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§1にもどる §2 その夜、私は夢を見ていた。 本棚から崩れ落ちた本の山の中でもがいて、やっとのことで抜け出した。 ゆがんだ障子を開けると、あたりは真っ暗。庭を照らしているはずの庭園灯もなく、石灯籠が無残に崩れ落ちている。 「ディーター」 実際には祖父の名を呼んだのだが、夢の中で私は彼の名前を呼んでいた。 必死になって、無我夢中で、どこにもいない彼を捜して家中駆け回った。 「円香」 彼の声がして、はっと目が覚めた。 あたりは同じように真っ暗だったが、ベッドの隣でディーターが心配そうに私を見ているのがわかる。 もう明け方らしく、小鳥のさえずりが遠くで聞こえた。 「ごめん、私、大きな声出した?」 「ううん。ただ少し、泣いてた」 「震災の日の夢見たの」 ときどき私はこうなってしまうらしい。起きてるときはほとんど思い出さない阪神大震災の恐怖が、寝ているときに解き放たれてしまうのだ。 ディーターは背中からぎゅっと私を抱きしめてくれた。 醜くひきつれた背中の火傷の跡を、何度もいとおしそうに口づける。 「あったかい」 「ディーターのからだのほうが冷たい。私は湯たんぽがわり?」 「うん。ユタンポ」 彼は私をくすぐるように耳元で笑った。 「円香のキモノ姿を見て、本当はどう思ってたかわかる?」 「ううん」 「円香は何も着ていないときが、一番いい」 「ばか。えっち」 腕の中でもがいて抗議すると、冗談めいていた彼の声が、いきなりひどく真剣な調子に変わった。 「……本当に熱い」 「え?」 「いつもより身体が熱すぎる。もしかして、熱があるのか?」 私たちは顔を見合わせた。 あたりが明るくなってから体温計で測ると、私は7度2分の熱があった。 「伯母さん。風邪ひいたみたい。薬あったかなあ」 実家に戻って、掃除に来ていた伯母さんにそう訴えた。 「どないしたん?」 「微熱がある。今測ったら6度9分やねんけど、なんかむかむかするし。あ、これ飲もうかな」 居間の箪笥の引き出しから解熱薬を取り出した私に、あーっと大声で叫びながら、伯母さんが廊下から突進してきた。 「結婚したら、むやみやたらに薬を飲んだらあかん」 「え? なんで?」 伯母さんは、ぺたんと座ると私を真正面からじろじろ眺めた。 「あんた、避妊してるの?」 「え?」 私は、伯母さんの言おうとしていることをやっと理解した。 「あの、このところは全然……」 「生理、最後はいつやったん?」 「わ、忘れた……」 伯母さんは、おおげさに頭をかかえてしまった。 「ああ、気いつけとけばよかった。あんたにちゃんと教えたやろ。カレンダーにちゃんと丸つけときやって」 小学生の頃、母親のいない私のために、伯母さんは生理の始末の仕方とか避妊のしかたとか、いろんな性教育をしてくれていた。生理の日を手帳に記録することは、教えどおりきちんとやっていたのだ。 このところ忙しさにかまけて、つい忘れてしまっていた。 「円香ちゃん」 伯母さんの怖い顔が、アップで眼の前にぶらさがる。 「夕方でも明日の朝でもええ。とにかく産婦人科へ行って調べてもらってき」 次の日、私はディーターと、近所の産婦人科の前に立った。 「おねがい、伯母さんがいっしょに来て」 という私の懇願に、藤江伯母さんは意地悪気に首を振るだけだった。 「子作りは夫婦の共同作業やで。旦那についていってもらい」 ところが私の頼みならたいてい聞いてくれるディーターも、今度ばかりはどんなに拝み倒しても、絶対イエスと言わなかった。 「だって、産婦人科って待合室は女ばっかりだろう? いやだ」 「そんなことあらへんって。この頃ラマーズ法が普及して、日本でもご主人が出産に立ち会うようになったんやで。きっと男の人もいてるって」 と説得すること一時間。 