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Episode 20
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俺は、消えたはずだ。 ディーターというひとつの人格に束ねられ、俺という存在は永久に形を失ったはずなのだ。 だが、意識はまだあった。 いつもは生暖かい思考の海の中で半分浮き半分沈み、自我をなくしてたゆたっているのに、時おり、ディーターの心が病み、感情をうまく処理できなくなってくると、俺は目覚める。 まるで、幕裾に隠れていた役者がいきなり舞台で主役のセリフを言わされる気分だ。 ある朝、ベッドから起き上がると、俺がこの身体を支配していた。 根性なしのガキは、また葛藤から逃げたのだ。 くそったれな義足をはめるのに10分ももたもたして、俺は思いつく限りの罵詈雑言を吐き出した。 握力が心もとないこの左腕も、この義足も、テロリストとしてはなんの役にも立たない。 いっそのこと、こんな身体は廃棄処分にして、誰かのからだを乗っ取れないものか。 服を着て部屋を出ると、キッチンにあの女がいる。 鼻歌を歌いながら、セロリかなんかを刻んでいる。 無防備で幸せそうな後ろ姿に、俺は苛立った。 女なんてよりどりみどりのはずなのに、なんで、こんな色気のない奴と結婚したのか。 この円香のいったいどこに魅力があるのか。いくら考えてもわからない。 「あ、ディーター」 立っている俺に気づいて、女は振り向いた。「おはよう。よかった、今起こしに行こうと思ってたとこ」 女の腹立たしいほど無邪気な笑顔を見ているうちに、俺の中にむくむくと、いたずら心が湧いてきた。 ディーターでいるふりをしてやろう。 そして油断しきったところに、手ひどく冷たい仕打ちをしてやろう。 こいつがそのとき、どんな顔をするか見ものだ。 「おはよう。円香」 俺は完璧な微笑をうかべて、彼女の背中に腕を回し、額にキスした。 ディーターがいつもしていることは見ている。それをなぞるだけでよいのだ。 「もう支度できるよ。食べる?」 「うん」 「じゃあ、顔を洗ったら、ごはんにしよう。コーヒー淹れておいてくれる?」 我慢して言われたとおりにした。 食卓にあったマグカップを取り上げてコーヒーを注ぐうちに、テーブルの上にはパン、サラダ、スープなどの皿が次々と並べられた。 朝から、こんなにたくさん食べろというのか。見ているだけでうんざりしてくる。 俺は必要最低限の栄養しかとらない主義なのだ。 「あ、ディーター、食前のお祈り忘れてるよ」 女は目をつぶり、透き通った声で慣れた文句を唱え始める。 俺はじっと、軽やかに動くその唇を見ていた。 これを、あのときと同様、嗚咽に歪ませてやりたい。 「いただきまあす。さっ、食べよ」 前に俺がこの体を支配したのは、もう2ヶ月ほど前になる。 アイリッシュウイスキーを買い込んで、しこたま飲んだあと、この女の見ている前でわざと、マンションのエントランスの扉のガラスを素手で打ち砕いた。 円香は、あわてて管理人のところに謝りに行っていた。 ふだんは穏やかなのに、ときどき人が変わったようになる外国人。このマンションの住人どもが、そう俺のことを噂しているのは、こいつも知っているだろうに。 そんなとき、横顔では悲しみに唇をひきつらせながらも、俺の方を向くととたんに、こどものような笑顔に戻る。 なぜこいつはこんなふうに笑うことができるのだろうか。 なぜジャニスのように、眉をひそめ黒々とした目いっぱいに涙をたたえて、俺をにらまないのか。 むかつく。 「ディーター、全然食べてないよ」 むくれたような女の顔が、俺をのぞきこんだ。 「藤江伯母さんに言われてるんだからね。もっと旦那においしいものを食べさせて、たくましい身体にさせるのが奥さんの役目なんやでって」 この阿呆。太ったテロリストなんかがどこにいる。 心の中で悪態をついたとき、自分がディーターのふりをしていることを思い出した。 「食べてるよ。ちゃんと」 あわてて、笑顔でとりつくろった。「このセロリ、美味いね」 「それ、キュウリだよ……」 「……」 「ははーん」 とたんに女は、にやりと笑う。「ユーウェンやね?」 「え?」 「ユーウェンなら、キャベツとレタスの区別も、セロリとキュウリの区別もつかない、味オンチやもんね。ディーターのふりしてたんだ」 「何言ってる。言い間違えただけだよ」 「ふうん」 「信じてくれ。俺はディーターだ」 「そうかなあ?」 円香は立ち上がってそばに近寄ると、 「じゃ、試してみる」 座っている俺の膝を椅子代わりに、いきなり口づけしてきた。 長く密度の濃い睫毛を伏せ、小鳥のような薄桃色の唇を開け、懸命に舌をからませてくる。 「やっぱり、ディーターじゃない」 俺から離れると、上目遣いでくすくすと笑った。 「だって、キスが下手やもん」 「……なんだと?」 ぼう然とした。 何十人もの女と寝た俺にむかって、キスが下手だと? キスだけで、女をイカせたこともあるのに。 「くそったれ」 俺は椅子を蹴って立ち上がり、円香を抱きすくめると、もう一度こちらから唇をむさぼった。 柔らかい頬の肉、上あご、歯の裏とていねいに舐めたあと、小さな舌をきつく吸う。 片手を頭のうしろに添え、すこし癖のある髪の毛を愛撫する。 「う……ん」 女の首筋が熱を帯び、全身からうっとりと力が抜けてくるのが、俺の手を通して伝わってきた。 あともう一息だ。 服の中に指を入れようとしたとたん、彼女は、あっと声をあげた。 「大変、もう大学へ行く時間。ごめん、ここでストップ」 そう言って、腕からすりぬけ、ばたばたと洗面所に駆け込んでいく。 俺は食卓の椅子にがっくりと腰を落とした。 情けないことに、俺の身体はしっかり反応している。 もしや、してやられたのは、こっちのほうか。 「ごめんね。昼過ぎには帰るから。食器の後片付け、お願いね」 身支度を整えた女は、リビングのドアを開け、玄関で靴をはきながら、ふりむいて大声で叫んだ。 「お皿、割らんといてよ、ユーウェン」 ……やはり、バレてた。 窓から朝の青空を見上げ、ため息をついた。 疲れた。へとへとだ。 こんなとんでもない女は、ディーターでもなければ、面倒見切れねえ。 |
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