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EWEN

Episode 16
シネマ・パラダイス


§1

 暑い。まったくこれだから京都は嫌いだ。
 8月の初めのある木曜日、私は大きな風呂敷包みを担ぎながら、京都の撮影所にようやく辿り着いた。
 ほうっとため息ばかり出てくる。家を朝8時前に出て、夙川から十三経由で四条大宮駅、そこから京福電鉄に乗り換え、さらに十数分、太秦駅で降りてからは、お寺の境内ののどかな道を、えっちら歩いて来た。所要時間2時間半。
「ああっ。もう!」
 こんなに苦労しなきゃならないのは、ディーターのせいだ。私は彼に3日間も会っていないのだ。
 テレビの時代劇の撮影が佳境に入っているらしく、撮影所への泊り込みが続いているというのはわかるけれど、何もせっかく大学が夏休みのときを選ばなくても。
 本当なら朝から晩までいっしょにいられたはずなのに。
 私は彼が恋しくてたまらなくなって、こうしてはるばる仕事場まで押しかけてきたわけなのだ。
「まだまだ、新婚さんやなあ。そのうち、いないとせいせいするようになるで」
 おにぎりを俵型に握りながら、藤江伯母さんは私をからかった。
「一生、そんなふうにはならへん」
 ふくれっつらで、私は答える。
「まあ、でもディーターがいいひんと、私もさみしいわ。買い物のボディガードがのうて」
 このところ藤江伯母さんは、たいして買うものもないのに彼をス−パ−に荷物持ちに連れていっては、若いきれいな男の子にかしづかれるマダムの優越感にひたっている。
「そういう邪まな趣味に、姪っ子の旦那さまを利用せんといて」
「おっほっほ……。人に朝早よから弁当づくりを手伝わしといて、それくらいの特権は大目に見よし」
 撮影所の通用門の前、木陰に立ち汗をふいていると、詰め所から酒井さんが出てきた。高齢ながら、昔16ミリの大きな撮影機材を運んでいた頃の筋肉が逞しい守衛さんだ。いったいこの人はいつ休みをとるのだろうと不思議になるくらい、どんなときでもにこやかに門を開けてくれる。
「やあ。円香ちゃん。おはよう」
「おはようございます。酒井さん。今日も暑いですね」
「ご主人に会いに来はったんか」
「はい。あ、これ。よろしかったら召し上がってください」
 と、風呂敷包みから、塗りの弁当箱をひとつ取り出して渡す。
「いつも、おおきに。あ、今日は11番スタジオやで。ただし、今本番中かもわからんなあ」
「だいじょうぶ、そっと覗いてみて、邪魔になるようなら待ってますから」
 私は風呂敷を結びなおすと、また長い道中に備えて気合を入れて歩き始めた。
 京都撮影所は、二万坪以上の敷地内に19ものスタジオが点在する、巨大な空間なのだ。
 その中でも11番は最も広く、森や地平まで見渡せるセットが自慢のスタジオだ。
 今、鹿島さんやディーターが取り組んでいる立ち回りが、どれほどスケールの大きなものかは想像に難くない。
 歩き出すとほどなく、道の向こうから見知った人がやってきた。
 照明の桐野さんだ。1年前、私たちの京都での披露宴のときお世話になった人だ。
「おお、円香ちゃんやないか!」
 桐野さんは、くわえタバコの隙間から陽気な声を上げると、駆け寄ってきてくれた。この業界の人はとにかく声が大きい。ロケで鍛えられているのだろう。
「おはようございます。桐野さん。いつもうちの師範代と主人がお世話になってます」
 と、丁寧にお辞儀する。
 テレビや映画の世界で生きている人は、みな親切だけど礼儀には厳しい。子どもの頃ならいざ知らず、身内がここで仕事をしている身としてはかなり気を使うのだ。
「なんのなんの。お世話になってるのはこっちの方やで」
「今、休憩中ですか?」
「いや、俺は手が空いてるんで、ちょっと機材を取りに来たんやけど、殺陣師たてしは今仕上げの大変なとこ、ちゃうかなあ。照明は本番が勝負。殺陣師は本番前が勝負やからな」
「じゃあ、今会いに行っても無理ですね」
「円香ちゃん。ディーターに会いたくなったんやろ。このところ、みんな家に帰られへんからな」
「えへへ。彼、元気にしてます?」
「ああ。正直、外国人があれだけ、時代劇の立ち回りをやれるとは、誰も思てへんかったわ」
 うれしい言葉だ。お世辞を言うような人ではないだけに、正味の言葉として受け取れる。
 ディーターがここの殺陣監修助手として正式に報酬をもらうようになってからまだ数ヶ月だが、なくてはならないスタッフの一員と認められるまでには、相当な苦労をしたのだと思う。
「彼が考えた殺陣は、定石を少し外れるんやが、それがどうも不思議とわれわれの目には新鮮にうつるんや。それで行こ、と思わせる魅力があるんや。人徳かなあ。S先生なんかも、彼をぞっこん気に入ってはるみたいやで」
 うなずきながら私は、それは彼が西洋人だからだと心の中で思う。
 祖父や鹿島さんは日本人として、どうしても古くから受け継いだ伝統を乗り越えることができなかった。あえて伝統を破ろうとすれば、昔のやり方に慣れた映画人の抵抗が待っていた。
 でも、ドイツ人のディーターはそれをするりと乗り越えてしまった。古いやり方を否定しても、国際化の波という肯定的な視点で受け止めてもらえる。
 彼は本当に、幸運な時代にここに現われたのだ。
「鹿島先生も、今や彼がいないとにっちもさっちも行かんようになってるみたいやで。すごく息が合うてるしな。
巷では恋人どうしやないか、なんて噂もあるくらいや」
「やだ。桐野さん。それ、洒落にならへん」
 太秦ファンのウェブサイトでその話が載ってるのを見て、のけぞったばかりなのだ。
 実際190センチと187センチの美貌の2人が並ぶと、一種近寄りがたい雰囲気がある。私も妻でなければ、疑ってた……かもしれない。
「けど、この数日、ふたりを見てるとちょっと、以前と違うとこあるな」
「えっ。……まさか、けんかしてる?」
「いや、そういうことやないんやが、どことなく、つまり、見えない静電気みたいなものが感じられる、ちゅうか」
 さすが、照明さんだと思った。うまいことを言う。静電気、か。
 私には、心当たりがあったのだ。
 それは、一週間ほど前。


