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Episode 11
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§1にもどる §2 私は彼を遮りたくはなかったが、それでも遮らずにはいられなかった。 「それが、離人症の発作やの」 「うん」 ディーターは、話の切れ目を幸い、持っていた缶のアルコールで喉を潤した。 「そのとき、どんなふうに自分では感じてるの?」 「円香は、鏡の中の自分を動かそうとしたことある?」 「鏡の中の自分を動かすなんて、簡単やん」 私はマリオネットのように、両腕をしゃかしゃかと動かしてみせた。 「鏡の中は、左右が反対なんだよ。右手をこっちに動かそうと思ったら、左手を逆に動かさないといけないんだよ」 「あ、そうか」 頭の中で想像してみた。たとえば、自分の名前を鏡に写しながら書いてみるとしたら。かなり大変なことであることだけは、わかる。 「なかなか、思ったとおりには、動かへん」 「そういう感じ。人によって違うと思うけど、俺の場合は、自分で自分をうまく動かせない」 「そのとき、何を考えてるの?」 「何も考えられない。少しすると、回りが襲ってくるような感じがする。脳みそが頭の中から飛び出て、それをチクチクと針でさされているみたいに、回りの音や動きが襲ってくる」 私は、喘いだ。 「そんな辛いときが今まであったのに、どうして平気な顔してたの? どうして、私に隠してたの?」 「隠してない。円香の前では、ちゃんと苦しい顔してる」 嘘だと思った。 ディーターは今でも、一人で我慢してしまう。 私のことを気づかって心配させないように、苦しいことは全部抑えてしまっている。 もしそれが嘘でないというのなら、ディーターは自分自身さえだまして生きているのだ。 せつなさに涙がこぼれそうになったので、あわてて話題を変えた。 「ほんとは、どこの駅で降りる予定やったの?」 「恵比寿。浜松町から外回りで6駅目」 「外回り?」 彼は長い腕を伸ばして、そばにある電話台がわりの籐のチェストボックスの上から、メモ用紙と鉛筆を取った。 「これが、山手線」 と、大きな丸をぐるっと描いた。 ちょうど大阪の環状線みたいなものだということに、ようやく思い至った。 ドイツ人の彼に説明を聞くことになるとは、情けない。 「ここが浜松町。時計の針の方向に、新宿の方に向かっていくのが外回りで、新宿の4つ手前が恵比寿」 ディーターは、漢字で「浜松町」「新宿」と書きこんだ。 この半年で、彼は、ひらがな、カタカナ、そしてかなりの漢字をマスターした。 さすがに「恵比寿」は難しかったらしく、うーんと考え込むと、自分の飲んでいるビールの缶を、そばにポンと置いてにっこり笑った。 このビールと同じ名前だ、と言いたかったのだろう。 「で、降りられたの?」 「降りられなかった。その頃にはだいぶ落ちついていたから、無理をすれば降りられたけど、きっと酔っ払いみたいに見えたと思う」 「そうなんだ」 「約束の時間までにはまだ1時間以上あったし、もう少ししてから降りて、反対行きに乗りかえればいいと思ってた。それがだめなら、乗ったまま1時間かけてまた戻ってくればいい」 でも、と、彼はきれいな翡翠色の目をいたずらっぽく細めた。 そう決心したお蔭で、いろんなトラブルに巻き込まれることになってしまったんだ。 電車は、降りる予定だった恵比寿を過ぎ、渋谷に入った。 どっと大勢の人が乗り降りする音が聞こえる。 俺はうつむいて、目を閉じていた。 回りからは寝ているように見えたと思う。 本当は、他人がいるところでは絶対眠れない。 電車の中はおろか、10時間乗りつづける飛行機の中でも、決して眠ったことはない。 いつ誰が背後からナイフを突き付けるか、銃で狙ってくるかわからない、テロリストだった頃の恐怖が身体にしみついている。 俺自身がそうやってきたから。ユーウェンはそうやって人を殺してきたから。 人々の気配に、ようやく俺は顔を上げて、目を開いた。 車内は、渋谷で乗りこんできた乗客で少し混み始め、立っている人もいた。 大丈夫だ。何とか最悪の状態からは脱した。 シャツの下で汗が伝う背中を、もたれていたシートから離した。 からだも動かせるようだ。 そう思ってほっとしたとき、聞き覚えのある声が、俺の耳に飛び込んできた。 「ディーター!」 ドアのあたりから走り寄ってきた女性の顔を見上げて、びっくりした。 