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EWEN

Last Episode
Auf Wiedersehen


§1

 神戸の年末の風物詩、神戸ルミナリエ。
 震災の年から始まった光の祭典。もう今年で8回目になる。
 私は実はもう8回ここに来た。
 皆勤賞ものである。大学受験のときも欠かさなかったと家族に呆れられている。
 震災の年は、祖父と藤江伯母さんといっしょだった。
 次の年は、鹿島さん。もう私は完全に振られたあとで、かなりせつない思いをひきずりながら大きな背中についていったのを覚えている。
 ボーイフレンドと来たこともあった。初キスの相手。あいつはどうしてるんだろう。
 高校に入ってからは、もっぱら瑠璃子といっしょ。
 そういえば、恒輝がついてきたこともあったな。あのとき瑠璃子は恒輝を好きになったのかもしれないなんて、今になって思い当たる。
 ディーターと結婚して、今年が彼といっしょに来る2回目。
「また、あんな混雑したところへ」と嫌がる彼をなだめて、阪神元町駅で降りて会場に向かう。相変わらず身動きもできない人の波だ。
 ディーターは人ごみを嫌う。誰かに狙われると対処できないからという、元テロリストらしい理由からだ。
 私たちは、しっかり身体を寄せ合って仲町通りへ向かった。
 何百万の電球で飾られた壮麗な光の門。それに続くアーチ。
 あまりの美しさに、私はいつも息ができなくなる。
 震災で亡くなった人の鎮魂のため、家族を失い家を失い傷ついた心を背負って生きている神戸の人たちを慰めるため、この祭典は一回だけの予定が、多くの人たちの善意で資金難を乗り越え、今なお続けられているという。
「未来ちゃん」
 私は、長田の大火で命を落とした亡き友の名前を口の中で小さく呼んだ。
 東遊園地の会場で人の流れが崩れだしたとき、いきなりディーターは私の手を引っぱって、フラワーロードにかかる歩道橋を渡った。
「どうしたの」
 やっと人通りのすくないところに来ると、彼は私を抱きしめてキスした。
「急に、キスしたくなった」
「いつも、してるやん」
「今するキスは、いつもするのとは違うから」
 なんか、きざ。
 そう言って笑って、今度はこちらから彼にむしゃぶりついた。
 昨日は今日とは違う。明日は今日とは違う。
 いつ終わるかもしれない幸せ。いつ崩れるかもしれない平和な日々。
 なんだか、私たちはいつもそんな不安の分だけずっしりと重い毎日を送ってきたような気がする。
「ディーター、来年も来ようね」
 返事をしない彼の翡翠色の目をのぞきこんで、絶対逃がさない。
「50年後もいっしょに来るんやで」
「それまで生きてるかなあ」
「まだ73歳やん。私は70。孫とひ孫を10人くらい、カルガモみたいに引き連れて歩くの」
 ねえ、約束やで、ディーター。絶対に絶対に。
 そんな子どもじみたどうでもいい約束をいっぱい積み重ねたら、あの巨大な光のアーチのように天に届くに違いない。
 私はそのとき、そう信じていた。


