§1に戻る §2 私たちの住む夙川沿いを北に登ると、そこが苦楽園だ。戦前・戦後、そして今でも、ここに一軒家を構える外国人一家は多い。 ノルトさんご夫妻もその中の一組だ。 実はご主人のシュテファンは、ディーターが買ったドイツ車の輸入代理店の重役さん。去年の冬から車を買うことを考えてあちこちのショールームを回っていた彼に話しかけてくれ、同じドイツ人である上、家も近所同士だということがわかり、すっかり意気投合してしまったわけだ。 彼は奥さんのアガーテとともに、もう十年以上日本に住んでいる、大の日本通だ。 彼らに出会って、ドイツ人は真面目な国民だという先入観はすっかり吹き飛ばされた。なにしろ、陽気でお祭り好きなのだ。黄色いメガホンもって、甲子園まで地元球団を応援に行き、日本人といっしょに「六甲おろし」まで歌ってくるというのだから。 そして、私たちを含めた近隣の外国人を招待しては、しょっちゅうパーティを開く。毎回違ったメンバーを招いてくれるため、私たちもこの界隈のたくさんの外国人たちと自然に親しくなれるようになった。 『しかし、そういう経験は、日本に住む外国人ならしょっちゅうだと思うよ』 持ち寄りの食事もほぼなくなり、暖炉の前のラグやソファに思い思いに座って、シュテファンがとっておきのコニャックを開ける。酒のおつまみは、数日前のディーターと安西さんとの珍問答についての話題だ。 『そのとおり、特にアメリカ人・イギリス人と見れば、日本人は無料の英語教師と勘違いしてるに違いない』 即座に同意したのが、賑やかで声の大きい、アメリカ・バーモント州出身のヒュバート。30代半ばくらいで、半年前から外資系証券会社の大阪支店に勤務している。 『確かにな。まあ僕はそれが本業だから、あまり区別はできないけれど』 と、イギリス人のピートが苦笑する。彼は在日暦1年。西宮駅前の大手英会話塾に勤める、そばかすだらけの20代の英語講師だ。 『ただ、そうやってコミュニティの情報を伝えてくれようとする動きは歓迎だね。僕なんかも、「カイランバン」が回ってきても、全然意味がわからないよ』 『言葉が通じないと生きていけないと悟ったのが、震災のときだね』 しんみりとシュテファンが言った。 『あのときはまだ日本に来たばかりで日本語もわからず、外国語の情報がまったく入ってこなかった。余震の続く不安の中で、これからどうなるのか、どこに行けば水や物資が手に入るのか、どうすれば援助の手続きが受けられるのか、家内とふたりで毎日パニックだったよ。日本人でも混乱してた時期だからね、無理もない。 近隣の日本人たちとよい関係を結ぶことは、危機管理の第一歩だとつくづく思った。震災から10年経った今ようやく、あのときの経験が生かされてきたかな。それに、隣にいる老人や障害者や外国人と互いに助け合おうという気持ちが、日本の社会にも少しずつ生まれてきたという気がするよ』 『だがその前に、ことばという壁がある。僕のように数年の駐在期間では、その壁は破れないよ。僕は外国人同士のネットワークを地域単位で作っておくことが、まず大切だと思うね』 「マドカ、チョット」 奥さんのアガーテが、私を日本語で呼んだ。 「てーぶるノ上ノ、大キイ皿、片付ケタイノ。手伝ッテ、クレル?」 私は喜んで手伝った。パーティで交わされる会話がもっぱら英語なので、議論が白熱してくると、私はどうしてもついていけない。そのタイミングを見計らって、彼女は私に日本語で話しかけたり、用事を言いつけてくれるのだ。 本音を言えば、こういう外国人同士のパーティに出席するのはまだ苦手だ。招いてくださるのはうれしいのだけれど、聖を実家に預けなければならないことや英語での会話を考えると、行くまではどうしても気分が重くなってしまう。 でも考えてみれば、ディーターは反対に、ほとんど毎日が日本語漬けの環境なのだ。彼にとってドイツ語や英語が思い切り使える天国のような場所に行くのに、奥さんの私がイヤな顔をしてはならないと思う。 