§1 長い廊下を歩いていると、病院特有の清潔でなまぬるい空気がまとわりついてきた。 冬の斜めの日差しがさしこむ南向きの4人部屋。扉わきのプレートの名前を確かめて、私から先に入る。 「あ、円香さん、師範代」 手前のベッドの上で、眼鏡をかけてテレビを見ていた奥野くんが私たちに気づいて、うれしそうな笑顔になった。 「わざわざ見舞いに来てくれたんですか」 「びっくりしたよぅ。いきなり入院やなんて。ジュリーさんなんて、涙ぐんてたわよ」 病室の壁際に置いてあった丸椅子をベッド脇に並べてディーターとふたりで座り、お見舞いの小さな花かごを冷蔵庫の上に置いた。 「すみません。気を使わせて」 奥野くんは恐縮して、ギブスをはめていないほうの手で頭を掻く。 「稽古を休むって連絡だけにしとこうと思てたのに、藤江さん相手やと、つい要らんこと、しゃべってしもて」 彼はうちの門下生のひとりだ。28歳、兵庫県警所属のれっきとした警察官である。 きのう彼からの電話で我が家は大騒ぎに陥った。警邏中に空き巣の常習犯を発見、追跡している途中に怪我を負って入院した、というのだ。 「ほんとは黙ってようと思てたんです。26日にはもう退院するし」 「ありゃ、もうあさって退院なんだ」 「腕の骨を折っただけじゃ、この年末にそう何日も入院させてくれないです。だから、くれぐれもほかの皆さんには、お見舞いに来なくていいと伝えてください」 特にド派手な見舞いを持って来そうなジュリーさんには、と3人で笑う。 「でも、せめて不幸中の幸いやないの。クリスマスイブに入院という最悪の状況でも、奥野くんにはがっかりさせる恋人もおらんし」 「ああん、師範代、奥さんがめっちゃ意地悪ですぅ。ちゃんと毎晩優しくしてあげてます?」 「あのなあ」 ディーターは、気弱な奥野くんの会心の冗談を、軽く往なした。 「それで? 犯人は捕まえたのか?」 「え?」 とたんに奥野くん、しどろもどろになる。 「じ、実はぁ。取り逃がしちゃって」 「取り逃がした?」 と異口同音にディーターと私。 「そ、それで、この骨折も、追いかけてる途中にころんで自分で折ったんですよね。あは、あはは」 結局空き巣の犯人はその後、巡回パトカーに捕まったのだとか。 ディーターは呆れてものも言えない様子。 「奥野」 と恐ろしい形相で立ち上がる。 葺石流宗家の一人娘の私には、彼の怒りたい気持ちはよーくわかるぞ。師範代としてみれば、手塩にかけている門下生に手柄を立ててほしかったに決まってる。 「わあ、円香さん、師範代に殴られますっ」 「一日ぐらい退院が延びたって、どうってことないやん」 「そ、そんなあ」 「ま、いいんじゃないか」 予想に反して、ディーターは優しく奥野くんの頭をぽんと叩いた。 「無事でよかった。泥棒なんかを捕まえるために、自分の命を賭ける必要はない」 そう言って、口元をほころばせる。 「し、師範代……」 奥野くんは、ほっとして泣き笑いの表情になった。 病室を辞すると、ひとりの中年男性と廊下ですれ違った。 ディーターは静かに黙礼をする。 向こうも会釈を返すと、そのまま奥野くんの病室に入っていった。 「知ってる人?」 「ああ。奥野の上司の警部」 「へえ、そうは見えへんかった」 物腰が穏やかで、どこにでもいるサラリーマン風。ただ、狐のように目が細く釣りあがっているのが印象的と言えば印象的だ。 「会ったことあるの?」 「まあ」と答えが返ってきたきり、それ以上教えてくれる気配はない。 病院を出ると、ディーターはサングラスをかけ、ニット帽で長い金髪を隠した。このほうが道行く人にじろじろ見られなくて気が楽なのだそうだが、彼のサングラス姿は人を寄せつけないオーラが出ていて、ちょっと怖い。しばらく私たちは無言で歩いた。 なんとなく居心地悪げに横から見上げた私の視線に気づいたのか、彼はようやく笑って私の肩をぎゅっと抱いた。 「病院は、今でも苦手だ」 と、長い沈黙の言い訳をする。 「人のお見舞いなのに?」 「あの匂いが苦手なんだ。こっちまで、具合が悪くなる」 確かに、ディーターは今までの人生のうち4年近くを病院で過ごしている計算になる。それだけ長ければ、もう病院はまっぴら御免という気にもなるだろう。 「そういえば、こないだテレビで入院費用のことやってた。