§3に戻る §4 初稽古が済むと、私たちの毎日もすっかり平常を取り戻した。 何も変わったことはないけど、どこかほっとする日々――に戻れるはずだった。いつもの年なら。 初稽古には来られなかったが、その次の夕方の稽古からは、奥野くんも加わった。ただ、腕のギブスがはずれるのはもうちょっと先になるらしく、とりあえずは足腰の鍛錬と右手だけの素振りから始めるそうだ。 奥野くんを見ると、つい木戸警部を思い出してしまう。もしかすると上司である木戸警部に何か命令されているのかな。怪我をしているのに無理に稽古に参加するのも、ディーターをそれとなく見張れ、変わった様子があれば報告しろ、と言われているからじゃないか、なんて。 そうなると、気弱でおっとりした彼が全然別の人間に見えてくるから不思議だ。いつもの彼のさむーい冗談も笑えない。8年来の門下生である彼を、まるでスパイ扱いしている自分に気づく。 ディーターはまったくいつもと同じように見える。稽古休みのときも、奥野くんに対してちっとも分け隔てせずにしゃべっている。奥野くんが木戸さんの手先でも、別にかまわないと思っているのだろうか。ない腹をいくら探られても、痛くはない。そう割り切っているのだろうか。 私はそんなふうに割り切れない。自分が潔白だったら、きっと県警本部に怒鳴りこみに行く。だって、ディーターが疑われてると思っただけで、悔しくて、悲しくてたまらないのだから。 少しずつ、本当に少しずつ、私の神経はギスギスと、ささくれ立っていた。 葺石流の師範・師範代にお給料が出るのは(と言っても、出すのは会計担当の私であるが)、門下生からの月謝をいただいた後の毎月15日だ。 なので、私たちはその直後の日曜の夜、ひさしぶりに外食することにした。とは言っても、赤ちゃん連れで気後れしない所と言えば、せいぜい近所のファミレスくらいだったが、それでも、おさんどんしなくてすむのは嬉しい。 ちょっぴりおめかしをして、寒さ対策で聖をぐるぐる巻きにして家を出た。マフラーがうっとうしいのか、聖は嫌がって、「ぶぅ」と抗議の声を挙げている。ディーターは先に車のエンジンをかけて待っているはずだ。 エレベーターを降りて、メールボックスを見に行って戻ってきたら、聖がいなかった。 あれ、ディーターが迎えに来てくれたのかな。 スロープを降り、駐車場に着くと、予想に反して彼はひとりで立っていた。 「聖は?」 「え、いっしょじゃないのか?」 見合わせた私たちの顔はたちまち、引きつった。 それからの時間はせいぜい2、3分だったと思うが、まるで数時間のように思えた。 駐車場を全部探して、念のためにとエレベーターホールに戻ると、駐車場へのスロープの反対側、資源ごみ置き場の隅で、聖がダンボールの中に、ぶうぶう言いながらもぐりこんでいた。 「聖ぃ」 私はほっと吐息をつくと、息子を立たせ、くちゃくちゃになってしまったマフラーを直してやろうと手をかけた。 その手を、いきなり後ろからディーターがつかんだ。 「なぜ、ちゃんと見ていなかったんだ」 「え?」 彼は私の手首を、骨が折れそうなほどひねり上げて、後ろの壁に押しつけた。 「母親だろう! なぜ、聖から目を離した!」 「ディーター……、いたい……」 私の右手。彼の左手。 恐怖に駆られて思わず顔を上げると、氷のような視線にぶち当たった。 「ごめんなさい……」 私がうめくと、彼は急に手を離して、そのまま駐車場に行ってしまう。びっくりして泣き出した聖を抱き上げて、私ものろのろとその後を追った。 予定通り、車はレストランに出発した。 私は、泣いてチャイルドシートに収まろうとしない聖を膝に抱っこして、後部座席に声もなく座っていた。 住宅街の坂道を走っていた車が、突然空き地の前で止まった。 「円香、ごめん……」 ディーターが低い声で謝った。 「ごめん、今日はもう、……運転できない」 「ディーター」 ハンドルをぎゅっと握り締める彼の両手がぶるぶる震えている。 「俺はやっぱり、家族を持つべきじゃなかった。失うことがこんなに怖いと思うほど愛するものを、一生持ってはいけなかったんだ……」 怯えている子どもみたいに背中を丸めて。こんなに小さく、弱々しい彼を見たのは初めてだった。 