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EWEN

Episode 14
REBORN


「きみがダニエル・デュガルだね」
 重い金属の音をきしませて開いた独房の扉。
 懐中電灯を背にしたひとりの男の影が、床に横たわる彼の上に長く伸びた。
「そして、きみはユーウェン・オニールとも名乗っている。それが今、その身体を支配している人格だね」
 彼はゆっくりと上半身を起こした。そして、微笑んでいる東洋人らしき男をうざったげに見上げた。
「はじめまして。私は葺石惣一郎。ケルンの大学からきみの治療のために来た」


 その日から、彼の周囲でめまぐるしく何かが動こうとしていた。
 日本人の精神科医ドクター・フキと、年かさのドイツ人医師ドクター・グリュンヴァルトは、 ベルファストの少年刑務所の、IRA兵士専用の懲罰房にいる彼に、毎日治療と称して面会に訪れた。
「きみは解離性同一性障害という病気に罹っている可能性がある」
 わけのわからない御託を並べながら、彼に延々と質問をくりかえし、薬を注射し、催眠術のようなものを試みる。
 刑務所の所長が、彼らをドイツから呼んだわけはわかっていた。
 ユーウェンは、政治犯として懲役10年の判決を受けて、この刑務所に入れられてからの数週間というもの、一切の食事を拒否していた。
 3度の食事が運ばれるたびに、呪文のように繰り返す。
「IRAの名誉ある義勇兵として、北アイルランドにおける英国政府の不当な支配と搾取に抗議して、死を選ぶ」
 だが実際のところ、彼は自らの思想に殉じているわけではない。
 北アイルランドを誰が支配しようと、今さら何が変わるものでもないのだ。
 ときどき、空腹で気が遠くなりそうなとき、他の人格が表面に現われて、泣きながら訴える。
「腹がへったよ。……お願いだ。なにか食べさせて」
 その声を抑えつけて、食べ物を口に運ばないようにするには、想像を絶する内なる闘いが必要だった。
 ころげまわり、わめき、時には幼児のように泣きじゃくる彼の姿は、看守たちには、悪霊にとりつかれた者のように映ったことだろう。
「私たちは長い間、内戦を経た国の元少年兵たちの精神疾患の治療にたずさわってきたんだよ」
 白髪のドイツ人が、決して彼らと視線を合わせないユーウェンの頭上から、ことばを温かい雨のようにふりそそぐ。
「きみは、そのどれとも違う。きみの15年の生育暦を調べたら、ひとつの疑いが浮かんだんだ。きみにはいくつもの人格が存在するという疑いだよ」
 ドイツ人がしゃべらないときは、日本人がしゃべる。
 彼らは交代で、「解離性同一性障害」という病気についての説明を続けた。
 ユーウェンはろくに聞いていなかった。質問はことごとく黙殺し、たまに気が向くと、唾を吐きかけたり、聞くに堪えないような汚い言葉を浴びせた。
 今まで彼に面接しようとした奴らは、たいていそれで来なくなったが、そのふたりだけは、飽くまでもひるまなかった。
 しかし、その尋問が2週間に達しようとするころ、彼には、もう抵抗する気力が失せていた。
 栄養失調が脳にまで達し、意識がぼうっとかすむ。
 その隙をつくようにして、他の人格、ダニエルやケヴィンやルイが彼らの前に現れるようになった。
 ルイは相変わらず性的なことにしか関心を示さなかったが、ダニエルとケヴィンは医師たちを信頼し始めたようだった。ケヴィンは言葉が話せないため、ひたすらクレヨンで紙に、自分が叔父から受けてきた虐待の様子を描いた。 ダニエルも少しずつだが、彼らと会話するようになった。
 それがますますユーウェンをいらだたせた。


