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EWEN

Episode 11
A Hectic Day


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§5

「ディーター、師範代!」
「恒輝?」
 正面玄関から駆け寄ってきたのは、昼間別れたばかりの恒輝だった。おまけに瑠璃ちゃんまで。
「柏葉。東京に来とるのは聞いとったけど、どないしたんや。それに、瑠璃子ちゃん。なんで、こいつといっしょにおるんや」
 鹿島さんはふたりの仲をまったく知らなかったらしく、あっけにとられていた。せっかく秘密にしておいてやったのに。
「これを、ディーターに渡したくて」
 恒輝が俺の手に握らせたのは、ひったくりが捨てたはずの俺の黒い書類カバンだった。
「携帯も無事やったで。中に入っとる」
「どうして、これを?」
「駅のゴミ箱に捨てた、言うてたやろ。あれから新宿駅中のゴミ箱を瑠璃ちゃんといっしょに漁ったんや。男子トイレの入り口のゴミ箱でみつけた」
「ありがとう、ふたりとも」
「暇やったからな。それに、これを届けるのを口実にテレビ局にも来たかったし」
「そう言えば、どうやってここに入ってこれたんや。入り口のチェック、厳しかったやろ」
「そうなんや。学生証見せても、鹿島さんの名前出しても信用してくれへんで、結局、瑠璃子が前に取材に来たときにインタヴューした職員が覚えててくれはって、やっと入れてもらったんや」
 瑠璃ちゃんは、テレビ局まで取材に訪れていたのか。
 全くこいつ、すげえ女や。
 ぽつりと呟く恒輝に、俺はひそかに思った。奥さんの尻にしかれるのは、俺よりも恒輝の方だ。
「ついでに、仕事場も見てくか。ちょいと遅くなるが」
「もちろんっすよ。そのために来たんやから」
 鹿島さんの誘いに、二人は嬉々として応じた。
 俺たちがエレベーターに乗ろうとしたときだった。
「キャアアッ!」
 大きな悲鳴が、あたり一体をつんざいた。


 振り返るとホールのほぼ中央に、一人の男が女性を抱きかかえて、その首筋に銃口を突き付けていた。
「動くな!近寄ると、こいつの頭をぶっぱなすぞ!」
 顔を真っ赤にした男が、興奮した、少し巻き舌がかった口調でわめいている。
 ホール中の人間が、凍りついた。
 ヤツが女性を引きずるようにして2,3歩移動すると、小さな悲鳴があちこちで上がり、その場にしゃがみこむ者もいた。
 とっさに芝居だと思った。場所が場所だけに、ドラマのロケを見ているような気がした。
 しかし、まわりの人たちの表情から、これが現実のことだと結論するしかなかった。
 俺たち4人はエレベーターの前で、やはり立ちすくんだ。
 驚きを通り越して怒りさえおぼえていた。どうして、こんなにろくでもないことが、つぎつぎと起こるのだろう。
 今日1日、俺は何か、悪い運命の女神にでも憑りつかれている。
 「どうして、入ってこれたん? 銃を持って、あんな厳重な警備の入り口を」
 瑠璃ちゃんが小声で囁くのが聞こえる。
 心の中で答えた。
 人間が関わっている以上、どんな厳重な警備でも見落としはある。
 ロンドンのBBCテレビに爆弾を仕掛けたのも、IRAの俺たちの仲間だった。
 そう考えながら、ホール中のひとりひとりの人間を見渡した。
 人質を連れた男はおとりで、主犯はその隙に目的を果たすという可能性もある。
 テロリストは、普通単独では動かない。
 だが、その気配はなかった。
 テロでないとすると、何のために、こいつはひとりでテレビ局に押し入ったりしたのだろう。
「あいつの持っている銃は、本物か?」
 さすがに鹿島さんは、核心をついたことを考えていた。
「俺たちは、本物を見たことがない。多分、おまえなら…一目でわかるはずや」
 ユーウェンの記憶をたどれ、ということか。
 俺は、犯人の手元を見た。
 鈍く黒光りする銃身と茶色のグリップ。特徴のある星の刻印。
「ピストレット・マカロバ、9o弾」
「本物か」
