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Episode 11
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§2にもどる §3 「きゃああっ!」 大声を上げた瑠璃ちゃんをも突き飛ばすと、そいつはまっしぐらにホームの階段を駆け下りていった。 恒輝を立たせ、俺は数歩あとを追った。 だが、すぐにあきらめた。この足では、全力疾走する相手に追いつくことなどできない。 「ちくしょう!」 怒声を残して恒輝が代りに飛び出し、ホームからあっというまに姿を消した。 瑠璃ちゃんを助け起こすと、 「ディーター!何が入っとったん、あの中」 ラップトップパソコン。今日説明する、新しいプログラムの入ったCDとシステム仕様書。それに携帯電話と一泊用の着替え。 俺は彼女にカバンの中身を説明した。 「それやったら、今日の売りこみ、できひんやないの」 「そういうこと、かな」 「他に知れたらまずいような、極秘のプログラムやの?」 「そんなんじゃない。ただのサンプルだから」 「新しいの作るの、時間かかるの?」 「家に戻れば、ハードディスクからすぐコピーできる。だけど……」 今日のプレゼンテーションには、間に合わない。 彼女の心配そうな目を見て、そのことばを言えずに飲みこんだ。 そのとき、恒輝がしょんぼりした様子で、ホームの階段を上がってきた。 「ごめん。見失った」 「あいつ、速かったからな」 「財布とか免許証とか、クレジットカードとかは?」 「それは全部、スーツの内ポケットに入れていた」 「どないする? 警察に届けるか?」 「とりあえず、今から行くはずだった会社に電話して、予定をキャンセルしてもらうよ。あとは、ゆっくり考える」 ゆっくり考える。 そう言ったとたん、足元がぐにゃりと曲がった気がした。 まるで、高いビルの屋上から下を見下ろしているような浮遊感。 今日は、いったい何という日なのだろう。何も考えることができない。 誰かが俺の頭を狂わせるために、こんなトリックを仕組んでいる。 リヒャルト、おまえは俺にそっちに来てほしいのか。 「ごめん。ディーター。俺のせいや」 「恒輝が謝ることじゃない。俺が不注意だったんだ」 「約束した時間は何時? 何時までに行けばいいの?」 瑠璃ちゃんが突然、俺に詰め寄った。 「アポイントは1時。まず担当者に会って、プログラムをチェックしてもらう。見込みがあれば、3時にマネージャーに会ってプレゼンをする予定だった」 「最低、3時までに行けばいいように、できる?」 「それはなんとかなると思う、けど……」 彼女の表情は、思わずはっとするほど真剣だった。 「私、今の奴、知ってると思う」 「ええっ?」 「会ったことがあると思う。私、突き飛ばされる前、正面からしっかり顔見たから、間違いない」 「ど、どこで会うた奴や?」 「ここ。新宿西口の中央公園」 瑠璃ちゃんは、少し胸をそらせた。 「私が先月、インタヴューしたホームレスの外国人や」 私はもう我慢できなくなって、身をよじりながら尋ねた。 「ねえ、それでどうなったん? 携帯は見つかったて、言うてたでしょ。結局仕事はうまく行ったの?」 私はいつも推理小説を読むと、途中で最後のページを見てしまう根性なしだ。 ディーターは微笑んだ。 「うん。契約は、ちゃんと取れたよ」 「やったっ!」 私は、彼の胸に飛びついた。 安定した収入が約束されるのも嬉しかったが、それよりも、ディーターが2ヶ月もかけて作ったプログラムが認められたことの方が、もっと嬉しかった。 「あ、それより、私が普通の女の子からずれてる、なんて言うたの、いったい誰よ」 ディーターは、しまったという顔をした。 「……言えない」 後ろでしばった彼の長い金色の髪の房を、思いきり引っ張った。 「いてっ!」 「言いなさいよっ」 「あ。円香。もう4時。稽古に行かなくちゃ」 壁の時計を指差し、あわてて話をそらそうとする。 「今日は疲れてるんやから、もうお休みしたら? 道場の掃除は私がやるよ。ディーターは、晩ご飯の時にゆっくり来ればいいよ」 「そんなわけにいかないよ。