寒い。 寒すぎる。 ここは、どこだろう。 多分、体育館のような広い空間。 だって、かすかに聞こえる誰かの声や、足音が反響して聞こえる。 そこまで考えて、はっと目を覚ます。 ぼろぼろのコーヒー豆か何かの麻袋の上に、私は寝かされていた。 縛られてはいない。 私は飛び起きようとして、身体をよじって、うめいた。 頭が、がんがんする。 触ると、乾いた血糊が、後頭部の髪の毛にこびりついている。 そうか。ユーウェンの奴、覚えてろ。 回りは、比較的広い倉庫の内部のようだった。食料の木箱らしきものが、ところ狭しと積み上げられている。 『気がついたか』 どきっと、心臓が口からとびだしそうになった。 すぐそばに人がいたのに、全然気づかなかったのだ。 それは、あの女性だった。 濃い肌の色。少し掠れて低い声。きゅっとウェストがくびれた抜群のプロポーション。東南アジア系の人だと思う。頭にはイスラムの女性である印の、赤い布を巻いていた。 『英語は、わかるか』 『なんとか』 『頭の怪我は、どうだ』 『痛い……。でも、あなたのせいじゃないわ』 『なぜ、あんなことをした。我々は無用に一般人を巻き込みたくない。おまえのしたことには迷惑している』 『こっちも、そちらに迷惑してるわ。ディーターを勝手に連れてって、閉じ込めて、自分たちの都合で使おうなんて、ひどいじゃない』 『ディーター。ユーウェンのもうひとつの名前』 『そうよ』 『愛しているのか』 『結婚を、約束してるわ』 彼女は切れ上がった黒い目を少し細めて、皮肉気に微笑んだ。 『私は、ユーウェンの女だ。お互い、ひとりの男を取り合っていることになるな』 『そうなの』 予想がついたこととは言え、かなりのショックだった。私と結ばれたディーターのその肉体は、彼女とも結ばれている。理解を超えたその事実に、傷のせいではなく頭がくらくらした。 『あなたは、どこの国の人? どこと戦っているの?』 『おまえに知らせて、何の意味がある?』 『ユーウェンの祖国みたいに、あなたの国も誰かに奪われたの?』 『日本人のおまえに話してもわからない。世界の民は、一握りの先進国と呼ばれる国に搾取を受けている。日本もその中のひとつだからだ』 『話してわからないって初めから決め付けるから、暴力を使うのよ。そして復讐をし合って、戦争が起きるのよ』 私は乏しい英語の単語を総動員して、一生懸命訴えた。 『もしあなたたちが、この日本でテロ活動をしたら、多くの人が犠牲になったら、また新しい憎しみを生み出すことになるのよ。わかってる?』 『見せかけの平和の中だけで生きてきて、搾取する側であることも知らないおまえらに、私たちの闘争の正当性を理解することはできない』 『おしゃべりが過ぎるぞ。ジャニス』 突然、低く冷淡な声が、背後から流れてきた。 背の高い男が倉庫脇のドアから入ってきて、能面のような無表情な顔で、床の私をちらりと嘗めるように見た。 とっさには識別できなかった。 長い黒髪。身体をぴったりと包む黒のプルオーバーとパンツ。 翡翠色の瞳だけが、かろうじて同じものだとわかるけれど。 ディーター。いや、彼の身体を共有しているユーウェン。 数歩近づいた彼に、ジャニスは彼女のほうから抱擁を求めた。 ふたりの官能的なキスが続くのを、私はぼんやり見ていた。 私に見せ付けているつもりなら、彼女も案外と子どもっぽいことをするなあ、などと頭の隅で妙に覚めたことを考えているのは、脳細胞がマヒしている証拠だ。 一人の身体を、二人の人格がせめぎあっている。そのそれぞれの男を、ふたりの女が取り合っている。 北アイルランド。パレスティナ。