 俺はうなずいた。日本では銃は見ることはないと思っていたが。
「暴力団関係者か。やばいな」
 短めの髪とサングラス。崩れた背広姿。男の風貌から、鹿島さんはそう判断したらしい。
「ローカルのニュースを撮っているとこは、どこだ」
 奴は、あたりに響き渡るような大声でわめいている。
「に、2階の報道部の奥です」
 人質になった女性は、テレビ局のスタッフのようだった。
「そこに案内しろ」
 高飛車に命令すると、男は女性を盾のように左腕に抱えたまま、こちらに向かってきた。
 あわてて道を空けると、その横をすり抜けて、1階にとまっていたエレベーターのうちの一台に乗りこんだ。
 拳銃を構えた奴の右腕がわずか30センチ横を通りすぎたとき、俺の全身は電気が走ったようにしびれ、毛が逆立った。
 俺の身体は、こういう状況を覚えている。
 この緊張を、身もだえするほど喜んでいる。
 俺はユーウェンになりかけているのか。
 恐怖が心を鷲づかみにした。
 エレベーターのドアが閉まると、ホール中の人間がいっせいに携帯にとびつくか、走り始めた。
「行くぞ、俺たちも」
 鹿島さんが、怒鳴った。
「えっ。お、俺たちが? や、やばくないすか。警察にまかせたほうが」
 恒輝が声をひきつらせた。
「警察が来るまでは、もたん。8時45分まであと15分や。奴はおそらく、ローカルニュースを占拠して、何か視聴者に訴えるつもりや。そういうことをする奴は人に見られることで興奮するんや。興奮して、放映中に人質に危害を加える可能性もある。それまでに何とかする」
「か、鹿島さん、すげえ……」
「ディーター! おまえも協力しろ」
「いや、俺は……」
「何しとるんや! 人の命がかかっとるんやぞ!」
 彼の叱咤で、ようやく我に返った。
 俺たちは、走り出した。
 鹿島さんを先頭に、2階まで階段、あとは迷路のようにくねる廊下をかけぬける。
 途中、倉庫らしき部屋で鹿島さんは、木刀代わりになるような1メートルくらいの角材を2本調達してきた。
 机がたくさん並ぶ広い部屋に、身体をすべりこませた。
 ここが報道部だった。その奥の別室が、ローカルニュース専用のスタジオになっているらしい。
 人々は、受話器を握り締めて何か怒鳴っているか、奥を見つめて立ち尽くしている。
 鹿島さんの知り合いらしい、カッターシャツを肘までめくりあげた恰幅のよい男が近づいてきた。
「康平」
「キャップ」
「男は人質を連れたまま中に入った。自分の主張を生で流すよう要求している。放送しないと、人質を手始めに撃つそうだ」
「主張とは?」
「なんでも、自分の女が若い男と逃げたそうだ。女が戻ってくるまで、放送を続けろと言っている」
「なんや。そんなしょうもないことで……」
 恒輝が、皆の気持ちを代弁して叫んだ。
 鹿島さんが畳み掛けるように、報道部長に聞いた。
「放送してるふりだけして、少しの間だけだませませんか?」
「それは考えた。だが奴も抜け目ない。小型モニターを要求してきやがった」
「じゃあ、あと7分しかないってことか……」
 壁にかかった放送局用の正確な時計を見た。針は確かに8時38分を指していた。
「キャップ。俺たちがなんとかしてみようと思うんですが、許可いただけますか」
「何だって?」
「それから、こことは別のスタジオで、ニュースを流すスタンバイしておいてください」
「それは、もうできているが……。いったい、何をやらかすつもりだ? 康平」
「お願いします。俺もテレビで飯を食わせていただいてる男です。電波をこんなことには使わせたくない。人質の安全は最優先に考えます。無理はしませんから」
「……わかった。おまえの腕を信用する。責任はすべて、俺が取る」
「ありがとうございます」
 鹿島さんは、険しい表情で振り向き、俺の両腕を痛いほどつかんだ。
「いいか、ディーター。時間がない。よく聞け」
「……」
「銃のしくみを一番知ってるのも、一番身軽なのも、おまえや。今必要なのは、おまえのテロリストとしての、ユーウェンとしての経験や。辛いのは承知の上で言ってる。人質を助けるためにユーウェンになってくれ。わかってくれるな」
