「隙あり！」
背を向けて道場の床に這いつくばっている男に、俺は電光石火のすばやさで竹刀を振り下ろした。
「ウワッ」
相手はかろうじて避けたものの、雑巾を片手に握りしめ、尻餅をついてやがる。
「後ロナンテ、ヒキョウモノ！」
「わはははッ。真の達人は３６０度死角がない。まだまだ修行が足りひんな、ディーター」
そう言って、竹刀を正眼に構える。
「今日こそ、３勝３敗の五分に持ち込んだる。いざ、尋常に勝負せい！」
相手はにっこり笑うと、壁にかけていた竹刀を取りに立ち上がった。
「オーケイ、恒輝、カモン」
俺の通っている葺石道場に、ディーター・グリュンヴァルトというドイツ人が入門してきたのは、今年の４月。
その最初の日に、俺は負けてしまった。３年間ここで修行している俺が、入門初日の外国人に、だ。
はっきり言って、悔しかった。その夜は、風呂の湯に顔を半分沈めて、ぼろぼろ泣いた。タイ式ボクシングやテコンドーなど相当な武術の心得がある奴だと、あとから円香に聞かされたが、それでも納得した気持ちにはなれなかった。
いつか「まいった」と言わせてやると、俺は受験生のくせして、夏休みになると毎日しつこく道場に通っていた。
ただいまの成績、２勝３敗。
竹刀を持つと、ディーターは変わる。普段は、少しは自分を主張すればいいのにと思うくらい、のほほんと何でも円香の言いなりになっている奴が、道場で対峙すると目つきが変わり、執拗に勝ちを狙ってくる。その気にのまれそうになり、怖いとさえ思ったことも、一度や二度ではない。
別人のようになるという比喩がぴったり来るのだ。天性の武道家、なのかもしれない。
苦戦していたところへ、師範代の鹿島さんが通りかかって、目を吊り上げた。
「こらッ。上段者のおらへんところで、勝手に立合いをやったらあかん、ていつも言うてるやろ！」
「あちゃあ、見つかってしもた。水入りやな」
「ミズイリ？」
「そう、勝負が途中でストップさせられることを、日本語で水入り、言うんや。相撲用語やな」
「ヘエ」
「日本語のことなら、国語の成績バツグンのこの俺に、何でも聞いてくれ」
罰として座禅一時間、素振り百回を命じられ、並んで座禅を組んだ。
針の落ちる音さえ聞こえそうに静まり返った道場。突然隣のディーターが、小さく「ピンクパンサーのテーマ」の鼻歌を歌いだす。
「ぶわははは」
俺は、こらえきれず笑いころげた。俺たちはしょっちゅう、こうやって真面目な場面でお互いを笑わせようとしている。竹刀を握らなければ、こいつはおもろい奴だった。
その結果、ふたりとも素振りは二百回になったのは言うまでもないが。
道場の裏手の水道でタオルを濡らし、素振りのあとの滝のような汗を拭った。
こうして比べると、ディーターはやっぱり俺より１０センチは高い。ちょっとヘンタイじみているかもと思いつつ、彼の肩や二の腕を観察した。それほどたくましくも見えず、むしろ痩せているのに、どうしてあれほどの力強い振りができるのだろう。筋肉のつき具合を触ってみたかったが、そこまでしたら、さすがにヘンタイだ。
「おまえ、どうしてこんなところにピアスしてんの？ 痛くないんか」
俺は、ディーターの左の乳首を指差した。
「アア、コレ」
「たしかこれって、ゲイの印と違うかったっけ？ おまえゲイやったか」
彼はあわてて、首を振った。
「じゃあ、なんで、そんなことしてん」
「サア……、ナントナク」
どことなく、歯切れが悪い。こいつはときどき、こういう捉えどころのないフワフワしたところがあるのが、俺は気に食わない。都合が悪くて隠したいなら、それでもいい。そう言えばいいのだ。
しかし、それも何か違う気がする。ディーターのぼんやりした表情を見ていると、本当に自分自身にもピアスをした理由がわかっていないのかもしれないと、そんなふうにさえ思えてくる。
「あーれー。ふたりで何をちちくりあってんの？」
愉快そうな甲高い声が、母屋の廊下の方から響いた。
「アホ。誰がちちくり会うてんねん」
円香に会うのは久しぶりだ。おとといまで高校の剣道部の合宿に行っていたと聞いた。
気づいたら、彼女の後ろ手には、カメラが握られている。……おい、こっそり何を撮っとったんや。
「冷たい麦茶とアイスクリーム、あるよ。居間においでよ」
「よっしゃー、行こ、ディーター」
「ウン」
ふと横を見ると、彼のふたつの青い目は、円香にじっと熱っぽくそそがれていた。
――そうか。やっぱり、こいつは。
「恒輝」
「ん？」
「『チチクリアウ』ッテ、何？」