ほとんどの生命保険の入院特約は、入院4日までは保険が下りないんやて」 「ふうん」 「それで、うちの保険も調べてみたら、やっぱりそうなっててん。奥野くんは労災だからいいけど、普通は入院4日っていうのが一番損なんやて。だから、ディーター。入院するなら、絶対5日以上がんばって入院してね」 「そんな無茶な」 「それでなきゃ、入院したらダメやからね」 軽口を言って笑いながらも、私の胸にチクンと、彼と離れて過ごさねばならなかった月日の悲しみがこみあげてくる。 今年も、クリスマスをディーターといっしょに過ごせてよかった。聖と三人で、今日のイブを迎えることができてよかった。 ほかには何もいらない、これが最高のクリスマスプレゼント。 「円香」 口をへの字に曲げて歩く私の考えていることを察したのか、彼は私のマフラーをくいと引っぱると唇をかぶせてきた。 "Frohe Weihnachten.(クリスマスおめでとう)" 「グーテン・モルゲン(おはようございます)」 とてつもない大声。聖(ひじり)をベビーカーに乗せてスーパーに買い物に行こうと家を出た私たちは、一階のエレベータホールで呼び止められた。 「グーテン・モルゲン。ヘールウントフラウ・グリュンヴァルト。ヴィー・ゲート・エス・イーネン?(ごきげんいかがですか)」 恰幅のよい70歳くらいの男性が、にこやかな笑みをうかべて後ろに立っている。 "Sehr Gut. Danke.(どうも)" ディーターは、心なしかひきつった声で挨拶を返す。 実はわが旦那さま、病院の次に、この人が大の苦手なのだ。 この男性、301号室の安西さんは小さな貿易会社を経営する社長だったが、今は引退していると聞く。この数年ずっと、うちのマンションの管理組合の理事長兼自治会長だ。 若い頃は哲学青年で、ドイツ語の原書にもよく触れていたとおっしゃる。 今年の6月のマンション総会に、大学院入試で死ぬほど忙しかった私の代わりにディーターが出席したことがあったのだが、それからというもの、彼の顔を見ると駆け寄っては、唾をいっぱい飛ばしてドイツ語で話しかけてくれるようになった。 それはいいのだが、困ったことに、彼のドイツ語がディーターにはさっぱりわからないらしい。 「円香。あの人、なんて言ったんだ?」 とこっそり私に通訳を頼むこともしばしば。それ以外のときは勘で答えているんだとか。 「フラウ(奥さん)。おたくのご主人は面白い方ですな。ぼくの質問にも、うまくはぐらかしてユーモアたっぷりに答えてくださるんですよ」 (それって、全然会話が噛み合っていないんだってばぁ) 本当のことも言えず、私もつい、適当にあははと誤魔化してしまう。 『ちょうどよかった。今、おたくにお願いに行こうと思ってたところだったんです。このチラシのことで』 という意味らしきドイツ語をしゃべりながら、安西さんは一枚の紙を取り出した。年末年始のゴミ収集日を書いた、自治会のお知らせプリントである。 『これをこのエントランスに張り出すのに、また英語に翻訳してもらえないかと思いましてね』 このマンション、私たちの他に二組の外国人一家が住んでいる。フランスと韓国からの駐在員ご一家だ。ほとんど日本語が理解できない彼らに、ゴミの日や地域の行事など、いろいろな決まりごとについて伝えるのは、今まで至難の業だった。そこで、日本語の堪能なディーターが、ことあるごとにプリント類の翻訳を頼まれているのだ。 『このあいだ、この地区の青年愛護協会の会合に出たら、このへんのマンションはどこも外国人との意志の疎通に困ってらしてね。うちは、よその会長さんたちに、えらくうらやましがられましたよ』 と推測を交えればかろうじてわかるドイツ語でまくしたてて、得意げにディーターの背中をばしばし叩く。 「わかりました。今晩にでもお届けしますから」 チラシを受け取った彼が、流暢な日本語で答えたのにもかかわらず、 「フィーレン・ダンケ」 安西さんはそこだけは鮮やかなドイツ語で礼を言って、行ってしまった。 背中が消えるのを待ちきれず、身体を折り曲げて笑いをこらえる私を見て、彼は憔悴した顔でにらんだ。「笑い事か」 「そやかてえ。安西さんってディーターのことがよっぽど気に入ってるんだよ。よかったね」 「ちっとも、よくない」 「一度言うてみたら? 