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EWEN

Episode 17
家族稽古


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§3

 11月下旬の休日、葺石流の第14代師範の跡目披露が行なわれた。
 道場の桟敷をぐるりと取り囲んだのは、SさんやMさんなどの有名な俳優や映画関係者、他流派の武道関係者など50人近い招待客。入り口近くの末席には門下生たち。山岸さん親子もいる。
 私や藤江伯母さん、前の日から板前さんといっしょに来て50人分の会席を整えてくれた茜さんも、はじっこに潜り込む。
 太秦のスタッフたちが、映画のロケさながらの機材と熱心さでカメラを回している。
 羽織袴姿の祖父が、第13代師範として短く口上を述べ、同じく羽織袴を纏った鹿島さんを後継者として紹介し、鹿島さんも、短く挨拶して、深々と礼をする。
 儀式自体は、15分もかからなかった。
 締めくくりは、新師範が葺石流の型を演技披露するはずだった。
 そうでないことは、鹿島さんが座に羽織を残して立ちあがり、それに呼応して、下座にいたディーターがスーツの上着を脱ぎ捨て立ちあがったとき、わかった。
 若き師範と師範代による、形稽古という趣向だろうと思って見ていた人々が、ざわめき始めた。
 ふたりの表情が、たとえ手に握っているのは木刀でも、これが真剣勝負であることを語っていたからである。
 彼らは中央に進み出て、始めの礼をした。
 鹿島さんは中段の構え、ディーターは、やや右よりの平晴眼。
 鹿島さんの剣先が少し誘うように揺れたのとほぼ同時に、ディーターが跳び込んで袈裟懸けに打ち下ろした。受けた側はそれに摺り上げて応じる。それをかわして、後の先で返す。その刀に乗って打ち落とす。
 ふたりがふたたび間合いをとるまでの十数秒に繰り出された打突の数に、見ている者は呆然となった。
 あれだけの打ち合いの中では呼吸もしていないはずなのに、息の乱れもない。
 ディーターの後ろでくくった金髪の先の揺れが止まったとき、ふたりは完全に静止した。
 気の充足を待たず、うかつに動いた方が相手に呑み込まれる。
 互いの手の内を推し量り、好機を捕えようとする心の攻めは、動かない今こそ激しく行なわれている。
 仕掛けたのは、今度もディーターだった。
 上段から攻めると見せかけて咄嗟に腰を落とし、横から足を払う一閃。虚をついたかに見えたが、次の瞬間、鹿島さんは斜め横に足をさばき、木刀の物打ち部分でしっかりと受け止める。
 カシィィンと木刀の芯が合わさるつんざくような音。
 逆にディーターの体勢が不利になるも、そこにつけこんで下げた鹿島さんの切っ先に、渾身の力で乗りかかる。
 いったいどこまで先の先を読んでいるのか。見ている者の目がくらみそうになる。
 みたび、双方の間合いが離れた。
 睨み合っているにも関わらず、鹿島さんの顔は穏やかだ。太い眉が微かに険しくなっただけ。
 ディーターも表情は変わらない。翡翠色の瞳が白光を帯びて見えるだけ。
 私は、息が苦しくなってきた。
「おい、もしディーターが勝ったら、どうなるんや」
 門下生の席から、恒輝が呟く声がする。
 鹿島さんはこの勝負に負けたら、師範の座を辞退してしまうのではないか。
 もしそうなら、ディーターはそのことを承知しているのか。ふたりの間で何かの取り決めがあるのだろうか。
 少なくとも、ディーターにわざと負けるつもりなどないことは、顔を見ればわかる。
 招待客のあいだにも、いたたまれないほどの緊張が伺える。
 もう一度、突っ込む。今度はほぼ同時の起こり頭。
 葺石流には、剣道と違って決め技というものがない。一本を取るという勝ち方もない。
 試合は、どちらかが刀を落とすまで、もしくは戦意を喪失するまで行なわれる。
 もうひとつ異なる点は、剣道にはない、足がらみや肘打ちといった、両手以外の身体を使う技が許されていること。
 勝負が長引けば、それだけ多彩な攻めを繰り出す必要にも駆られる。
 まさに、実際の戦場と同じく、命を削る戦いになってくるのだ。
 2度、3度、4度と刃が合わさる。仕掛け、払い、返し、突き、摺り上げる。
 ディーターの左足運びが、おそい。いつのまにか額に汗がにじみ出ている。
 義足が反応できなくなってきたのだ。
 鹿島さんの攻めを押し戻したとき、初めて彼の口元がわずかに引きつった。
 鹿島さんは、相変わらず何にも囚われていない。
 いつのまに、鹿島さんはこんなに大きくなったのだろう。山のように動じない。
 これが師範たることの境地なのか。
 本来ならば、若く身軽なディーターの方が、数段スピードは上のはずだった。だが、鹿島さんはそれを経験という武器で補っている。長年培ってきた流れるような連続技の奥義が、身体の反応速度に勝る早さを生み出している。わずか2年の稽古しか積んでいないディーターには真似できないものだ。
 そのスピードさえ義足の不調に奪われてしまった彼は、今や完全に不利だった。
 彼は剣先を落として、苦しげに目を伏せた。
 身体の苦しさでは、ない。心が戦っている。
 相手は、鹿島さんではない。
 自分との戦い。相手を傷つけてやまない力との戦い。誰よりも強くあろうとする欲望との戦い。
 勝ちたいのなら俺を解き放てと、心の檻の中で叫ぶユーウェンとの戦い。
 ディーターは切先を上げた。
 澄んだ目でしっかりと鹿島さんを見つめ、
 それに呼応して、鹿島さんも微笑し、
 そして、最後の激突。
 稲妻のごとき剣閃が交差し、ディーターの木刀が弧を描いて空に舞う。
 しかし、彼は諦めなかった。落下点に飛びこみ、床に倒れこんだ一瞬後には、木刀を手に片膝の体勢で構える。
「そこまで!」
 祖父の鋭い声が道場に響き渡る。「鹿島師範の勝ちとする!」
 もんどりうったとき、わずかに柄の先が床に触れていたのだ。
 鹿島さんとディーターは木刀を持つ手を垂らし、中央に進み出た。
 だが、前もって祖父と3人で了解をしているらしく、終わりの礼をしなかった。
 ふたりの勝負はこれでは終わらないとでも宣言しているかのように。
 代わりに満面の笑みを交わし合い、そして西洋式にきつく抱き合った。
 私と茜さんはきゃあきゃあ笑い転げ、門下生たちは歓声とともに持っていたものを何でもいいから空中に放り投げ、山岸さん親子はなぜかふたりとも泣き始め、そして、あたりは割れんばかりの喝采に包まれた。