ひとつの国を取り合って、戦争が果てしなく続く。 同じかもしれないな。 などと、私はとりとめもなく馬鹿なことを考えていた。 ユーウェンは乱暴に彼女の身体を引き離すと、手近にあった木箱を素手でばりばりと引き裂いた。 中から、弾丸の入ったケースのようなものが整然と積まれているのが、現われる。 旧ソ連軍から横流しされた武器。確かそう言っていた。 ここにある、これが全部そうなのか。 『今夜中にここから移す。11時に来ると、船から連絡があった』 『今回は東京ではなかった。隠し場所のあてはあるの?』 『しばらくは船に積んでおく』 『そうね。ここは、もう限界。倉庫の貸主が疑いかけている』 『アリたちが、運搬作業にとりかかっている。おまえは見張りに立て』 『ユーウェン。あなたは?』 『俺はこの女に聞くことがある』 『気を、つけて』 ジャニスが心配げに言ったのは、ディーターに戻らないように、という意味だと気づいた。 ユーウェンはそれに答える素振りも見せず、私の方に向き直る。 ジャニスが出ていくと近くの木箱に腰を下ろして、背中のベルトから小太刀を抜き取り、鞘のまま左手に持つ。 いつか来ると思っていたユーウェンとの対決のときが、いよいよ来たのだ。 私はたじろいだ。 彼からは、ちょうど鹿島さんのそばに近寄ったときに感じるような、男っぽい体臭が漂ってくる。 ディーターには体臭がほとんどないのに。 父が以前、多重人格の不思議さについて言っていた。 自分の思いこみで他の人格を演じているわけでは、決してない。 人格が異なると、体質まで変わってしまうのだ。 ディーターは右利きなのに、ユーウェンは左利き。 ディーターはきれいなイギリス式の英語を話すが、ユーウェンは、なまりの強い(多分アイルランドなまり)、聞き取りにくい英語を話す。そして、ドイツ語をほとんど解しない。 脳波の波形までが人格ごとに異なる、という研究もあるそうだ。 医学ではまだ解明しえない、謎だらけ、と父は言う。 でも私がたじろいだのは、それだけの違いがありながら、間近で見ると彼はやはりディーターなのだ。 均整のとれた姿態。彫刻のような美しい顔。倉庫の薄暗い照明を映して淡く光る青緑色の瞳。 頭では別人だとわかっているのに。からだが火照る。 ゆうべ私を抱いたディーターと同じ身体。 私のことをなんてひどい女だと、この手記を読んだ人は非難するだろう。 自分でも、ひどいと思った。 だから、あえてこの手記に書いた。自分の罪から目をそむけないために。 『なぜ、俺についてきた』 『……ディーターを、取り戻すために』 ユーウェンは私の心の揺れに気づいているのか、いないのか、嘲るような笑みを浮かべた。 『私はディーターを愛しているから。ディーターも私を』 『……』 『ジャニスもあなたが好きみたいね。……あなたはどうなの?ジャニスのこと、愛してる?』 『愛してる、だと?』 ユーウェンは唐突に、引きつった笑い声をあげた。 『俺にとって、女は、……な処理施設にすぎん』 『??な、……施設?』 『わからんのか。ゴミ箱ってことだよ』 彼は私の髪の毛を、刀を持つ反対の手で鷲づかみにすると、ぐいと引っ張った。 『いててて……。やめてよっ。一般人には、手を出さないんじゃなかったの』 『残念だが、俺にはそんな心がけはないね』 私は髪を捉まれたまま、彼の息のかかるところまで吊り上げられた。 『どうだ。おまえの愛する男と同じだろう。感じるか』 そう言いながら、私の唇を自分の唇でふさぐと、無理やり舌を入れてきた。 ぞわっと、生理的嫌悪感が身体を這い上がるのを感じ、平手で彼の首筋を打とうとした。 それより早く、床に叩き付けられた。