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Episode 18
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王城千年の歴史を見つめながら、滔滔と流れる桂川。 その川べりに張りつくようにたたずむ、一軒の料亭。 灯籠にほんのり照らされた小さな中庭を愛でながら石畳をたどった奥には、京都をこよなく愛する主人の想いが隅々まで行き届いている店がある。 人目を好まぬ太秦の映画人の憩いの場として、知る人ぞ知る名店。 その格子戸をくぐった名優たちは数知れない。 しかしその数十年の時を経たくぐり戸でさえ、今日の2人のような美しい男たちを迎え入れた経験は、あまりなかったに違いない。 しかも、その2人は銀幕の俳優でさえない。 2日間ぶっつづけの撮影を終えて、疲れを癒しひとときの涼を求めて飛び込んできた、映画の裏方たち。 「何飲む?」 小座敷に2人を通した年若い仲居が、頬を真っ赤に染めたまま注文を待つ中、やや高いほうの男が、座卓の品書きに目を走らせながら連れに問うた。 襟をなぶる程度に長く、くしけずられることを嫌う漆黒の髪。ブルーのシャツに薄く浮き出るたくましい骨格。太い眉の下の切れ長の瞳は表情豊かで、少年のように邪気がない。 「なんでも」 彼の向かいに腰かけながら、そっけなく答えたもうひとりの男は、白人だ。外国人の気負いのない、なめらかな日本語。 やわらかな濃い金髪を背中まで垂らしている。上背の高さと、Tシャツの袖からのぞく、細いが硬い筋肉質の長い腕がなければ、女性に間違えられるかもしれない。華奢な顎を微笑みの形にゆるませているが、 碧色の瞳は向かい側の男と好対照に、容易に本心を表そうとはしていない。 「聞くまでもなかったな。じゃ、とりあえずビール何本か。あと…」 注文が終わり、仲居がふすまを閉めると、日本人の方が座卓に両肘をつき、身を乗り出した。 「悪かったな。ディーター。泊り込みまでさせて。円香ちゃん、怒ってるやろな」 「怒ってませんよ、鹿島さんが電話入れてくれたし。あいつ、鹿島さんの言うことなら何でもきくから」 「まあ俺は、円香ちゃんが小学校のときからの付き合いやからな」 「円香にとって、鹿島さんは特別な存在なんです」 康平は、彼のことばにこめられた意味を思ってどきっとした。 あけっぴろげな彼女のことだから、康平が初恋の男であることは、とっくにディーターに話しているにちがいない。 妻の初恋の相手と向き合っているこの状況を、彼はどう受け止めているのだろう。 「おまえな、俺を『鹿島さん』と呼ぶの、そろそろやめないか?」 「いやですか?」 「その敬語もや。確かに俺は師範代で、仕事の上では上司かもしれへん。年も10以上離れてるけど、それでも俺はおまえと友だちの つもりでいてるんやけどな」 「タイでは兄弟子に対する挨拶まできちんと躾けられたから、そう簡単には直りませんよ」 「ほんまに、おまえは日本人顔負けの古風な男やな」 仲居がビールと突き出しを運んできたあと、康平は相手のコップにビールを注ぎながら、 「無理にさそったから、俺のおごりや。今日は徹底的に飲もうぜ」 「それで?」 「それでとは?」 「今日の本当の用事は何か、ということです」 ディーターはグラスを一息にあおると、少し目を細めて笑った。 「いつものように普通に飲むだけなら、『あかね』に行くかどうかをまず聞くでしょう。今日はいきなりここに連れてきた。しかも、かなり 時間を気にしていた。いったい何があるんです?」 康平はため息をついた。 「勘のよすぎるのも困りもんやな」 「今すぐ失礼しても、いいんですけど」 ことばと裏腹に、天使のように微笑んだままだ。 やばいな、と康平は思った。 彼との付き合いはそう長くはないが、密度が濃い。こんなふうに笑うときの彼が、実は内心いらだち始めていることを知っている。 まして今日は2日間徹夜同然の、過密スケジュールをこなした後だ。疲れている。 こんなときは、前触れなくするりと「彼」が現われる。 「ああ、わかった。白状するよ。……実はここで、ひとりの女性と待ち合わせている」 「女性?」 「俺が以前付き合ってた女や」 ディーターの喉から、呆れたといった意味のドイツ語がもれた。 