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EWEN

Special Episode
沈黙の回廊



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§3


 年末年始、連日のパーティ続きで、心なしか体がぷよぷよしてきたような気がする。
 大学は昨年11月末に卒論を提出した。今は口頭試問を控えて図書館で資料をそろえたりして待機中の身だ。
 でも、春からは2年間の大学院生活が始まることがすでに決まっている。いまだに就職難でひいひい言っている同期生から見ると、何とものんびりした年明けだった。
 それにしても、この運動不足をなんとかしなければならぬ。ということで、今日は家から大学までの坂道を競歩の勢いで往復してきたのだ。ディーターが車で送ってくれるというのも無理矢理断った。不満そうな顔をしてたけど、ちょっと過保護すぎるよなあ。
 自宅の近くまで帰ってきた頃には息を切らしていた。以前はこれくらい平気だったのに、車に乗る毎日に慣れきってしまって体がなまっていたのだろう。人間ってほんとに安きに流れる生き物だ。
 よっこらしょと、卒論資料を詰めた重いカバンを肩に担ぎなおしたところで、マンションの前からちょっと離れた路上に、見慣れぬ車が止まっているのを発見した。
 そういえば、このあいだ安西さんに翻訳を頼まれた自治会のお知らせプリントにも、車に乗った不審者が小学生の女の子に声をかけているという注意書きが載っていたっけ。
 変なヤツだったら大声をあげてやろうと身構えながら、おそるおそるフロントガラスから中をのぞきこんで、私はあっと思った。
 あの、狐目の男性。奥野くんの病室の外ですれちがった警部さんだ。
 彼も悪びれずに私のことをまっすぐ見据えると、するするとサイドウインドウを開けた。
「どうも、こんにちは」
「こんにちは」
 挨拶を返してから、私ははっとした。
「まさか、また奥野くんが怪我をしたとか?」
 彼は一瞬ぽかんとして、それから笑いだした。「いいえ、彼は元気にやってますよ」
「それじゃ、なぜここに……?」
「まあ、このあたりの警邏中に寄ってみたわけでして」
 そして、頭を下げる。「申し遅れました。兵庫県警の木戸と言います。ご主人からお聞き及びですかな?」
「はい。あ、いいえ」
「わたしは県警の警備部に所属しています。外国人犯罪やテロ防止が主な任務です。一度だけ奥さんともお話したことがあるのですが、覚えていらっしゃいませんか。あの9月11日の夜ですよ」
 口の奥に苦い唾液が湧き出てくるのを感じた。
 3年半前の9月11日。アメリカの同時多発テロが起こった日。この上のアメリカ総領事邸周辺一帯に厳重警備が敷かれ、深夜になってふたりの刑事がディーターを訪ねてきたことを覚えている。そのうちのひとりが、この人だったのか。
「覚えていなくて失礼しました。……それじゃ、ここにいらっしゃるということは、また主人を見張ってる……ってことですか」
 木戸警部は目をしばたくと、少し口角を持ち上げた。笑っているのかいないのかわからない、気色の悪いモナリザみたいな表情だ。
「立ち話もなんですので、お乗りになりませんか。奥さん」
「……」
「警戒なさらなくても、これでも刑事です。変なことはしませんよ」
「わかりました」