ユーウェンの手から私の髪の毛が数十本、はらりと落ちた。 『ひ……ひひひ』 彼は悪鬼のように笑っている。 私は、涙をにじませた。 髪の毛を引き千切られた痛さのゆえばかりではない。 悔しかった。 この男は、人間じゃない。 ディーターの身体の中に、彼の崇高な魂のとなりに、こんなおぞましいものが住みついていたなんて。 たとえ一瞬でも、私は彼をディーターと同一視したことが、悔しかった。 『あんたなんか、ディーターと似ても似つかない! 早くさっさと消えて、彼を返してよ!』 涙を浮かべてヒステリックに叫ぶ私に、ユーウェンは満足げに微笑んだ。 『消えるのは、俺じゃない。奴のほうだ』 『ディーターは、あなたに勝つって言った。消えるのはあんたよ!』 彼はそれを聞くと笑顔を消し、床に這いつくばっている私の首を、掴んで引き上げた。 『奴は、何を企んでる』 『く、苦しい……』 『ディーターは何を考えている? 自分から俺に身体を明け渡した。こんなことは初めてだ』 『私が言わなくても、……他の人格の思ってることは、全部わかるんじゃないの?』 『今はわからない。ディーターだけじゃない、ダニエルも、ケヴィンも、死体処理屋も、俺から姿を隠しやがった。いったいどうなってるんだ』 ユーウェンは苛立っているようだった。 支配人格である彼には、他の人格のすべての行動や考えが読めるはずだった。 だから彼は、今までディーターたちを操り、優位に立っていたのだ。 それができなくなった、という。 ディーターは彼の中で戦っているのだろうか。 私から答えが得られないことがわかると、彼はふたたび私を投げ捨てた。 しばらく私の荒い呼吸の音だけが、倉庫に反響する。 『ここから、どこかへ、行くつもりなの?』 『……』 『九州か沖縄でしょ。ここにある武器で、沖縄サミットを襲う計画なんだ』 『……ディーターが教えたのか』 『はは。図星だわね。アメリカ人のジャーナリストが教えてくれたのよ。あんたたちの計画なんて、もうとっくに世界中の人にばれちゃってるんだからね』 『邪魔する者は、殺す。それだけだ。おまえも例外ではない』 ユーウェンはその長い指で、私の口をふさいで抑えつけた。 『わ、私を殺すの?』 そう言ったつもりだったが、もちろん口をふさがれているから、情けない音しか出てこない。 『おまえの存在は、奴に力を与える。おまえだけじゃない、あの医者とおまえの一家全員、奴が大切に思うもの全てだ』 そう言って彼は私を、後ろの壁に叩きつけた。 くそう。こいつ。 さっき小太刀の柄で殴ったところを、もう一度ねらうなんて。 いくら、円香さんが、……石頭だからと、言ったって……。 薄れゆく意識の隅で、考えた。 父も、祖父も、鹿島さんも、みんな危ない。 ディーター、お願い、たすけて……。 ガラガラと倉庫の重いシャッターを開ける音がする。冷気とともに、夜の気配が中まで入りこんでくる。 かすかに、海の匂い。 フォークリフトか何かの機械が、忙しく立ち働く騒音。 ああ、夜の11時に、船が来るって言ってたっけ。 もう、そんな時間なのか。 奴らはもう、ここから逃げてしまうのか。 ディーターは奴らを阻止できなかったのか。 そして私は最後に、あの殺人鬼に殺されてしまうのか。 床に倒れたままうつうつとしながら、そんなことを思っていた。 人の足音にゆっくりと目を開くと、あの女性、ジャニスが立っていた。 『もうすぐ我々は、ここを離れる』 彼女は目をそむけて言った。 『おまえを殺すと、ユーウェンは言っている。おまえは知りすぎた。無関係な者を殺すのは本意ではないが』 『ユーウェンが言ったら、なんでも従うんだ。