もっとも、来てしまえば、パーティはとても雰囲気がいいし、シュテファンとアガーテ夫妻はとても気配りが上手だし、パーティを締めくくる恒例のボードゲームが行われる頃には、帰りたくないとまで感じる。 第一、みんなと楽しそうに話しているディーターの笑顔を見ているだけで、うっとりと時間が経つのを忘れるのだ。 『マドカは料理が、とっても上手ね』 アガーテがテーブルの上のお皿を取り払いながら、そう言う。私の持ってきた和風サラダとお煮しめは、ほとんど空っぽになっていた。 『ありがとうございます。でも、実はこのお煮しめは、おばさんが作ったおせちをパクってきただけなの』 『一度、日本料理をカツオブシの削り方から本格的に習ってみたいなと思っているのよね。レッスン料を払うから、教えてくれないかしら?』 『私の日本料理の腕は、全然たいしたことないですよ』 『マドカの一番の得意料理って何?』 『カレーライスとハンバーグステーキ、それにアイリッシュシチューかな』 日本人としては、なんとも情けないメニュー。カレーと言ったって、市販のルーだ。 『アイリッシュシチューっていうのは、何か理由があるの? もともと日本人は羊の肉をあまり食べない国民でしょう?』 『ええと、あのう。ただ作るの簡単なのが気に入っちゃって』 誤魔化しながら、私は思わずディーターの方をちらりと見た。 まずい。彼は自分が北アイルランド出身であることを、彼らに言っていないのだ。 私たちが初めてノルトさんご夫妻の招待を受けたのは、忘れもしない、今年の3月17日だった。家に入ったとたん、家中が緑色。ホストであるシュテファンもアガーテも上から下まで緑の服を着ている。まるでピーター・パンだ。 『今日は聖パトリックデイというお祭りなの。アイルランドの守護聖人パトリックを象徴する三つ葉のクローバーにちなんで、何でも緑のものを飾って、緑の服を身に着けて、お酒を飲んで騒ぐのよ』 と解説してくれた。 なんでも、ノルトさんたちがアメリカに赴任していたときに習い覚えた風習だという。アメリカは19世紀から20世紀にかけて、アイルランドから多くの人が移民した国だ。だから、その名残は米文化のうちにかなり色濃く残っているという。 すっかり嬉しくなった私は、ディーターもアイリッシュの血を引いていることを言おうとした。すると、突然彼にさえぎられてしまったのだ。 「俺が北アイルランド出身だということは、絶対に誰にも言うな」 帰り道でぼつりと、釘を差された。もうダニエル・デュガルというアイルランド人ではなく、ディーター・グリュンヴァルトというドイツ人として生きているのだから、と。 理由はうすうすわかる。彼にとっての祖国とは、絶対に誰にも知られたくない罪と悲惨な記憶が眠っている場所なのだ。 でも、それを聞いて私は泣いてしまうほど悲しかった。本当は誰よりも自分の国を愛し、誇りを持っていたはずなのに。彼はそれさえ捨てなければならないなんて。 そういうわけだから、私も彼の国のことは、決して口外しないようにしている。なのに、今日はつい油断してしまった。 『私はお手伝いできないけど』 と、うまく話題をそらすことにした。 『私の知り合いに、京都でジャパニーズパブ(小料理屋ってこの訳でいいのかなあ)の女将をしている女性がいるの。日本料理の基礎だったら、もしかして教えてくれるかもしれません』 『ヴンダバー!(ステキ)』 『でも、京都ですよ』 『行く行く。京都は大好きだもの』 『私も、そういうことなら行きたいわ』 横から話を聞きつけて、ローリーがやってきた。ローリーはピートのガールフレンドで、日本で写真モデルをしている超美人の英国女性。ピートとは1ヶ月前に日本で知り合って、もう同棲してるというアツアツカップル同士だ。 『アガーテと私に、その方を紹介してくれる?』 『ええ、聞いてみます。お正月に会えるはずだから』 『あのね、マドカ。