TOP | HOME
Last Episode
|
§5にもどる §6 数日して、私はベッドから起き上がった。 いつまでも、このままでいるわけにはいかない。 どんなに悲しくても、私は生きているのだ。 そして何より、お腹の赤ちゃんのために、私は生きなければならないのだ。 新学期が始まった大学に、また通い始めた。 ごはんもたくさん、食べた。栄養があると言われたので、レバーも苦手な納豆も食べた。 子どもと二人分のいのちを、生きるのに無我夢中だった。 父や祖父、藤江伯母さんと聡伯父さん、そして、鹿島さんと茜さんが何も言わず、暖かい目で見ていてくれる。 葺石流の門下生のみんなも。 「師範代の留守中、代理なんておおせつかっちゃったから、わたし張り切るわよ〜」 ジュリーさんこと宮下くんが、夜のお勤めを少し減らして、できる限り稽古に出てくれるようになった。彼の腕前は、門下生の中でも群を抜いている。 「さあさ。わたしにお尻を触られたくなかったら、気をぬくんじゃないわよ!」 大学講師の村主(すぐる)さんは、授業で鍛えた朗々とした声で、 「円香ちゃん。これだけは言える。ディーターは強い男や。捲土重来。必ず勝って帰ってくる。信じて待っていなさい」 山岸さんと慎也くん親子も、私をいつも励ましてくれる。 「師範代は、僕にいじめに負けない強さを教えてくれたんです。だから、絶対に病気なんかに負けません。円香さんも負けないでください!」 そして、恒輝は。 ほんとうに、何でそんなに素っ気ないの、というほど能天気にふるまっている。 「俺は、なーんも心配なんぞしとらんからな。おまえらのこと」 とのたまう。 「今までかて、こんなこと何べんでもあったやろが。そのたびに心配するだけ損したって気持ちにさせられてんからな、こっちは。 瑠璃子はおまえのことちょっぴり心配しとるけど、俺は心配すんな、慰めの手紙なんぞ書くなって言うてる。……おまえは」 そして、真っ黒い切れ長の目で怖いほど私をじっと見て、こう言うのだ。 「ディーターのために、カトリックの神さんに宗旨替えしたほどの女や。天の果てやろが地獄の底やろが追いかけてく。そんな恐ろしい女から、逃げられる男なんておらへんからな」 それでも、ときどきどうしようもなく悲しくなる。 1ヶ月が過ぎても、2ヶ月が過ぎても、ケルンからは何の連絡もない。 私はひとりでいるとき、ディーターを思うと、わんわん泣き出してしまう。 そのたびに父の言ったことばを思い出すのだ。 「深呼吸しろ。お腹の子どもに酸素を送れ」 池の金魚みたいに口を開けて、ふうふう深呼吸をする。 目を閉じて、赤ちゃんが私のお腹の中で、へその緒を通して懸命に酸素や栄養を吸っている姿を想像する。 ある日、妊娠6ヶ月を過ぎたころ、私がそんなふうに深呼吸していたら、突然どくんとお腹がけいれんしたように動いた。 自分の中に別の意志を持った生き物が、その小さな身体をひるがえした。 ディーターからもらった命。 神さま。こんな罪深い私に。 「ごめんね。ごめんね」 私は、あなたを殺そうとした。自分の幸せのために。 それなのに、そんなひどい母親をあなたは慰めてくれるの。 夏が近づき、私のお腹はどんどんふくれていった。 どうも私は、前にお腹が突き出るタイプらしい。階段を降りるとき、足元が見えなくなってきて、斜めに降りるしかなくなった。 大学でもさすがに驚きの目で見られ始め、荷物を持ってもらったり、バスで席を譲ってもらえるようになったとき、夏休みが訪れた。 ちぇっ。もう少し回りにいたわってもらう毎日を謳歌したかったのに。 家では、父と藤江伯母さんが、相変わらず男だ女だと議論している。 「お腹がぴょこんと飛び出るのは、男の証拠や。医学的にも証明されとる」 「うそつき、そんな医学聞いたことあらへんわ。円香ちゃんの表情が柔らかくなったやろ。あれは女の証拠なんや」 あんまりうるさいので、私はとうとう産婦人科の医者にお願いして、性別を聞いてきてしまった。 「男。間違いなし。だからもう、あほな言い合いせんといてね」 父は有頂天、伯母さんはがっかり。道場ではまた、16代目師範の跡目の話がかまびすしい。 父は、5月から念願の自宅開業に踏み切った。 