鹿島さんも来れないし、今日は5人も来る日だし、俺が手伝わないと」 彼は立ちあがると、壁を伝って、もう一度義足をはめるために奥の寝室に入った。 そうか。それに、ディーターが来ないと、がっかりするのは、うちのおじいちゃんやもんね。 私たちは毎日の日課どおり、マンションから葺石家に歩いて行くと、2人で手分けして道場や家の前の掃除を済ませ、それが終わると、彼は祖父や門下生たちと稽古、私は藤江伯母さんといっしょに食事の支度にとりかかった。 ディーターの実力はこの頃、祖父をしのぐほどになっていた。 もちろん、73歳を過ぎた祖父が体力的に衰え始めたのも一つの理由だけど、それにもまして彼の心技体が充実しているのだと思う。 彼のことは、青い目の古武道後継者などと題されて、新聞の地方欄やコミュニティ誌にも載ったりして、けっこう地元では有名人になってしまった。鹿島さん目当てと同じくらい、ディーター目当てに入門志願してくる人も、この頃現われているらしい。 ま、女性が寄ってくるのでなければ、私はかまわないけどね。 今晩の夕食は、鹿島さんや恒輝がいないけれど、このところ確実に参加する回数が増えている聡伯父さん(藤江伯母さんのご主人)が加わる。 聡伯父さんは、ディーターが来てからようやく、うちの高い敷居をまたいでくれるようになった。 伯父さんは引退する前は大企業の人事部長だった人で、社会保険労務士の資格を持っている。 ディーターに、年金や健康保険などの加入を勧め、その手続きのしかたなども教えてくれたのだ。外国人だからこそ、いざというときの備えは必要だと力説してくれたお蔭で、精神科の受診料や高い薬代なども健康保険でカバーでき、ずいぶん助かった。彼は聡伯父さんを尊敬して、会社のことなどもいろいろ相談するようになった。 食事が済み、あとかたづけが終わって、デザートの八朔を食べているとき、私は、ディーターの昨日出会った出来事のあらすじをかいつまんで、みんなに説明した。 「東京もほんまに恐くなったもんやねえ。油断も隙もないんやねえ」 藤江伯母さんが吐息をついた。 「なんか、あのあたりは浮浪者とかいっぱいいてるとこなんやろ。西口とか、中央公園とか」 「伯母さん、浮浪者なんてもう死語よ。今はホームレスって言うんや」 「スーツホームレス、言うのもいるみたいやな。けっこういい会社の勤め人やった者が、ある日突然リストラされてホームレスになる。今の不況は底無しやからな」 聡伯父さんが、解説してくれた。 「それで、その公園の中に、ほんまにおったんか。ひったくりは」 祖父の問いに、ディーターはうなずいた。 「捕まって、よかったなあ」 ディーターが曖昧な表情で微笑んだのを、私だけは見逃さなかった。 マンションへの帰り道、私はディーターに聞いた。 「ねえ。ほんとは、もっといろんなことがあったんやろ。新宿で」 「うん」 彼はまっすぐ前を見つめながら、私の肩に手を回して引き寄せた。 「でも、円香以外には話したくなかった」 初夏のさわやかな夜、マンションまでの5分の道のりを1時間以上かけて遠回りして歩きながら、その一歩一歩に、彼の唇から紡ぎ出される体験を織り合わせた。 新宿駅を降りると、西口から新宿中央公園に至る道で、何人かのホームレスが歩いているのにすれ違った。だが、ドイツでも報道されて有名なダンボールハウスや、集団でたむろする姿はほとんど見かけなかった。 「今は、このへんも取締りが厳しいんや。夜になると、いつのまにかダンボールを抱えて、みんな、閉まった商店の前なんかに集まってくる」 瑠璃ちゃんがそう言いながら、ひとりのホームレスの男に手を振った。 以前、インタヴューのときに知り合ったのだという。 彼女は、W大の文芸専修科で社会問題のドキュメンタリーという課題を得たとき、数週間ここに通いつめたらしい。 「日本の行政は、変。この人たちも、住むところさえあれば、生活保護が受けられたり、ハローワークで仕事が紹介してもらえたりする。でも住所が決まらないから、そういう福祉もうけられへん。堂堂めぐり。一度入ったら、あり地獄みたい。たったひとりの保証人がいるだけで、アパート借りられるのに」 だから、ボランティア団体で、そういう人たちのために、アパートを借りる保証人になってあげたりするところもあるのだ、と彼女は説明してくれた。 