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Episode 10
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§1に戻る §2 寝室のドアからそっと、血まみれで横たわっている彼の姿をのぞき見て、何も言わず祖父はリビングに戻ってきた。 「入院させた方が、良くはないんか」 「……」 「藤江が、おまえの様子がおかしいと言うたんで、なんとなく予想はしとったんや。康平はまだ京都から戻らんけれど、聡くんが車を出してくれると言うとる。確か病院は、江坂の方やったな」 「でも、入院はいやがると思う。きっと、家にいてたいと思う」 「惣一郎には、電話で相談したんか」 「……」 「まだ、してないんか」 「心配させたく、ないんや」 「円香」 祖父は険しい声を出した。「意地はってる場合や、ないんと違うか」 私は、はっと顔を上げた。 意地をはってる? 祖父のそのことばで、悟った。 祖父にも藤江伯母さんにも、そして父にも黙っていようと決めたのは、心配をかけたくないからだったはず。 みんなを悲しませたくないから、自分ひとりで解決しようと。 でも、違った。 私は、怒られたくなかったのだ。 彼の妻のくせに何をしとったんや、と言われたくなかった。 十何年の人生で、ようやく取り戻せた父との絆を、せっかく得た父の信頼を壊したくなかったのだ。 「ごめんなさい……」 私は、涙でぐじゅぐじゅになった顔を、再びうなだれた。 もっと早く、回りに助けを求めるべきだったのに。 自分のくだらない面子のために、ディーターをあんなに苦しめてしまった。 「惣一郎に、相談せい。わしは、家に戻って待っとる」 「うん……」 「助けが必要なら、いつでも飛んでくるからな。おまえは、ひとりやないんやからな」 「……うん。うん」 祖父がいなくなった暗い部屋で、私は電話に向かい、震える指で何度も失敗しながら、聖ヘリベルト大精神科付属病院の電話番号を押した。 「やあ。円香か。何の用や」 「お父さん……」 涙で喉が詰まるたびに、胸を叩いて自分を励ましながら、この3日間のディーターの様子を詳しく話した。 そして、叱責のことばを待った。 「そうか。辛かったな。円香」 「……え」 「ようやったな。偉いぞ。ようがんばった」 「おとうさん……」 私は、そのことばを聞いたとたん、わあわあと声を上げて泣き崩れた。 「おこ……らへん……の? お父さん」 「何を怒るんや。おまえは、ようやっとる。名医の俺かて、ディーターを治すことはできんかった。おまえのおかげで、おまえと結婚したおかげで、あいつは短期間でここまで良うなったんや」 次から次へとあふれ出る涙とともに、自分の壊れていた心がいやされるのを感じた。 私が一番辛かったのは、眠れなかったからでも、ディーターの看病が大変だったからでもない。 愛する人たちに嘘をつかねばならなかった、本当のことを隠さねばならなかったその負い目が、私の心をむしばんでいたのだということが、ようやくわかった。 そして、私は、突然に理解した。 そうだ。 ディーターも、きっと同じようなことで苦しんでいるのだ。 嘘をついて、ごめんなさい、と。 「お父さん。ディーターは何を、いつのことを謝っているんやろう」 「うーん。わからんけど、これほど急激に症状が悪化したのは、おそらくフラッシュバックのせいやと思う」 「フラッシュバック?」 「前に説明したやろ? あいつが、自分の精液の匂いで、叔父から性的虐待を受けていたことを思い出したことを」 ディーターの記憶はまだ、多くの部分に欠けがある。 特に5歳から11歳にかけての、叔父とともに暮らしていた5年間は、とりわけ多くの人格あるいは不特定人格に解離していたため、ほとんど生活史をたどることが困難だ。 ジグゾーパズルをはめこむのに似たその作業は、一生をかけて取り組まねばならないほどの忍耐が必要だという。 ただ、何かのきっかけで、その失われた記憶が、突然意識の表に浮上することがある。 「それが、フラッシュバックや。あまりに鮮明に思い出すため、まるで、自分が今体験しているような生々しさを伴う。たいていが悲惨な記憶だから、パニックに陥ってしまうことが多い」 「その……、何かのきっかけって、どんなときに起きるの?」 「誰かの虐待についての体験談や、読んだ本、それから、匂いや味、聞いた音楽なんかから起きる場合もある」 「あっ!」 私は飛びあがった。 ひっくり返っていたCDプレーヤー。 私たち夫婦は、この頃レンタルショップで、いろいろなCDを借りるのに、はまっていた。 私は邦楽モノ一辺倒なのだけれど、ディーターは、ジャズもソウルもロックもあらゆるジャンルを聞き、とりわけクラシックが好きだった。 