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EWEN

Last Episode
Auf Wiedersehen


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§3

「どないしよう」
 私たちは、病院の帰り近くの喫茶店に入った。冬の柔らかい陽光に包まれている窓辺の、ハンギングバスケットを見つめてため息をつく。
「どうって?」
 向かいのディーターが、カップを口から離して、不思議そうに尋ねた。
「予定日が8月の終わりやって。大学どうしたらええかなあ。やっぱり休学せんと無理やろうな」
「1カ月くらいは休めるだろ」
「10月の頭から後期が始まるんや。でも、1カ月半じゃ赤ちゃんはまだ首もすわらへん。藤江伯母さんにずっと子守を頼むのってあまりに虫がよすぎるし、お父さんは、話にもならへんし」
「俺じゃだめかな」
「え?」
「大学に行ってるあいだは、なるべく俺が面倒を見る。後期で取る講義を1日2、3時間にしてくれたらなんとかなる。いざとなったら、大学まで連れていけばいいんだし」
「だって」
 私は冗談だと思って大笑いしようとしていたのに、彼は真剣そのものだった。
「ディーターかて、仕事がいっぱいあるのに」
「プログラムの仕事は、少しずつ減らしていこうと思ってた。こないだ知り合ったインド人のプログラマーのチームが、いっしょにやってもいいと言ってる。彼らに今やってる仕事のかなりの部分を分担してもらえることになりそうなんだ」
「下請けってこと?」
「まあ、そうかな。収入は減るけど、2、3年生活するくらいの余裕はある。
京都の撮影も、鹿島さんに手伝ってもらって、できるだけ少なくするよ。泊まりは絶対に引き受けないようにする」
 ディーターのよどみない口調に、私ははっと気づいた。
「もしかして、ずっと前から考えてくれてたの?」
「避妊をやめたときから、いろいろね」
 彼の金髪が、窓越しの光を背に受け、きらきらとまぶしく輝いて見えた。
「円香には勉強を続けてほしいし、生まれてくる子どもはふたりの子どもだから、誰にも頼りたくなかった」
「……だって、病院で赤ちゃんができたって知ったときは、あんまりうれしそうやなかったのに」
「病院の中では、あまりうれしそうにしてはいけないんだ。まわりには病気の人もいる。それにもしかすると、悲しい気持ちで来た人もいるかもしれない」
 目じりがふくらんだように熱くなってくるのを止められなかった。
 私は浅はかにも、はしゃいでしまった。自分の幸せだけに酔って。まるで子どもだ。
 私に比べて、ディーターはなんて大人なんだろう。病気をして苦しんだ分、彼は人に優しくすることができる。
 そして、私が何も考えていなかったときも、彼は新しい命や私の大学生活のことまで考えていてくれたのだ。
「ごめん、ありがとう、ディーター。赤ちゃんの世話いっぱい頼むけど、よろしくお願いします」
 神妙に下げた私の頭を、彼はテーブル越しにくしゃくしゃっと撫でて、笑った。
「そのかわり、俺が育てるからには、子どもの母国語はドイツ語にする。家の中では、ドイツ語だけを使うこと」
「え? え? そんなあ。私、何にもしゃべらんとずっと黙ってなあかん」
「それが狙いだったりして」
「うわーん」
 私はそのとき、幸せだった。
 人間の一生にもし幸福の総量が決められているとしたら、私はそのとき一生分の幸せを使い果たしていたのだろう。
 その夕方、ディーターと私は関西空港へ向かった。
 駐車場に車を止めて、一階の到着ゲートの前で、ふたりで並んで待つこと十数分。
 中からたくさんの荷物といっしょに、父がいつものように何かに突進するような歩き方で出てきた。
 お父さん。
 大声を出しかけて踏みとどまった私は、ちょっとポカンとした顔をして近づいてきた父を、こう呼んだ。
「おかえりなさい。おじいちゃん」


