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EWEN

Episode 17
家族稽古


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§2

「昨夜、息子から聞きました。いじめられているところを救っていただいたそうで」
 母屋の座敷に通されると、慎也のお父さんは両手をついて、がばとお辞儀した。
 40歳くらいの、もとスポーツマンらしい体格のりっぱな人。とても声が大きく動作がしゃちこ張っていて、笑ってしまうほど慎也と正反対だった。
 相対して正座しているディーターもそう感じているらしく、ぽかんと2人を見ている。
「なんでも、お若いのに剣術の師範代でいらっしゃるとか。息子が、口を極めてあなたのことを褒めておりました」
「それはどうも……」
「実はきのう塾の先生から家の方に、塾を無断欠席しているという連絡があったので、問い詰めましたらここでお世話になったことをやっと話しました。今朝がたも、もう塾は止める、こちらの道場に入門するんだと、息子が言い捨てて家を出たそうで、このような形で息子が親に逆らったのは初めてだと、家内は電話で泣いておりました」
「……」 慎也はふてくされたように横を向いている。
「いえ、むしろわたくしは喜んでおるのです。息子が男らしい子になるようにと、わたくしは小さい頃からスパルタ教育を心がけて、スポーツクラブや水泳や柔道教室に通わせようとしたのに、この子はそれを嫌って逃げまわる始末。挙句の果ては、学校でいじめに会っても何も言えない軟弱な子に成り果てました。もし、こちらの道場でお世話になって、この子の性根が治るならば、こんな良いことはありません。すべておまかせいたします。月謝もいかようにもお払いいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「ち、ちょっと待ってください」
 ディーターは、ついに我慢できなくなって叫んだ。
「まだ、慎也くんの入門を許可したわけではありません。門下生の入門は、留守をしている師範の決めることです」
「では師範殿は、どちらにおられるのですか」
「あの、えーと、……今、旅をしています」
 ナイス日本語。ディーター。
 旅行と言わず、「旅」と言ったことで、山岸さんの頭には、全国行脚の旅をしている孤高の武芸者の姿が浮かんだことだろう。まさか、タンゴやルンバの修行とは思わず。
「それに、慎也くんには、うちの道場に来る前に、もっとすることがある」
「それは、一体どういうことでしょう」
「俺は外国人だから、感覚が違うのかもしれない。でも、昨日から慎也くんを見ている限り、生きる力がとても少ないように思えます」
「生きる力……?」
「彼のことばは、いつも語尾がほとんど聞こえない。日本語は一番大切な結論を語尾に持ってきます。したいのか、したくないのか、ほしいのか、ほしくないのか。好きなのか、嫌いなのか。それを彼ははっきり他人に言うことができない。それは、学校や道場で習うことではなく、家族が教えることです」
「……」
「それに、床をふいた雑巾をしぼることも、使った湯のみを洗うことも慎也くんはできなかった。まっすぐ背をのばして歩くこと。人の目を見て話を聞くこと。全部、人が生きるために必要な基本的なことです。その基本を身につけないうちは、どんなに強くなろうとしても、無駄なのではありませんか」
 山岸さんは黙っていた。慎也も黙っていた。1分も2分も黙っていた。
 そばにいた私は、お父さんが気分を害してそのうち怒鳴り出すのではないかと冷や冷やしていた。
 しかし突然、彼は上半身を平伏の形に投げ出した。
「まさにそのとおりです。さすがに師範代。すべておっしゃるとおり、わたくしどもの不徳のいたすところです」
「……」
「会社の仕事にかまけて、息子の教育をおろそかにしていたわたくしの責任です。性根を叩きなおさなければならないのは、むしろわたくしの方だと、悟りました」
 彼はおでこを畳の目にすりつけながらも、よくも部屋中に響き渡ると感心するような音声で叫んだ。
「お願いいたします。どうぞ、父親のわたくしともども息子に入門を許可していただきたい!」
 今度は私たちふたりが黙り込む番だった。
 どうして、この道場にはこんな厄介な人たちが集まってくるのだろうねえ。
 私は、こっそりディーターを見た。その視線に気づいて彼がこちらを見たとき、彼の顔に喜色が浮かんだ。
「わかりました」
 飽くまでも、冷静な面持ちでディーターは答えた。
「ただし、ひとつだけ条件があります」
「条件?」
「おふたりには最初、葺石流の稽古ではなく、剣道の修行をしていただきます。期間は3週間。教えるのは、ここにいる円香です」
「えっ!」
「彼女の命じることは、掃除でも洗濯でも何でもしてください。3週の間、もし彼女の修行に耐えられたら、入門を許します。脱落してしまうようなら、入門を許可することはできません」
「デ、ディーター……」
 彼は、私にしかわからないように、そっと目配せした。