「よりを戻そうとでも言うんですか?」 「反対や。なんとか別れ話をまとめようとしている」 「まだ、完全には別れていなかったと?」 「向こうはそう思ってるらしい。俺が結婚したことを聞いて、うちのマンションを捜し当てて、押しかけてきやがった」 康平は天井を仰いだ。 「おい。笑い事か、ディーター」 「それで茜さんは、何て?」 「ああ、にっこり笑って何も言わなかったな。もうこれで一週間何も言ってくれないけど」 「茜さんだから、まだそのくらいで済んでるけど、もしこれが円香なら」 「張り倒されるか」 「殺されますよ」 「ああ。茜からも殺気は感じるな」 「それって『自業自得』というんじゃないんですか」 「心に染みるいい日本語やな」 「それで、ここで俺に何をしろと」 「つまりそばにいてくれて、話がこじれそうになったら助けてくれれば嬉しいな、と」 「こじれるんですね」 と、ディーターは嘆息する。 「へたすれば、よりが戻ってしまいそうだということでしょう」 「それが、結構小股の切れ上がったいい女なんや。気はきついけど情が深いというか」 無言で席を立った相棒を、康平はあわてて引き止めた。 「今後3ヶ月の飲み代全部、俺が持ったるから」 「帰ります」 「ディーター。おまえかて円香ちゃんに言わなかったことあるやろう。一月前のことや」 「え?」 「十三の駅でばったり出くわしたやろ。昔ユーウェンと関係してたらしい女と」 ディーターはもとの席に腰をおろすと、冷ややかな表情でにらんだ。 「脅迫、するんですか」 「ほんのちょっとの恩返しを期待してるだけや」 康平は、なだめるように相手のコップに泡立つ液体を注いだ。 「俺がいっしょにおったから、なんとか事なきを得たんや。おまえは何が何だかわからないという顔をしとったやろ」 「……」 「人格が統合されたとは言え、ユーウェンのしてたこと全部は覚えとらんのやな」 「したことは覚えてる。ただ、抱いた女の顔までいちいち覚えていないというだけだ」 康平は、小鉢の煮物を箸から取り落とした。 ディーターのほうを見なくてもわかる。背中の産毛までが逆立つような寒け。 ユーウェンだ。 真の意味で人格交替しているわけではない。ただ、ディーターの意識の前面に、ユーウェンの持っていた「色」が出てしまうのだ。 解離性同一性障害という病気の後遺症。 もちろん気分のムラという程度のことなら、誰にでもあることかもしれない。ただ、彼の場合は平素があまりに穏やかなものだから、その落差は、他人を仰天させるほど激しい。 彼はビール瓶をひったくると、手酌で次々とアルコールをあおりはじめた。 いつのまにか髪をとめていたゴムをはずし、その流れ落ちる金色の房のすきまから、美しい瞳でちらりと見る仕草は、肉食獣のように尊大で完璧だ。 こいつと真剣で勝負したとして、100回やっても俺は勝てないだろう。康平は、そう思って身震いする。 「康平」 ディーターなら絶対に呼ばない名前を、彼は口にした。 「おまえは骨の髄からの女好きだ。俺はちがう。自分を確かめる必要があるときだけ、抱く。女に特別な感情を持ったことはない」 「円香ちゃんにも?」 「あんなガキ、誰が。……『こいつ』は心底惚れてるみたいだがな」 彼は、親指で自分の胸を差すと、低い笑いをもらした。 「円香もかわいそうな女だよな。同じ男の半分には惚れられ、半分にはどうでもいいと思われてる。ときどき、そのことに気づいてるみたいだぜ」 「おまえ……」 康平は自分の膝にぎりぎりと爪をたてた。 「本気で言ってるのか」 「へえ。怒るのか。確かおまえは円香の初恋の相手だったか。手ひどくふったらしいが、少しは執心する気持ちがあるんだな」 「おまえに言われたくはない」 少しずつ、少しずつ康平は胡坐をかいていた片脚をずらして、身構える。 「おまえこそ、人の女房に横恋慕しているくせに」 「なんだと?」 「昔から、おまえが茜を見るときの目は、少し違ってた。円香ちゃんが誘拐された日、俺はジャニスに会ってはっきりわかったよ。茜とジャニスはどことなく似ている。いや、そっくりと言ってもいい。 ユーウェン、おまえは茜に惚れてるやろう」 「ふっふふ……」 ディーターはおかしくてたまらないというように、のけぞった。 