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§3にもどる §4 一週間ほどおとなしくすると、ドクトル・フキの人騒がせの虫が、またむくむくと頭をもたげ始めた。 「見ろよ。『葺石クリニック』ウルトラバージョンの大改装工事計画や」 模造紙にマジックで描いたへったくそな設計図を、居間の座卓の上に広げる。 「どうや。ガラス張りのサンデッキに四季折々の花を咲かせるパティオ。心に痛みを覚える患者のヒーリングスペース。最新設備を備えた診察室は、プライヴァシーを考慮した3層構造や」 まるで、どこかのインチキリゾートホテルのうたい文句だ。 「……どこから、こんな改築費用が出てくるの。まだ震災のときの補修の分も残ってるのに」 「まあ、なんとかなるやろ。名医・葺石惣一郎の名前を出せば、銀行もがっぽがっぽと貸してくれるわ」 「それに、惣、こないな広い土地どこにもあらへんで。どこに作るの」 「はは、それは道場の隅っこをちょっとつぶしてやな」 「あきません!」 祖父と鹿島さんが怖い顔で異口同音に叫ぶ。 父が戻ってからというもの、葺石家はとんでもなく賑やかになった。 旧友や医者仲間を呼んで、同窓会をする。鍋パーティーをする。 父はバカ騒ぎをする天才だった。いつも誰かがうちの家を訪れている。 「お父さん。ケルンに帰ってくれる?」 私もついに堪忍袋の尾が切れた。 「ケルンは今頃静かでええ街になってるやろな。みんな、お父さんがいなくなってお祝いしとるわ」 「円香。それが9年ぶりに帰って来た父親に向かって言うことばか?」 「ああ、胎教に悪い。生まれる子がこんなアホな子になったら、どないしよう」 「まったく、なんちゅう娘や。前よりもっと気が強くなったな。苦労するな、おまえも」 父はしみじみと、婿にいたわりの言葉をかける。 「どうや。帰ってきてからゆっくり話もできなかったから、今晩飲みに行かへんか?」 ディーターは、困ったようににっこり笑った。 「すみません。今急ぎのプログラムの仕事が入ってて。今晩中には何とかしたいんです」 そう言って、彼はすっと父の横をすりぬけて行ってしまった。 私は、一瞬ぽかんとした。 なんとなく、彼が父を避けているように思えたのだ。 父もそう感じているのか、変な顔をしている。 私は藤江伯母さんのことばを思い出した。夫と父親のあいだには、どうしても消せないわだかまりがあるのだと。 やっぱりそうなのかな。男はいったん家庭を固めてしまうと、妻の父をうっとうしく感じてしまうのだろうか。 なんだか、ちょっと寂しい。 「円香ちゃん」 鹿島さんが廊下で私を呼び止めた。 「ディーター、なんかあったんか?」 「え?」 「ちょっとこのところ、集中力がないというか、剣の冴えが見えんのや」 「ああ。もしかするとこの頃、あまり寝てへんかも」 「仕事、急がしいんか」 「私の出産までに新しい人に引き継いでしまいたいって、やりかけのプログラムを急いでるみたい。ずっと夜、隣の部屋で仕事して、そっちで仮眠してるもん」 「……」 「それに、少しいらいらしてるのかな。また煙草吸うようになったらしい」 「煙草? ディーターが?」 「ベランダで吸ってるみたい。ライターが置いてあったし、毎朝、煙草の匂いするし」 「……らしくないな」 「そうかな」 「妊娠中は、いちばん煙草の煙に気をつけなあかん時期や。いくらイラついてたかて、ディーターならそういうこと、真っ先に考えるやろうに」 「うん……」 それからまもなくして、鹿島さんは私にこう報告してくれた。 「俺からも少し言うといたからな。あんまり頑張りすぎんようにって。だから、円香ちゃんは心配しなや」 「ありがとう。鹿島さん」 私はほっとして、そのままそのことを忘れてしまった。 2月も後半に入ると、ようやく私のつわりも収まって、医者にも安定期に入ったといわれた。 お腹はほとんど目立たないが、念のために今までのパンツスタイルをやめて、ゆったりとした服を着るようにした。 体調もみちがえるくらいよくなり、妊娠前よりも元気になったくらいだ。 それまで流産を恐れてできなかった家事も、積極的にやった。 春休みになったので、私は机や本棚の、大学の資料や本類を整理する作業にとりかかった。 とにかく、子供用の部屋を一部屋確保しなければならない。2LDKの我が家では大胆にものを捨てていかなければならないのだ。 「ねえ、ディーター、そっちのダンボール箱とって」 「あ、ああ」 「これで、ここの本棚は空っぽになるかな。