「葺石クリニックウルトラバージョン」の構想は、資金難のためもろくも崩れ去ったが、簡単な改装工事で明るくこぎれいになった診察室では、少しずつ患者も増え始めた。 私は、看護婦だった母のように、エプロンをつけて父の診療の手伝いをすることになった。 「すげえな、その腹。母さんかて、そんなにはならへんかったぞ」 父は、相撲取りの風格すら出てきた私を見て、感心する。 「ふっふふ。それに見て、この胸。すっごい巨乳やろ。もう洗濯板なんて言わせへんで」 「おまえ、そんなんでひとりでマンションに住んで、だいじょうぶなんか」 父は、心配げだ。 「そろそろ引き払って、こっちへ移って来ないか?」 「だいじょうぶ。隣の沢田さんの奥さんに、いざというときのこと頼んであるから。私が壁をトントンって叩いたら、夜中でもすぐ駆けつけてくれるって」 「それでも……」 「言うたやろ。ディーターといっしょに暮らしたところにずっと住みたいって。ディーターの使ってた歯ブラシとかコーヒーカップとか、そんなものが見えるところにいたいの」 「おまえ、今でも泣いてるやろ。……こないだ、目が真っ赤やった」 「ああ、あのときはね。夢を見たの」 私はくすんと少し鼻を鳴らした。 「すっごく悲しい夢でね。私は道を歩いてた。多分ケルンの町やと思う。 誰か小さな男の子としっかり手をつないでた。全然顔も見えへんけどその子が、もう生まれて大きくなった赤ちゃんなんやって、頭の隅で感じてた。 そしたらね。前のほうから、ディーターが歩いてきたの。ディーターは、私たちのこと全然覚えてなくて、すーっと通り過ぎていくの」 「……」 「それがあんまり悲しくって、ベッドの上に起き上がってしばらく、声を出して泣いた。 でも、少しして考え直したよ。 夢の中で、ディーターはとても幸せそうに笑ってた。もし私たちのことを忘れて、幸せになれたんやったら、私それでもいいかなあって」 「円香……」 「本当は、そんなんイヤやって思ってるよ。いつか私たちのところに帰ってきてくれるって信じてる。でも、もしそうでなくても、私は赤ちゃんとふたりで暮らしていけるんやなって、そのときとっても素直に受け入れることができた」 父が突然、号泣しはじめた。これほど子どものように父が泣く姿を、私は母の葬式のときでも見たことがなかった。 「すまない。すまない、円香。俺がディーターを日本に連れて来なかったら……。おまえに会わさへんかったら、こんな辛い目に遭わせることはなかったのに。 俺のせいや。俺が悪いんや」 「何、言うてんの。お父さん」 私は父の横に回って、ごしごしと父の背中をこすった。 「私こそ、お父さんにあやまらなあかん。あんなにめちゃくちゃ言って。みんなが、懸命に私のからだのために内緒にしてくれたのに、ひどいって罵ってしまった。 なにもかも人に頼ってばかりで、わがままで、人の心の優しさがわからないこんな私が、みんなを苦しめていたんだね。 本当にごめんなさい」 ふと窓を見ると、紫の六甲連山が見えた。生まれたときからそこにある故郷の山。他の土地に行ったら、つい子どもが母親を捜すように目で捜してしまう、その優しい立ち姿。 同じように、私のまわりには大勢の人たちがいてくれた。 どんなに、私の視界が涙で曇っていても。 迷わない。もう迷わない。 私は、生きていける。 ディーターを愛し続けることができる。 「お父さん。私はディーターに会えて、よかったよ。もし彼に会えなかったら、私は人を愛するってことが、一生わからなかったかもしれへん。 お父さんとも、こんなに仲良く話せるようにならなかったかもしれへん。 私、ディーターと会えたから、今の自分になれたんだよ。 後悔なんて、絶対にしない。 たとえもう二度と会えなくても、私は一生、彼の奥さんやから。それに」 いつのまにか、微笑んでいた。 「ディーターはお別れのとき、ドイツ語で『アォフ ヴィーダーゼーエン』って言ったんや。日本語の「さよなら」やなくて。やっとその意味がわかった。 『ヴィーダー』は「ふたたび」、『ゼーエン』は「会う」。 ディーターは「また会おう」って言いたかったんや。永久のさよならじゃなくて。 私はそれを信じる」 §7につづく |
TOP | HOME
|
Copyright (c) 2002-2003 BUTAPENN. |