 稽古納めも終わると、暮れはいつもになく静かだった。
 11月に行われた跡目披露のときに門下生総出の大掃除をすませていたため、ほとんどいつもの、年の瀬らしいことをしなかったこともある。
 しかし何よりも、父がいなかった。
「嵐の前の静けさ、っちゅうところやな」
 藤江伯母さんとふたりで、残っていた父の部屋の雑巾がけを終えて、しみじみと部屋を見渡す。
「正月明けの15日言うたら、もうあと3週間しかあらへんやん。それからは、もうずっとドイツに戻らんと、ここで暮らすんやろ。にぎやかになるでえ。あの男は、わが弟ながら人の倍はにぎやかしいからな」
 わが弟「ながら」というところが、伯母さんらしくておもしろい。
「またこの部屋で開業するって言ってた。しばらくは大騒ぎやね」
「これで、この家も納まるところに納まるわけか」
 伯母さんは天井を見上げて、ふーっと長いため息をついた。
 母が亡くなったあと、主婦のいないこの家を切り盛りして、父親も母親もいない私をずっと育ててくれた藤江伯母さん。
 大変だったろうな。やっと肩の荷が降りたのだろうな。
 私はことばにならない「ありがとう」を心の中で言った。
「あんたも覚悟しいや。これから夫と父親の板ばさみになって、いろいろ苦労せなあかんねんで」
 ふと伯母さんは、脅かすような目つきになった。
「板ばさみって何? お父さんとディーターのあいだってこと?」
「そう」
「そんな心配いらんよ。あのふたりはすっごく仲いいもん。私、昔ディーターがお父さんのことを私よりよく知ってるのを、やきもちやいたくらいやもん」
「それが、そうはいかんのよ、結婚するとな。娘をはさんでふたりの男が向き合う格好になってしまうんや。特にあんたは、ひとり娘でファザコンやからな。ご主人をほったらかしにせんように、気いつけや」
 うーん、ご主人ほったらかしは経験談だけに、説得力がある。
「だいじょうぶやて。万が一私たちの邪魔したら、お父さんなんかポイって粗大ゴミ置き場に捨ててやるもん」
「円香ちゃんに子どもでも生まれたら、万事うまく行くんやけどなあ」
「なんで?」
「孫が生まれると、娘より孫のほうが可愛くなってしまうんや。特に男の子なんて生まれたら、惣のやつ、メロメロやで。おだてたら一日中子守してくれるわ」
「あはは。お父さんがおじいちゃんやって。おっかしい」
 私は父の子守姿を思い浮かべて大笑いしたが、まさかそれが本当になるとは、そのときは思いもしなかった。


 2003年の元旦は、おだやかな晴天に恵まれた。
 古色蒼然とした、大きめの塗りのお重は、藤江伯母さんと3日がかりで作った黒豆、ごまめ、くわい、紅白と焼きかまぼこ、卵焼きとお煮しめなどが彩りよく詰まっている。お雑煮は大根、ごぼう、里芋と焼き豆腐が入った白味噌仕立て。丸餅を2個ずつよそって出来上がり。
 藤江伯母さんと聡伯父さんは、帰省したふたりの息子たちと自宅で過ごす。
 今年はおじいちゃんとディーターと3人だけの祝いの膳だ。
 1日お酒を飲んでいてもいい日だとバカ親父に吹き込まれたらしく、このヘンな外人の旦那さまはお正月が大好きだった。
「あー。朝からずっと……飲み続けだったな」
 お酒に関しては底なしのはずの彼も、さすがに昼過ぎに音を上げて、畳の上に仰向けに寝転んだ。眼が心なしかうるんでいて、すごく色っぽい。
 でも、確かに私もみぞおちのあたりがムカムカする。なんだかんだ言ってずっと食べてたせいかもしれない。
「酔い覚ましに、外へ行こう」
 と私は、無理矢理手を引っぱって彼を誘った。「えべっさん!」
 西宮えびす神社は、うちから歩いて15分くらいのところにある。商売繁盛の神さまだ。
 縁起物の笹を買い求める人で身動きもできない「十日えびす」と違って、元旦の昼はそうたいした混雑でもない。
 「開門神事」で福男を賭けて大勢が駆け抜けることで有名な参道の両側には、ぎっしりと露店が立ち並んでいる。 お好み焼きに焼きリンゴにベビーカステラ。陶器市に射的。トルコの回転焼肉の実演販売まで、何でもある。
 カトリック教徒なのでもうお参りはしないけれど、私はこういう雰囲気が大好きだ。
 露店めぐりに飽きると、人ごみを避けてゆっくりと境内を散策した。おばあさんが、小さな祠の前で熱心に拝んでいる。樹齢数百年のクスノキの、濃い緑に染まった空気を思い切り吸い込むと、心なしか生き返ったような気がする。
「あ、ふるまい酒がある」
「だめッ、まだ飲むつもりやのん?」
 だいたい何でそんな日本語知ってるのだろう。まったく、時代劇の殺陣師なんて職業をしてると、日本人のほうが負けてしまう。
 本殿の扉の前のお手水場で、大勢の人がひしゃくで水をくんでいる。
「ここで参拝する前に、口と手をゆすぐんやで」
「カトリックの聖水盤と似てるね」
 ディーターは、大勢の人が参拝する後姿を見つめて、小さくつぶやいた。
「本当に罪が、水で洗い流されたらいいのに」


