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Episode 11
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§1 「どうして、昨日のうちに、連絡してくれへんかったの」 玄関から入ってきた彼の前を遮るように、私は仁王立ちになった。 「私、心配でゆうべ眠れへんかったんやからね。いつも、必ず電話入れてくれるはずでしょ」 「ごめん」 ディーターは苦り切った笑顔を見せると、靴を脱いで、私を抱きしめ、熱烈なキスをした。 ほんとうは私だって、無事な彼の姿が見られれば、きのうのことなんか、どうでもいいのだけれど。 いやいや、キスなどで誤魔化される円香さんじゃないぞ。 新婚1年ちょっととはいえ、些細なことでも気をつけないと、亭主の浮気が始まるんや。 特にディーターみたいなかっこいい旦那さんには、いくら注意しても、しすぎることはあらへんで。 これは、藤江伯母さんが懇々と言い聞かせてくれていることで、私はもう耳にたこ状態になっていた。 「今朝まで電話できひんなんて、いったい何の用事やったん」 私は、彼の腕からやっと抜け出すと、さらに詰問した。 「説明するのが、とても難しい」 ディーターは、眉根に皺をよせた。 「とにかく、それどころじゃなかった。……携帯も盗まれたし」 「でも、今朝の電話は、携帯からやったやん」 「恒輝が見つけてくれたから」 「恒輝? 何であいつが、そこに出てくるの? 東京に行ってたんでしょう?」 「偶然、向こうで会った。瑠璃ちゃんといっしょに」 「え? 瑠璃子?」 「それだけじゃない。鹿島さんにも、ケルンのクリニークの教授にも、昨日東京で会ったんだ」 話を聞いていて、頭がくらくらした。 「いったい、何があったの。東京で? お祭り?」 「かもしれない」 彼は心底疲れたようすで、ため息をついた。 「じゃあ、とりあえず坐ろうよ。今日は大学休みだし、ゆっくり説明してよ」 「その前に、着替えてくる」 そう言いながらディーターは、脱いだスーツの上着を私に手渡した。 「悪いけど、それ、修理できるかな?」 「え?」 彼の言葉に上着をしげしげ眺めると 、背中の裾の合わせ目の部分が上に向かって5センチくらい、縫い目に沿って破れている。 「だいじょうぶ、これくらい私でも縫えるよ」 「よかった」 「でも、25万円のスーツ、着てかなくてよかったねえ。あれ破ったら、今ごろ真っ青だよ」 この、ブルーグレーのスーツは、結婚一周年のお祝いに、私がプレゼントしてあげたものだ。件の銀座○○屋のに比べたら、7分の1以下の値段だけれど、それにしたって、こんなに早々に破るなんて。 「いったい、どないしたん?」 「犯人を捕まえたときに、破れた」 「犯人? 携帯を盗んだ犯人?」 「それも捕まえたけれど、破ったのは、拳銃を持ったほうの犯人」 「えーっ。何よそれ。わけわからへん」 「だから、説明するのがむずかしい、って言っただろ」 と言いながら、彼は寝室から出てきた。 Tシャツと半パンに着替えて、義足もさっさと外している。 よほど、昨日1日窮屈に感じていたのだろう。 家の中で義足をつけないときのために、道場で使い古した竹刀を一本、松葉杖がわりに置いてある。 でも彼はそれを使わず、片足で器用に、電話台とダイニングテーブルを利用して、歩くより早く冷蔵庫のところまでジャンプすると、冷やしておいたビールのロング缶を2本、取り出し、私の坐っているリビングの絨毯のところまで戻ってきた。 そのうち1本はあっという間に飲み干して、満足げに口を手の甲で拭った。 後の一本は、長くなりそうな予感のする話の合間に飲むつもりなのだ。 準備万端、ということか。 ディーターは、壁に凭れて足を投げ出すと、記憶を整理するかのように、遠くを見てしばらく黙り込んだ。 私は足を両手で抱え込んで、彼が唇を開いて、音楽のように心地よい声で話し始めるのを、わくわくしながら待ち構えていた。 羽田に着く前から、俺の心の中は、ざわざわと動いていた。 前はよく感じた気分。何かが起こるのを予知しているような感覚。 実際、強い神経症の発作が起きたときは、自分が考えたとおりに回りが動いているような、高揚した気持に陥ることがあった。もちろんそれは、記憶の混乱による錯覚なのだけれど。 もう神経症は、5ヶ月出ていない。でも、この感覚はそのときと似ている。 だから俺は、モノレールに向かう長いエスカレーターの上で、ドクトル・ヤンセンの姿を見かけたときも、たいして驚かなかった。 日本で外国人として暮らすと、便利なことがひとつある。 どんな遠くからでも、俺たちは目立つ。 白髪に近いプラチナブロンドに、ブルーの瞳、長身の北欧人のドクトルは、吹き抜けの広い空港の100メートル向こうからでも、一目でわかった。 そして、彼も俺に気づき、大層おどろいたようだった。 彼は反対に2階へ向かっていたため、すぐに俺は乗客を押しのけて、エスカレーターを逆走し始めた。 そして走り寄ると、2階のコンコースで待ち構えていた教授と抱き合った。 『ディーター! まさかこんなところで会うとは……。神のお導きか!』 『ドクトル・ヤンセン、いったい何故、日本にいるんです?』 『シンガポールで開かれた学会の後、聖ヘリベルト大学の姉妹校のK大学を訪問することが、急に決まってね。昨日から東京に滞在していたんだ。今からドイツに帰るところさ』 『でも、ここは、国内線ですよ』 『今日の2時に名古屋から、フランクフルトに飛ぶフライトがあるんだ。成田や関西空港でトランジットするよりは、便利らしくってね』 『何で知らせてくれなかったんです。