 さすがの山岸さんも腹を立てて、慎也を引きずって帰ってしまった。
 あたりまえだ。二十歳そこそこの、もう2年も剣道から遠ざかっている女子大生に指南を受けろなんて、人を馬鹿にするにも程がある。
 あとから聞いた話によると、山岸さんは学生時代柔道の選手だったそうだ。畑違いとは言え、武道の心得がある人に、ディーターは門前払いを食わせ、挙句に、掃除や洗濯の修行をしろと言ったのだ。
 そりゃ怒るだろう。
「どうすんの。山岸さん、あれからなんも連絡して来ないよ」
「それはそれで、助かる」
「だって、慎也くんを見捨てたみたいで、後味わるい」
「円香は、あの親子を見てどう思った?」
「あれだけ違うタイプもめずらしいよ。きっと努力しても努力しても、お互いのことがわからへんのやろね。なんか可哀相」
「あのお父さんは子どもが自分と同じでないといけないって思ってるんだね。親子だって違う人間同士なんだから違うのが当たり前なのに。だから余計、お互いに分かり合えない」
 彼の言うことはわかる気がする。
 日本人は、子どもを自分の一部と考えてきた。家族は同じ皿をつつき、同じ風呂の湯をつかった。生活様式もものの考え方も多様化した今の日本では、次第にそんな家族のあり方は壊れてしまっている。なのに多くの親はその考えを捨てきれず、子どもをいつまでも囲い込もうとする。
 ディーターは5歳までしか家庭の愛を受けることができなかった人だから、そんな親子の葛藤が、あるときはとても奇妙に、またあるときは逆にうらやましく見えるのかもしれない。
「でも、いっしょに生活していれば、どこかできっと通じるものがあるはずなんやけどなあ」
 どんなに相手の考えが自分と違っていても、家族ならそれを認め合うことはできるはず。
 それが人と人との関係の出発点だもの。
「あ、そうか。だから……」
 だから、ディーターはあんな条件を出したんだ。
 いじめという人間関係を解決する力は、武力でも何でもなく、人と人との基本的な結びつきを見なおすところから始めなければならないことを教えるために。
 それから、3日が過ぎた。
 木曜の夕方、リュックを背負った山岸さんが、学校から慎也を引きずってうちの玄関に現われ、
「会社にフレックスタイムの申請をしてまいりました。今日から慎也の下校時刻に合わせて、こちらに伺うことにしましたので、よろしくお願いします」
 と、深々と私に頭を下げたとき、私は驚くどころかむしろ心待ちにしていたことを、自分でも不思議に思った。