人殺しでも何でも』 『そうだ』 『ユーウェンは、あなたのことを愛してなんかいないのに』 『知っている』 ジャニスは、無表情な大きな黒い瞳を私に向けた。 『私たちの絆は、愛ではない。おたがいの祖国のための戦いだ』 『祖国のための戦いだと言っておきながら、あいつは自分の父親がわりの人を殺したんだよ。ディーターを苦しめるために、そんな理由で父親を殺したんだよ』 『あの医師を殺したのは、私だ』 『……えっ!』 『私が刺した。ユーウェンではない』 『なぜ……』 『私たちの組織のため。グリュンヴァルトの莫大な財産が必要だった』 彼女の顔に初めて、疲れのような哀愁が漂った。 『お金のために……人を殺して平気なの? いくら戦争で住むところを失った人々を助けるためだからって、自分の罪を正当化できるの?』 ジャニスは何も答えなかった。 きっと、彼女自身にもわかっているのだろう。 だが、彼女の民族の受けたあまりの痛みのゆえに、後戻りできないのだ。 もうとっくにジャニスは、自分を殺している。私は彼女の横顔から、つぶさにそう感じ取った。 同じ男を愛するお互いゆえの、共感からだったのだろう。 私の周りに積まれていた木箱の山も、私が気絶していたあいだに運び去られていた。 倉庫の中は、関係のないカモフラージュ用の木箱以外は、全くカラになっていた。 ひとりの中東人らしい男が、近づいてきた。 『船が来た。出発するぞ』 『わかった』 ジャニスは頷くと、取り出したロープで私を後手に縛った。 抵抗したが、敵わなかった。 『すまない』 背中で彼女が小声で呟くのが聞こえる。 押し出されるようにして倉庫の外に出ると、凍えるほどの冷気が身を包んだ。 すぐそばに桟橋がある。その向こうの黒々とした海。遠くの美しい真珠のような夜景。 背後には、広いコンテナ置き場。 なんとなく見覚えがあった。 ここは神戸の近く、六甲アイランドだ。 照明らしきものがないのではっきりしないが、沖から一隻の小型の貨物船のようなものが近づいてくる。 さっき縛られるときに、腕時計を咄嗟に盗み見た。10時にもなっていない。 予定が早まったのだろうか。 私の寿命も、それだけ。 倉庫の脇から、ユーウェンが姿を見せた。 相変わらず背中のベルトに、うちの小太刀を差している。 私の斜め前に、腕組みをして立ち、船が近づくのを見ている。 「ディーター……」 震える声で囁きかけたが、何の反応もない。 ディーターはやはり戻って来れないのだ。 ユーウェンの方が、強いのだ。 私は絶望して、目を閉じた。 『違う……』 しかしすぐに、うわずったユーウェンの呟きが聞こえて、私はふたたび目を開けた。 『隠れろ!あれは、俺たちの船じゃない!』 テロリストたちは、訓練された敏速な動きでものかげに隠れた。 私の体はユーウェンに横抱きにされて、倉庫の扉のわきに押しこまれた。 突然、近づいていた船が煌煌とサーチライトのような照明をつけた。 『海上保安庁の巡視艇だ…』 一味の一人が押し殺した声で言うのが聞こえる。 彼らは姿勢を低くして身構える。自動小銃や短銃や手榴弾を、隠し持っていたところから取り出す金属の音が響く。 『待て。この桟橋は、囲まれている』 ユーウェンは低く、制止した。 『あっちのコンテナの陰に、パトカーや装甲車が勢ぞろいしている。うかつに飛び出すな』 『なぜ、ばれたんだ!』 『そんなことは、あとで考えろ』 パニクる仲間たちを尻目に、ユーウェンは氷のような冷静さを取り戻していた。 『ここの武器は、捨てる。俺たちだけでここから脱出する』 『どうやって?』 『人質がいるだろう。日本人の小娘が』 え?わ、私のこと? 彼は抑揚のない無機質な声で続けた。 