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Last Episode
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§7にもどる §8 「2歳が、取り戻した記憶の最初だ。 父親と母親と3人で、三階建ての煉瓦の家に住んでいた。一階は父の診療所があった。 ふたりは大層、教育熱心な親だった。 俺は父親と話すときはドイツ語で、母親とはフランス語で、そして日常は英国式の英語で話すことをしつけられた」 それで、ディーターの人格になったとき、彼は流暢なドイツ語がしゃべれたんだ。 「ふたりとも俺のことを愛していてくれたから、俺はどんな勉強でも、言われたことは喜んでやった。同い年の子どもが遊んでいるときでも、両親から音楽や数学を学んでいた。 それが内戦の地、北アイルランドで、子どもに与えられる唯一のものだと、ふたりは信じていたんだ」 「そう……」 「ところが、父はある日、イギリス派テロ組織の銃弾に倒れた。アイルランド派のテロリストを治療し、かくまう医者として目をつけられたからだ。本当はどちらの組織であれ、父はわけへだてなく診ていたのに」 彼の目に、静かな怒りの炎がうねった。こんな怒りを見せる彼を、私は見たことがなかった。 それは多分、アイルランド人として彼が今まで祖国で味わってきた怒り。 「父が死んで1カ月経たないうちに、住んでいた家が全焼し、母も亡くなった。 俺はただひとりの親戚である、母の弟に引き取られた」 ひくりと私はみじろぎした。彼を死ぬよりつらい目に会わせた叔父さんの話。 こうして聞くのは初めてだった。 「叔父のパトリックは、しばらくのあいだはとても優しかった。親身になって俺の世話をしてくれた。 外でいろいろな遊びを教えてくれる彼が大好きだった。勉強ばかりで世間知らずだった俺には、彼の教えてくれる良いことも、悪いこともすべてが新鮮だった。 7歳で酒の味を覚えた。 寝るときも、いつもいっしょのベッドだった。 5歳で両親を亡くした俺にとって、叔父はすべてだった」 ディーターは苦いものを飲み込むときの表情で、しばらく押し黙った。 「7歳のときだと思う。あいつは、酔っ払ってベッドに潜りこんでくると、俺にキスをした。いやがって逃げようとしたら、めちゃくちゃに叩かれた。 それ以来だ。何かと理由をつけては俺に暴力をふるうようになったのは。 あいつは、日々母親に似てくる俺を見ているうちに、いたたまれなくなったのだと思う。 叔父は母に、姉弟の関係以上の気持ちを抱いていた。 もしかすると、家に放火して母を殺したのは、あいつかもしれない。あのときの状況を思い出すと、そうとしか思えない。 俺にあれほどの憎悪をぶつけてきたのは、母を殺した罪の意識からだったのかもしれない。 そのうちあいつは、俺を性的な対象として求めるようになった」 「痛い……」 私は大げさに身をよじった。 陣痛が来ていたのは確かだったが、がまんできないほどではなかった。 子どもの頃の恐ろしい事実を話そうとしているディーターの震える声を聞いていることが、がまんできないほど辛かったのだ。 「もういいよ。ディーター。話さなくていいよ」 「どうしてもこれだけは話さなきゃいけない」 彼はそばにあったタオルで、私の額の汗と涙をふいてくれた。 「俺は、優しかった叔父がなぜ急に変わったのかわからなかった。自分が何か悪いことをしたのだとしか思えなかった。 だから、悪いことをして罰を受けているのは他の子どもで、俺自身は以前と同じように叔父に愛されているのだ。そう思い込もうとした。 俺の中に、そのときからケヴィンという別の人格が生まれた」 彼の目じりにも、うっすらと涙がにじみ始めた。 「虐待を受けるたびに、俺の内側に人格が増えていった。そうまでして、叔父のことを愛していたかった。 やがて家を飛び出して、万引きやスリを繰り返しながら路上で生活するようになっても、力では圧倒的にあいつを上回るようになっても、俺は定期的に家に戻っていた。 叔父が俺を虐待しなくては生きていけなかったように、俺も叔父の虐待を受けなくては生きていけなかった。 