「最初は、道場の拭き掃除をお願いします。みんな裸足になるところなので、濡れ雑巾で念入りに、でもあまり濡れ過ぎていると床の木が反ってしまうので、しっかりと絞ってくださいね」
 こんな幼稚園児にするような注意をするのも、慎也は雑巾をぼとぼとに濡らしたまま、拭こうとするからなのだ。学校でもずっとそうしていた、と言う。
 それに反して山岸さんは、これでもかというくらい、雑巾を固く絞ると、道場の端から端まで、タタタッと小気味良い足音を立てて掃除してゆく。さすが元柔道部員。
「すごい。お父さん、雑巾がけが上手なんやね」
 不思議そうに父親の姿を眺めている慎也に、私はそう話しかけた。
「お父さんって、うちでもああやって掃除するの?」
「ううん。見たことない。いつも帰りは遅いし、日曜は寝てばかりいるし」
「お母さんを手伝って掃除しないんだ。慎也くんも?」
「家の手伝いする暇があったら、勉強しろっていつも言われる。家のことはお母さんの仕事やからって」
「そうなんや。お父さん、お母さんに威張ってるんやね」
「俺は働いておまえらを食わしてやってるんや、って。お母さんはなんにも言わない。お父さん強いから」
「家族ってさ。強いも弱いもないんと違う? お父さんが強いから、お母さんはなんにも言わず従ってるんだと、本気で思ってる?」
「え……。違うの?」
 雑巾がけが終わると、私はふたりに、初心者用の小判柄の竹刀を持たせた。
 まず、竹刀の持ち方。
「茶巾しぼりのようにして脇を締めて持ちます。慎也くん。さっき雑巾をしぼったとき教えたことを思い出して」
 中学・高校の部活で6年間学んだこと。
 1年生の最初は、掃除と正座ばかりだった。それが知らぬまに足腰を強くし、背筋を伸ばし、剣道の基本を作っていたことを知ったのは、ずっとあとだった。
 次は足構え。
「右足を前にして、左足のつま先を前に向けて。外に開かないように」
 足のさばき方。前への出方。呼吸法。
 教えることは山ほどあったが、誰よりも、教えている私自身が楽しかった。
 剣道をやめて、もう2年以上経つ。
 受験勉強。大学入学。結婚。勉強と家事に追われる毎日。
 その中で、剣を握るときのあの凛と漲る気力、巌のごとく動じなくなる心の充足感を、私は忘れていたのだ。
 ディーターは、いつのまにか道場の入り口に立って、腕組みをして私たちの稽古を見ていた。
 やがて、旅行から戻った祖父と、東京での撮影から帰ってきたばかりの鹿島さんが続いて入ってくる。
 手を止めた私たちを、ディーターはふたりに紹介した。
「師範、師範代。円香の新しい門下生の山岸さんと慎也くんです」
 祖父と鹿島さんは目を白黒させている。
 続いて、門下生の奥野くん、ジュリーさん、村主さんが到着する。
「あっ、慎也くん。と、とうとう入門さしてもろたんですね。」
「まあ。こちらお父さん? ガタイがあってけっこう男前。うふっ」
 今度は、山岸さんが目を白黒させる番だった。
 彼らに場所を譲ると、私はふたりに言った。
「見取り稽古をします。ここで正座して、稽古の様子を見てください。竹刀の構えや足のさばき方なんか細かいことはいいですから、どういうとき攻めに入るのか、それをどう見切ってかわすのか、また打たれたらどこに隙があったのか、双方の心の状態を考えながら見るようにしてください」
 今日は元立ちと門下生の3対3のかかり稽古で始まった。
 葺石流の自由で荒々しい剣風に、慎也のお父さんは深く感銘を受けたようだった。
 また、彼の眉をひそめさせたジュリーさんが、門下生の中では一番の上段者であることもショックだったみたいだ。
 村主さんは、稽古の合間にやってきては、山岸さんに懇々と中国3千年の智慧を諭す。
「『隗より始めよ』とは、郭隗の「戦国策」に出てくる言葉ですな。途方もない大事業も手近なことから始めよという教えです。子どもの教育に関わる者にとっては、まさに至言というべきでしょう」
 長い間、会社という狭い世界で常識人に囲まれて生活していた彼にとって、その日の稽古は人生観を変えるほどの衝撃を与えたにちがいない。


