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§4にもどる §5 「どうして……。誰が」 「自分でやったと言ってる。叔父が虐待したのと同じことを、自分で自分の身体にしたと」 私は毎朝、ベランダで煙草の灰が落ちているのを思い出した。ディーターはあそこで自分の身体に煙草の火を押し付けていたのか? 「なんで……」 「リストカットを知っとるやろ。あれと同じや。頭が真っ白になって、訳がわからなくなる。痛みで自分を取り戻す。しまいには、消えていきそうな自分の存在を確かめる一種の儀式にさえなってしまう」 「ディーターは……」 「はじめから、話そう」 父は前かがみになって手を組んだ。額に、白いものの混じった前髪がはらりと落ちる。 「ディーターは、一度人格統合に成功した。したかに見えた。でも子どもの頃の記憶の多くはまだ取り戻されないままだった。事実としては受け止められるが、実体験としての記憶がない。 おまえも出会ったことがあると言ったな。全部の記憶を管理するという父親の人格に。 その人格がまだすべてを思い出すことをとどめていると」 私はうなずいた。あれは、ケルンのグリュンヴァルト博士の墓の前だった。「見守る者」はディーターの肉体の中から私に現れて、いろいろなことを告げたのだ。 「それは、正しいことやったと思う。あの虐待の記憶を生々しく思い出すことは、極限の苦痛を生み出したやろう。思い出せないことが彼のためになる。俺たち医師もあえて、催眠治療などで記憶を引き出すことはしなかった。それが……」 父は大きく嘆息した。 「ここへ来て、ディーターはすべてを思い出しつつある」 「え?」 「子どものころの記憶すべて。毎日毎夜の止むことのない虐待の記憶。新しく生まれてくる赤ん坊のことを俺たちが楽しそうに話すたびに、あいつはフラッシュバックで次々と、自分が幼いころ受け続けてきた肉体と心の苦痛を味わっていたんや」 「私が妊娠したことが……、記憶がよみがえった原因やったの?」 「ひとつのきっかけであったことは確かや。 ディーターもおまえも、子どもが生まれることを心から望んだ。だが、次第にあいつは自分の心にひそむ恐れに気づき始めたんや。 ほんとうに自分は、子どもの存在を受け入れることができるだろうか。叔父から受けた虐待を真似て、自分も、生まれてくる赤ん坊を虐待してしまうのではないか。 否定しようとした。 仕事を減らして、積極的に子育てに関わることを計画して、子どもに愛情を持っていると自分に言い聞かせることに必死だったと、あいつは言っていた。 でも、そうすればするほど、追い詰められ、精神的に破綻していった……。その代償として、毎夜自分のからだに罰を課すことを日課とするようになってしまった。 このままでは、だめだ。それで俺はディーターをケルンに戻すことに決めたんや」 父は喉をつまらせて、唐突に口をつぐんだ。 ああ。 私は何も知らなかった。 父が彼の異変に気づき、治療を行いながら、これからのことを鹿島さんや祖父と相談しているあいだに、私だけがうかれて、はしゃいで、親子3人の生活への希望に胸膨らませていたのだ。 「みんな、このこと知ってるんやね。おじいちゃんも鹿島さんも。藤江伯母さんも……?」 「ああ、最初に気づいたのは姉さんやったんや。ディーターの食べる量が極端に減ってきてること。おまえはつわりで、食卓をいちいちチェックしとる余裕はなかったやろう」 「ずるい。私だけいつも、何にも知らせてもらえない。昔からそうやった。大きくなったって何にも変わってへん。私だけのけ者で」 「あほか、おまえは。おまえは大事な身体やねんぞ。安定期に入るまではと、みんなに緘口令を敷いたのは、この俺や。藤江姉さんかて、どんなに毎日陰で泣いとったか」 「伯母さんがわかってたのに、奥さんの私がディーターのことを何にも気づかなかったなんて。私だけ、私だけ……バカみたいに!」 「円香、やめろ」 「いやあああっ」 私は何もかもわからなくなって、叫びだした。父が私の両腕をつかんだ。 「なんで? なんでえっ。なぜいつまでも、こんなことばっかり! いつまで私たち苦しまなあかんの? 私たち、そんなひどい罪を犯したの?」 「円香っ!」 「ユーウェンがたくさんの人を殺したから? 私たちが自分だけ幸せになろうとしたから? 幸せになったらいけないの?」 私を抱きしめながら、父はなだめるように叱責した。 「……深呼吸しろ。お腹の子どもを酸素不足にしたらあかん。おまえひとりの身体やないんやぞ。頼むから落ち着いてくれ」 「だって……」 「いいから、ゆっくり深く息を吸って、吐け。からだじゅうに酸素を送るんや」 私は言うとおりにした。父の腕の中で深呼吸を何回もするうちに、涙がぽろりぽろりと目の淵からあふれだした。 「治療がうまく行けば、1ヶ月で退院できる。おまえも知ってるやろ。ヘリベルト大の精神科は世界のトップレベルや。必ず、治る。信じて待ってろ」 「どうして、日本やとあかんの? お父さんひとりで無理なら、江坂の病院に入院させたらええやん」 「日本語での治療は、あいつにも負担が大きい。母国語で、慣れた病院で治療を受けるほうが、早くいい結果につながる」 「それやったら、お父さんもいっしょにケルンに戻って。ディーターのそばについてて。