『あの巡視艇に人質を盾に近づく。奴らが応じるようなら、船を奪って沖へ逃げる。抵抗するようなら、射殺する』 『わかった』 ユーウェンは、前触れもなく私を左腕でからめとると、背中に差していた小太刀を鞘から抜き放ち、私の首筋に沿うようにぴたりと当てた。そして、右手に自動小銃を構え、巡視艇のサーチライトの照らす中に、私を引きずりながら数歩踏み出した。 こちらからはまぶしくて何も見えないが、巡視艇の中の乗組員たちは人質の存在に気づき、動きを止めたようだった。 一瞬。 足元からずりっと駆け上がる、不快な予感。 背後からとてつもなく熱い暴風が吹きつけ、私たちは、よろめいた。 しばらく何が起きたのかは、テロリスト自身にもわからないらしかった。 私が無理に首を捻じ曲げて、ユーウェンの肩越しに後ろを振り向くと、オレンジ色に吹きあがる炎と、とぐろを巻く黒煙。 何があったか、わかった。兵器の入った木箱が爆発したのだ。 続いて、2度目の爆発。 少し離れて置かれた木箱からだ。誘爆では、ない。 木箱は桟橋の先にも積まれていたから、接岸しかけていた巡視艇の人たちもさぞ慌てていただろう。 隠れていたパトカーも含めて、退避を決めたかもしれない。 テロリストたちも巡視艇の乗っ取りを諦め、手近な倉庫の陰に走りこむと、もう一度身を伏せた。 3度目の爆発。 隅に放り出された私が、おそるおそる顔を上げて見ると、ひとり足りなかった。 最後尾にいた者が、爆発に巻き込まれたのだろう。 『なぜ、突然爆発したんだ! ユーウェン』 先ほどの中東人とは別の、やはり西アジア系の小柄な男が、ユーウェンに詰め寄った。 『俺が、知るか』 『おまえ今朝、箱に屈みこんで何かしていたな。時限装置を仕掛けていたんじゃないのか』 『何言ってるんだ。俺はそんなことしていない!』 『裏切ったな! おまえは、ユーウェンじゃない!』 『俺は、ユーウェンだっ!』 二人の中東人は問答無用で、持っていた短銃を彼に向けた。 短銃の、中国正月で鳴る爆竹のような音と、自動小銃の乾いた連続音が、同時に響いた。 本能的に目を瞑った私は、見たくないものを見るときの仕草で、ゆっくりと薄目を開いた。 ああ。そんな。神さま。 ジャニスがユーウェンを庇って、彼に蔽いかぶさり、背中から中東人の短銃の弾を、腹からユーウェンの自動小銃の射撃を受けて、形の良いくびれた腰を、血に染めていた。 そして、声もなく呟くように唇を動かすと、ゆっくりと、彼の胸の中に崩おれた。 ユーウェンは彼女の絶命した身体を、うざったげに左手でもぎとると、ふたりの男に向かってふたたび自動小銃の引き金を引いた。 しかし、その一瞬のタイムラグがたたり、かっての仲間の男たちは逃げ去っていた。 彼は舌打ちをし、呪いの言葉を吐いた。 自分を助けるために死んだジャニスにさえ、見向きもしなかった。 私は大声で怒鳴ってやりたかったが、あまりの生々しい血の惨劇に吐き気がこみ上げ、口を開くことができなかった。 『こうなったら』 彼は構わず、私をさっきのように左手に抱きかかえた。 『おまえを人質に、パトカーを奪う』 「いやっ、いやっ!」 彼の腕の中で、必死にもがいた。 「ディーター、お願い。助けて。ディーターッ!」 高校の体育の時間に習った、護身法。 暴れた拍子に浮き上がった私は、ユーウェンの向こう脛を思いきり蹴飛ばしていた。 彼は短い苦鳴をあげて、左手の力を抜いた。 私は身体をねじると、そのまま腕からすりぬけ、桟橋の方に、巡視艇に向かって走り出した。 また燃えている武器の脇を駆け抜けた、そのとき。 ふたたび、爆発が起きた。 