 迷っている時間はなかった。
 俺は目を閉じた。
 あれほど憎んでいたユーウェンに、俺のすべてを奪ってきたユーウェンに、心から頼んだ。
 ユーウェン。力を貸してくれ。
 目を開いたとき、持っていたカバンを前触れもなく瑠璃ちゃんに投げつけた。
「そこの、おまえ」
 俺は、鹿島さんがキャップと呼んだ男をにらみつけた。
「犯人に気づかれないように、天井裏からヤツの真上に行く方法はあるのか」
「こっちから昇れる。犯人の真上に出るには、照明を伝うことになるが」
「それは俺がやる。おい、恒輝」
 鹿島さんが持っていた角材を乱暴にひったくると、そのうち一本を恒輝に放った。
「おまえは犯人の真正面に出ていって、奴の気をひきつけろ。おまえの役目は、やつの銃を人質からそらせることだ。10センチ離せればそれでいい」
「え、え?」
「方法はまかせる。どうしても奴がのってこなければ、これで打ちかかる真似をしろ。一発くらい食らう覚悟はしておくことだな」
 次いで鹿島さんに向き直った。
「それから、康平。おまえはカメラマンのふりをして、スタジオに入れ。これを背中に隠して、いざとなったら援護しろ。……ちっ、これじゃ長すぎるな」
 俺は、角材をなんなくへし折ると、60センチくらいになった方を彼に渡した。当然、折れた方の端は持つのも危険なくらい、ささくれだっている。
「迷わず奴の喉をつけ。どっちの側を使うかは、おまえ次第だ」
 その場の全員が、ぼうぜんとして俺の顔を見ていた。
 声色も口調も、完全に普段の俺とは違っていた。
 あとで聞いたことだが、表情も別人のようだったという。
 何も知らない報道部の部長は、俺のことを天才的な俳優だと思ったらしい。
 だがユーウェンの人格に交替していたわけではない。記憶は今でも全てはっきりしている。
 確かにそのときユーウェンとして話し、行動していた。それなのに、俺は、俺だった。
「行くぜ」
 部長の案内に従い、報道室の裏手に回ってそこの梯子を伝い、天井裏の狭い通路に上がった。そこから音をたてないように照明器具に乗り移った。照明は俺の重みで軽く揺れた。
 いつもは自分の痩せた身体が大嫌いなのだが、このときばかりは身軽さに感謝した。今日の一連の騒動で、食事をほとんどとっていなかったことも幸いしていたと思う。
 下を見下ろすと、まばゆいばかりのライトの下で、思ったよりスタジオは広かった。中央にニュース番組用の背景パネル。その前に細長いデスクが伸びている。壁際には、週末のスポーツ番組でおなじみの飾り棚や、天気予報用の関東の地図が架かっている。
 そして、テレビカメラが2台、中央やや入り口よりに配置され、数人の関係者が緊張した面持ちで立っている。その中に、何食わぬ顔をした鹿島さんが、頭にヘッドマイクをつけてまぎれこんでいる。
 デスクの椅子には、スーツを着たアナウンサー、フロアディレクターとともに、人質を羽交い締めにした犯人が、得意げにカメラに向かって座っていた。
 報道部長のことばどおり、ちょうど俺のとりついている照明の真下だ。
 にわかに、息がつまるような空気にあたりは包まれた。
 恒輝が、震えながらへっぴり腰で角材を構えた格好で、犯人の真正面から少しずつ近づいてきたのだ。
 奴を過度に刺激させないように、彼なりに考えた演技なのだろう。義憤に燃えて飛び出した、通り掛かりの青年という。
 犯人はこばかにした顔で恒輝を見て、この銃が見えねえのかと言った。
 恒輝は、なにごとか叫びながら、角材の先を上げ下げした。男の視線がいつのまにか、催眠術にかかったようにそこに吸い寄せられた。
 いきなり恒輝は大声を上げて、切っ先を大上段にふりかざした。
 反射的に、犯人の銃口は人質の首から離れ、恒輝に向けられた。
 俺はほとんど同時に飛び降りて、奴の右肩にのしかかり、奴の右手首を両手で思い切り反らし、銃口を天井に向けさせた。
 犯人はあわてて引き金を引こうとしたが、その前に手首の骨が、派手な小気味よい音を立てた。