お父さん、主治医なんやろ」 「……それは、できん」 暖かく湿ったものが私の髪にかかる。 「俺がそばにいれば、ディーターはおまえや赤ん坊のことを思い出す。ますます自分を責めてしまう。今は、なにもかも忘れさせたほうがええんや」 「そんなに……」 愕然とした。 そんなに、ディーターは私を見て苦しんでいたなんて。 それほどにも、私がそばにいることが、彼を苦しめていたなんて。 私はひとりでマンションに戻った。 「だいじょうぶ。もう落ち着いたから」 心配して引き止める父を、むりやり説得した。 「ディーターとちゃんと話したいの。ふたりきりで。……絶対取り乱したりせえへんから」 ドアを開けて中に入ると、夕闇の薄暗がりの中で、ディーターがダイニングテーブルの椅子にぼんやりと座っていた。 入ってきたのにも気づかない。 私は身震いした。焦点の合わないうつろな瞳。もう何日も彼はこんな目をしていたのだろうか。何も知らなかった。 「ディーター」 ようやく、私のほうを見上げた。 「円香」 「今、お父さんから聞いたよ。お父さんの仕事でケルンに行くんやてね。もう来週はじめの飛行機やって?」 父にきつく言われていた。彼を責めるなと。病気のことは何も言わずに、和やかに送り出してやれと。 「大変、早く荷造りせなあかんね」 「荷物、そんなに多くないから」 「そやね。すぐ戻ってこれるしね」 彼の首に両腕を回して、顎を彼の柔らかな髪の毛にうずめる。 「私はだいじょうぶやからね。もう調子いいから。心配せんと、しっかりお仕事してきて」 「うん」 「ドイツ美人に見とれたら、あかんで。地の果てで浮気したって、私にはちゃーんとわかるんやからね」 明るい声で、冗談を連発しようとしたけど、駄目だった。 どんどん、どんどん、涙があふれて、声が濡れてくる。 「……行かないで」 言っちゃいけない。いけないよ。円香。 彼をこれ以上追い詰めて、どうするの。 でも、止められない。魂が地鳴りを起こして、その振動が全身を駆け上がってくる。 いつのまにか、私は口に出していた。 「行かないで、ディーター。行っちゃいや。私、あなたがいないと生きていけない」 「……円香」 「もうすぐ、結婚2周年のお祝いやのに。このマンションに引っ越したとき約束したよね。50年も60年も、ふたりがおじいちゃんとおばあちゃんになるまで仲良く暮らそうって、約束したよね」 「……」 「3人で暮らそう。ねえ。どこへも行かないで、3人で暮らそう。仕事も、子育ても何もしなくていいから、ただそばにいてくれるだけでいいから」 私の声は嗚咽で途切れ途切れになって、何を言っているか、きっと彼にはわからなかっただろう。 彼は静かに立ち上がった。そして、 「ごめん」 最後の息をふりしぼるように、力なくこう答えた。 決して私のほうを見ないで。 私は悟った。 私が苦しめている。私が彼をずたずたにしてしまう。 もう、私がそばにいては、だめなんだ。 おずおずと彼の胸にすがりついて、ぎゅっと両手で彼のセーターを握りしめて、地の底で響くような低い声で言った。 「私、中絶する」 「……」 「まだ、ぎりぎり中絶できるから。もう赤ちゃんはいらない。ディーターが苦しむくらいなら、もう一生、子どもなんか欲しくない。だから……いっしょに……」 私は罪人だ。 カトリックでは中絶は殺人と同じ罪なのに、私はその瞬間、心からそれを願った。 彼の長い指がそのときすっと、私の頭に伸びた。髪の毛を優しくなでた。 「ディーター」 「おめでとう。おまえもとうとう、人殺しの仲間入りだ」 頭上に降ってきたのは、冷たい揶揄に満ちたことばだった。 「自分の幸せのためなら、命などなんとも思わない。愛という名のもとに人を殺す。りっぱな殺人鬼だな。俺とおなじ」 「……ユーウェン」 「おまえの愛情など、しょせんその程度だったんだ。おまえには俺たちを救うことなどできない。最初からわかっていたよ。 人を愛するのは、弱くなることだ。俺は愛など信じない。永久に」 氷のような声で私の心を突き刺しながら、彼の右手は私の髪を撫で続ける。 その不条理さに、私の膝は力を無くして、床にぺたんと崩れこんだ。 彼は正しかった。 私たちは、ついにユーウェンに負けたのだ。 数日後、彼が発つ日が来た。父が付き添って彼をケルンまで送り届けることになった。 最後の朝、私は頭からシーツをかぶってベッドにもぐりこんでいた。 ディーターが出発の支度をしている音を聞いている。 洗面所で顔を洗う音。髭をそる音。 寝室のクローゼットの前で、服を着る音。 こうして隠れていれば、彼は出て行かないのではないかと、心のどこかで考える。 でもついに、そのときが来てしまった。 ボストンバッグの革のきしりという音。寝室を出て行く足音。 その足音が、ふと立ち止まる。 「円香」 私は答えない。 “Auf Wiedersehen.” 「アォフ ヴィーダーゼーエン」。ドイツ語で、「さようなら」。 悲しいその言葉を遺して、彼が玄関から行ってしまう。 (行かないで。行かないで。行かないで) 百万遍そのことばを心の中で繰り返しながら、私はシーツをぐしょぐしょに濡らし、いつまでもすすり泣いていた。 §6につづく |
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