その産婦人科は、母が私を産んだ、昔からの由緒ある病院だった。 もちろん、私を取り上げた老先生は引退して、今はその息子さんが引き継いでいる。 「やっぱり……」 病院のドアから、ひとりのお腹の大きな女性が出てくるのにばったり出くわすと、とたんにディーターは逃げ腰になった。 「ここで待ってるから。円香ひとりで行ってくれよ」 「だめっ。ひとりやったら心細い。婦人科の検診て、こんなに大きく脚を広げて、お医者さんがあそこに指を突っ込むんだよ。瑠璃子が言ってた」 「……」 「ここ、若い男の先生やで。いやや、そんなの。大声で叫んだらすぐ助けに来てくれる所にいてほしいんや。ねえ、お願い」 あとから考えたら、路上で何と恥ずかしい会話をしていたのだろう、私は。 でもそのときは、そんなことも気づかないくらいパニくっていたのだ。 病院のドアを押す。 10畳ほどの待合室にいた4、5人の視線がいっせいに私たちに集まった。 無理もない。 長髪長身の白人男と、小学生と見まごうほど幼い顔立ちの私。 訳ありカップルではないと思うほうがむずかしい。 しかも待合室にいた全員が、女性だった。 「……帰る」 きびすを返しかけたディーターに必死でとりすがる。 「いやや、待って。私をひとりにすんの? お願い。見捨てんといて」 ああ、これじゃまるで演歌の歌詞だよ。 私を残していくのがよけいに恥ずかしいことに気づいたディーターは、しぶしぶ靴を脱いだ。 好奇の視線を痛いほど浴びながら、私たちはとにかく受付の窓口に向かう。 「あの、あの、初めてなんですけど、妊娠の検査を……」 「はい、わかりました。この問診表に記入してくださいね。それと、先にこのコップにお小水を採ってきてください。あそこがおトイレですから」 私は検尿を済ませ、それから問診表の答えを書き込んでいった。 「ねえ、『最後に生理があった日』っていつやったっけ」 「し、知らないよ」 「あのね、確か11月、ディーターはプログラムの〆切に追われてたやろ。それがやっとすんだって日、私はちょうど始まっちゃって。あのときディーターてば……。それでその晩は……」 私たちが顔をよせて、きわどいひそひそ話をしてる間、そばの長椅子に座っていた50歳くらいのおばさんが、思いっきり身体を傾けて聞き耳を立てている。 やっと合議で日にちが確定して、受付に紙を提出。 40分くらいで私の番が来た。私は泣きそうな顔をして、ひとりで診察室に入った。 触診は、覚悟していたほど悲惨なものではなかった。 看護婦さんがリラックスするように話しかけてくれたし、カーテンで互いが見えないように配慮されていたし、不快を感じないように温めた器具を使ってくれた。 診療机の前の丸椅子に腰かけると、白衣のお医者さんはカルテにじっと目を落としてから、クイズ番組の司会者とは程遠い、もったいぶらない調子でさらりと言った。 「触診で、子宮が大きくなっていました。尿の検査でも陽性ですね。間違いなく、妊娠してらっしゃいます。9週に入ったところです」 「ほんとですか」 「結婚してらっしゃるのですね。このままで行ってよろしいでしょうか」 中絶の可能性も考えているのだろう。微妙な言い方だと感じた。 「はいっ、もちろんです!」 「おめでとうございます」 とたんに部屋の空気がやわらかくなる。そばにいた看護婦さんがにっこり笑ってそう祝福してくれた。 生活の注意を受け、次回の検診日を決め、母子手帳のもらい方やこれから揃えるものについて書かれたプリントを受け取ると、ぼんやりした面持ちで部屋を出た。 待合室で座って待っていたディーターの顔を見たとたん、喜びが一気に身体を駆け上り、私は愚かにもVサインを出してしまっていた。 §3につづく |
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