 12月になって、彼は重い精神の病という理由で、少年刑務所を仮釈放され、ドイツのケルンの精神病院に移送されることになった。
 拘束具で縛り付けられての、初めての外国への旅。
 ケルンに着くと、彼は高窓のある、陽光あふれる病室に入れられた。
 今までいた懲罰房から比べると、天国のように居心地のいい設備。
 病棟内なら自由に歩き回ることを許された。
 すれちがうとき彼に微笑みかける人々。銃声の聞こえない夜。
 だが、彼は相変わらず、食事を拒否した。
 ダニエルがぽつりと言った。
「ここでずっと暮らしたい。もうあの街には戻りたくない」
 彼は答える。
「ここは、こぎれいな刑務所ってだけだ。看守たちは、ムチのかわりに偽善者の仮面をかぶっている。 俺たちは一生この中から出られない囚人だ。モルモットにされて一生を終える。俺はそんなのはごめんだ」
「おなかがすいたよ……」
 いつのまにか、貧血で昏倒していた。
 気がつくと、ベッドに寝かされて、点滴や栄養液のチューブが彼のからだにはりめぐらされていた。
 彼ははねおきると、野獣のように吼えながら、管を千切り取った。医師や看護士が数人がかりで、彼を取り押えた。人々の顔に、恐怖とも憐れみともとれない表情がこびりつくようになった。
 夜、目を覚ますと彼の枕元で、あの白髪のドイツ人医師が坐って、小さな声で祈っていることがあった。
 寝たふりをして聞いていると、泣いているようだった。ドイツ語は全く理解できないが、何度も「ディーター」と、人の名前らしきことばを口にした。
 日本人の医師は暇さえあれば、彼の病室に来て、東洋の島国のくだらない話をしていた。
 彼には、事故で死んだ妻とのあいだに12歳になる女の子がいること。そのひとり娘の自慢をしつこく聞かせた。
 そして、鷹のような鋭い目で彼を叱咤するように見つめた。
「おまえは、主人格のダニエルを守るために生まれた人格のはずだ。なぜ死のうとする。おまえが死ねば、ダニエルも他の人格もすべて死んでしまうんだぞ」
 そんなことはとっくにわかっている。
 もっと早く、こうすべきだったのだ。
 こんな苦しみばかりのゴミのような人生から、はやくあいつを救ってやるべきだったのだ。
 その夜、ユーウェンは心の中で、ひとりひとりの人格に話しかけた。
 ルイは、餓死という死に方が自分の美意識に反すると文句を垂れたが、最後にはくすりと笑ったきり押し黙った。
 ケヴィンはぐったりとして、もうほとんど反応がなかった。
 ダニエルだけは、目にいっぱい涙をたたえたまま、うなだれていた。
「死にたくない……。自殺した人間は、地獄に行ってしまう」
「おまえは天国に行ける。このロザリオをずっと肌身離さず持っていたんだから。地獄には俺ひとりが行けばいい」
 次の朝起きたときには、もうダニエルもケヴィンもルイも姿を消していた。
 絶えず声がしていた頭の中が静かだ。あれほど、この身体を自分ひとりのものにしたいと願ったのに、今その願いがかなったというのに、ユーウェンは自分が空っぽのように感じた。
 最後の力をふりしぼって、ベッドから起き上がると、ロザリオをはずし、トイレに投げ込んで、水を流した。


 彼がハンガーストライキに入ってから72日が経とうとしていた。


 目を開けると、視界は暗く、ほとんどものが見えなかった。ゆっくりと自分のかぼそい腕についている点滴の針をむしり取る。
 近くであの日本人医師がつぶやくのが聞こえた。
「俺たちのしていることは、いたずらにおまえの苦しみを長引かせているだけなのか……。教えてくれ。なぜ死ななければならないんだ」
 彼は泣いていた。
「なぜ死を選ぶんだ。死なないでくれ。生きてくれ。俺はおまえを理解したいんだっ!」
 ユーウェンは見えない目で、声のするほうを見上げた。
 この日本人やドイツ人の医師たちにもっと早く出会っていたら、ダニエルの人生は変わっていただろうか。これほど苦しまなくてすんだのだろうか。
 でももう遅い。
 俺が存在した理由は、あいつを守るためではなかった。
 俺は、死神だ。あいつの命を終わらせるために生み出された死神だったのだ。
 ククと笑い声をもらすと、ユーウェンは意識を混沌に明け渡した。


 死んではいけない。生きるんだ。


 誰だ、おまえは。なぜ俺に指図する。
 俺たちは死ぬんだ。なぜ邪魔をする。


『生 き た い』


「ドクトル・フキ! すぐ帰ってきてください。奇跡が起きたんです。ダニエル・デュガルの心臓がまた……」


 瞼の裏が暖かい。まぶしい光がふりそそいでいるのが目を開けなくてもわかる。
 幾人かの人の声がさやさやと鳴り、誰かの手がそっと自分の腕にふれる。
 彼は目を開けた。自分のからだから多くのチューブが伸びていた。
 人々の息をのむ声が聞こえ、彼らの優しいまなざしを感じた。
 この部屋にも、人々の顔にも見覚えはない。今まで何をしていたのかも、まったく思い出せない。
 だが、不思議と恐くはなかった。
「ダニエル」
 いちばんそばにいた東洋人らしい男が、彼の耳元に英語でささやいた。
「きみは、ダニエルか。それともユーウェンなのか」
 彼はいぶかしそうに、問いかけた男の顔をじっと見た。そして、彼の手を握りしめている白髪の老人に目を移した。
 自分の名を答えなければ。
 だが彼は、英語を使って答えるのをためらった。それは、僕のことばではない。
いいえナイン
 と彼は、おだやかに彼らに微笑みかけた。
僕の名は、ディーターですイッヒ ハイセ ディーター




ディーターの人格が生み出されたときの秘話です。
この前後の状況を知りたい方は、EWEN本編の第5章をお読みください。 

     
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