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Episode 13
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「円香。目を開けて」 「や……いやや。恥ずかしい」 「円香の目が見たいんだ。目を開けなかったら、もう続きはしない」 結婚最初の年の冬。クリスマス間近の浮かれ気分のとき、私は大学から帰ると、いきなり彼に抱きすくめられた。 ディーターは、このところプログラムの仕事で徹夜続きで、3日くらい私とすれちがいばかりだった。ときどきパソコンのそばのソファで仮眠をとるだけの生活。 そのプログラムが今日完成したのだという。 極限までの疲れと仕事の達成感とが、彼の中のたがをはずしたのだろう。 ディーターは有無をいわせず私をベッドに横たえると、服を脱がせて、露になったところを上から順番にていねいにキスした。 はじめは為されるがままだった私の身体も、快感に貫かれ、震え、応えはじめる。 でも、でも、である。 冬とは言え、日はまだ高い。こんな明るい時間に目を開けて、自分たちのしていることをまともに見る勇気は私にはない。 そんな私の気持ちがわからないのだろう。ディーターは無邪気にいじわるを言う。熱を帯び始めた身体は、止まってしまった彼の愛撫を求めてじたばたする。 「ちゃんと、俺を見て」 もう一度、怒ったように低く言うディーターの声に、あわてて目を開けた。 翡翠色の透き通った瞳が私を見おろしている。穏やかに微笑みながら。 その美しさに、私は喉がつまって泣きたくなる。 そして、その腕の中にいる自分の、貧弱な乳房。 「愛してる。円香」 彼はそうささやくと、泣きそうにゆがみかけた私の唇をふさぐ。 私の頭の中は、次第に白く霧がかかり、高ぶった全神経がひとつの光点にむかって集中し始める。 ベッドの上でふたりで抱き合って横たわりながら、私は彼が髪の毛をなでてくれているのが子どものようにうれしかった。 部屋の中は暖房が効いているとはいえ、床から這い上がる凍える寒さは、火照った肌をすぐに静め、ふたりが触れ合っている部分だけが残り火のごとく暖かい。 でも、身体が冷静さをとりもどしたあと、私の心の底に、さっきの悲しみがチクンと氷のかけらとなって残っていた。 自分の成熟しきれていない身体を見るたびに、私はいたたまれない気持ちに襲われる。 彼の指は、きっと今までいろんな女の人の身体に触れてきた。 ディーターが私しか抱いたことがないのは、信じている。 でも、彼の他の人格は、たくさんの女性と交わってきたのだ。 ディーターは人格の統合後、そのときのことを思い出したりするのだろうか。 彼は私といるとき、その女性たちのことを思い出したりするのだろうか。 「ね、ディーター」 言っちゃいけない。わかっていながら、私の口はもう想いをねばねばした糸のように吐き出していた。 「ユーウェンのときの……いろんなことをちょっとは覚えてる……んよね。もしかして、ジャニスとのことも? ……思い出したりするの?」 髪をさわっていた彼の指が止まった。 おそろしいほどの沈黙が続いた。 「あ、あの、ディーター」 「円香は、思い出してほしいんだ」 「ちがうよ、あのね……」 「ジャニスにしたのと、同じことをしてほしい?」 ディーターの声はかすかに笑っているようだった。 寝室の窓から見える、冬の夕暮れの灰色の寂しい景色。それを背中に、彼のシルエットは音もなくベッドの上に起き上がった。 「何度でもやってやるよ。満足するまで」 「いや……。ディーター」 私は恐怖に駆られて叫んだ。 彼は私の上に馬乗りになり、両腕を容赦ない力で押さえつけた。 「痛っ!」 私は激痛のあまりのけぞった。 「やめて、ディーター。……【ユーウェン】!」 今の彼を支配しているのは、かつてのユーウェンの人格だった部分だ。 私がいけなかったのだ。 わかっていたのに。私の問いに彼が傷つくことは。 それなのに、私は自分の心にしか目を向けていなかった。 優しく慰めてほしい。私を誰よりも好きだと言ってほしい。ただそれだけの身勝手なわがままで、彼を【ユーウェン】に変えてしまったのだ。 彼は、私を値踏みするように、冷ややかに見おろしていた。 「おまえなんか、まともに抱く気が起きねえよ。今まで抱いた女の中で、おまえは最低だ」 彼のはき捨てたことばは、岩の割れ目をうがつ雪解けの水みたいに、私の中に冷え冷えとしみこんだ。 【ユーウェン】は、私の心の葛藤に気づいた上で、わざと言っているのだ。 頭では納得しているのに、からだの奥深いところがじくじくと痛み出す。 彼の氷のような蔑みの目を見ているのが耐え切れなくて、私は首だけをねじった。 その拍子に、涙の粒がぽろっとこぼれた。 どうか、【ディーター】に今の涙が見られていませんように。 でないと、正気にもどったとき、彼は自分が許せないだろう。 【ユーウェン】はかまわず、私のからだをねじりあげて、乱暴に犯しはじめた。 私は抵抗して、抵抗して、やがてあきらめた。 目をつぶっていよう。 身体の傷はすぐに癒える。 心の傷だって。 彼は病気なのだ。それに、彼を【ユーウェン】になるように仕向けたのは、私自身だ。私のあさはかな嫉妬心だった。 もう一度、やりなおせばいい。 何もなかったようなふりをして、今日の記憶には鍵をかけて、埋もれさせてしまえばいい。 それで、いいの? 円香。 よくない。いいはずがない。 心の傷を埋もれさせて、何かが変わるはずはない。 目をつぶってしまって、前に進めるわけはない。 私たちは、あきらめないと決めたんだ。 「【ユーウェン】。やめてちょうだい」 私は強い口調で言った。 【ユーウェン】は止めなかった。 「お願い。やめて。私はこんなやりかたイヤやから。大っ嫌いやから」 彼の中の【ディーター】が反応した。彼は顔を上げて、冷たい眼で私をにらんだ。 私は、まっすぐに彼の目を見つめ返した。 「ごめんなさい。私が馬鹿なことを言うたのがいけなかった。許して」 彼は無言で、口の端をわずかに歪ませた。 「私は、あなたの言うとおり何の魅力もない女かもしれない。それは認める。でも」 手がゆるんだ。私は彼の下から這い出し、背筋をすっくと伸ばして向き直った。 たぎるような熱い想いが、内臓の底から、喉を焦がして駆け上がってくる。 「でも、私は、一番あなたを愛している。どんな女よりもジャニスよりも、あなたのことを愛している。それだけは絶対、誰にも負けない」 【ユーウェン】は、一瞬唖然としたみたいだった。 私はその隙をついて、彼の頭をギュッと力いっぱい自分の胸に抱きしめた。 あばら骨が折れるかと思った。彼の爪が私のわき腹の皮膚を薄く掻き裂いた。でも、私は死んでも彼を離すまいと心に決めていた。 彼はなおももがいて、やがて戸惑ったように動きを止めた。 「愛してる。愛してるよ。【ユーウェン】」 私は母親が子どもにささやくように、何度も何度も繰り返していた。 彼はぴくりともしない。 長い長い時間がたち、濃い夕闇が部屋を染めあげたとき、静かな暖かい吐息を私の乳房は感じた。 そして、暗闇に慣れた私の目の端で、彼がゆっくりと金色の睫毛を閉じるのが見えた。 |
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