 私は、意を決して後部座席に乗り込み、前の座席の背もたれをぐっとつかんで身を乗り出した。ブーツの踵がかたかたと震えているのは、寒さのせいばかりではないだろう。
「ご存知のとおり、このところ日本国内に外国人テロリストが潜伏しているケースがいくつか発覚しています。ひとりはフランス国籍の男で、アルカイダ系の組織とつながりがありました。在留外国人として仕事し、ごく普通に生活していて、周囲の者は誰も彼がテロリストだとは気づかなかった」
 軽くうなずくにも、首が強張ってものすごい労力が必要だった。
「イラクに自衛隊を派遣したことで、日本は名指しでテロ組織から攻撃予告を受けています。我々もこのところ、周辺警備に寝る暇もないくらいでしてね」
「彼は元テロリストだという理由で、まだ疑いの目を向けられているんですか」
「元……ですか」
 背中越しで顔は見えないものの、木戸警部はふっと息をもらしたようだった。
「ご主人はいつもわたしの張り込みに気づいておられますよ。いつも一瞬で気づかれてしまう。その隙のなさは常人ではない。奥さん。わたしは彼がまだ、現役のテロリストであると疑っています」
「元、です! 5年前にディーターは仲間を裏切ってテロ計画を警察に告発しました。そんな彼がいまだにテロに関われるわけがないでしょう。反対に殺されてしまうわ。第一、隠れてそんなことのできる暇はありません」
「そう、確信を持って言えますか?」
「もちろんです」
「ご主人はときどき、飛行機を利用して東京を訪れていますね。平均すると1カ月に一度の割合です。これは?」
 私は腕が総毛立つのを覚えた。この人たちは、ディーターのことを一体どこまで調べあげているのだろう。
「コンピュータプログラムの仕事です。東京のクライエントに納品したり、定期的に不具合を調整したりする必要があるんです」
「本当に確かめましたか? ご主人のことばを鵜呑みにしているだけではありませんか」
「……」
「不審な人物と連絡を取っているということはありませんか。メールを覗いたことはないんでしょう」
「ないけど、いっしょに暮らしていればわかります。警部さんこそ、何か具体的な証拠があるんですか?」
「何もありませんよ。これほど徹底的に調べてもね」
 彼は正直に、認めた。
「彼はごく普通に日本の女性と結婚し、真面目に仕事をしているように見える。だが、それはしばしば使われる手です。人目をごまかして潜伏し、この国にいる真の目的をカモフラージュするための。ああいう人種は滞在ビザを手に入れるためなら、偽装結婚だって平気なんですよ」
「根拠もないのに、……よくもそんなことが言えますね」
「奥さん。私には長年刑事を勤めてきた経験と理論があります。彼のような経歴の持ち主は、ふたたび犯罪を犯さざるを得ない。これは統計学上の真実なのですよ」
「おことばですが、統計はしょっちゅう嘘をつきます。私、そのことを大学の卒論にも書いたばっかりです。資料のコピー、よかったらお見せしましょうか……いてっ」
 私は立ち上がろうとして、思いきり車の天井に頭をぶつけてしまった。最後はカッコよく啖呵を切って出て行こうとしたのに、キマらない。
「失礼します。寒い車内での張り込みご苦労様です。身体を壊して寝込まないようにしてくださいね!」
「ご忠告、肝に銘じましょう」
 また、あのあいまいな木戸警部の微笑に見送られて、車を降りた。


