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Episode 11
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§3にもどる §4 洗濯物がずらりと干してある芝生の奥。木立に張られたビニールシートの陰から、ひとりの若い男が這い出てきた。 そいつを見たとき、俺は雷に打たれたようになった。 顔には見覚えはない。だが、服装でわかった。 俺のカバンをひったくった奴だ。 向こうも俺に気づいたようだった。短い悲鳴をあげ、奴は走り出そうとして足をもつれさせた。 「恒輝!」 俺はかすれた声で叫んだ。 そして薬の袋を投げ捨てると、自分でも知らぬ間に芝生の柵を飛び越え、男にタックルをしかけていた。 奴は組み伏せられ俺の腕の下でもがきながら、外国語で喚いた。 理解できる言葉だった。 それが何語だったか、彼が何人だったか、今は言いたくない。 貧しさのため日本に不法入国して、不況のためその違法な職さえも失い、国に帰るすべもなく、それでも故郷に帰るよりはここの方がましだと思えるような外国人。 俺が彼の母国語で話しかけるのを聞いて、びっくりしていた。 しばらく俺たちは座りこんで、彼の身の上について話した。 警察に突き出さないという約束を信じて、素直に盗ったものを出してくれた。 汚れた紙袋に、パソコンと着替えの服だけが入っていた。 着替えは自分が着るため。パソコンは、ほとぼりが冷めたらどこかで売ろうと思っていたのだろう。 調べると、パソコン本体も中のプログラムCDも無事だった。 ただ、カバンはすぐに新宿駅でごみ箱に捨てたという。携帯も、足がつかないように中に入れたまま。当然仕様書もなくなっていたが、あれはプリントアウトすればすむものだ。 俺は立ちあがり、相手も立ち上がらせると、そのまま何も言わず、彼の小柄な体を抱きしめた。 奴はぼうぜんとして、やがて声を上げて泣き出した。 恒輝も瑠璃ちゃんも、うしろでただ黙って見ていた。 私たちは、新宿の中央公園とはほど遠い、閑静な住宅街の小さな三角形の公園で、ベンチに寄り添って座っている。 「円香。俺のことを、軽蔑する?」 香港で、見知らぬ男相手にからだを売ったこと。 私は、髪の毛がバサバサと音をたてるくらい強く、首を振った。 「ディーターは、病気やったんやもん。それに、その人格も生きようとしてそうしたんやもん」 「……ありがとう」 「それより、そのひったくりの外国人、どないなったん?」 「さあ。瑠璃ちゃんが支援団体の連絡先のメモを渡していたけど、本当に連絡したかどうかはわからない」 「……そう」 「本人が、自分で決心しなければ、何も起こらない。俺たちには、どうしようもない」 「うん、そやね」 私は、頷いた。「もう、帰ろう。湯冷めして、なんだか寒くなってきた」 私たちは、公園のすぐそばの自分たちのマンションに戻った。 「ああ。帰れる家があるって、いいな」 玄関のところでディーターは、しみじみと呟いた。 電気をつけてリビングに入ると、彼は電話台のところに立ち、引出しを開けて束になった薬を取り出した。 去年暮れ、精神科でもらってから、ほとんど飲んでいない薬だ。 「円香。これ、もう捨てる」 「えっ。どうして?」 「これがあるから、頼ってしまう。確かに持ってると安心だけど、その安心の分だけ、俺は弱くなる」 「でも……」 「昨日のことで、よくわかった。俺はまだ弱い。この病気を抱えている俺たちは、普通の人とは比べ物にならないくらい弱い。でも、弱いからこそ、自分で決心して少しずつ歩き出さなければ、何も変わらない」 「うん……」 私は、まるで儀式のように彼がゴミ箱に薬を全部放りこむのを、じっと見ていた。 辛かっただろうと思う。唯一の支えである薬を捨てることは。 えらい。よくがんばったね、ディーター。 子どもにするみたいに、私は彼の背中をさすった。 そして、その夜おそく。 「あ。そうや」 真っ暗闇で私は突然、むくりとベッドから起きあがった。 「今ので終わりやないんと違うの。銃を持った犯人ってのがまだ出てきてへん。鹿島さんのことも。携帯が戻ってきたところもまだ、話してもらってない」 「明日にしようよ。円香もゆうべ寝てないんだろ」 ディーターはごろりと寝返りをうつと、疲れたような声をあげた。 「やだ、やだっ。このままやと、気になって眠られへん!」 だだをこねる私に、あきらめた彼はため息をついた。 そして上半身を起こして、背凭れに体を預け、灯りのない部屋の虚空を見つめながらふたたび話し始めた。 恒輝と瑠璃ちゃんとは、新宿駅のプラットホームで別れた。 「さんざんな目に会うたな。疲れてへんか?」 「だいじょうぶ。いろいろとつき合わせて、すまなかった」 「プレゼンがおわったら、また待ち合わせて、晩飯いっしょに食おうか」 「いや。