 西宮の葺石家に、祖父は門下生全員を集めた。私はこっそり、縁側から覗き見ていた。
「今年いっぱいで、わしは師範を引退しようと思う」という爆弾発言に引き続く言葉が発せられたとたん、道場内の空気を、桐野さんの言う見えない静電気が走ったような気がした。
「ついては、14代目を決めておかねばならん」
 祖父はぴんと背筋を伸ばしたまま、半目使いで20人近い門下生たちを見渡した。
 76歳の祖父は、いくら矍鑠としているとは言え、年相応に肩や腕の筋肉が落ち始め、皺で緩んだまぶたの下の眼光は、もう往年のものではなかった。
 祖父は体力の限界を、誰に悟られるでもなく、まっさきに自分で悟り、潔い決断をしたのだろう。
 鹿島さんもディーターも、さすがの恒輝でさえも、あまりの驚きにひとことも発することができなかった。
 祖父は、誰も口を開かないのを見届けると、再び淡々と続けた。
「康平に、14代目師範を任せることにした」
「師範!」
 鹿島さんは、悲痛な声を上げた。
「俺は、そんな……、師範などという大任はっ!」
「康平にも、ほかの皆にもいろいろ意見はあるやろうが、わしはわしなりに、よく考えて出した結論や」
「……」
「確かに、葺石流200年の歴史の中で、直系の男子以外に師範を譲った例はない。しかし、わしの代になって、もうそれが不可能になった。長男の惣一郎は自分の行く道を他に選んだ。孫は女の円香ひとりやった」
「なら、円香ちゃんと結婚したディーターが、葺石の名を継ぐべきでは……」
「この子はまだ未熟や。一年ちょっとの修行では話にならん」
「腕はもう俺と互角です」
「腕の問題ではない」
「……」
「それに、ディーター自身も捨てることのできない家名を背負っている。どうせ葺石の名を持つ者が継ぐことができんなら、康平が継いでも同じことや。大事なのは、葺石の名を残すことではない。200年続いたこの古武道を、次の世に伝えることなんや」
 祖父がいくら説いても、鹿島さんは最後まで承知しなかった。
 ハリウッドまで行ったくせして、実は中身は古風な日本男児である鹿島さんは、祖父よりも誰よりも、葺石流の伝統を破ることを恐れていたのだ。
 部外者の私なんかからすれば、青い目のアイルランド生まれのドイツ人に日本の古武道の師範を譲ることのほうが、よっぽどぶっとんでると思うのだけれどね。
 話はそれ以来、保留になったままだ。
 もし桐野さんの言う通り、二人のあいだにいつもと違うムードが流れているとするならば、おそらく鹿島さんは未だにあの話にこだわっているのだろう。
 気にはなったけど、緊迫した本番前では、しかたがない。
「それじゃ、悪いけど、これお弁当なんです。お昼に皆さんで少しずつ、つまんでくださいませんか」
 私は小さな方だけ手元に残して、重ねの弁当箱を風呂敷ごと、桐野さんに渡した。
「やあ、ありがとさん。円香ちゃんもすっかり、いいおかみさんやなあ」
「茜さんほどじゃありませんけどね」
「せっかく来てもろたけど、本番終わるまで1時間ほど、そこらで休憩しててくれへんか。ディーターにはちゃんと伝えとくから」
「はい、そうします。ありがとうございました」
 桐野さんと別れたあと、私は少し途方にくれた。業界の人の「1時間待って」は、2時間は覚悟せねばならない。そのへんをぶらぶらしようかとも思ったが、この暑さ。やっぱり喫茶室で本でも読むことにするか。
 そう心を決めたとき、門の方から守衛の酒井さんが小走りにやってくる。
「え? どうなさったんですか?」
「円香ちゃん、英語しゃべれるか?」
「英語? ……は、はい。少しなら」
「外国の女の人が来てはるのや。中に入りたそうにしてはるんやけど、映画村の入り口はあっちやってことを通訳してくれへんか」
「はい。わかりました」
 私は、門のところに立っている女性に近づいた。
 絵に描いたような金髪碧眼の、すらりとした美人。身体にぴったりと合ったグレーのチェックのパンツスーツ姿。目じりの皺からすると30歳後半だろうか。その傍らでは彼女の影に隠れて、10歳くらいの茶色の髪をした少年が、きょろきょろよそ見をしている。
“ Can I help you? “
“ Oh. Sure. “
 私の下手な英語の問いかけに、彼女は顔を輝かせて振り向いた。その次の言葉は、私の寿命を軽く3年は縮めた。
『コー・カシマに会わせて。私は、彼を連れ戻しに来たの』