 次の日も山岸さん親子は、夕方定刻どおりに現れた。
 今日は道場のほかに、庭の掃除もしてもらう。
 昨日もそうだったが、慎也とお父さんはほとんど話をしない。目も合わせない。
 慎也は父親のあの大きな声を聞くと嫌だ、と言う。山岸さんは息子の蚊の泣くような声を聞くと情けない、と言う。
 稽古のときもそうだった。
 道場の短いほうの辺を使って、移動しながら一方が他方を打ちこむ追いこみ稽古をしたのだが、お父さんは指導者の私をそっちのけで、「その構えは何だっ!」と怒鳴る。慎也はますます萎縮して、うつむき、声が出なくなる。
 恒輝たち門下生のいるところでは和気藹々と話に加われるが、ふたりで家路を辿るときは、親子の距離は限りなく遠かった。
「どうしたらいいんだろね」
 すっかり困り果てた私に、ディーターはひとつの提案をしてくれた。
 あくる土曜は門下生総出の大掃除の日だった。
 2週間後に迫った、鹿島さんの14代目の跡目披露の準備のためである。
 天井のすす払いや、障子の張り替えが行なわれているあいだ、私と山岸さん親子は、蔵から50人分の塗りの足付膳や、食器を運び出して埃を落とした。どうにか協力し合えるようになるまでに、震災をくぐり抜けてきた100年物のお茶碗や小皿が何枚か犠牲になったけど。
「これからお2人で、晩ご飯のお鍋の材料をスーパーに買いに行ってくださいませんか」
 夕方近くなって、ようやく片付けの目処がついた頃、私は彼らにそう頼んだ。
「わたくしたちが、ですか?」
「はい。今日手伝ってくれた門下生たちも食べていきますので、15人分。この財布にお金が入ってます。買うものはすべておまかせしますので、予算内で適当に見繕ってください」
 ふたりは怪訝な顔をして、とぼとぼとスーパーへの道を下り始めた。
 私とディーターはこっそり後をつけた。
「どうして、山岸さんの親子関係の修復には、買い物が一番いいって思ったの?」
「俺も入院してた頃、患者同士でよく行かされてたんだ」
「お父さんに?」
「作業療法のひとつだった。食べるものを買うことは、生への本能を刺激する上に、ふたりで相談することで、協調性と社会性と判断力を養うって。掃除もよくやらされたな」
「もしかしてそれって」
 私は懐疑的にひとり呟いた。「お父さんにいいようにこき使われてただけなんじゃ……」
 スーパーに入った慎也くん親子は、めったに夕食の買い物をしたこともないらしく、鍋にどんな材料を入れるか議論するだけで膨大な時間を費やしていた。
「うわあ。きっとこれまでただお母さんの作ったものを食べるだけだったんだろうね。そんな家族もあるんやねえ」
「でも、協力してやろうって気になってきたみたいだよ。さっきからずっと会話が続いてるし」
「ほんとにあれでいいの? ディーター。あの2人がさっきからかごに大量にいれてるの、レタスだよ」
「……うそ」
 というわけで、その日私たちが囲んだのは、山盛りのレタス入りのちり鍋だった。


 幾日かが瞬く間に過ぎ、山岸さん親子の修行は順調に回を重ねていた。
 掃除も、手順を相談しながら分担を決め、以前の半分の時間ですむようになった。
 稽古は、特定の技だけを応酬する約束稽古や、自由に打ち合う地稽古などに進んだ。
 慎也も、最初から比べると、背筋が伸び、手の内(竹刀の握り方)も良くなり、相手の目をまっすぐに見て声を出して打ち込めるようになってきた。
 ある日、山茶花の咲き始めた夕方の庭で、私は、門下生を迎える通路を掃き清めている山岸さんに近づいた。
「ご苦労様です」
「……いいえ」
「正直言って、拙い私の指導にこれほどついてきてくださるとは思っていませんでした。お父様の慎也くんを思う姿勢には頭が下がります。それに、さすが武道をなさった方だと思います。ディーターも感心していました。山岸さんは、気攻めがうまいって」
「いえ、わたくしは」
 彼は足元に目を落とした。
「武道家として、ご主人の足元にも及びません。父親としても、失格者です。慎也がご主人に助けていただいたときのことを話すのを聞いて、驚きました。あれほどうれしそうな慎也を見たのは初めてだったのです。たとえ、わたくしが慎也のそばにいたとしても、あの子を助けたりはしなかったでしょう。靴くらい自分で取り返せと怒鳴りつけるだけだったでしょう」
 私は首を横に振った。
「他人だからできたんだと思います。親なればこそ、子どもに強くなってほしいと願うものでしょう」
「それはそうですが……」
「ただ、慎也くんは助けを求めたとき『殺される』と言ったそうです。普段の慎也くんからは考えられないほどの力で主人にしがみついたそうです。もしかすると、彼の心は本当に死にかけていたのかもしれません。だからこそ、ディーターと呼び合ったのだと思います。彼も子どものとき、心が死んでしまうほどの状況をくぐりぬけてきた経験があるから、この人なら助けてくれると、慎也くんは本能でわかったのかもしれません」
「わたくしは、それほどの慎也の辛さがわかってやれなかったのです……。慎也は1年のときもいじめられました。そのときわたくしは強くなれと一方的に叱りつけるだけだった。だからあの子はわたくしたちには、今のクラスのいじめのことをひとことも言わなかったのです」
「子どもはいじめられているとは親に決して言わないものです。何故だかわかりますか」
「いいえ」
「親に心配をかけたくないからです。苦しんでいる自分を見せて、親を悲しませたくないからなんです」
「……」
「子どもは親が思っている以上に、ひとりの人間です。それを認めてあげてください。ひとりの人間として寄り添ってあげてください。それが、慎也くんの自信になると思います」