「どうして……」 思わず、ことばが口をついて出る。 「ディーターは、ずっと何かを隠している。隠して、ひとりで悩んでる。それは何やの? どうして教えてくれへんの?」 それには答えず、「頭を冷やしてくる」とだけ言い残して、彼は車を降りた。私も聖を抱いたまま、外へ出た。 震災以後ずっと空き地になったままの高台のすすきが、夕暮れの最後の朱に染まって、ゆらゆら揺れている。 「前にも言うたと思うけど」 私は彼の横で話し始めた。 「小さかった頃、父がいろんな隠し事をしたことにずっと傷ついてきた。私は何も教えてもらえない。誰の役にも立たない。みんなのお荷物である自分が自分で許せへんかった。 だから、もし私のことを思って隠し事をしてるんやったら、感謝はするけど、やっぱりイヤなんや。 ひとりで苦しまないで、全部教えてほしい。私たち、夫婦なんよ。いっしょに苦しむ権利が、私にはあると思わへん?」 ディーターは身じろぎもせずに、ただ沈黙していた。どれほど内側で葛藤しているのか窺い知ることはできない。でも、その孤独な横顔は、とうとう私を受け入れてはくれなかった。 次の日は、1月17日だった。阪神淡路大震災からもう10年という歳月が経ってしまったのだ。 恒輝が会社の帰り遅くにうちにやってきて、居間でビールや焼酎をあおっては、管をまいている。 やっぱりこの日になると、辛いのだろう。きのうは、亡くなったお父さんの11回忌の法要があったはずだ。 「円香ちゃん、あんた顔色悪いん、ちゃう?」 台所でおつまみを作っていたら、藤江伯母さんが横から心配そうに、額に手を当ててきた。「熱はなさそうやな」 「どこも悪いとこ、あらへんよ」 「なんや知らん、あんたもディーターも、晩御飯のとき沈んどったように見えたで」 「だいじょうぶやてば」 さすが古武道葺石流の家に生まれた娘。勘が鋭すぎるよ、伯母さん。 きのうの晩から私とディーターは全然目を合わせていない。 昨夜、私たちはレストランには行かずにそのまま家に引き返すと、冷蔵庫の残り物でありあわせの食事を作って食べた。 聖を寝かしつけたあと、しんと静まり返り、ただ時計の音だけがコチコチと響くリビング。 「あんなふうに怒鳴って、悪かった」 かすれた声で、ディーターは謝った。 「ただ、用心はいつもしていて欲しい。絶対に聖から手を離すな。知らない人間には絶対近づくな……特に外国人――イギリス人には」 「どうして?」 私は訳がわからなくて、混乱していた。ただひとつだけわかったことがある。ディーターがいつも私を車で送迎してくれたのは、車に乗るのがうれしかったからではない、私たちを何かから守ろうとしていたということに。 「私たち、誰かに狙われてるの? そう言えば、ずっと前に、ケルンの聖ヘリベルト病院にディーターのことを問い合わせてきた人がいるって言ってたよね」 「……」 「誰のことやの? イギリス人かもしれへんの?」 「はっきりそうだというわけじゃない。狙われているというのも、可能性のひとつとして考えているだけだ」 「そんなに曖昧なことなのに、どうしてそんなに用心しなきゃいけないの?」 いつのまにか、なじる調子になってしまう。 彼が真実の肝心なところを私には隠そうとしていることが、はっきりと見えてしまうのだ。押し込めていたはずの彼を疑う心が、再びムクムクと頭をもたげてくる。 「どうして? やましいところが何もないなら、何も隠す必要はないはずなのに、いろんなことを秘密にしてる。なぜ、秘密にするの? それとも、木戸警部の言ったことが本当なの?」 木戸さんの名前を聞いたとたん、彼は驚いた様子で顔を上げた。 「あの人と話したのか」 「……」 「円香は、俺がまだテロに関わっていると……」 「ちがうよ、そんなこと思ってるわけないやんか。ディーターのこと信じてるよ。信じてるけど……。信じられへんようにさせるのは、そっちじゃない……」 長い無言のあと、彼はゆっくりと立ち上がった。表情が硬くて険しくて、怒られた子どものように、どこも見ていない目をしている。私は彼を傷つけてしまった。彼を疑ってしまった。どんなに長い間愛し合って暮らしてきても、夫婦の絆を打ち砕くのはたったひとことだ。 