俺しょっちゅう東京に来てるし、ドクトルに会うためなら、何をおいても飛んで来たのに』 『すまない。急な話だったし、君の住んでいるところと東京が、近いとは思わなかったんでね』 頭の芯がうずき出したのを感じた。彼の微妙に逸らした視線が、五感を異常に刺激し始めていた。 『何か、隠していませんか』 『……』 『俺に話したくないことがあって、それで黙っていたんじゃありませんか』 『……すわろう、ディーター』 観念したように、教授は近くのベンチを指し示した。 心拍数が上がってくるのが、自分でもわかる。 『ドクトル・フキにも相談したんだ。君に会って、このことを話すべきなのかどうか。今が君にとって大事なときだと、彼は言っていた。薬をやめようとしている今よりは、もっと後になってからのほうがいいだろうと』 『……クリニークの誰が、死んだんです?』 彼は畏怖の目を見開いて、俺を見た。 冷静に考えれば、簡単な推理だ。 ドイツでほとんどの時をクリニークの中で過ごしていた俺にとって、知己は大部分が病院内の人間だ。 今知らせなくてもいい類の悪い知らせとは、人が死ぬことぐらいだろう。 だが、それを頭で考えたのではなく、初めから知っていたような表情でふるまっていた。 まるで神がかった予言者のように。多分、予言者という人種の多くは、精神障害を患っていたのだろう。 『リヒャルトだよ。……先月の終わりだった』 『……』 『一時帰宅していたのだが、発作的にビルから飛び降りた。家族にも我々にも、全く突然の出来事だった。書き置きも何も残さなかった』 リヒャルトはドクトル・ヤンセンの患者で、俺と同じ解離性同一性障害を患っていた。2つ年下で、やはり、幼児期に虐待を受けた経歴があった。入院していたころは一番仲がよかった。共通する症状を抱えていたので、何も言わなくてもわかりあえたし、年も近かったので、彼が調子の良いときはいっしょに過ごした。 ただ、彼の調子の良いときはあまりなかった。 リヒャルトの中には20近くの人格が存在し、その多くは幼児で、頻繁に交替し、いつも寝るか暴れるかしていた。 日本に来てから手紙を2回出したが、返事はなかった。ドクトル・フキから、病状が好転していることは聞かされていたが、まさか最悪の事態に至ってしまうとは。 俺たちの病気は、良くなりかけている頃が一番危ない。周囲も安心し、本人でさえ前向きになり始めたときに、死を選ぶケースが少なくない。 円香のお父さんは、だから俺にリヒャルトの自殺を知らせることをためらったのだろう。不安神経症の症状がなくなってから、ずっと薬を飲んでいない。だからこそ、彼の二の舞になりかねないと心配したのだろう。 『ディーター』 ドクトルは、気遣わしげに俺の顔を覗きこんだ。 意識しないうちに何十秒か経っていたのだろうか。その間、ぼんやりとあらぬ方向を見ていたらしい。 『だいじょうぶか』 『ええ』 にっこりと微笑んだ。 俺の得意技だ。 何年もこの病気と付き合っていると、平気なふりをするのがうまくなった。 どんなひどい状態のときでも、顔色ひとつ変えずに笑っていられる。プロの精神科医だってだませる。 ドクトル・フキが俺にいつも疑り深いのは、そのためだ。 『だいじょうぶです。少しショックは受けたけれど』 『そうか』 『それより、先生たちが俺のことをそんなふうに見ていたことが、辛いです。俺は信用されてないんですね』 『すまない、ディーター』 『リヒャルトの葬式はいつ?』 『4月の25日だった。組合教会で、たくさんの人が来てくれたよ』 『お墓は、ケルンに?』 『ああ』 『今度行かれることがあったら、代わりに花を供えてくれませんか。当分行けそうもないので』 『わかった。約束するよ』 広いコンコースに、吸い込まれるように割れて反響する日本語のアナウンスが、名古屋行きの便の搭乗手続きの案内を流し始めていた。 『急がないと、2時のフライトに間に合わないんじゃありませんか』 『ああ、そうだ』 彼は腰を半ば浮かせた状態で、もう一度心配そうに俺の顔を覗きこんだ。 『ほんとうに、だいじょうぶだね。ディーター』 『はい。それに、いざというときのために、エチゾラムと塩酸グロルプロマジンを持ってます』 スーツの胸のポケットを叩いてみせた。 『元気でな。神の御恵みが君の上にあるように』 『ドクトル、あなたの上にも』 もう一度抱き合うと、教授はスーツケースを手に、小走りにチェックインカウンターに向かった。そして最後に気遣わしげに、こちらを振り向いた。 俺は片手を少し上げて会釈すると、そのまま歩き出して、下りのエスカレーターに乗りこんだ。 ドクトル・ヤンセンは、そう言えば一度も、俺を直接診察したことがなかった。 もしドクトル・フキだったら、今の俺の異常性にすぐに気がついただろう。 リヒャルトの死に、涙を見せることも取り乱すこともせず、冷静を保っていた俺を、おかしいと感づいただろう。 冷静だったのではない。 すでに、感情が失われていたのだ。 心は麻痺したように、何も感じていなかった。 落ち着き払って地下1階でエスカレーターを降り、モノレールの駅に向かい、切符を買う自分をもう一人の自分が見ている。そんな感覚。 それでも、モノレールに乗っているあいだは、何とか自分を抑えていた。 浜松町で降り、山手線に乗り換える頃には、気分はずっと良くなり、もう大丈夫と思っていた。 もう昼に近く、電車の中はすいていた。 シートに座り、2駅目を過ぎ3駅目に差しかかろうとしたとき、それは、突然やってきた。 気がついたとき、俺は指一本動かせなくなっていた。 §2につづく |
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