 同じ頃、ディーターは道場の拭き掃除をしている慎也のそばにいた。
「上手に雑巾が絞れるようになったね。円香が褒めていたよ。眼が良くなったって。真っ直ぐに相手を見られるようになったって」
「……はい」
「学校はどう? まだいじめられる?」
「いいえ。……でも、友だちもいない。シカトされる」
「慎也くんは、何で自分がいじめられるんだと思う?」
「僕が、チビだから。弱くていじめやすいから」
「強くなれば、みんなとも友だちになれる、本当にそう思うかい?」
「少なくともいじめられない。僕はそれでいいんです。強くなって、いじめてくる奴をやっつけてやれれば、友だちなんかいなくてもいい」
「そうして、今度は慎也くんが、他の奴らをいじめるんだ」
「僕はいじめたりしない。そんなの最低の人間がすることだ」
「力を持ったとき、人間はいくらでも変われるんだよ。最低の人間にだってすぐなれる」
 彼は、雑巾を握りしめたまま項垂れている慎也のそばに、壁に凭れて座った。
「俺の生まれた国の話をしようか。島の北半分が隣の国の領土になっていて、その地域に住んでいる住民はずっとふたつに分かれて争ってる」
「……ドイツじゃないんですか?」
「生まれたのは北アイルランドなんだ。隣の国は経済的にも豊かで、太刀打ちができないほど強かった。反対派の住民は力で抑えつけられて、だんだんと怒りを膨らませていった。その怒りはいろいろな形で爆発した。多くはテロという卑怯なやり方だった。でもそれしか弱い立場の住民が力を持つ方法はなかったから、俺たちは、その方法を正しいと信じていた。力を持つことに熱狂して、人を殺すことを何とも思わない、最低の人間になってしまった」
 ディーターは、慎也が総毛立つくらい優しい眼差しで、残酷な事実を話し続けた。
「30年殺し合って、そのあいだ幾度も停戦のための話し合いがされたが失敗に終わった。ようやく1年前から平和になっていると聞いた。でも多分、家族を殺された者同士の互いへの憎しみは消えない。今生きている人たちが全部死んでしまうまで、本当の意味での平和は来ないと思う」
「……」
「君ならもうわかるはずだ。いじめている奴らに仕返しをしても、それはなんの解決にもならない」
「でも! 今のまま、弱いままだったら、僕はずっといじめられる」
「強いというのは、人を傷つける力じゃない。慎也くんは、今まで誰か人を傷つけたことはある? 人の憎しみを受けて当然なほどのことをしたことはある?」
 慎也は強く首を左右に振った。
「誰をも傷つけたことがない、それが、君の強さだ。自分が弱いことを決して負い目に思う必要はない。何も悪いことをしたことがないと堂々と胸を張れることが、逆に君の強さになる」




§3につづく


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