「嫉妬深い男と言うのは、おそろしいもんだな。自分は浮気し放題のくせに、そんな邪推のカーテンを女の回りに張りめぐらせてるのか」 「俺は茜と結婚してから、浮気なんてしとらん! するつもりもない!」 「じゃあ何故、ここにひとりで来なかった? 自分ひとりでは別れ話をする度胸もないくせに」 「おまえこそ、なぜそこまでムキになるんや? 俺の言ったことが図星やったからやろう!」 「貴様」 その叫びの余韻が消えるよりはやく、彼は座卓を乗り越え、一瞬後には康平の顔面に左拳を叩き込もうとしていた。 しかし、康平も身構えていた分鋭く反応した。すっと上半身を後ろに倒すと、両腕でからだを支え、膝で相手のみぞおちを蹴り上げる。 その攻撃を右腕でかわしたディーターは、バランスを崩した康平の腹の上に馬乗りになって、両手で首にかけた。 「殺してやる」 「くっ……」 なんて力だ。 康平はあえいだ。本気で殺すつもりがないことはわかっているが、彼が正気に戻ったときにこんな情けない状態で対面したくない。 思わず空いているほうの片手を伸ばし、自分を組み伏せている男の乱れた長い金髪をつかんで、その顔を引き寄せた。 そのとき。 襖がすっと開いた。 ふたりが顔だけをよじってそちらを見ると、露出度の高いドレスをつけた豊満な肉体の女性がぽかんとした表情を浮かべて立っていた。 彼女を案内した仲居の手から、持っていた塗りの盆がカラカラと音を立てて落ちた。 身体をからみあわせて、顔を近づけている自分たちがどう見えているか、康平は真っ白になった頭の隅で思い描いた。 これではまるで……。 「お取り込み中だったみたいね、康平」 「美奈」 ディーターの両手がゆるんだのを感じ、彼はあわててその体の下から這い出した。 「あんたがいきなり結婚だなんて、おかしいと思ったのよ。偽装結婚だったってわけね」 女は口の端に笑みを浮かべて、盛大なため息をついた。 「まさか、男にまで手を出してるなんて、思いもしなかったわ」 「おい、何を言ってるんや?」 「すごく綺麗な人ね。ほんとは、よりを戻すって言うまで攻めあげてやろうと思ったけど、諦めたわ。彼相手じゃ勝ち目ないもの」 「み、美奈……」 ぼうぜんと座り込む2人の男を部屋に置き去りにして、ぴしゃんと閉まった襖の向こうから、忍び笑いがいつまでも聞こえてきた。 「おい、康平。どういうことだ」 ディーターは、歯をむきだしてうめいた。 「なんだか、とんでもない誤解をされてしもたらしいな……。俺たちができてるって思ったらしい」 「すぐ追いかけていって、誤解を解いてこい!」 「待てよ。これはこれで都合がええ。なんか知らんが諦めてくれたらしいしな」 「よくもそんなことを! てめえ絶対に殺す!」 「ちょ、ちょ、タンマ」 康平は突然、吹きだした。畳に大の字に寝転がって、天に突き抜けるような大声で笑った。 ディーターは毒気をぬかれたのか、そばで片膝を立てて仏頂面をしている。 「なあ、ユーウェン」 涙をふきながら、康平は上半身を起こした。 「おまえ、ほんとうはいいヤツやな」 「なんだと?」 「今までおまえの言ったことが、どこまで本当なのかはわからない。たぶんおまえ自身にもよくわかってないんやろ。人間の心の中には巨大な迷路がある。ときどき俺も、自分のことがさっぱりわからんことがあるよ。 ましておまえはいくつもの人格を持っていたんや。気持ちが分かれるのも無理はない。 ただ、俺なりにわかったことがある。ユーウェン、おまえが円香ちゃんを愛してないっていうのは、嘘や。 俺も俳優のはしくれや。目を見れば本気かどうかはわかる。 おまえがあれほど腹を立てたんは、円香ちゃんのためやろ? 茜や他の女に、ほんの少しでも気持ちを残していた自分がゆるせない。そんな苛立ちがあったんやろ」 「……」 「もっと平和な人生を歩んでれば、おまえはけっこう俺と気の合う奴やったんやろうな。きっと友だちになれたと思うよ」 康平は立ち上がって彼に近づくと、ポンと肩を叩いた。 「さ、飲みなおしや」 倒れていたコップを握らせると、黄金色の液体を注いだ。 男たちは、そのままひとことも口を聞かず、夜更けまでただ淡々と酒を酌み交わした。 |
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