「そ、それはな、男同士の、固い友情のことや」
「フーン」
まあ、ええか。これで将来恥をかいたとしても、俺は知らん。
稽古の日は、葺石家で晩御飯を呼ばれるのが習慣になっていた。
俺の家は、震災で父親が死んだあと、母親が遅くまで働いて生計を立てている。兄は独立していて、晩飯はいつもひとりで食べるのが俺の中学生のときからの日課だった。それで、だんだんとひとりで塚口の繁華街をうろつくようになって、いろいろ思い出したくもない事件を起こしてしまったのだけれど。
それを案じた円香が、これからずっとうちで食べていきと強引に勧めた。本音はうれしかったが、一方でカチンときた。同情されてるみたいでイヤだった。頑なに断ると、ギャアギャアわめいて、玄関で通せんぼをして、きっと涙目で睨みつけやがった。
俺だけではない。相手が誰でも、こいつはそういうやつなのだ。困ったりさびしい思いをしてる奴を見たら、ほっとけない性格。
だからきっとディーターも、慣れない外国で苦労してるときに、円香の超がつくお節介にほだされて、その気になってるんだろうな。
軽く、考えていた。
そうでないことは、お盆の入りの日の夕方にわかった。
晩飯と風呂が終わり、葺石家恒例の納涼すいか大会が始まるのを待って、庭の縁台でぼりぼり、蚊に刺された肘をかいていたとき、ディーターが浴衣を着て現れたのだ。
「お、どうしたんや、そのカッコ」
「円香ガ着ロッテ。ドクトル・フキノ、古イキモノ」
帯の結び方がぐちゃぐちゃで、胸のあたりがだらしなく開いていたけど、薄青色の浴衣は、妙に金髪に映えて見えた。
「おまえ、似合うなあ。本物の日本人みたいやで」
「ホント？」
それを聞いて、ディーターはうれしそうな笑顔になった。
そんなわけないやろう。そんな金髪碧眼で日本人に見えるわけないやんか。
思わず意地悪なことばを言いそうになって、口をつぐむ。俺はいま、馬鹿みたいに敗北感に飲み込まれてる。
長いあいだ離れて暮らしている自分の父親の浴衣を着せて、他の者には履かせたことがなかった父親の古いサンダルを履かせて。
俺はそれを見て、円香の本心がわかってしまった。ディーターが円香の心の中に占める位置が、なんとはなしにわかってしまったのだ。
重たい杭にストンと穿たれるように、見たくない現実が心に突き刺さる。
「――おまえ、日本人になりたいんか？」
しばらく考えて、ディーターはうなずいた。
「デキレバ、一生、日本ニ住ミタイ」
こっちも本気だ。真剣に円香のことを想っている。
「お待たせ」
円香が、切ったすいかをこぼれそうなほど盛った特大のお盆を運んでくる。
「待たされましたっ。さあ、食うでー」
俺は奇声を発した。
「ディーター。すいかを食べるときは、こうすんねんで」
そう言って耳までかぶりつき、ぷぷぷと種を飛ばす。葺石家の庭は、すいかの種解禁だ。秋になるとあちこちに、ヒョロヒョロとすいかの芽が出てるのを見つける。
「ウワア」
ディーターは、この高等テクニックを初めて見たらしい。
「日本人の世界に誇る文化や。すいかの種をできるだけ遠くに飛ばし、ざる蕎麦をズズズと音を立てて啜る。このふたつができひんと、日本の一人前の男にはなられへん」
あほなこと言うな、と円香に頭をはたかれた。
ディーターは神妙な顔をして、熱心に種飛ばしに挑戦している。それを見て、師範も鹿島さんも円香も、そして俺も笑った。
俺は絶対に、こいつのことを嫌いになれないだろうなと思った。
すいかを全部食って、師範も鹿島さんも引き取ってしまったあと、立ち上がる。
「あんたまで帰るの？ これからみんなで、花火しようと思てたのに」
「あほか、俺は受験生やで。帰ったらたんまりと、予備校の復習が待ってるんや」
ほんとうは復習なんてコマいことを気にする人間やないのに、俺は。
逃げ出す。ちらちらと互いに交し合うだろう円香とディーターの視線に気づくのがいやで、とっとと尻尾を巻いて立ち去る。
門を出るときにもう一度振り返ると、ふたりは縁台に並んで花火を始めていた。
そのとき網膜に焼きついた色とりどりの鮮やかな光の残像は、夜道を歩くあいだも、暗い線香花火のように目の前にぶら下がり、そして月の無い闇の中に、ぼんやりとにじみだした。
零勝一敗。ディーターとの勝負は、俺の完敗だった。
十六夜月世さんからいただいた「浴衣姿のディーターと学ランの恒輝」のイラストに触発されて書きました。ありがとうございました。
このエピソードは「EWEN」第３章にリンクしています。