「ディーター。大変なトラブル発生。すぐ連絡して。円香」
 そう伝言メッセージを打ちこむと携帯をしまい、何食わぬ笑顔で、映画村の入り口で待っているあの親子のところへ戻った。
『ごめんなさい。ミズ・テン。やはり鹿島さんは本番前で今は来られないそうです。当初の予定通り、彼が来るまで私が映画村の中をしっかりご案内しますから』
『ありがとう。マドカ。私のことはレスリーと呼んで。息子はロッド』
 映画村の切符もぎは、幸い私の顔を知っている人だったので、訳を話してただで入れてもらった。ここの料金は半端でなく高いのだ。3人分なんかまともに払ったら、私の財布の中身がふっとぶ。
 入り口を入ってすぐの建物は、三階建ての体験型遊園地になっている。少し見て回ったが、ロッドくんが生意気にも、『フン。ユニヴァーサル・スタジオの方がよっぽどおもしろいや』などとのたまってくれたので、そこを出て明治通りに進むことにした。
『でも、とてもラッキーだったわ。コーが所属しているオフィスの社長のお嬢さんに、偶然会えるなんて』
『ナイン、じゃなくて、ノー。えーと、ですから……』
 そもそも、私の家が古武道の宗家なんてことから話が伝わらず、彼女の頭の中でいつのまにか生じてしまった誤解を解くのにかなり苦労した。
 情けないことに、私の英語力は2年間の間にすっかり猛特訓の成果も錆び付いた上、ドイツ語と完全にごっちゃになってしまっている。
『ごめんなさい。英語が下手で、うまく説明できなくて』
『いいえ。とても発音もお上手よ。でも、ときどきドイツ語が混じるのね』
『大学で習っているんです。それに、主人がドイツ人なもので』
『大学?! ご主人?!』
『結婚してるんです。あのう、こう見えても私は19歳なんですよ』
 もうこの頃は、こういうやりとりにも慣れた。
『鹿島さんは、何も自分のことを連絡していないんですか』
『何年か前に一度、絵葉書が来ただけ。それがこのムーヴィーランドの風景の絵葉書で、自分はここの撮影所でソード・アクションの指導をしていると書いてあったわ』
 そして、それだけを頼りに鹿島さんを訪ねてきたのだと言う。この分じゃ、茜さんと結婚したことも伝わっていないのだろうな。
『レスリーさんは、鹿島さんとハリウッドで知り合ったんですか』
『ええ。そうよ。彼がまだ、オーディションに失敗し続けてた頃から知ってるわ』
『鹿島さん、最初はそんなだったんですか』
『お金がなくて、毎食リンゴ一個が彼の食事だったわ。見かねてステーキをおごってあげたこともあるのよ』
 レスリーは、懐かしそうに目を細めた。
『私は彼の才能を一番早く見抜いていた1人だったわ』
『はあ……』
『それなのに、コーは日本へ帰ったきり10年も戻ってこない。日本のどの映画を見ても、彼は出ていない。どんなに待ち続けても。だから、待ちくたびれて迎えに来たの』
『……』
 私は、夏の太陽に目がくらみそうになった。
『あっ。人力車だ。ロッド。あれ乗ってみない?』
 あわてて、通りの向こうを指差す。
 ロッドはまたフンと鼻を鳴らした。深い茶色の瞳、茶色の髪と長い睫毛。エキゾチックで彫りの深い顔立ち。この少年には間違いなく、東洋の血が混じっている。
 そして、10歳という年齢。鹿島さんがハリウッドから帰ってきたのは11年前の夏。
 まさか、彼の父親は……。
 ありえない話ではない。鹿島さんなら。
 今年の冬にも一騒動あったばかりなのだ。結婚したことを人づてに知った昔の女性が、なんと京都のマンションまで押しかけて来て、泣くは喚くは。それに昔の女性と言っても、茜さんとの結婚直前まで切れていなかったというではないか。
 つまり二股かけていた。下手すると、三股も四股もかけていたかもしれないという気配さえあるのだ。