 私は振り返りもせずにすたすたと歩き始めた。悔し涙のせいで、鼻の中が痛い。
 偽装結婚って何? いくら私がおっとり気の長い関西人だと言ったって、ここまで言われたら、腹を立ててもいいよね。怒るべきだよね。
 しかし最初は頭に血が上っていた私にも、木戸警部のことばはボディーブローのように、時間が経つにつれて、じわじわと効いてきた。
 私は彼がプログラムの仕事をしているのを見ても、全然興味がなかった。どんな内容なの、とか、どこの会社に行ったの、と聞いたこともない。彼がどこかに電話していても、誰かにメールを打っていても、気にもとめなかった。どうせコンピュータのことなんかわからないのだし、聞いてもしょうがないと思っていた。
 ほんとうに仕事のために東京に行っているのかと木戸警部に訊ねられて、私は自信をもってイエスと答えられなかったのだ。
 警察に見張られていることさえ、何も言ってくれない。
 それに、あの外国人の名前のリスト。あれは何? あれを見たとき、どうしてあんなに怒ったの?


 私は本当に、ディーターの全部を知っているんだろうか?


 解離性同一性障害という病気だった彼には、かつてたくさんの人格があった。
 その中のひとりユーウェン・オニールは、12歳から15歳までIRAの少年兵として3年間活動していた。表面的には一度消えたが、数年後にまた復活して、ほかの人格を巧妙に支配していた。
 私が彼に出会ったのはそんなときだった。ディーターは本心から日本の武道を学びたくて来日したのに、それさえもユーウェンは冷酷に利用して、沖縄サミットの襲撃という自分の目的のために使おうとしていた。
 初めてユーウェンを間近で見たとき、私は彼を人間ではないと思った。憎悪のかたまり。優しさのひとかけらもない、悪魔のような人格。私のことも、平気で殺そうとした。
 人格が最終的に統合されるまで、それからさらに数年が必要だった。私たちはそのあいだに結婚して、いっしょに暮らし始めた。毎日の生活の中で、時折姿を見せるユーウェンは、少しずつ人間らしい心を持つようになった。それは、人格統合への必要な過程だったのだと父は言う。
 でも本当は、心のどこかでまだ、彼の中のユーウェンが怖いのだ。いまだに彼の左側に座ることができない。私の首を絞めた、私に刀を振り下ろそうとした彼の左手に触れるたびに、あの冷酷な笑みを思い出してしまう。
 私は本当に、ディーターのことを知っているのか。
 もしかすると、彼は今また、ユーウェンの人格に支配され始めているのだろうか。
 昔の仲間たちとひそかに接触し、私との結婚さえ利用して、日本でテロ行為を行おうとしているのだろうか。


 そこまで考えて、私ははっと我に返った。夢から覚めた心地だ。
 今、いったい何を考えていたのだろう。
 やめた、やめた。螺旋階段のように不毛な思考をぐるぐると巡らせているだけなんて。
 私はディーターを愛している。愛することも信じることも、意志の力だ。世界中の人が疑っても、私だけは彼を信じる。――そうじゃなかったの、円香。しっかりしろ。
 それに、私たちには聖がいる。聖の生命が、私たちふたりの真実の証し。
「なにを、してるんだ?」
 突然、目の前のドアが開いて、ディーターが不思議そうな顔で私を見た。
 どうも、マンションの自宅の前で、何分もぼうっと立ち尽くしていたらしい。
「なんで、わかったの?」
「そりゃ、円香の足音がしたかと思うと、全然入ってくる気配もないし、ぶつぶつひとりごとが聞こえるし」
 ひとりごとまで言っていたのか。ショックで相当テンパってたらしい。
「えとね。さっき、イヤな人に道で会ってしもて」
「誰?」
「んーと、近所のすっごくうるさい人。で、おまじないを唱えてたの、イヤなことを家に持って入りたくないから」
「厄払いにもっといい方法があるんだけどな」
 ディーターは翡翠色の目をいたずらっぽく輝かせると、私を中に引き寄せて、キスをした。玄関先でするおかえりの挨拶にしては、かなり濃厚なキス。舌を強くからめているうちに、足元がふわりと浮いてくる。
「……これで、完全に忘れた?」
「まだかも」
 彼の唇を自分から求めながら、熱い吐息をついた。
「……聖は?」
「今、お昼寝中」
「じゃあ、チャンスやね……」
「昼間はダメだっていつも言うくせに、調子のいいときだけ」
 口では文句を垂れながらも、彼はさっさと私を抱き上げて寝室に運ぶ。
「あ、ブーツ、ブーツ」
 私は足をばたばたさせた。
「どうせ、まとめて全部脱がせてやるよ」


 ベッドの上で、私たちは夢中で抱きしめあった。
 心が揺らぐときは、体が教えてくれる。私たちは、ひとつなのだと。
 そうすれば、疑いも恐れも入り込む余地がない世界があることを、心は思い出す。
 何百回も抱かれたディーターの腕の中で、何千回も交わしたキスとともに、もう一度確かめる。
 私たちを引き離すものは、もう何もない。






§4につづく


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