言えない。
 そうや。英語なら。
『ディーター、知ってた? 私、英語すごく上手になったんだよ。毎日、毎日練習した。いっぱいおしゃべりできるように』
『……』
『ねえ聞いて。剣道で、県大会優勝したんだよ。近畿大会は2位。全国代表になって東京まで行ったんだよ。一回戦で負けちゃったけど……。ディーターといっしょにジョギングして鍛えたから、息があがらなかった。学校で友だちの前で、表彰されたんだよ』
『……』
『すごいでしょ。ねえ、すごいって言ってよ。えらかったって、誉めてよ』
『……』
『何で、何にも言ってくれないの? 私のことなんか、どうでもいいの?』
 私は自分でも、めちゃくちゃだと思いながらも、高ぶった感情をどうすることもできなかった。
『結婚しよう、って言ったじゃない! 何で、帰っちゃうのよ。何で私を置いていっちゃうのよ!』
 今までの悲しみを全てぶつけるように、両腕をひきつらせて、私は大声で泣いた。
 ディーターはそんな私を、力いっぱい抱きすくめた。
『円香!』
『ああーん、わあっ、ううっ、ディーター!』
『ごめん、円香……。僕は、もう君と結婚できない』
『いやっ、うそつき!』
 彼の腕の中で、もがいた。
『僕は、父親を殺したんだ。何十人の人を殺したんだ』
『それは、ユーウェンだよ。あなたじゃない』
『この手が、殺したんだ……』
 私たちは抱き合ったまま、がっくりと床に坐りこんだ。
『ドイツに帰れば、警察に調べられる。戦争なら許されたかもしれないけど、父を殺したのは殺人罪だ。刑務所に入るのでなければ、精神病院に入れられる』
 彼はぶるっと震えた。
『僕はもう一生病院から出られない。君を幸せにすることができない』
『それでも、いい。私もドイツに行く。お父さんに頼んで、あなたのいる病院で働く』
『そんな、無理だ』
『あなたと離れて暮らすぐらいなら、何だってできる! 1秒だって離れたくない、って言ったじゃない』
『いつユーウェンになるかわからない。君を殺すかもしれない。もう僕自身だって、人を殺してるんだ!』
『ディーター、それは……』
『恐い……、自分が、恐い。もう死んでしまいたい』
『ばかばかっ、何言ってるのよ!』
 叫びながら、彼の背中を拳で叩いた。
『ユーウェンなんかに、なぜ負けちゃうのよ! あいつはたった一人なのよ。ディーターは、私もお父さんもおじいちゃんも鹿島さんもみんな味方なのに、数なら絶対負けないのに、なぜ負けると決め付けるの?』
『……』
 私は母親のように、彼の頭を胸にぎゅっと抱きしめた。
『帰らないで。逃げないで。いっしょに戦おう。私がついてれば絶対勝てるよ。私、こんなに、こんなにディーターのこと愛してるんだもん。もう私たちは一つなんだよ。ユーウェンなんかに、負けない』
『円香……』
 私たちはお互いを見つめあい、そしてキスした。激しくいつまでも、相手の唇を探った。
 その日ふたりは、家に帰らなかった。