 2日は新師範の鹿島さんも朝から来て、年始回りの門下生たちの挨拶を受ける。茜さんと藤江伯母さんも手伝ってくれたけど、こいつらの食べる量が半端じゃない。
 帰る頃には、重箱も用意したおつまみも空っぽ、ビール瓶が台所の隅でボーリングのピンのように並んでいる。
 毎年これで、今年の正月も終わったなあと実感するのだ。
「円香? 顔色が悪い」
 ディーターが心配そうに声をかけてくれる。
「だいじょうぶやて。今年は茜さんがほとんど仕切ってくれたし」
 とはいえ、ちょっとふらふらしているのが自分でもわかった。熱っぽくってだるい。
 でも疲れているくらいにしか考えなかった。小さいとき喘息だったことを除いては、もともとほとんど病気にかかったことがない体質だ。
 いつのまにかだるさにさえ慣れてしまったまま日々が過ぎ、13日の成人式を迎えた。
 去年の秋20歳を迎えたばかりの私は朝から大騒ぎで、近所の古い知り合いの美容院で髪を結ってもらい、振袖を着つけしてもらった。
 振袖は、東京の多賀子伯母さんの娘がおととし成人式だったときに着たものを借りたのだ。薄紅色に綺麗な鶴の柄を染め抜いて、なんと100万円かかったという。
「ディーター、今何を考えてるか当ててあげようか」
「なに?」
「日本の女の子と結婚してよかったなあ。こんな美しい民族衣装姿を見れてって、しみじみ思ってるやろ」
「……」
「そこで何とかつっこんでよ、まったく」
 成人式の会場に行く前に、瑠璃子と落ち合った。彼女はお正月の帰省を諦めて、この日のためにわざわざ東京から帰ってきたのだ。
 大人っぽい濃紺の振袖でばっちり決めている。すごく綺麗。
 恒輝が、デジカメを手にエスコート役でついて来ていた。
「円香、おまえ詐欺やぞ。振袖は未婚の女が着るもんやろ」
「ほっといてくれる?」
 瑠璃子と恒輝は手はつなぐは、写真を撮り合うは、荷物を甲斐甲斐しく持ってあげるは。
 なんともアツアツの恋人同士らしくて、ちょっとうらやましい。結婚すると、こういう初々しさがどんどん消えていくような気がする。
 ディーターの運転する車で鳴尾浜に着くと、男たちには近くで待っていてもらって、瑠璃子と私は成人式の会場である県立総合体育館の中へ入った。
 会場には、長い間会わなかった小学校や中学校のときの友だちがいっぱいいて、式典が始まるまできゃーきゃー騒いでしまった。
 こうやって並ぶと、震災のわずか2ヶ月後、校庭で小学校の卒業式をしたことを昨日のことのように思い出す。みな、それぞれの8年間を送ってきたのだろうなと、胸がじーんと熱くしびれる。
 待ってくれているふたりに悪いので、祝賀会の切れ目を見計らって、瑠璃子とこっそり途中で抜け出した。
「まだ晩飯には早いし、カラオケでも行こうや」
 当然とばかりの恒輝の提案に、
「ごめん。悪いけど一度家に戻らへん? なんだか着物がきつくって早よ脱ぎたい」
 私は、生唾を何度も飲み込みながら、そう言った。
 体調が悪いことを本格的に自覚したのはこのときだった。


§2につづく


     
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