中央公園には、何人かが地面に座りこんでいた。 ベンチには何か突起のようなものが出ていて、ホームレスが寝ることができないようになっている。 木々の陰に、青いビニールシートで作った仮小屋のようなものが、いくつか見える。 「ここで、待ってて」 瑠璃ちゃんは、何人かの人々が集まっている場所に歩いていって、なにごとか話しかけた。 「すげえな。あいつ」 恒輝が、感嘆したように隣でつぶやいた。 「作家ってのは、ああいうこともしなきゃいけないんやな」 彼らは、女の子なら近寄ることすらためらうほど汚れて、髭も髪の毛もぼさぼさだったが、気さくで暖かい人たちのように見えた。 そこから少し離れて、ひとりずつポツンと座っている人たちもいた。聡伯父さんの言ったとおり、こぎれいなスーツを着て、このまま会社に出勤してもおかしくないような人もいた。 女性もいた。 ホームレスと一口に言っても、個人差がある。 そして一目で、かつての俺と同じだとわかる者もいた。明らかに精神障害を患っている。 今の俺は住むところがあり、仕事があり、彼らとは別の人間のふりをして離れて立っているが、もし円香や葺石家の人たちに出会っていなければ、あそこに座っていたのは俺かもしれないのだ。 実際、本当に彼らといっしょに座っていたことがあった。 あれは、香港だった。 気がついたとき、俺は金も荷物も何もかも無くしていた。 長いあいだ別の人格になっていたことを、そのときの俺は知らなかった。 かろうじてパスポートだけは持っていたから、ドイツ大使館に駆け込めば、なんとかなったかもしれない。 でも、もうそんな気力はなかった。 日にちも何もわからなかったし、今まで自分が何をしていたのかも思い出せない。 頭はがんがん痛み、腹が減って歩くのさえやっとだった。 ユーウェンはいつも、極端に物を食べない奴だった。身軽で神経を研ぎ澄ませておきたかったのか、単に排泄という行為を嫌がっていただけなのかは知らない。 長い間ユーウェンでいたあと、俺はいつも数キロごっそりと、体重が減っていた。 いつしか、ホームレスたちがいるビル街に、彼らといっしょに座っていた。 1日か、2日、そうしていたと思う。 もうどうでもよかった。死んでもいいと思っていた。 そのうち、一人の身なりの良い中年の西洋人の男が近づいてきた。何か、食べさせてやると言って。 俺はふらふらと彼についていった。 あとのことは、思い出せない。ふたたび別の人格になっていたと思う。 意識が戻ると、手には大金が握られていた。 男のところで何をしていたのか、今なら見当がつく。 でもあの頃の俺は何も疑わず、その金で旅を続けた。 「ディーター」 恒輝の声で、我に返った。最初自分がどこにいるのか全くわからない。 やがて止めようがないほど、全身が小刻みに震えはじめた。 「だいじょうぶ、か?」 俺の病気のことを、恒輝はよく知っている。 今にも崩れ落ちそうな俺の身体を、彼は横からとっさに支えた。 「そこに座ろう」 「いや、……いい」 何度もあえごうとしたが、空気はちっとも肺に吸い込まれない。 「それより、……薬が飲みたい。……水のあるところは?」 「あそこに、水飲み場がある。芝生の手前だ。連れてってやる」 「いい。手を……離してくれ」 心配そうに手をひっこめた彼を後ろに残して、よろめきながら水飲み場に向かった。 今日何度もやり過ごしたはずの発作に、ここに来て完全に打ちのめされてしまった。 でも恒輝がいてくれたから助かったのだ。俺ひとりなら、もうとっくに正気を失っていただろう。 片手を円い石造りの台に乗せて身体を支えながら、もう片方の手でスーツのポケットを探った。 いつも念のために持っている、抗不安薬と抗精神病薬の粉末。 もとより即効性のある薬ではないが、飲めば少なくとも安心はできる。 飲みたくはなかった。この半年間、飲まないようにがんばってきたのに。でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。 俺は震える手で、薬の袋を引きちぎろうとした。 そのとき、俺の視界の隅で何かが動いた。 §4につづく |
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