これ以上ふたりのデートの邪魔は、したくない」 それに今夜は、渋谷のスタジオにいる鹿島さんの手伝いに行く約束になっていることを話した。 「そうか。そう言えば師範代、この頃、N○Kの時代劇も手がけてるんやったな。」 恒輝は、愉快そうな笑い声を上げた。 「なんか、不思議やな。今日は、俺たちの知ってる関西人が、東京に大集合してたんや」 本当に、不思議な1日だった。 円香がこれを知れば、自分だけいなかったことを悔しがるだろうな、と思った。 無性に、円香に会いたくなった。 彼女の、いつも何かに見開いたような大きいきれいな黒い瞳も、少しくせのある柔らかな髪も、子どものようなふっくらした頬も、小さなピンク色の唇も、全てに触れたい。 今朝別れたばかりなのに。 昔の俺は、世界中を放浪していた。 1日に2つの国境を越えたこともあった。自分の家などなくて平気だった。 それなのに、今は東京へ来るだけで辛い。 俺はこんなにも、円香から離れられなくなっている。 恵比寿で降りて、目的の会社に着いたのは、3時数分前だった。 何とかぎりぎり間に合った。 日本人の担当者は、約束を一方的に違えられて、初めは少し気分を害しているように見えた。 でもその日の俺は、いつもよりずっとしつこかった。こちらが悪いことがわかっているから、できるだけの誠意を尽くして説明し、いやな顔をしている相手に粘って、食い下がった。 最後には、彼も根負けした。それどころか、ドイツ人のジェネラルマネージャーに会う頃には、すっかり好意的になって口添えまでしてくれた。 こんなことは初めてだった。 俺は今まで、人にしつこく食い下がることなどできなかった。 自分を傷つけるものから、逃げて生きてきた。 契約が取れて会社を出たとき、何だかやっと一人前の大人になれたような晴れやかな気分だった。 大変な1日を終えた安堵感に浸りながら、俺は鹿島さんの待つ渋谷の放送センターに向かった。 本当は、今日は終わってなどいなかったことを、そのときはまだ知らないまま。 山手線の原宿で降り、明治神宮を右手に5分ほど歩くと、23階建てのビルとスタジオパークが見える。 スタジオ見学の時間も終わり、人はもうまばらだ。 玄関で自分の名前と来意を告げ、許可証をもらった。 ここに来るのは、これが2回目だ。 京都の太秦にはもうかなり慣れたと思っているが、東京のテレビ局はまだ苦手だ。 何度も人に聞きながら、迷路のような通路を抜け、やっとスタジオに辿りつく。 「やあ。ディーター」 半そでのTシャツ姿の師範代が、頭を掻きながら近づいてきた。 「せっかく来てくれたけど、スケジュールが押してるんや。まだ当分は別のシーン撮りが続く」 「いいですよ。別に。どうせ夜中までかかると覚悟して、ホテルも取ってないから」 「今のうちに、見といてくれ。今日のは、カラミが4人や。おまえには、特にカラミの方を受け持ってほしい。今日のはそんなに大立ちまわりやない」 彼は、台本と1枚の紙をくれた。 紙には、鹿島さん独特の書き方で、ひとりひとりの立ち位置と動作が、細かく絵と記号で表されている。 カラミとは、殺陣の用語で、負け役、やられ役をいう。そしてシンが、主役、勝ち役ということになる。 台本の方は、一目見ただけで目がチカチカした。 時代劇の台本は、難しい漢字が多すぎる。俺にはまだ、読めない。 主役が出番のシーン撮りが続いているため、合わせ稽古は不可能だった。 いきなりカメラテスト、そして本番ということになる。 シンとカラミ、別々に稽古して、一回で合わせなくてはならない。 そのために鹿島さんは、それぞれの動きをコンマ何秒単位で緻密に考えていく。 大勢の殺陣では、アドリブということは絶対にありえない。 俺たちはしばらく、カラミ役の俳優さんたちとの打ち合わせと立ち稽古、それに雑談で時間をつぶしていた。 もう夜の8時近い。 考えると、あの騒ぎで昼も食べ損ねていた。 「あ。晩飯、まだか。ちょっと待っとってくれ」 鹿島さんは、プロデューサーのところに行って何か話して、すぐ戻ってきた。 「めし食いに行こう。まだ1時間は、殺陣師の出番なしや」 俺たちは、階下の食堂に向かった。 「ディーター、今日の仕事きつかったんか。すこし太刀筋が鈍いぞ」 「無茶言わないでください。スーツ着てやってるんですよ」 「いや、それだけとちがうな」 さすがに、師範代は鋭い。 テーブルに座って注文をすませると、俺は鹿島さんに今日あったことを簡単に説明した。 恒輝と出会ったくだりでは、瑠璃ちゃんの名前は出さなかった。口止めされているとその時点では思っていた。 「すごいドラマがあったんやな」 「もう、一生ごめんです。今日みたいな1日は」 俺はチャーハンの皿に向かいながら、意味もなくスプーンを動かした。 鹿島さんに指摘されるまでわからなかったが、相当疲れているのだろう。腹が空ききっているはずなのに、食欲もわかない。 「悪かったな。