「瑠璃ちゃん?」 円香の一番の友だち、高地瑠璃子ちゃん。 彼女は東京の大学に行っているのだから、こうやって会う可能性もゼロではなかったけれど、それが何故こうも偶然、今日なのだろう。ドクトル・ヤンセンに羽田でばったり出会った同じ日に。 「どないしたん。仕事?」 彼女は、一人で広い場所を占めていた隣の人をつめさせると、俺の横に座った。 「うん。新しいプログラムを、東京の会社に売りこみに来た」 「すごいね。ちゃんとビジネスマンしてるんやね」 おおげさに感心して、クスクス笑う。 俺の今までのひどい生き方を、円香から聞いて知っているからだろう。 円香以外の日本人の若い女性をほとんど知らない俺にとって、瑠璃ちゃんは貴重な存在だった。 ある人によれば、どうも円香は日本の普通の女の子としては、かなりズレているらしい。円香を基準にして他の女性を見るとひどい目にあうぞ、と忠告された。 「瑠璃ちゃんは、大学の帰り?」 「う、うん、まあ」 「あれ? でも確か、W大学は、高田馬場の近くだったね。今のは、渋谷…」 「ディーター、鋭いね。何でそんなこと知ってんの」 「東京にはときどき来てるからね」 「ごめん。実は、大学は自主休講。知り合いが渋谷のホテルに泊まってるんや」 「知り合い?」 俺は、とっさに車両の奥の方を見た。 接続部分のドアの近くに、背をそむけるようにして立っている男の後ろ姿に、思わず叫んだ。 「恒輝?」 車中の乗客が振り向くほどの大声に、恒輝はしぶしぶこちらにやって来た。 普段の俺は、あんな大声は出さない。あまりに驚いたのと、発作をやり過ごした反動が来たのだろう。 「よお、ディーター」 恨めしそうに、恒輝は片手を上げた。 彼も、紺色の背広姿だ。普段着でしか会ったことのない同士がスーツを着こんで、東京でばったり会うのは奇妙な光景だった。 「こらっ。やめろよっ!」 俺は立ちあがると、いやがる恒輝を羽交い締めにして、そのまま俺の席に無理やり放りこんだ。 そして、持っていたカバンを恒輝の膝に預けると、両手で吊り輪を握り、彼の上に屈みこんで、尋問態勢をとった。 「説明しろ。こんなところで何してる?」 「リクルートやっ。昨日は会社三つ訪問して、今日も朝からいっぱい行くところがあって、大忙しで大変なんや」 恒輝はこの4月から大学の3回生だ。不況の真っ只中の日本では、もうこの時期から学生がジョブハンティングをするのは珍しくない、と言っていた。 「へえ。それにしては、泊まってるホテルのある駅から、瑠璃ちゃんと一緒に昼前に乗りこんできて、俺に見つからないようにこそこそ隠れて、瑠璃ちゃんも大学の帰りだなんて嘘つくんだ」 俺の意地悪な言葉に、並んで座っていたふたりは真っ赤になった。 「ま、円香には、絶対言うなよ」 「さあ。どうしようかな」 すっかり気分がよくなっていた。 東京にいるのに、ここだけ関西に帰ってきたような空気がする。 「私たち、今から池袋へ行くんやけど、ディーターもいっしょに来る? お昼、いっしょに食べる?」 瑠璃ちゃんが誘ってくれたが、俺は首を振った。 「いや。そこまでの時間はないと思う。1時の約束だから」 「会社、どこやの?」 「恵比寿」 「恵比寿やったら、反対方向やないの!」 「うん。間違えて乗り越した」 「大変。もう新宿や。降りるよ。ふたりとも!」 瑠璃ちゃんはてきぱきと命令すると、ちょうどホームにすべりこんだ電車のドアが開くのを待ちかねて、外に飛び出した。 普段はおだやかに見えるが、こういうところは円香にそっくりだ。 「類は友を呼ぶ、やろ」 俺の考えを見抜いたかのように、恒輝が苦笑いした。 「ごめん。俺だけ降りればよかったのに」 と謝ると、 「ええんや。別に急ぐ旅じゃなし。それより、戻り方わかるか」 「ああ」 気がつけば恒輝は、あわてて降りたせいで、自分の書類カバンを片方の手にぶらさげ、その反対の腕で俺の預けたカバンを小脇に抱えて、それが今にもずり落ちそうになっている。 「あ、ありがとう」 すっかり失念していた自分の持ち物を彼から受け取ろうと、手を差し出した。 「わっ!」 次の瞬間、恒輝が俺に向かって倒れかかってきた。背後から誰かに突き飛ばされたのだ。 俺は、とっさに彼を受け止めた。 そして視線を下にやったとき、彼の脇にあるはずのカバンはあとかたもなく消えていた。 ひとりの男がそれを持って、かたわらを走り去るのが見えた。 §3につづく |
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