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Episode 19
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月明かりに照らされた室内は、銀灰色に染まったレリーフのようだった。 テーブルの上にロザリオを握りしめる手だけが、男の目にはくっきりと白かった。黒い喪服の女は立ち上がり、ドアの前の男に両腕を差し伸べ、かすかに笑った。 「来てくれたのね。パトリック。ありがとう」 「メアリーサ」 彼は女を抱擁しながら、その手の白さと美しさから目をそむけられなかった。 「まだ、死んだ者のために祈っていたのか」 「ええ、そうね」 女の声は、自らをあざ笑うごとく、吐息にかすれている。 「私はだめ。あの人が死んでから、一歩も前に進めない。時がとまってしまったようだわ」 「あんたには、まだ息子がいるだろう。あんたに似た綺麗な顔立ちの、利発な息子が。その息子のために強く生きようと思わないのか」 彼女はそれに答えずに、窓のそばに立った。 「この街を出たい」 おぼつかない自分の心を抑えるために、黒いストールの房をかきいだく。 「男たちの気のふれたような演説と、怒号と銃声の響く街。ここにいることは、あの子のために果たしていいことなのかしら」 「ベルファストを離れて、どこへ行くというんだ」 「外国へ。あの子の才能が伸ばせるような、平和なところならどこへでも」 「アイルランド人の誇りを捨てて、この国を捨てるのか」 「最後まで誇りを捨てなかったあの人は死んだわ」 華奢な首をかすかに振る。 「アイルランド人とイギリス人の融和を信じ続けたのに。患者が誰であっても分け隔てなく医師としての職務を果たしたのに。……その報酬は無慈悲な銃弾だった」 「あいつは、馬鹿だっただけだ」 男は口元を皮肉な形にひきつらせた。 「和解? 協調? 100年たってもありえないね、そんなこと。偽善者め。現実を見ない理想論ばかりぶちあげて」 「やめて。パトリック。コナーの悪口は言わないで」 「俺はあの男の何もかもが大嫌いだった。インテリだかなんだか知らないが、俺を見下げたようなそぶりで見やがって。わずか5歳の息子にまで、ドイツ語やフランス語を教えこむやり方は我慢できなかった」 「私たちがあの子に残せるのは、教育だけなのよ」 彼女は、悲しげに微笑んだ。「愛しい子。でも、あの子の好きなピアノも売り払わなければならないわね。もうこの家には住めない」 「メアリーサ、俺のところに来い。三人でいっしょに住もう」 「なに言ってるの! あなたはもうすぐアイリーンと結婚するのでしょう」 「結婚はやめる。俺は、あんたさえいれば何もいらない」 人の怖じるような沈黙を、彼女の震える声が裂いた。 「いったいどうしたの。パトリック……」 「俺はあんたが好きだったんだ。ずっと子どものころから」 「ああ、神よお赦しください。だって、あなたと私は……」 「愛してるんだ。メアリーサ。俺はあんただけをずっと見続けてきたんだ」 「いや!」 無理矢理ストールをはぎとったあとに、白いふくよかな胸元があらわになり、それを男の唇がむさぼろうとした。 「神さま! 神さま!」 女はあらがう。 熱情にうかされた男の手が、女の口をふさぎ、そこからなおも逃げ出そうとして身体をよじる彼女を狂気のように硬い木のテーブルに打ちつけた。 女は目を開いたまま、動かなくなった。 テーブルの上から、祈りのために灯されていたろうそくが倒れて床に落ち、女の裳裾に燃え移る。 男はそれを、氷のような瞳で見つめるばかりだった。 「メアリーサ」 彼はゆっくりとつぶやく。 「アダムとイブの息子カインは、アベルを殺してエデンの東に逃げたあと、妹と契りを結んだんだぜ。神が赦したもうたことを、なぜ拒む。あんな男より、俺のほうがずっとあんたを愛していたのに」 隣の部屋のベッドで眠っていた少年を胸に抱きあげると、いまや地獄の業火のごとく燃えさかる家から、夜の闇の中に出た。 「お母さん」 少年はくぐもった声でつぶやくと、腕を彼の首に回した。 寝ぼけて、母親と間違えているのだろう。彼女と同じ、そして少年自身と同じ、くすんだ金髪をした彼のことを。 「ダニエル」 「……パトリック叔父さん」 今度ははっきりと彼の名を呼ぶと、少年は翡翠色の瞳を開き、彼をじっと見た。そして小さな身体を伸び上がらせて後ろをふりかえり、ヘビの舌のように真っ赤な炎を吹き上げる窓を見つめた。 「お母さんは……?」 恐怖を刻みつけた声に覆いかぶさるように、 「心配することはない」 彼は少年のからだを、壊れるほどに強く抱きしめた。 「今日から俺がきみを愛してやるよ。ダニエル。……お母さんのかわりに」 |
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