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§6にもどる §7 8月の中旬のある日の明け方4時ごろ。 強い腰の突っ張りを感じて目を覚ました。 これが陣痛のはじまりだとは、最初は思えなかった。 だが、それが一定の間隔を置いて強まったり弱まったりすることに気がついて、私は夜が明けるのを待って実家に電話した。 何回も頭に思い描いたとおり、シャワーを浴びて服に着替えてから、用意していた入院道具を入れたカバンを持つと、私はそろそろと歩きながらマンションを出て、父の運転する車で産婦人科医院に向かった。 予定日より4日早かった。 医師の診察を受け、確かに子宮口が開き始めていることがわかると、病室に通された。 そこは伝統ある古い産院なので、病室は畳敷きだった。 分娩が終わると生まれたばかりの赤ちゃんは、新生児室に行くのではなく母親の隣に寝かされる。私の母もそうやって私を産んだと聞いた。 藤江伯母さんも父から連絡を受けて、ほどなく駆けつけてきてくれた。 「まあ、これは1日がかりやね」 畳の上に敷いたふとんに情けない顔で寝ている私に付き添いながら、伯母さんは非情にも宣告した。 「ええっ。そうやの?」 「初産なんて、そんなものや。あんたのときは2日目の夜中にようやく生まれたんやで」 「ああ、こんなのが一日も続くなんて、あいたた」 陣痛が来た私の腰を伯母さんはホイホイとさすってくれた。 「それにしても、ほんまに奇跡言うのはあるもんやね。よりによって今日お産が始まるとは」 「え? どういうこと?」 「なんでもあらへん。それよりあんた、そろそろお腹すかへん?」 「こんなときに、ごはんなんて喉を通らへん!」 「何言うてんの。長丁場になるんやで。ごはんくらいしっかり食べとかんと、体力持たへんやないの」 「そんな……」 「何か食べたいものある?」 「う……ん。オレンジかな。それにヨーグルトとか」 「それやったら、買うてきてあげる。それから家に戻って、おにぎりもこしらえてくるわ。なんだかんだ言うて、私も朝、食べそこねてしもたからな」 「え? 行っちゃうの? やだ、誰かそばにいてくれへんと、いざというとき困る」 「だいじょうぶやったら。まーだまーだ先の話やから」 伯母さんはのんきな声を出して、手を振って行ってしまった。 私は8畳ほどの個室にひとりでぽつんと残された。 時間はまだ9時になるかならないかというところで、窓からさしこむ朝の日光が、ふわふわ浮かぶ部屋のほこりを照らし出している。外の大木に止まったつくつくぼうしが、単調なリズムで鳴いている。 みんな結構冷たいものだ。お父さんは、こんなところ男がいるもんやないとか言って、さっさと帰ってしまったし。おじいちゃんも「家にて吉報を待つ」などとえばっているし、鹿島さんもどこかへ行ってしまって、姿が見えない。 私はこれから迎える長時間の苦しみを思うと、心細さが募ってきた。 もうあれから5ヶ月経った。 ディーターはケルンでまだ治療を受けているのだろうか。誰も何も教えてくれない。 本当に生きているのだろうか。みんな私には内緒にしているけど、もしかすると、もう……。 また、がまんできなくなってきた。 ふとんの中で仰向けになって、ぼろぼろ泣いた。 彼がいなくても、子どもとふたりで生きていけるなんて、嘘。 ディーターに会いたいよ。 生まれた赤ちゃんを、真っ先に抱っこしてもらいたいよ。 また陣痛が襲ってきたので、泣いていられなくなって、自分で腰をさすってなんとか痛みをやり過ごした。 落ち着くと、朝の4時から起きているためか泣いたためか、猛烈な睡魔が襲ってきた。 伯母さん、遅いなあ。 私はうとうとと、まどろみはじめた。 「円香」 どこからか。 声が聞こえる。私を優しく抱きしめるような声。 そして、唇に何かが触れる。