 冬の遅い夜明け前、火の気のない室内はとんでもなく寒く、ひとつの毛布にくるまって寝ていた私たちは、あまりの寒さに目を覚ました。
 不思議なことに、昨日まで抱いていた恐怖も、不安も、絶望も、何もかもが霧のように消え去っていた。
 陽の光が部屋に射し込むまで、私たちは黙ってじっと抱き合っていた。
 朝が明けきると、連れ立って家に戻った。
 まだ早朝だというのに、寝ぼすけのはずの父が、玄関の前で腕組みをしながら待っていた。
 怒っている、よね。やっぱり。
 だが、よく考えれば、私たちの居場所はわかっていたはずなのだ。それなのに無理やり連れ戻しにこなかった。父の忍耐には感謝するしかない。
 私たちがしっかりと手をつないで歩いてくるのを見た父の目は、ひどく険しくつりあがり、それなのに、どこか悲しそうだった。
「ドクトル」
 ディーターは私の手を離すと、一歩前に進み出た。
「ディーター」
 父は彼を殴りつけた。ディーターもそれを待っていたかのように、甘んじてよけなかった。
「お父さん!」
『なぜ、こんなことをした! わかっているはずだろう! おまえと円香はもう別れるしかないんだぞ!』
『ドクター。僕は、ドイツには帰りません』
 彼は唇の血をぬぐうと、静かな口調で答えた。英語を使ったのは、私でも理解できるようにと配慮してくれたからだろう。
『僕はここで、ユーウェンと戦うことに決めた。それまで待ってください』
『おまえがユーウェンと戦って、勝てるとおもうのか? あいつは、悪魔だぞ!』
 父は激昂していた。涙さえ浮かべていた。
『あいつはおまえを苦しめるために、グリュンヴァルト博士を殺した。おまえの愛する者をすべて殺すつもりなんだ。おまえは円香まで殺させるつもりなのか?』
「おとうさん!」
 それは精神科医にあるまじき言葉だよ。
 それほど今の父は、医師であることを捨てて、私の父親だったのだ。
 後でそう考えると、ちょっと嬉しかった。
 ディーターは少し怯えたような目をしたが、すぐに平静を取り戻した。
 このときの彼は、強かったと思う。
『僕はユーウェンにはもう負けない。円香を守ってみせます』
『おまえがそばにいれば、円香はかえって危ないんだ。病院の中ならテロ組織の手も届かない。ユーウェンも手が出ない。ドイツに帰るのが一番いいんだ』
 ディーターは、きっぱりと首を振った。
『今でも奴らはここを見張っている。僕がドイツに送還されると知ったら、必ず途中で襲ってくるでしょう。僕は、もう秘密を知りすぎている』
『なんだと……』
『僕たちがロシアで手にいれた兵器は、神戸の港のどこかに隠してある。今年7月に沖縄で行なわれるサミットを襲撃する計画があるんです。このまま放置すれば、大きな惨事が起きることは間違いありません。もしできるなら、それを食い止めたい』
『ディーター……』
 父は自分の患者を、不思議そうなまなざしで見た。
 このときのディーターは、今までの彼とは少し違っていた。
 争いを嫌うあまり、自分の力を恐れるあまり現実から逃げていた、どこかひ弱で天使のようにはかなげだった青年は、自分の力で平和を守る決意を全身に漲らせていた。
『僕は今から、ユーウェンになります』
『なんだって!』
 私も自分の耳を疑った。彼の言ったことが信じられなかった。
『ユーウェンにならなければ、奴らの中に入っていくことができない。組織の中に入りこまなければ、奴らのテロ計画を阻止することができない』
『ユーウェンを抑えて、テロを阻止することができるのか? 1度ユーウェンになってしまって、自力で戻ることができるのか?』
『だいじょうぶです。円香が力をくれるから』
 ディーターは私を見て、微笑んだ。
 私は、胸がつまるのを覚えた。
 ああ。ディーターだ。
 本当に、これが私の大好きなディーターなんだ。
「くそっ!」
 と叫んで父は、庭の通路の玉砂利を悔しげに蹴飛ばした。
「何で、名医の俺がつきっきりで治療してあかんかったのに、円香みたいなガキと一晩エッチしただけで、こんなにも回復しちまうんだ。ディーター!」
「ガキとは何よ、このバカ親父!」
「17歳は立派なガキだ。このインラン娘!」
 私たち親子のやりとりを、ディーターは苦笑して見ていた。
 だが、次の瞬間。
 門の外に白いセダンが、心臓のきしむような急停車の音を立てて止まった。中からばらばらと数人の外国人が現われて、門から入りこんだ。
 そしてあの、夜中にディーターのアパートで見た、アジア系の女性。
"Ewen, "
 彼女はゆっくりと数歩歩み寄ると、すっと手招きするように片手を前に伸ばした。
"Come here with us, Ewen. Fight for our homelands. "
『来い、いっしょに戦おう。ユーウェン。我らの祖国のために。』
 それを聞くとディーターが全身を硬くするのを、感じた。
 これは、偶然なのか。ユーウェンになると決意したとたん、彼らの方からやってくるとは。
 それとも、ディーターは本能で、奴らの接近を感じとっていたのか。
 家の中から祖父と、泊まりこんでいた鹿島さんが飛び出してきたが、異様な雰囲気に固まってしまった。
 数秒間の沈黙。
"Yea. For our homelands.(祖国のために)"
 抑揚のない答えが口から吐き出されると、彼はためらわず彼らの方に向かった。
 女は後手に持っていたうちの家宝の小太刀を、彼に向かって放り投げた。
 そして彼は左手を高々と上げて、空中でそれを受け取る。
「ディーターッ!」
 叫んだが、振りかえりもしない。
 すでに、彼はユーウェンだった。
 私はとっさに決断した。
 もう、めそめそした待つ女は、ごめんだ。
 ディーターが戦うといったのだ。未来の妻、の私だって戦う。
 葺石円香の、本当の強さを見せてやる。
 私は、父や祖父や鹿島さんの制止を振り切って、駆け出していた。
 そして無謀にも、ユーウェンの腰に後ろからむしゃぶりついた。
「まったく、あのとき俺は肝が縮みあがったよ。円香は、もう死んだと思った」
 後に父はしみじみと、祖父や鹿島さんと頷き合っていたらしい。
 我ながら、あとでぞっとした。得物を手に握っている殺人鬼に、私は組み付いたのだ。
 ユーウェンはことばにならないうめき声をあげると、小太刀の柄で私の頭を殴りつけた。
 意識を半分失いながらも、私は執念で、決して彼を離そうとしなかった。
 そのまま、彼は車の後部座席に乗り込み、私は引きずられながらその横にとびこんだ。
「円香!」
 父の悲痛な叫び声を頭のどこかで聞きながら、真っ暗な無意識の世界に落ちていった。

Chapter 6 End


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