寝室に去っていく背中越しの声は、うつろに響いた。 「信じてくれなくていい。ただ本当に、外に出るときは気をつけてくれ」 気がつくと、居間からずっと聞こえてきた恒輝のにぎやかな声が、次第に静かになってきた。 相当酔いが回っているのだろう。それでもなお、ぼにょぼにょと話し続けるのが、「しゃべり」の恒輝らしい。 父も祖父も、とっくに彼を見捨てて自室に引き取ってしまったのに、ディーターだけは向かいで杯を傾けながら、辛抱強く付き合ってやっている。 「俺はな、ディーター。死んだ父親をずっと恨んどったんや」 ときどき声が裏返しながら、恒輝は話し続ける。私はびっくりして台所から耳をそばだてた。 恒輝たちは震災で家が全壊したあと3ヶ月間、うちの離れで暮らした。そのときもそれからも、一度もお父さんの話はしたことがなかったのだ。 「恨むなんて筋違いやけど、理屈に合わんけど、それでも憎たらしくてしゃあないねん。倒れてきた箪笥から奥さんかばって死ぬなんて、かっこよすぎるわ、ボケぇ。あんな満足そうな顔して死にやがって、そんな余裕あるなら、なんで、どないしても生き残ってくれなかったんや。なんで俺たち母子三人見捨てたんやってな」 それから、げほげほとひとしきり、涙をごまかすような咳をする。 「俺……、その前の年、中学に入ったとき、広い部屋がほしいってだだこねて、部屋を替わってもらったんや。そやから、もしかするとあの箪笥の下敷きになってたんは、俺かもしれへんかった。親父が身代わりになってくれた。そない思うと余計に腹が立って、俺が死ぬはずやった、俺が死ねばよかった、そしたらおふくろも苦労せずにすんだのに、ってそんなことばっかり頭の中で回ってて……。 そいでますます腹が立って、けんかして、補導されて、ますます母ちゃん悲しませて。 ……ようやく最近かなあ、父親のことがもう一度ゆっくり考えられるようになったんは。 そうして、あらためて思う。あんな真っ暗な中で、訳わからんかったはずやのに、とっさにおふくろの上におおいかぶさった親父は、ものごっつ偉い男やったんやなあって。俺は瑠璃ちゃんをそんなふうにして守れるやろかって。死んでしもたくせに、今でも親父が俺の前に立ちふさがる、でっかい壁みたいに感じるんや。 だから俺は、きのう位牌の前で宣言してきた。瑠璃ちゃんと結婚して、子ども生んで、そいつが一人前になるまで生きてやる。そしていつか、親父のことを乗り越える親父になってみせるってな」 結局、恒輝はそのまま、大の字にバタンと倒れて寝入ってしまった。 ディーターと私は、居間に布団を敷いて恒輝を寝かせ、それから父の部屋に行って、「明日6時になったら、蹴っ飛ばしてでも起こしてあげてや」と言い残して、葺石の家を出た。 凍えるような夜道、ぐっすり眠る聖のベビーカーを押しながら、からだを寄せ合って歩く。 さっき恒輝の介抱をしたとき、不思議なことに私たちは、まるで父親と母親が子どもの世話をしているような暖かい気分になったのだ。いつのまにか、自然に微笑みを交わしていた。私たちが夫婦最大の危機を乗り越えられたのは、酒癖の悪い恒輝のおかげかもしれない。 「ねえ、ディーター」 白い息がふわりと夜空に上がる。 「恒輝が、「父親に腹を立ててた」って言ったときに、しみじみ、わかるなあと思た。私もお母さんに対して、ちょっとそう思ったから。なんで私を残して死んだんやろう。生きとってほしかったのにって。ディーターも、お父さんとお母さんのことを、やっぱりちょっと恨んだ?」 「ああ。……そうだったかもしれないな」 「子どもはやっぱり親がいてほしいんや。恋しくて、恋しくて、恨んでしまうほど愛してるんや。私たちも、聖が大きくなったときに「親父やおふくろのボケ」って言われないように、長生きしないとあかんね」 私はベビーカーを押している彼の手にさわった。左手をつかんで、ぎゅっと握った。私と聖をいつも守ってくれる大きな手。指先が哀しいほど冷たい。 「ごめんね。疑ったりしてごめん。私、何があったって、あなたのこと信じるから」 「円香……」 その冷たい指を自分の頬に押し当てて、口づけた。そして、心の中でそっと祈った。 お願い。何があっても私のそばにいて。私たちを置いて行かないで。 §5につづく |