そこまで互いに依存する関係を俺たちは作り上げてしまったんだ」 「ディーター……」 「痛いのか?」 「うん……。ちょっと位置を変えてみる」 私は彼の助けを得て、身体を横向きにした。 彼が涙をこっそりぬぐう暇を持てるように。 「IRAに少年義勇兵として入ったとき、俺はやっと居場所を見つけたような気がしていた。ユーウェン・オニールという男に会って、彼にあこがれた。彼のように強くなりたいと思った。 叔父はその頃、重度のアルコール中毒で精神病院に入れられた。やっとあいつの呪縛から逃れられ、新しい自分になれる。そう思った。 だが、ユーウェンは俺の目の前で、イギリスの奴らに撃たれて蜂の巣になった。 そのときわかったんだ。ユーウェンの強さでもまだ足りない。 俺はもっと強くなってやる。 誰にも依存しない。誰も愛さない。すべての人間を殺しても、自分だけは自分で守る。 そうして、ユーウェンの人格を俺は作り上げた……」 長い吐息が彼の口からもれた。 「ああうっ」 私は思わず叫んだ。 今までにない急激な痛みが襲ってきたからだ。さっきの陣痛から1〜2分しか経っていない。 いよいよ、本番に入ったらしい。 「円香? だいじょうぶか」 「うん。まだ平気。まだまだかかるから」 これくらいの痛み。ディーターが経験してきた痛みに比べたら、屁でもないはず。 私は教えられた呼吸法を使いながら、痛みをこねるようにして、一点に押しやった。 「話、もっと聞きたい。ちゃんと聞いてるから」 「ああ」 彼は私の髪をいとおしげに撫でて、また話し始めた。 「それまで思い出せなかったことを次々と思い出して、俺は自分の中に呪われた血があることを知った。近親相姦と殺人の罪にまみれた血を。 ユーウェンでいたときの殺人の記憶も取り戻した。 人々の喉を切り裂き、懐に弾丸をぶちこみ、自動小銃の引き金を引き続けたこと。 すべて、自分の手がしたこととして思い出した。こんな俺が……」 ディーターは引きつった微笑をもらした。 「子どもにまた呪われた血を受け継がせてしまった。殺人者の子どもとして生きるしかない命を生み出してしまった。 抱きついてくる子どもを、いつか俺は虐待してしまうだろう。それしかやり方を知らない。愛するということが、どういうことかわからない」 「ディーター……」 「……ケルンに戻ってからの俺は、ひどい有様だった。 ことばも一時的に失った。聖ヘリベルト大精神科クリニークのスタッフたちの献身的な介護がなかったら、回復できたかどうかわからない。 ドクトル・フキは定期的にその報告を受けていたはずだから、ずいぶん辛い思いをしたと思う」 それで父はあれほど号泣したのか。あのとき、彼が私のもとに戻ってこられるとは想像もできなかったに違いない。 「なんとか正気を取り戻してからも、どうやってこの罪の意識を消したらいいのか、わからなかった。 教会に行って、毎日告解室に入ったこともある。絶対に神父は、頭のおかしい奴だと思っていたにちがいない」 ディーターは、淡々と話し続けた。 でも本当は、どれだけ辛い心の戦いを通ってきたのだろう。罪の中でもがき苦しんだのだろう。 彼が一番苦しいときに、私はそばにいてあげられなかった。そばにいても何もできなかった。 きっと、一生わからない。彼が神の御前でどれほどの涙を流したのか、神以外に知る人はいないだろう。 「あい…・…た」 陣痛は長く、より深くなってくる。腰が爆発しそうだ。 呼吸法も何もふっとんでしまって、私は空気を求めてあえいだ。 彼は私の身体をしっかりと抱きかかえて、手を握った。 「医者を呼ぶ」 「ううん。……まだかまへん。あと少し。話して。……もっと話して」 「絶望して一度死のうとしたよ」 彼の親友で、同じ解離性同一性障害を患っていたリヒャルトが飛び降りたビルを探し当てて、屋上に立ったこと。 それを聞かされたとき、私は何度も、彼の手の感触を確かめずにはいられなかった。 「でもそこに立って下を見降ろしたとき、俺の中でいきなり声がしたんだ。 『そんなふうに死ぬために、おまえは命を与えられたんじゃない。生きろ』と。 なつかしい声だった。いつもどこかで聞いていたような声だった」 それは、あなたのお父さんの人格だよ。