 私のつわりは、まるで存在理由を得たかのように激しくなった。
 台所に入ると、ごはんを炊く匂いだけで、もうだめだった。
 肉や魚を焼いたり、野菜を煮たりする匂いでも、むかむかと吐き気がこみあげてくる。
 特に朝は、ベッドから起き上がったとたんに洗面所に直行する始末だった。
「ごめんね、ディーター。朝ごはん作れないで」
 吐くものもなく、涙目になってタオルで口を押さえてかがみこんでいる私の背中を、彼は黙ってさすってくれた。
 いつもは優しい藤江伯母さんも、私のていたらくに少々おカンムリだ。
「円香ちゃん情けないで。わたしなんか若いときは誰も助けてくれへんから、吐きながらごはんの支度しとったんやから」
 女性は出産と子育てのことになると、後輩にけっこう容赦ない。
「あんたは「甘えた」やから、あかん。ディーターみたいな理解ある旦那さんやなかったら、とっくに浮気されとるで」
 とにかく空腹にならないように1日何回かに分けて、さっぱりしたものや匂いのないものを食べること。
 伯母さんのアドバイスに従って、私はベッドの横に果物やお菓子を置くことにした。寝ながらリスみたいにぽりぽり食べ続ける姿は、我ながら自堕落主婦だ。
 父は、帰国したとたん私の妊娠を知って、当初は茫然自失していた。
 だろうね。48歳にしていきなり「おじいちゃん」と言われたら、誰だってたまげる。
 気を取り直すと、今度は過保護親父に大変身してしまった。
 大学に行こうとすると、「おい。坂道はだいじょうぶか。そんな重いカバン持てるんか」と、父らしからぬ慌てぶりを見せる。
 今まで医者として父親として、厳しい姿しか見てこなかっただけに、こんな父を見るのはすごくうれしい。


 道場でも、私の妊娠は中休みの格好のお茶の話題になった。
「まったく、子どもが子どもを産むなんて、なんか間違っとるなあ」
 恒輝が私をじろじろ見て、おおげさにため息をついてみせる。
「師範代と円香さんの子どもなら、ハーフってことですよね」
 慎也が目を輝かせた。
「かわいいんだろなあ」
「これで男の子なら、康平とディーターのあとを引き継ぐ、16代目葺石流師範の誕生ってことになるんやけどな」
 元プロレスラーの矢島さんが、気の早いことを言い出した。
「男の子か、円香ちゃん?」
「そんなのまだわかりません。超音波で見ても、こんな豆粒くらいですよ」
「女の子なら、また強い男を世界中から捜してきて、結婚させて跡継ぎにしたらええんや。な、ディーター」
「え?」
 彼はぽかんとした顔で、ふりむく。「あ、ごめん。聞いてなかった」
「こいつ、早くも幸せボケしとるで」
 恒輝がふざけて、全体重でのしかかった。
「後半は立ち切り稽古にして、徹底的に新米パパをいじめてやろうぜ」
 2月に入って、大学も休みになり、ようやく私は一息ついた。
 つわりは相変わらずだが、少し折り合えるようになってきたみたいだ。微熱が出てだるかった状態から脱したこともある。
「西宮北口に、赤ちゃん用品の専門店があるんやて。明日いっしょに行こうって、お父さんに誘われた」
 実家からマンションへの夜道、私はディーターの腕にぶらさがるように歩いた。
「ベビーカーやベッド、全部向こう持ちでそろえてくれるみたい。気がはやいよね」
「そうだな」
「でも喜んでるよ、お父さん。なんか、にやにやひとり笑いしてるし。少し安心してるみたい。9年ぶりに日本で暮らせるし、私たちも元気でやってるし」
「うん」
「ディーターもお父さんがそばにいてくれたほうがほっとしない? 具合悪くなったらすぐ見てもらえるし。……でもそんな必要ないか。この頃、調子いいよね。全然頭も痛くならないみたいやし。ユーウェンも出て来ないし」
「うん」
「ああん、もう生返事ばっかり!」
 強引に彼を振り向かせた。
「ねえ、ダニエル」
 私がそう呼ぶと、彼はいつもいたずらっ子がむくれたみたいな顔をする。
 ディーターの本名。今はもういない彼のお父さんとお母さんがつけてくれた、アイルランドの名前。
 誰も回りにいないふたりっきりのときだけ、私はその名前を使う。彼の少年みたいに恥らう顔見たさに。
「……なに?」
「大好きよ」
 私は爪先で立って、彼の首に手を回した。


§4につづく


     
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