フォークリフトに三段重ねになっていた木箱が破裂して燃え上がり、私の身体めがけて倒れてきた。 動きはすべてスローモーションなのに。からだが、う・ご・か・な・い。 からだが、とぶ。 わたしは、じめんに、たたきつけられる。 しぬ、の。わたし。 ディーター。 はっと突然、遠のいていた意識が戻ってきた。 身体のあちこちに打った痛みがあるが、怪我はしていない。 後手のまま、横向きに転がって、上半身を起こす。 わずか1メートルうしろの炎の残骸の中に、彼が倒れている。 左足の上に、崩れた木箱の山がのしかかっていた。 その木箱が、また小爆発を起こした。 『があっッ!』 苦悶に顔を引きつらせ、彼は身体をよじった。 彼が私を突き飛ばして、身代わりとなってくれたことは、明らかだった。 「ディーターッ!」 私は悲鳴を上げて、駆け寄った。 私はふたたび爆発する危険を感じながら、燃えている木箱を体当たりで、彼の脚から遠ざけようとした。 背中の皮膚が、ちりちりと焼ける。でも、そんなことかまっていられない。 やっとのことで、脚の上のものを取り除いた私は、絶句した。 彼の左脚は、肉塊と言えるほど血まみれで、ひしゃげていた。 卒倒しそうになった。 ああ。円香。がんばるのよ。円香! 私は自分に言い聞かせながら、彼の上半身に擦り寄った。 「ディーター! このロープをほどいて!」 彼はうっすらと目を開けると、顔を上げた。 「聞こえる? ディーター! このロープを、切って! カット イット ! 」 彼は震える左手で、そばに落ちていた小太刀を掴むと、私の両手をきつく縛っていたロープを、切先で難なく断ち切った。 私は彼の脇に肩を差し入れ、ウンッと、全身の力をこめて担ぎ上げた。 火事場の馬鹿力というけれど。 その日の私は、ふだんなら絶対できないようなことを、いくつもしている。 ディーターを助けたい一心だった。 建物の陰のもう安全といえるところまで来ると、彼を壁に寄りかからせた。そっととは思ったけど、力尽きてかなり放り出すようにしてしまった。 「ごめん。だいじょうぶ?」 あわてて彼を覗き込んだ私は、そのまま悲鳴をあげた。 左手の刀。 違う。ディーターじゃない。 彼は、逃げようとする私の上に馬乗りになった。 『残念だったな。俺は、ユーウェンだよ』 用をなさない左脚を引きずり、青ざめた唇を震わせながらも、彼は嘲笑を浮かべた。 『だったら、なぜ、私を助けたの!』 『知らねえよ。身体が勝手に動きやがった!』 吐き捨てるように、彼は言った。 『多分、ディーターが動かした。俺の意識があるのに、あいつは身体を動かした……』 『……』 『初めて、じゃない。あのときも……。グリュンヴァルトを殺すときも、奴は俺の身体を動かなくさせた。 俺は、指一本動かすことができなかった……』 『だから、代わりにジャニスが、殺したの?』 『何故だ! なぜ、俺の邪魔をする! ただの弱虫のくせに、嫌なこと、醜いことは、全部俺に押しつけるくせに、なぜ俺の邪魔ばかりする!』 『ユーウェン……』 『俺はダニエルに一番必要とされて、生まれたんだ! 一番力があって、俺たちを害そうとする者を皆殺しにできる、強い存在として生まれた。ディーターなんか何もできないくせに。なぜダニエルは、他のみんなは、俺でなくディーターを選ぶんだ!』 『ユーウェン!』 『おまえのせいだ!』 彼は狂気に顔を歪め、私に向かって小太刀を振りかざした。 『おまえさえいなくなれば、ディーターは消える! 俺はまた、この身体を支配できる!』 「いやッ。やめてぇっ!」 『死ね!』 私は、反射的に目を瞑った。 死にたくなかった。 