いつもあなたのことを見守ってくれていた。 よかった。やっと会えたんだね。 「『円香と生まれてくる子どものために、死んではいけない』 そう言って、その声は消えていった」 彼は私の頬を、この上もなく大切な宝物を持つように、両手の長い指ではさんだ。 「突然、光が俺の回りを照らしたような気がした。 生まれてくる子どもは俺の子どもであると同時に、円香の子なのだ、と。もしかすると、俺の罪の血は、円香の血で聖くされるんじゃないか。 円香の子どもなら、どんなことがあっても愛せる。 円香を愛してる自分なら、どんな自分であっても愛せる。 俺の中の最悪の人格であるユーウェンであろうと、円香なら愛してくれる。 俺は勇気をもって目を開いた。俺の中で、ディーターとユーウェンが初めて向き合って、ことばを交わした」 「何を話したの?」 「いろんなこと。生まれてから今までのすべてのこと。 俺たちの中でいちばん弱かったのはユーウェンだった。いつも人を殺したあと泣きじゃくっていたのはユーウェンだった」 「きっと、そうだね……」 「いちばんきみに愛してほしいと願っていたのは、ユーウェンだった。そして一番罪深かったのは、ユーウェンにすべてを押し付けて、すべてを忘れて生きようとしていたディーターだった。 俺たちは互いを理解した。もうふたつに分かれている必要はない。 自分の罪を誰かになすりつけることも、忘れることもしない。 円香のことを、ひとりの男として愛する。生まれてくる赤ん坊も、ひとりの父親として守りたい。 俺はそのとき、完全にひとつになった」 ディーターは、私のびっしょり濡れた前髪に口づけた。 「今の俺はディーターでもあり、ユーウェンでもある。 でもそのことは、きみには耐えられないことかもしれない。多くの人を殺し、きみのこともずいぶん傷つけてきた。そうしてしか生きてこられなかった人間が俺だ。 きっと俺の罪は永久に消えない。赦されるはずがないその罪を背負って生きていかなくてはならない。 もっともっときみを苦しめるだろう。いつか俺の過去を知る子どもにも、辛い思いをさせるかもしれない」 「ディーター。ちがう」 私は声をふりしぼって、彼のことばをさえぎった。 「私も、私も罪をおかしたよ。お腹の子どもを殺そうと思ったの。母親である私が、栄養や酸素といっしょに、無限の愛情をそそぐべきはずの私が、もうこの子はいらない、って本気で思った。 それは子どもを殺すのと同じことやった。私はこの子を一度思いの中で殺してしまった。 ……でも、この子はそれを赦してくれた。せいいっぱい手足を伸ばして私のお腹を蹴った。 そのとき確かに聞こえた。『お母さん、がんばれ』って。 きっと、『お父さん、がんばれ』って、今も言ってるよ。この子は私たちを赦してくれているよ」 「俺は、きみたちのそばで生きていていいのか、円香……?」 ディーターは泣いていた。 「逆だよ。私こそ、そばにいさせて。何もできない、わがままばっかり言う私でもいいなら。私とこの子のふたり……ずっと」 彼は答えのかわりに、私にキスをした。 涙と汗と、気が遠くなるような陣痛の痛みの中で、私にこれからのお産に耐える勇気をくれるキス。 「ありがとう、ディーター」 力をふりしぼって、上半身を起こし、彼に向き合って座った。 「もうすぐ赤ちゃん……生まれると思う……お願いがあるの。この子が生まれたら、真っ先に抱き上げてね。……それから、子どもの名前も考えてほしい。円香って名前を考えたのは、お父さんなんやて。名前を考えるのが……父親の責任やって」 「名前はもう、考えてある」 「え?」 「ケルンで、図書館に行って日本語の辞書と漢字辞典をかたっぱしから調べた。日本の名前をつけたいと思った。生まれるのが男の子だということは、ドクトル・フキから連絡をもらっていたから」 「何? どんな名……。ああっ!」 そのとき、足の間に生暖かい液体があふれだした。 私は身をかがめながら、 「ご……めん、お医者さん……、呼ん……。は、破水……」 彼はものも言わずに部屋を飛び出し、やがて医師と看護婦が駆けつけてきた。 分娩室に運ばれる途中で、私は腕をのばした。 「教えて、子どもの名前」 「でも今は……」 「今知りたいの。