今見てて、気づいたのよ』 ローリーは、もうかなりお酒が入っているらしく、ぷんとワインの匂いをさせながら私に耳打ちした。 『ディーターって、卵みたいな人よね』 などと言いながら、ゆで卵のスライスを載せたカナッペをひょいと口に運ぶ。 『え? どういう意味?』 『今日最初に会ったときは、殻が固くってびっくりしたの。話してるうちに、だんだんと白身があることはわかった。でも白身って味がないわよね。 でも、マドカ、あなたのことが話題になっているときだけは、彼の中にも黄身があるのが見えるの』 『む、むずかしくって何を言ってるのか、わからない』 彼女は私をからかうように覗き込むと、けらけらと笑った。 『要するにディーターは、ものすごーくあなたを愛してるってことよ』 「やっぱ、赤ん坊がいる正月の風景いうのはええなあ、日本の未来に希望が持てる」 お屠蘇の飲みすぎでとろんとした目つきで、父が相変わらずの爺バカぶりを発揮している。 正月二日。恒例の門下生の年始回りも夕方過ぎにひと段落して、葺石家の面々は居間で、残ったおせちをお腹に収め終わったところだった。 「聖くん、かわいいわねえ」 割烹着姿の茜さんも、暇さえあれば聖を抱っこしに来る。彼女のほうが私よりずっと母親らしく、サマになって見えると思ってしまうのが、我ながらなんとも悔しい。 「なんや、康平。奥さんが赤ちゃん欲しがってるがな。ちゃんと子作りに励まんかいな」 「無理言わないでくださいよ、先生」 鹿島さんが苦笑する。 「俺ももう38やし、子どもがはたちになる頃には60歳近いんですよ。茜も店を持ってるし、体力的にもそんな余裕はありません」 「そんな理屈をこねてるあいだは未練があるちゅうことや。それくらい年を取ってからの子どもは、宝物やで」 「はあ」 宴の後片付けも終わり、畳を掃くためにいったん特大の座卓を取り払うと、12畳をはさんで聖と大人たちが向き合う格好となった。 突然、自分の周囲に誰もいないことに気づいた聖はきょとんとして立ち上がった。もうすぐ一歳五ヶ月。この頃はころばないで、自分の行きたい方向にどこまでも歩いてゆける。 「よし、ひっくん、おじいちゃんのところに来い」 父は突然ぽんぽんと手を叩く。どうやら、聖をダシにして遊ぶことを思いついたらしい。 「いつもお守りしてやってるやろ。じいちゃんのところに来たら、この『ちちぼーろ』、あげるでえ」 「あら、先生ったら、食べ物で釣ってずるい」 茜さんも、手をのばす。「今日はずっと抱っこしてあげてたんやもの。茜おばさんが大好きになったのよねえ」 恒輝も負けてはいない。 「稽古のときは、俺が遊んでやってるんや。聖。また飛行機ぶんぶんしてほしかったら、恒輝さまのところに来い!」 「あほ。おまえはさっさと瑠璃ちゃんと結婚して、柏葉印の子どもをはよ作れ」 「あはは、みんな甘いな。どいつもこいつも付け焼刃や」 と台所から乱入してきたのは、藤江おばさん。「いっつも夕方背中に負うてあげてんのは、おばあちゃんやで」 「いつのまに、聖のおばあちゃんになったんや、姉さんは」 「円香ちゃんは私の娘みたいなもんやから、聖は私の孫みたいなもんやの」 祖父までがコホンと遠慮がちに咳払いしたかと思うと、座卓の陰からこっそり聖に手招きする。まったく、この連中は何を考えているのやら。 聖はどっちへ行っていいかわからず、まごまごしている。 その中でただひとり、ゲームに興味のないディーターだけが居間を出て行こうとしていた。それが勝負を一瞬で決定した。 聖はあわてて彼のあとを追って、足にむしゃぶりついたのだ。 「なんや、ディーターの勝ちか」 ためいきが漏れる。 「ま、しゃあないわな」 「一番聖の面倒を見てるのは、やっぱりファティやいうことか」 と納得して解散してゆく一同。……おいおい、それじゃ母親の私の立場はどうなるんですか。 ディーターは足元の聖を見下ろし、そしていとおしそうに抱き上げた。 けれど、そのとき瞳にほんのかすかな痛みの色が走ったのを、私だけは見逃さなかった。 §3につづく |