 跡目披露の数日後。
 山岸さん、慎也、私の3人は、誰もいないがらんとした道場で、ディーターと向き合って座っていた。
「約束の3週間が過ぎました」
 ディーターは、口篭もる必要のない、当たり前の事実から話し始めた。
「おふたりともよく稽古したと思います。特に慎也くんは、別人のように良くなった。動作がしっかりして、相手の目を見られるようになった。話すときも、いつのまにか語尾をきちんと発音できている。模範的な生徒だったと、円香も言っています。鹿島師範に尋ねたら、おふたりの入門については一任してもらえることになりました。」
「それでは、」山岸さん親子は喜びに少し身じろぎした。「入門を許可していただけるのですか」
「……それは、まだわかりません」
「でも、3週間修行したら、入門させてくれるって……」
 慎也が悲痛な声で叫んだ。
「その前に、ふたりの入門の理由が知りたいんです」
「理由?」
「慎也くんは、最初、いじめに勝ちたいから入門したいと言った。お父さんは、弱い息子を育てた自分に責任を感じ、もう一度自分を見つめなおすため入門したいと言った」
「はい」
「それならば、もうその目的は果たしたのではありませんか? もちろんまだ慎也くんへのいじめは全部解決していないかもしれないけど、今の慎也くんなら、それも時間の問題だと思う」
「……」
「ならば、もう入門の理由はなくなったわけです。確かな理由もなくついてこれるほど、葺石流の稽古は甘いものではありません」
 ディーターは、冷ややかなほど淡々と、そう言い捨てた。
 山岸さん親子は、足もとの板間を見つめてしばし項垂れていた。
「……楽しかったのです」
「え?」
「初めは、慎也が強くなればいいと思っていました。わたくしがそばにいて叱咤激励して、何とかこの子を一人前にしたいと、それだけでした」
 お父さんの大きな身体が、雨に濡れた猫のように優しく見えた。
「でも、この子といっしょに修行をしているうちに、いっしょに掃除をしたり買い物をしたり、剣の稽古をしているうちに、わたくしは、息子と同じ時間を過ごしているのはこれほど楽しいことなのだとわかってきました。息子は、決して軟弱でダメな子なんかじゃなく、こんなにもよく笑う、思いやりのある心の広い子なのだと、わかったのです」
「お……とうさん……」
 慎也は、おずおずと隣の父親の横顔を見上げた。
「強いとか弱いとか、勉強ができるとかできないとか、そんな表面だけを見ることをやめて、竹刀を通して慎也と触れ合ったとき、わたくしはこの子の親でいてよかったと、心の底から思いました」
 山岸さんの目からぽろぽろ涙がこぼれた。
「……慎也くんは?」
「僕も……」
 彼も泣きじゃくっていた。「お父さんと……いっしょに過ごして、それまで恐かったけど……、初めて、楽しいと思った……」
 私はもう我慢できず、格子窓のそばに走って行って、頭をつけてひいひい泣いた。
 彼らの剣道の師として過ごした、悲喜交々の3週間が、映画のフィルムのように次々と思い出されて、もう止まらなかった。
 この感動の場面の最中に、ディーターがまさかこんな冷たいことを言える人だとは、思っていなかった。
「それでは、その親子の愛情というものを、証明して見せてください」
「えっ?」
 彼は立ち上がると、壁から3本の竹刀を取ってきて、うち2本を山岸さん親子に差し出した。
「2人で組んで、俺に打ちかかってきてください。どんな手を使ってもいいから、5分のうちに竹刀が少しでも俺にかすれば、入門を許します。でももし、5分経ってもかすることもできなければ、あなたたちは、未だに協力するということを知らない、気持ちのすれちがったままの、うわべだけの親子だということになります。そんな人たちにけんかの場所を提供するような、無駄なことはしたくありません」
「あなたに竹刀をつけるなんて、そんなこと無理です!」
 山岸さんが大声で叫んだ。
「では、今すぐお帰りください」
 ディーターは、嘲るような笑みを返した。
「お父さん、やろう! ふたりでいっぺんにかかれば、何とかなるよ!」
「慎也……」
 慎也は、竹刀を力いっぱい握り締めると、先陣を切った。
 こんなエネルギーがこの子にあったなんて。父は呆然と息子の背中を見ていた。
 無謀な若さが、老練な諦めを打ち砕いた。
 ふたりは左右同時に、高位の師範代に打ちかかる作戦に出た。
 だが、それは確かに無謀だった。
 彼らには焦りがあるうえに、あちこちに無駄な力がかかって、稽古のときほどの動きもできていない。
 ディーターは、竹刀一本で軽くいなしてしまう。
 繰り出す技ことごとくが、読まれてしまっている。
 敵をその立ち位置からほとんど一歩も動かすことができないうちに、時間だけが容赦なく過ぎる。
 私は時計を見ながら、じれて叫ぶ。「あと1分!」
 突然、お父さんが竹刀を床に捨てた。
 そしてディーターに突進して、足を払いにかかった。それをよけられるが早いか、彼の胸元に入ると、背負い投げをかけた。
 そうはされまいとディーターが身体をねじろうとした瞬間、山岸さんはくるりと後ろに回りこみ、背中から両脇をがっちりと羽交い締めにする。さすが元柔道選手。
「慎也!」
 目を丸くしている息子に、父親は怒鳴った。「今や! 何してる! 打ちこめ!」
 慎也は一瞬躊躇したが、すぐにまなじりを決して、竹刀を振り上げた。
 私は内臓が痺れた。ああ、ディーターはこれが見たかったんだ。何ものにも負けない親子の絆を。
「えええーーいっ!」
 慎也のありったけの雄たけびが道場にこだました。