そんな日によりによって、俺の手伝いまでさせて」 「いえ、どうせ、ついでだったし、それに……」 「この仕事、けっこうおもしろくなってきたやろう?」 本心を言い当てられて、俺は黙り込み、彼は大笑いした。 「なんなら、明日の緑川スタジオでのオープン撮りにも、付き合うか」 「そこまでする気は、ありませんよ」 「殺陣師の仕事の、どこがおもしろい?」 「緊張感、かな。ひとりが気を抜いただけで、そのシーン全体がだいなしになる。オーケストラと同じ」 「へえ」 「オーケストラがひとつの音楽を作り上げるように、全員が最高の技術を出して、一つの殺陣を作り上げる緊張感。一度知ると、また味わいたくなる」 「殺陣師はさしずめ、指揮者みたいなもんやな」 「そうですね」 「じゃあ、時代劇の殺陣の、どこに魅力を感ずる? 外国人としての目で見て」 食後のコーヒーを飲みながらの難しい質問に、しばらく考え込んだ。 「美しいところ」 「美しい?」 「主役の立ちまわりが一番美しく見えるように計算しながら、まわりを動かしていく。鹿島さんはいつもそうやっている」 「そう、見えるのか」 俺の答えに、鹿島さんは少しショックを受けたようだ。 「違うんですか」 「俺は今の時代劇の、美しいだけの殺陣に満足していない」 「なぜ?」 「殺陣には、昔からたくさんの決まりごとがある。たとえば、チドリ。左右から襲いかかってくる攻撃を受けて、千鳥足のステップを踏んでいなす。いまだに歌舞伎の影響が色濃く残っている証拠や。美しいけど現実味はない」 「様式美」 「むずかしい日本語を知っとるな」 「鹿島さんはもしかして、リアリズムを求めているんですか」 「そうや」 「俺は、反対です」 「どうして?」 「殺陣にリアリズムを追求したら、それはただの残虐な殺戮シーンだ。そんなもの、誰が見たいんですか」 「だがもうすでに、若者は時代劇を見ない。ハリウッドの手に汗握るアクションに慣れている彼らは、パターン化した殺陣には満足しない。もっとほんものを見たいと思うんや。かっては、血が噴き出すとか、切られた奴の苦悶の表情を撮るなどの手法で、リアリズムを追求しようとした時代もあった。でも、俺の言ってるのはそんなことやない。殺る側の、殺られる側の、怒りと恐怖、興奮と悔恨。そんな感情が見ている者に伝わってくるような殺陣が、やりたいんや」 「人を殺すとき、感情なんてそんな甘いものを持っている暇はないよ、鹿島さん」 俺は低く呟いて、彼を無表情に見つめた。 鹿島さんは、しばらく絶句していた。 「俺はな、ディーター」 無言が続いたあと、椅子に凭れて天井を仰ぎながら、彼は口を開いた。 「気にさわったら勘弁してくれ。俺はおまえの中の、かつてユーウェンであった部分に、魅力ある悪役としての人間像を、そして殺陣の新しい可能性を見つけたような気がしている」 「……」 「俺自身は、ユーウェンと面と向かったのはたった一度きりや。3年近く前、太秦の第三スタジオで決闘シーンの立ちまわりを考えてたときな、おまえはあのときユーウェンになっていたんやろう? …あのときの殺陣は、実は今でも語り草になるほど名作と言われててな」 彼はこわいほど真剣な目で俺を正面から見た。 「俺はあのとき、本当に人を切るということの、事実の重さを思い知った。あのシーンを見た視聴者たちから、人が人と殺し合うことの悲しさを感じたという反響が多かったと聞いてる。見ている側にそういう感情を生み出すような殺陣を、俺はいつかまたやってみたいと思う」 「……鹿島さん。その話は、したくない」 「おまえが、ユーウェンのことを忘れたがってるんは知ってる。俺はおそらく非情な要求をしてるんやろうな。ただ一生それから逃げ続けるわけにはいかんで。ディーター。いずれユーウェンの幻影とまっこうから対決する日が来る。それを剣の道の中で、自らが求めていってほしいんや」 「すみません。今の話は、聞かなかったことにさせてください」 「そうか……」 俺は、コップの水を一息に飲み干した。 ユーウェンの名前は聞きたくなかった。 奴は確かに消えた。俺の身体が奴に乗っ取られることは、もうない。 だが、俺の中に今でもユーウェンのかけらが残っている。 そのかけらが、時々俺の中で頭をもたげるときがある。 なにもかも壊したくなり、円香を傷つけ、自分を傷つけたくなる。 ユーウェンの記憶を頭の中から押しやることで、その衝動を抑えてきた。 でも、今にもとんでもないことをしてしまいそうな恐怖が、いつも俺の中にある。 「そろそろ、スタジオに戻る時間やな。行こか」 「はい」 そのまま食堂を出ると、さっきのことについては何も触れないように話題を選びながら、一階への階段を上がった。 だが玄関ホールへ出たとたん、また俺を飛びあがらせるような驚きが待っていた。 §5につづく |
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