だから、いつも彼はバッハやチャイコフスキー、マーラーなんかを借りては、プログラミング作業の最中にずっと流していたりした。 確か、彼がおかしくなった日の前日の夜も、いっしょにCDを借りに行った。 あの日、私が大学に出かけたあと、仕事を始めようとした彼は、きっと借りたばかりのCDをかけたはずなのだ。 「お父さん。電話、いったん切る。また連絡するから」 「しっかりやれよ。円香。ディーターのことは、全部おまえに任せたんやからな」 私は書斎に入って、前日元どおり棚に戻したCDプレーヤーの中身を確認した。 ヘンデルの小曲集。 プレーヤーごと持って、寝室のディーターの枕元にそっと立った。 「ディーター。ごめんね。私には、あなたの苦しみがわからなかった。でも知りたいと思う。あなたを愛しているから、あなたといっしょに苦しみたいと思う」 彼は背を向けたまま、永遠に何も答えないようにさえ見えた。 「今から、このCDをかけてみる。あなたには辛い思い出かもしれへんけど、がまんして聞いて。がまんできなくなったら暴れてもいい。もし誰かに謝りたいのなら、世界の果てまで行ったって、いっしょに謝ってあげる。だから、きちんと思い出そう」 私は涙をぬぐうと、プレイボタンを押した。 1曲目。美しいメロディが流れてきた。 彼はベッドの上に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。 2曲目。3曲目。何も起こらなかった。 そして、ついに8曲目。 ゆるやかな弦楽器の前奏が始まったとたん、彼は硬直した。苦しげに身をよじった。 私は、とっさに曲名を見た。「オンブラ・マイ・フ」。 “ Forgive me, Father, forgive my sin! “ 「ディーター!」 血を吐くような叫び声を上げた彼を、私はありったけの力で抱きしめた。 「もう、いいんだよ。ディーター。もう恐がらなくて、いいんだよ」 のびやかなカウンターテナーの歌手の歌声が続くあいだ、私たちは震えながら抱き合っていた。 やがて、曲が終わる。 「円香……」 彼は涙で真っ赤になった目で、まっすぐ私の顔を見つめた。 そこには、もう狂乱も混沌もなく、澄んだ光が宿っていた。 「……何か、思い出したん?」 「うん……。子どもの頃のことを……」 『やあ。君はどこの子? よく来たね』 薄暗い礼拝堂。講壇の回りだけ、明かりが灯っている。 『外の雨に濡れて寒いだろう。こっちへおいで。今、君くらいの子どもが聖歌隊の練習をしているんだよ』 『神父さま。あの子はだめだよ。頭がおかしいんだもん』 『ジェイコブ。なぜ、そんなことを言うんだね』 『だって、人を叩いても叩いてないって、うそ言うんだよ。ものを盗っても盗ってないって言うんだよ』 『同じクラスの子に怪我をさせて、学校を追い出されたんだよ。先生は、頭がおかしいって言ってたもん』 否定しようとして、懸命に首を振った。 なぜなら、友人に暴力を振るったのはコーリーンだった。もう彼女はいない。 『そんなことは、ないよね。さあ、こっちへおいで。いっしょに歌の練習をしよう』 (信じるなよ。あんなことば。どうせ、すぐのけ者にされるんだから) 乾いて冷たいシェーンの声が、頭の隅で響いた。 シェーンは、コーリーンを吸収して生まれた。後にユーウェンへと変化する基礎となる、憎しみの感情を司る人格のひとりだった。 『名前を教えてくれるかい?』 『……ダニエル』 『よろしく。ダニエル。これが楽譜だよ』 子どもたちが帰ったあと、神父はオルガンの前から手招きした。 『驚いた。音符が読めるだけかと思ったら、ラテン語も読めるんだね。誰に教わった?』 『お母さんが……、いつも、ピアノを弾いていた』 『君は、ちっとも頭がおかしくなんかない。すばらしい才能の持ち主だよ』 家に戻ったら相変わらず、叔父が酒を飲んでいた。 『この、低脳。のろまの、ぐずめ!』 と言っては、殴りつける。 無理もなかった。18年間内戦が続くこの北アイルランドでは、仕事にありつくことの方がむずかしい。 若い頃はもっと才気にあふれた青年だった、と、彼の姉である母はよく言っていた。 母によく似た顔立ち。自分と同じブルーグリーンの目とくすんだ色の金髪を持つ叔父のことが、好きだった。 寒い屋根裏部屋に上がって、雨にうたれる天窓の外を見るたび、昔住んでいた暖かい家で、両親と幸せに暮らしている自分を夢想した。 ギシギシと梯子をきしませ、叔父が上がってくる音。 叔父は、叔母と離婚した去年から、夜になるとこうして上がってくるようになった。 これは、夢の中のできごと。誰か別の子どもに起きていること。 のしかかってくる叔父の重い体を感じながら、急激に意識が遠のいてゆく。 毎日、教会に通った。 『もう、読んでしまったのかい? じゃあ今度は、この本を貸してあげるよ』 (ばかだなあ。