 茜さんと結婚できるなんてハナから諦めていた鹿島さんにとっては、無理ないかもしれないとは思うけれど、これだけ罪状が出てくると同情の余地なし。
 茜さんは、さすがに元芸妓、こういう修羅場にはびくともしなかったとか。
 でも、そんな彼女でさえ、海を越えた向こうに元恋人がいる、その上子どもまでいるとなれば、話は違うだろう。
(ああーん。ディーター。助けて)
 私は隙を見ては、彼に現在位置を知らせるメールを打った。
 チンチン電車の走る明治通りの隣には、「大岡越前」で有名な南町奉行所のお白洲や、武家屋敷などが並んでいる。
 通りのあちこちで、俳優さんたちが町娘やお侍の格好をして、観光客と写真を撮ってくれる。
 夏休みということもあって、映画村全体はにぎわっていたが、果たしてアメリカ人のレスリーとロッドにしてみれば、日本人がユニヴァーサル・スタジオで感じるほどの興奮と興味を、持てたかどうか。
 時代劇の世界というものが、いかに世界的には認知されていないかを痛感する。
『鹿島さんが俳優をやめて、古武道を選んだことを、レスリーさんはご存知なんでしょう?』
『ええ。でもあの人は、スクリーンの中でこそ輝く人なの。器用だから何でも一流になれるでしょうけど、あの人にとって映画の中にしか生きる道はないの』
『でも、今の鹿島さんのライフワークは、剣術なんです』
『今は一時的に、ソードプレイを楽しんでるのかもしれないけど、それは映画の仕事に役立つからよ。ふと気がつけば、きっとソードプレイなんか捨てて、映画に戻ってくる』
『……』
『マドカ。あなたは、彼の出演した映画を観た?』
『はい。ビデオですけど、全部見ました』
『最後の主演作は、すばらしかったわ。制作費がなくて映画としての出来は良くなかったけど、彼の演技は観る者を惹きこまずにおかなかった。……あの頃のハリウッドは、アジア人に冷たかった。忍者や刑事、ティピカルな役しか回ってこなかった。でも、10年前と今は違うわ』
 レスリーはうっとりしたように、微笑んだ。
 間違いない、この瞳は恋する者の瞳だ。この人は、確かに鹿島さんに恋している。
 白い商家風の廻船問屋の建物の前にある広いプールから、ゴジラのような怪獣がぬーっと現われたのを、私はぼんやり見ていた。ロッドはけたけた笑いながら、道の小石を投げ始め、レスリーがあわてて止めに駆け寄っている。
「円香!」
 そのとき、待ち焦がれていたなつかしい声が私を呼ぶのを聞いた。
「ディーター!」
 彼はロケスタジオの方角から走ってきた。
 私の姿を認めると、ほっとしたように上半身を折り、膝に手をついて喘いだ。
 すり切れてすそのところが破れているTシャツも、額や首にまとわりつく飴色の後れ毛も、汗でぐっしょり濡れている。
 義足の性能の許す限り、撮影所から私を捜して走ってきたのだろう。
 私は胸が一瞬きゅんとなったが、抱きついてキスする暇はなかった。
「撮影は、もう終わったの?」
「だめ。NG」
 彼はぶっきらぼうに言うと、顔を上げた。
「鹿島さんはまだ監督と打ち合わせ中なんだ。俺だけ1時間抜けさせてもらって、急いでここに来た。トラブルっていったい何? あの人たちは?」
 私は彼の袖をぐっと引っ張って、屈ませて耳元に近づいた。
「鹿島さんに会いたいって、ハリウッドからやって来たの」
「……え?」
「おそらくは、鹿島さんの元カノ。そして、もしかすると……隠し子」
「カクシゴ?」
 ディーターはまた一つ、高度な日本語を覚えてしまった。


§2につづく


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