 悲鳴を上げてのけぞる男の襟首をつかむと、床に倒れ伏した人質の女性の背中を片足で踏みつけた態勢のまま、顔面に拳を浴びせた。
 奴はデスクの上を一回転しながら、向こう側に転げ落ちて行った。
 ちょうどそこにカメラのうしろから飛び込んできた鹿島さんが、背中の角材を取り出すが早いか、転がってきた男のみぞおちにしたたかな一撃を打ち下ろした。
 もちろん、折れていないほうの端でだ。
 犯人は、完全に落ちた。
 本番2分前。
 歓声が上がったのもつかの間、局のスタッフたちはさっそく放送の準備にとりかかり、スタジオは違った意味で、戦場のようになった。
 彼らは、さすがにプロだ。
 8時45分。
 ニュースは、いつものスタジオで、穏やかな表情をしたアナウンサーによって読み上げられた。


「そのとき1秒も早くスタジオから出ろって言われて、あわてて人質の女の人から飛びのこうとしたんだけど、彼女の方は後ろから俺のスーツの裾にしがみついてたらしく、みごとに破れた。ずいぶんあやまってもらったけど、俺もその人の背中を思いっきり踏みつけたから、文句は言えなかった」
「その話、ニュースになった?」
「さあ、テレビのニュースにはならなかったと思うけど、新聞記者が来てたよ。今日ぐらい東京の新聞には載ってたんじゃないのかな」
 ディーターは、大きなあくびをしながら答えた。
「それから?」
「それから、警察が来ていろいろ聞かれて、そのあとやっと真夜中近くになって撮影が再開して、終わったのはもう3時過ぎてたよ」
「そういう意味やなくて、ユーウェンからすぐに戻ることができたの? すごく大変やった?」
「そう言えば、いつのまにか戻ってたな」
 彼は、背凭れから頭をずり落ちさせて、横向きになりながら考え込んでいた。
「うん…ほんとに、いつのまに戻ったのか、わからない。…戻ったというより、どちらも俺だったから」
 私は、身震いした。
 ディーターの人生をあれほど苦しめていた、多重人格障害。
 そして、その中でもとりわけ憎み合い、お互いを消そうとまでしていたユーウェンの人格。
 そのユーウェンのほんの一部だが、それもまた自分自身だと、彼は言ったのだ。
 なんて、強くなったんだろう。ディーターは。
 いつのまにか、自分のすべてを否定せずに受け入れる、強さを身につけている。
「ねえ、ディーター」
 私はしばらくして、彼の背中に向かって話しかけた。
「今日はごめんね。電話くれなかったことで、怒ったりして。電話なんかしてる暇なかったこと、ようわかった」
 返事がなかった。
 彼の肩越しにのぞきこむと、もうぐっすり寝入っている。
 ちょっとやそっとでは、起きそうもないほど深い眠りだ。
 本当に疲れていたのだろう。
 私は、くすくす笑った。
 子どもみたいに安心し切った、安らかな寝顔。髪を後ろで結わえていたゴムを取ると、童話のお姫様みたいだ。
 でも、同時に、涙が出た。
 もし昨日、何かが一つ間違えれば、ディーターはもう永久に私のもとには帰らなかったかもしれないのだ。
 犯人の銃で撃たれたかもしれない。
 リヒャルトのように、発作的に自らの命を絶ってしまったかもしれない。
 ユーウェンになったまま、戻れなくなってしまったかもしれない。
 こうして私の隣にいてくれること自体が、いくつもの奇跡の積み重ねの結果だったのかもしれない。
 涙を拭うと、聞いていないのがわかっていたけれど、彼の肩に顎を乗せてこうささやいた。
「私ね。昨日起きたいろんなことは、きっと神様が、ディーターのために起こしてくださったんやと思う。だって、そのおかげで薬も捨てられたし、仕事もうまく行ったし、テレビ局乗っ取り犯も捕まえることができた。
それにあなたは昨日1日で、何にも負けないくらい強くなった。
私は、……前よりもっとあなたが好きになった。ほんとうに、ほんとうに、愛してる。ディーター」
 彼は、少し身じろぎした。
 そして深い安息の世界に憩いながらも、かすかに微笑んだように私には見えた。
 



   
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