ダニエル。この神父を信用したのか) 『君はきれいな声をしている。いつか礼拝で、独唱してくれないか』 (おまえが、あの飲んだくれと何をしてるか知ったら、こいつは十字を切って、おまえをここから追い出すに決まってるだろうよ) 『今日から、この楽譜を練習しよう。「オンブラ・マイ・フ」、作曲はヘンデルだよ。「セルセ」という歌劇で、ペルシャの王様が木に向かって歌う歌だ。ゆっくりしたきれいなメロディで、私の大好きな曲なんだよ』 歌声が、涙で途切れた。 『どうしたんだい?』 『……僕は、きたない……』 『何を言うんだ。ダニエル! 君はきたなくなんかない』 その日、叔父は玄関に立って怒り狂っていた。 『毎日、教会に入り浸っているそうだな。家の仕事もしないで。この役立たず!』 叔父は、はた目にはわからないように、腹を蹴ったり、たばこの火を足のふとももに押し付けたりして折檻した。 痛みを引き受けるのは、ケヴィンの役目だ。ケヴィンは痛みを感じないから。 アイリンはその夜、髪を梳き、叔母の残していった口紅をつけて、ドレスを着た。 梯子を昇ってきた叔父は、さすがに気味が悪くなったように後ずさって、言葉を失った。 神父は、教会の入り口でにこにこして待っていた。 『今日は、君にプレゼントがあるんだよ』 ダンボールの箱いっぱいに、子どもの服が入っていた。 『教区に送られてきた慈善用の服だよ。君の気に入ったのをあげるから、好きなのを選ぶといい』 『……いりません』 『全部きれいな服ばかりだよ。君は自分の服がぼろぼろなのを気にして、きたないなどと言うのだろう』 違う。違う。 きたないのは、僕自身だ。 僕の身体は、汚れている。僕の頭は、おかしい。 僕の中には、悪魔が住んでいる。 『さあ、遠慮しないで。その服を脱いで、こっちを着てごらん』 神父は、上半身を見て絶句した。 『この傷は……、ダニエル。いったいどうしたんだ!』 『ころんだんです、神父さま。ころんだんです』 『……きみは確か、叔父さんといっしょに住んでいるんだったね』 神父はひざまずいて、両腕を痛いほどつかんだ。 『私の目を見てご覧。ダニエル、きみは叔父さんに叩かれたり、殴られたりしているんだね』 『いいえ。神父さま。叔父さんは、僕を叩いたりしません』 『こわがらなくていい。きっと安全なところにきみを連れていってあげるから』 そして、大好きな叔父は逮捕されるだろう。 『いいえ。叔父さんは僕に優しくしてくれます』 『ダニエル。神様の御前で、誓って言ってごらん。叔父さんは君を虐待しているね』 『神様のお名前に誓います。僕は虐待されていません』 シェーンがくすくす笑う声が聞こえた。 (ああ。やっぱり。おまえも、この神父を信用していないんだな) 『そうか……。それならば、しかたがない』 (それでいいんだ。ダニエル。「僕たち」が信じられるのは、「僕たち」だけなんだからな) 雨の中に飛び出した。 もう2度と教会には行かなかった。 その日からダニエルは、ほとんどの時間を心の奥底の小部屋で眠り、替わりにシェーンが表に出て、日常を取りしきるようになった。 シェーンはかっぱらいや喧嘩の常習犯となり、不良グループのリーダー格と目され、やがてIRAのメンバーに目を留められることになる。 「わかったよ、ディーターはずっと神父さまに謝りたかったんやね。優しくしてくれた神父さまに、嘘をついてごめんなさいって、謝りたかったんやね」 私は、彼の髪の毛を撫でた。 彼の心を責め続けていたのは、テロの中で何人もの人を傷つけたことでも、敵対組織のメンバーを射殺したことでもなく、彼が孤独と虐待の中でうめいていたとき、たったひとり彼に手を差し伸べてくれた神父に嘘をついてしまったことへの、罪責の念だったのだ。 「私もついさっき、わかったばかりなんだよ。好きな人に嘘をついてしまう苦しい気持ち。ほんとに苦しくて、苦しくて、死にたかった。 でも、もうひとつわかった。その好きな人たちは、私がどんなに悪いことをしても、絶対見捨てないってこと。神さまは私たちを絶対見捨てないってこと。 神父さまもディーターのこと、絶対に赦してくれてる。神さまも赦してくれる。 みんなディーターのことを愛しているんだよ」 私たちは抱き合ったまま、夢も見ずにぐっすり眠った。 目が覚めたときは、光が部屋いっぱいにあふれている、明るい朝だった。 ディーターもすぐ目を覚まして、私を見て微笑んだ。 「おはよう、円香」 「おはよう、ディーター」 私たちはいつまでも、キスを交わし合った。 「長い夜やったね」 作中に出てくる、ヘンデルの「オンブラ・マイ・フ」のMIDIを、音楽の寺子屋さまからいただきました。 ぜひ聞いてみてください。 |
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