「いーい。あそこでおとなしく慎也くんの竹刀を受けてたら、ドラマ顔負けの感動の場面だったんやで。……聞いてんの? ディーター!」
 私は、リビングの絨毯の上で長々と仰向けに寝そべっている彼の上に馬乗りになった。
「それなのに、テコンドーだかなんだかの技かけちゃって、お父さん蹴っ飛ばしちゃって、慎也くん泣かせちゃって、あそこは当然負けてあげる場面でしょっ」
「だって、負けるのは悔しい」
 ディーターは、私に揺すぶられながらも、子どものように無邪気に笑った。
「だからって、勝ってどないすんのよ。ふたりともしょんぼりして帰ってしもたやない。もう諦めて、二度と来なかったら、どうするつもり」
「来るよ。3日もすれば、身体がうずうずして、またやりたくなってくる」
「絶対っ?」
「さあ。五分五分、かな。円香さんの教えが良ければだいじょうぶ」
「ああん、もう。ディーターっておじいちゃんそっくりになってきた。入門志願者を一度は追い返す葺石流って有名やもん。もっと、家の経済のこと考えてよね」
「なんなら、円香がもういっぺん教える? 教え方、俺よりずっとうまかったよ。生徒のためにあれほど泣ける師範はいないよ」
「またそういうことを。すっごく大変やってんから」
「そう? 楽しそうに見えたけどな」
 彼は長い両腕で私の頭を捕まえて、ふわりと抱き取った。
「うん、楽しかった。あんなふうに子どもの成長を見る楽しさを初めて知った。慎也くん、かわいいんだもん」
 彼の胸に顔を押し付けながら呟く。「男の子ってやっぱりいいなあ」
 そして、少し寂しい思いを断ち切ると、勢い良く身体を起こして、夜着に着替えるため寝室に向かおうとした。
「……円香師範」
「何ですか。ディーター師範代」
 ……え、えっ?
 立ちあがっていたはずの私は、次の瞬間、身体を反転させられて絨毯に仰向けになっていた。視界は彼の柔らかい金髪に蔽われて遮られ、両手は彼の手の中で自由がきかず、唇は彼の唇にふさがれて声も出せない。
 ……強すぎです。師範代。
「じゃあ、男の子が第一希望ってことで」
 低く優しい声が私の耳元で囁くと、私は全身が熱く融かされていくように感じながら答えた。
「はい。お願いします」




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