恐いとかそんな気持ちは、そのとき浮かんでこなかった(あとで、たくさん浮かんできたが)。 ただ、ディーターが私を殺したことをあとで知ったら、彼はどんなに自分を責めるだろう。 ディーターのために、私は死にたくなかった。 苦痛がいつまで経っても襲ってこないので、私は訝って目を開いた。 彼が、壁に身をすくめる格好で、凭れていた。 不思議に思って腰を浮かせると、私の視界に入ったのは、とんでもない光景だった。 彼の右手が小太刀を握って、左腕の肘から下を、切り落としていたのだ。 「ひいいぃ……っ」 私はなんとも言えぬ、力ない情けない悲鳴を上げた。 そういう場面に立ちあわせた人なら、同意していただけるだろう。 本当にショックなことがあったとき、人間は、甲高い悲鳴なんてあげられないのだ。 「ディーターッ」 『う……』 その顔色は、もう死人のように真っ白だった。 彼は薄く目を開くと、もう何も見えていないように宙に向かって呟いた。 『俺は…負けた……。ディーターに……』 『ユーウェン!?』 『俺は、消える……。もう、ダニエルは、俺を……』 「しっかりして!」 まだ自分の両手首に巻き付いていたロープをもぎ取ると、彼の左の上腕をしっかりと止血した。着ていたジャケットとシャツを脱ぎ、シャツを二つに引き裂くと傷口に当て、もう一度ロープで縛った。 「がんばって。死なないで。ディーター!」 『俺は消える……。だがディーターも、俺とともに消えるんだ』 『えっ、何ですって?』 『ざまあ……見ろ』 ユーウェンの目は、見開いたまま、すっと命の火を消した。 そしてそのあとに澄んだ色が、瞳の上を水のように満たした。 「円香……」 「ディーター!」 堰を切ってどっと涙があふれるのを感じた。 「勝ったのよ! ユーウェンは、いなくなった。武器も燃えた。あなたは日本を救ったのよ。ディーター!」 ディーターは少し微笑むと、そのまま目を閉じた。 私は、がくがくする膝でたちあがると、さっき破ったシャツの切れ端に彼の切り取られた左腕を包み、よろけるように駆け出した。 「お願い! 誰かっ!」 巡視艇に走り寄った。 「お願い!だれか救急車を呼んで! それから、K大の五十嵐教授に連絡して。急いで! 腕の縫合手術の準備をお願いします!」 五十嵐教授とは、父の医学生時代の親友で、神経の縫合手術では日本一と言われている権威だった。 ここからなら15分で、彼の大学病院に着けるはずだ。 巡視艇の乗務員は、私の剣幕と、手に抱えている人の腕に、度肝を抜かれたようだった。 「それと、氷、ある? 生理食塩水と」 「な、なんやて?」 私は答えも聞かず踝を返すと、ふたたび走り出した。 円香。がんばれ。円香。 私の中にもう一人の私がいて、意識が遠のこうとするたびに、ずっと励ますように叫び続けてくれた。 私も多重人格者になったのかもしれない。 隣の桟橋に、コンビニの冷凍車が止まっていた。運転手は仕事仲間たちと、遠くで起きた爆発騒ぎをおもしろそうに見物している。 「ちょっと、氷か、ドライアイス、ない?」 血相を変えて、彼の前に走りこんだ。 「へっ?」 「氷と、スーパーの袋、それから、トロ箱みたいなん。早よう、出して!」 彼は、私が取り出した腕を見て、きゃあと、女みたいな悲鳴を上げた。 私は冷凍車から、氷と、発泡スチロールのアイスボックスを無理やり取り上げ、ディーターの腕を氷漬けにした。身体は切り取られた瞬間から、腐敗が始まる。最初の1時間が勝負なのだと、父と五十嵐教授の酒飲み話に、小学生の頃の私は付き合わされたことがあったのだ。 それを抱えると、ディーターの待つ方向に急いだ。 やがて、救急車のサイレンが、遠くから近づいて来た。 |