お産のときその名前を呼ぶんやから」 「ひじり、だ」 彼は分娩室のドアの前で叫んだ。 「聖と書いて、ひじり!」 「ええ名前。さすがディーター」 私は分娩台の上で、渾身の力をこめて叫んだ。 「聖くん、行くよ!」 ディーター。子どもが生まれようとする今、私にはわかる。 あなたは誰にも愛されなかったんじゃない。あなたには、あなたのことをこんなにも苦しんで産んでくれたお母さんと、愛して見守ってくれたお父さんがいた。 あなたが生まれた日をこんなふうに喜んで祝ってくれた人たちがいた。 もうひとりのお父さん、グリュンヴァルト博士だって。 あなたは、決してひとりじゃなかった。 あなたから離れていたあいだ、私がお父さんやおじいちゃんや藤江伯母さんや鹿島さんに見守られていたように。 私たちは、決してふたりきりじゃなかった。 そして、今から私たちにはこの子がいる。 あれほど大騒ぎした私は結局、分娩台の上でさらに1時間以上もたもたした挙句、ようやく午後2時ごろ出産した。 3260グラム。元気に泣く男の子だった。 ディーターは約束どおり、真っ先に看護婦さんから、バスタオルにくるまれた裸の聖を抱き取ってくれた。 それから、畳の部屋で私の横に寝かされた赤ん坊は、駆けつけた父、祖父、藤江伯母さん夫婦、鹿島さんの手に次々と抱かれた。 髪の毛は金を帯びて光る茶色で、瞳は黒だった。 みんな、口をそろえて私よりディーターに似てると言うから、将来いい男になるだろうな。 次の日からは、茜さん、瑠璃子と恒輝、大学の友だち、門下生、撮影所の人たちが入れ替わり見舞いに訪れて、ゆっくりごはんを食べる暇もなくなった。 生まれて初めての入院で、せっかく上げ膳据え膳生活を謳歌しようと思っていた私は、音を上げて早く退院したいとわめき出し、予定より早く5日で我が家に戻ることになった。 そして、私とディーターと聖の三人の生活が始まったのだ。 ――そして、現在に至る。 今、聖は2ヶ月。順調に大きくなっている。 手記をこのまま続けて書いて欲しいと瑠璃子から催促が来ているが、とりあえず私はここでペンを置くことにしたい。 今は、大学生と母親と妻の3足のわらじを履くのに全力投球中なのだ。 いつか機会があれば、また書けたらとは思う。それまで瑠璃子が恒輝に夢中になって、忘れていてくれればいいのだが。 蛇足だが、最後にゆうべのことを、ここに記す。 私は夜中に聖に授乳したあと、寝かしつけて、自分たちのベッドに戻った。 隣では、ディーターが安らかな寝息を立てていた。 「ディーター」 彼の名を呼んでみる。 もう決して私のそばからいなくならない、と確信できるまで、私のこの癖は続くだろう。 私はずいぶん、臆病になってしまった。 返事はない。きっと疲れてるだろうと思う。私が大学に行っているあいだ、彼は約束どおり、ずっと赤ちゃんのめんどうを見てくれているのだから。 彼の肩に私のあごを乗せても、そっと髪の毛に指をからませても、起きる気配はない。 いつまでもこうしていたい。泣き出しそうなほどの幸せを噛みしめながら。 「ダニエル」 愛してるよ。亡くなったお父さんとお母さんには負けるかもしれないけど、あなたのことをいつまでも。 「ケヴィン」 身が裂かれそうな痛みをずっとひとりで抱えていた、可哀そうな男の子。これからはひとりじゃないよ。私たちにあなたの苦しみを教えてね。 「コーリーン……シェーン……ルイ」 私が一度もあったことのない人格たち。彼の心が壊れてしまうのを食い止めてくれた彼ら。ほんとうにありがとう。 そして。 「ユーウェン」 強い想いをこめて、その名を呼んだ。 「あなたがいたから、ディーターは私のもとに来てくれた。あなたが生きようとしてくれたから。 もうあなたの名前は、この世から消えてしまったかもしれないけど、私は忘れない。 ユーウェン。私はあなたの名前を一生忘れない」 そう小さくささやくと、背中から腕を回して、ディーターを抱きしめた。 彼の左手が、そっと私の手に重なるのを感じた。 The End 長いあいだ、ご愛読ありがとうございました。 あとがきに進む |
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