どう思う? ベビーベッドはここに置けばいいよね」 返事がないので振り向くと、彼は何も聞いていないように見えた。 「ディーター? ベッド。どこに置く?」 「ベッド? 何の?」 「赤ちゃんのだよ」 「誰の赤ちゃん?」 一瞬、全身の血が逆流した。 「私たちの赤ちゃんに決まってるやんか!」 彼の薄い色の目がゆっくりと焦点を結んだように見えた。口唇がしまったと言うように開いて、それから悲しそうに歪んだ。 「あ……、ごめん。考え事をしてた」 「どうしたの。ディーター、なんかこの頃ちょっと変」 「ごめん、なんでもないから」 「お父さんに、診てもらったら?」 「……」 「ディーター?」 「わかった、そうするよ」 消え入るような声でつぶやくと、彼はそのまま隣の寝室に入ってしまった。 ディーターがおかしい。 漠然とした不安をかかえながら、私は実家の父のもとに向かった。 「なんや、円香」 「あのね、お父さん」 父の私室兼診察室に入って、どう切り出そうか思いあぐねる。 ふと父の顔を見ると、机の上の書類や私の手元にさまよう目がしょぼしょぼしている。 老けた。まるで父ではないみたい。 そういえばこのところ、父の大きな笑い声を聞いたことがあっただろうか。 「円香」 絶句している私を待ちかねて、父のほうが口を開いた。 「おまえ、もう妊娠5ヶ月やったな」 「うん」 「医者はどう言ってる。安定してるってか?」 「再来週また診察に行くけど、だいじょうぶやと思う。順調に発育してるって」 「そうか、それならちょっと嫌な話をせなならんねんけどな」 「え?」 「怒ったり怒鳴ったりせんといてほしいんやけどな。赤ん坊の胎教のためにもな。約束できるか?」 まるで、気の進まないことを打ち明ける人の、ゆっくりしたしゃべりかた。 私は黙ってうなずいた。 「ディーターに、俺の使いでドイツに行ってもらいたいんや」 「ええっ?」 「どうしても調べなならん資料が大量に必要になった。俺は知ってのとおり、4月末からの開業をめざして、目の回るような忙しさや。 ディーターなら、ドイツ語や英語の専門書をすばやく読みこなして、俺の指定した資料を的確にそろえることができる。 かなり複雑な調査やから、1ヶ月か2ヶ月はケルンにじっくり腰をすえて取り掛かってもらいたいんや。そのあいだは、聖ヘリベルト大の男子寮の空き部屋で暮らしてもらうことになってる」 「なってるって……」 私はあえいだ。 「何にも聞いてないよ」 「だから、今話してる」 「でも、ディーターは……」 「もうOKしてくれた」 私は立ち上がろうとしたが、力が入らずに元どおり座りなおした。 父の話が理解できない。 「ディーターは忙しいんやで。夜も寝ないでプログラム作ってるし、太秦の撮影はあるし、稽古かて、鹿島さんが出張でいないときは毎日ひとりでこなしてるんやで」 「プログラムのほうはあとを引き継いでくれる人をさがして、もう任せる手はずが整ったと言うてる。テレビの撮影スケジュールは、康平くんだけでなんとか埋められるように調整してもらった。稽古は、親父にまたしばらく復帰してもらうことにした」 「なったとか! したとか!」 私は、ついに怒鳴り始めた。 「おじいちゃんも鹿島さんも、みんなでそんな話をしとったの? なんで私だけが知らんかったん? そんな大事なこと、ディーターはなんで相談してくれへんかったん?」 「落ち着け、円香」 父はなだめるような静かな瞳で、まっすぐに私を見つめた。 もうこれ以上隠せないと、覚悟したのだろう。 「いいな。落ち着いて俺の言うことを聞いてくれ」 「うん……」 「ディーターは、今悪い状態にある」 「……そうなんや」 覚悟は、していた。 「おまえは、彼の太ももの内側に古い火傷の跡がいくつもあるのを知っとるやろ?」 「うん、ひどいやつ」 彼を子どものころ虐待していた実の叔父が、煙草の火を押し付けて折檻した。そのときから消えない傷だ。 「おまえたちは、1ヶ月以上、互いの身体を見ていないな」 私は一瞬、ぽかんとした。そして、次第に震え始めた。父が何を言いたいのか、ぼんやりとわかってきたのだ。 「私のつわりがひどいから……。流産の危険もあるし、安定期に入るまではやめようって」 「俺は、2月になってはじめて、ディーターの診察をした」 父は、私を見ているのがこらえられなくなって、自分の膝に視線を落とした。 「どんどん増えているんだ、からだじゅうに新しい火傷の跡が」 §5につづく |
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