ひんやりと心地よいキス。 ああ、ディーターだ。 たぶん、夢。 でもそれでもいい。今だけ、このまま夢を見ていたい。 帰ってきてくれたんだ、って……。 ずっと、ずっと私のそばにいてくれるんだ、って……。 目を開いた。 翡翠色の瞳。長い金色の髪の毛。 私に微笑みかける、このうえもなく綺麗で、このうえもなく優しい顔。 「……これも、夢?」 ぼんやりと、問うた。 「夢じゃない」 答えがあった。 「ほんとうに、ディーター?」 「ああ」 「なんで、私がお産だってわかったの?」 「わかってたわけじゃない。きのうフランクフルトから電話したときはまだわからなかった。今朝、関空に康平を迎えに来させたとき、はじめて聞いた」 「なんだ。じゃあ、みんなきのうから知ってたんや。ディーターが帰ってくること。お父さんも、おじいちゃんも。……藤江伯母さんも、それでここに戻ってこないんやね。気を利かして」 「ああ」 「みんな、意地悪。また、私だけのけ者にされてしもた」 そう笑いながら、私は両腕を伸ばした。 もしかして透き通るんじゃないかと恐れたけど、触ったとたんに夢から覚めてしまうんじゃないかと恐れたけど、やっぱり私の手はディーターの首筋をしっかりとつかまえた。 次の瞬間、私は抱き上げられて、彼の胸に顔をうずめていた。 彼の匂い。彼のぬくもり。 現実、なんだ。 「おかえりなさい、ディーター」 「ただいま。円香」 「……ディーターぁぁっ!」 とうとう帰って来てくれた。 だから、もう何もがまんしなくてよかった。 私のただひとつの居場所。 私はそこで、思いっきり泣いていいのだ。 「円香。俺の話を聞いてほしい」 キスをして、泣きじゃくって、陣痛が来て。 ムードも何もない再会シーンがひと段落すると、私をそっとふとんに横たえて、しばらく視線をからみあわせてから彼が言った。 「それを聞いてから、きみが決めてほしい。これからも俺といっしょに暮らすかどうかを。 ほんとうは、ここに戻ってくることをずいぶん迷っていた。今でもそうだ。もしきみが嫌だと言えば、俺はこのまま空港に戻って、どこか遠い土地に行く」 「ディーター……」 「俺はもう、ディーターじゃない」 「ユーウェンなの……」 「ユーウェンでもない。そのどちらでもあるが、どちらでもない」 「ふたりの人格が統合されたんやね」 「そうだ」 「なんとなく」 最初見たとき、感じてはいた。 「だって、着てるものが真っ黒なんやもん」 黒いシャツに黒のボトム。ディーターなら絶対に黒は着なかった。 それに、鹿島さんのことを「康平」と呼んだり、空港に迎えに呼びつけたりすることはなかった。 「服の好みは、ユーウェンのを受け継いだな」 彼は、クックッと笑った。「女の好みはディーターのほうだが」 ……ユーウェンがしゃべっているみたい。 「なんて、呼べばいい?」 「きみの好きなように」 「じゃあ、ディーター。それでいい?」 彼はうなずいた。 「あいたた……」 また、陣痛。 彼は心配そうに私のしかめっ面をのぞきこんだ。こんな表情はディーターのままだった。 「辛いんだったら、話はあとにするが」 「いい、今聞きたい。ちょっと、こうしてていい?」 私は身体をずりあげ、胡坐を書いて座っている彼にいだかれるような姿勢で、頭の後ろを胸にもたせかけた。 「こうして上半身起こしてるほうが楽」 「恥ずかしいな、この格好は」 「ええやん、夫婦なんやから」 「医者や看護婦には、呼ぶまで入ってくるなと言ってある。危ないと思ったら呼びに行くから、いつでも言ってくれ」 「うん」 「半年近く使ってなかったから、日本語が変になってるかもしれないが」 「全然変じゃないよ。だいじょうぶ」 私は目を閉じて、彼の話を待った。 §8につづく |
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