日本に永住する覚悟なので、日本人になりきるために、ぜひ日本語だけで話しかけてほしいって」 「もう、三回は言ってるんだけどなあ」 ベビーカーを押しながら、彼は世にもおおげさなため息をついたのだった。 ディーターは去年の夏前、ようやく念願の自動車を買った。それまでは必要があるたびに、藤江おばさんのご主人・聡おじさんの車を借りていたのだ。 いよいよ自分の車を買う決意をした直接の理由は、車を借りるたびに、聖の乗るチャイルドシートをいちいち着け外しするのが面倒になったからである。 それにしても、男ってどうして車ごときでこんなに有頂天になれるのだろう。とにかく大学でも買い物でも、頼みもしないのにホイホイ送ってくれる。おかげで私はこのところずいぶん楽をさせてもらっている。 「あんたら本当に、いつ見てもくっついてるんやな。もうすぐ結婚四周年にもなるのに、ますますラブラブやんか」 と藤江おばさんにまで呆れられるくらい。 小型とは言えドイツ車なので、ローンはめちゃくちゃいっぱい残ってるけど、ディーターのうれしそうな様子を見ていると、買ってよかったと思う。ものを持つことを恐がっていた彼が、はじめて自分の宝物を持つことができたのだ。 聖がもう少し大きくなったら、三人であちこちドライブに行きたいねと話し合いながら、夢がどんどん膨らむ。 多くの罪をおかした私たちも、人並みの幸せにひたっていいのだよね。いつのまにか心の中に、そういう甘えが忍び込んでいる。 それは、やはり甘えだったのだろう。そのことを、私たちはいやというほど知ることになる。 2004年のカレンダーの残りの日もどんどん少なくなり、とうとう大晦日になった。 今夜は、近所に住むドイツ人夫妻の家に、ニューイヤーズイヴパーティに招かれているのだ。ポットラックなので、何か一品ご馳走を持ち寄らなければならない。 そんな慌ただしいときに、家のベランダの掃除と窓拭きを全然やっていないことに気づいた。 「ディーター、一生のお願いっ」 と、二百回目くらいの「一生のお願い」を発動されて、しぶしぶベランダに出た彼だったが、5分もしないうちに、 「円香、雪が降ってる……」 歯の根が合わないといった様子で、室内に戻ってきた。 確かに外を見ると、空は霙(みぞれ)めいた雪一色だった。関西でこの時期に雪が降るのは、ほんとにめずらしい。 「雪ぐらい何やの。北国の人間でしょ、あんたは」 「寒いもんは寒い。だいたい大掃除なんて、もっと暖かくなってからすればいいのに。なんでわざわざこんな寒いときにするんだ?」 「日本人はお正月を、家中掃き清めて迎えたいと思てるの。それが日本の心ちゅうもんなの」 「それが言い訳になって、汚れても放っておいて、年末に掃除すればいいと思ってないか?」 「いいえ。私の性格やったら、年末に掃除せえへんかったら、一生せえへん」 「……」 ディーターは、私と結婚したのがそもそも間違いだったという顔をして、やり残した窓拭きに戻っていった。 積み木を広げてカチカチやっている聖とときどき遊んでやりながら、私は順番に部屋を回って、掃除機とぞうきんをかけていった。 書斎で、ディーターのコンピュータデスクを少しずらしたり、その横のベビーダンスを動かしたりしながら、壁との隙間を掃除しようとしたとき、私は一枚の紙切れを見つけた。 風で飛ばされて、はさまってしまったのだろうか。 拾い上げると、10人くらいの人名、それも欧米人らしい名前のリストだった。 「ウィリアム・レイマー……。ジョン・トライア……」 その後ろには、何かの年号や、どこかの地名が書き連ねてあったが、それを熟読する間もなく、横からひったくられた。 いつのまにか、ディーターが私を険しい表情で見下ろしている。 「これを、どこで見つけた?」 「え、ええと……、タンスの後ろにひっかかって」 答えの代わりに、彼は手の中の紙を一気にぐしゃと握りつぶした。 「余計なものを、見るな」 言い捨てると、リビングに向かう。そして、キッチンのガスレンジに点火すると、紙を燃やし始めた。紙はまたたくまにオレンジの炎を上げて、はらりとシンクに落ちていった。 「ごめん……」 私の謝罪のことばは、届かずに消えた。それほど、彼の強ばった背中は一切のものを拒絶していたのだ。 §2につづく |